LOGIN昼下がりのオフィス。
窓際の観葉植物が、午後の光に透けている。 その柔らかな緑の向こうに、冷たいヒールの音が響いた。 「はじめまして。――あなたが、西條春《さいじょう はる》さんね?」 その声は甘く澄んでいた。 南夏花《みなみ なつか》は、香水の香りをほのかに漂わせながら微笑んだ。 淡いクリーム色のワンピースに、真珠のイヤリング。 そのどれもが控えめで上品なのに、なぜか“支配の気配”があった。 春は立ち上がり、一礼する。 「はい。社長秘書の西條と申します。いつも社長がお世話になっております。」 「まあ、お上手ね。主人があなたの話をよくしているわ。“春がいれば大丈夫だ”って。 ……まるで奥さんみたいな言葉でしょ?」 軽やかな笑い。けれど、その奥にわずかな刺。 春は静かに微笑みを返す。 「恐れ入ります。私は、仕事を支える立場ですので。」 「ええ、もちろん。そうよね。」 夏花はゆっくりと歩きながら、春のデスクに目を走らせた。 完璧に整えられた書類の並び、無駄のない配置。 「几帳面なのね。主人の好みにぴったり。」 「……ありがとうございます。」 夏花は、まるで偶然のように一枚の書類を摘み上げた。 そこには秋《しゅう》の署名があり、春が前夜までかけて作成した契約案だ。 「こういうものも、あなたが作るの?」 「最終的な判断は社長がされますが、補助的に。」 「補助、ね。」 夏花の唇にわずかに浮かんだ笑みは、氷のように冷たかった。 「――うらやましいわ。主人の一番近くにいられるなんて。」 春は何も答えなかった。 ただ、少しだけ手に力をこめ、資料を丁寧にそろえる。 ⸻ その日を境に、オフィスの空気が少しずつ変わった。 共有フォルダからファイルが消え、会議資料がなぜか差し替えられている。 春が出した報告書には、見覚えのない誤字が混ざっていた。 原因を調べても、記録は曖昧。 だが、上層部から「確認が甘い」と指摘されるのはいつも春だった。 「春さん、最近ミス多いね。大丈夫?」 同僚の軽い一言にも、胸がざらりと痛んだ。 自分の中で何かが崩れ始めているのを感じる。 秋は優しく声をかけてくれた。 「無理するなよ。妻も心配してたんだ。『春さん、すごく頑張ってるけど疲れてるように見える』って。」 ――ああ、そう伝えているのか。 春は笑顔を保ちながら、胸の奥に冷たいものが広がるのを感じた。 「ありがとうございます。お気遣い、感謝いたします。」 ⸻ 数日後、夏花がふたたび現れた。 今回は、社の新プロジェクトの打ち合わせと称して。 彼女はゆったりとした仕草で応接ソファに腰を下ろす。 「西條さん、あなたが資料を作ったのよね?」 「はい、補佐として。」 「拝見したけれど……とても丁寧ね。でも少し、冷たい印象かしら。 もう少し“温かみ”があったほうが、主人の人柄が伝わると思うの。」 「修正いたします。」 「ごめんなさいね、余計なこと言って。でも女の感覚って、大事でしょう?」 夏花は柔らかく微笑んだ。 そのまま手を伸ばし、春の胸元の名札をそっと指で撫でる。 「“西條 春”。可愛らしいお名前ね。主人が呼ぶとき、とても自然に聞こえるのよ。」 春の身体が一瞬、こわばった。 「……ありがとうございます。」 「いえ、私こそお礼を言わなきゃ。 あなたがいてくれるおかげで、主人は安心して私に優しくしてくれるの。」 その言葉の奥に潜む意味を、春は痛いほど理解していた。 ⸻ 数日後の朝。 会議で使用するはずだった契約書の原本が、デスクから消えていた。 予備を出すまでに時間がかかり、会議は十五分遅れ。 秋は咎めなかったが、役員の視線は冷たかった。 昼休み、デスクに小さな封筒が置かれていた。 差出人は書かれていない。 中には薄いカードと一枚の写真。 社内ラウンジで、春が秋と並んで資料を確認している場面。 カードには、丁寧な筆跡でこう記されていた。 「立ち位置を間違えると、影が焦げるわ。」 春はしばらく動けなかった。 香水の香り――あの、夏花のもの。 胸の奥で何かが冷たく、ゆっくりと折れた音がした。 ⸻ 夜。 残業を終えた春がビルを出ようとしたとき、秋が声をかけた。 「春さん、最近顔色が悪い。何かあったのか?」 「……いいえ。少し、疲れているだけです。」 「妻がさっき言ってたよ。“春さん、少し無理してるみたい。休ませてあげたら?”って。」 ――優しい人だ、本当に。 けれどその“優しさ”は、彼女の仕組んだ舞台の一部だとしたら。 春は笑顔を保ったまま、静かに首を振った。 「私は大丈夫です。社長のお手を煩わせることはありません。」 「……そうか。」 秋が去ったあと、春はふと天井を見上げた。 夜の照明が目に滲み、視界がぼやける。 涙ではなかった。 ただ、視界の奥で世界が少しずつ揺らいで見えた。 ――このまま、壊れてしまえば楽なのかもしれない。 でも、私はまだ負けたくない。 デスクに残した夏花の名刺を見つめ、春は小さく息を吐いた。 「あなたが微笑むたびに、私は消えていくのね……。」 彼女の声は、誰にも届かない夜のオフィスに溶けていった。数か月後。空はやわらかな陽光に包まれ、街には新しい芽吹きの香りが満ちていた。ビルの一角、小さなガラス張りのオフィス。その扉には、新しい社名が掲げられている。株式会社 四季コンサルティング― 代表取締役 西條 春《さいじょう はる》 ―机の上には、白いカーネーションの花が一輪、陽を受けて小さく揺れていた。「社長、そろそろクライアントとの打ち合わせの時間です。」落ち着いた声が背後から届く。冬だった。黒のスーツを少し緩め、いつものように穏やかに微笑んでいる。春は手帳を閉じ、顔を上げた。「ありがとう。準備はできてる?」「もちろん。あなたの完璧さに合わせようと努力してますから。」冗談めかした口調に、春は小さく笑った。「昔は“誰かの影”として完璧でいようとしてた。 でも今は――“自分のために完璧”でありたいの。」冬《ふゆ》は頷きながら、その瞳で春を見つめる。「あなたの“春”は、やっと咲いたんですね。」春は少し頬を染めて微笑んだ。「ええ。でも、これからが本番よ。」二人は並んで窓の外を見た。通りの桜並木が満開を迎え、風に舞う花びらが陽の光の中を踊る。「四季って、不思議ね。」春がぽつりと言った。「移ろうたびに寂しさを残していくのに、 それでも、次を信じさせてくれる。」冬はその言葉に微笑を深めた。「季節がめぐるように、人も変わっていく。 でも、君の春は――もう、奪われない。」春は静かに息を吸い、心の中でそっと呟いた。――ありがとう。 あの嵐を越えて、ここにいる自分へ。 そして、あの日、手を伸ばしてくれた人たちへ。外の風が、オフィスのカーテンを揺らす。花びらが一枚、窓の隙間から入り込み、彼女のデスクの上に、ふわりと落ちた。春はそれを指先でそっと摘み上げる。
夜明け前、まだ街が眠っている時間。東雲《しののめ》グループの本社ビルの屋上に、一人の女性が立っていた。白いワンピースが風に揺れ、髪が月光に透けて見える。南 夏花《みなみ なつか》。かつて社交界で“氷の華”と呼ばれた女。その姿は、いまや儚い影のようだった。手に持つスマートフォンの画面には、ひとつの送信ボタン。そこには、東雲家の不正会計を示す証拠と共に、彼女自身の告白文が添えられている。「これで、終わりね……」夏花は微笑んだ。「私が壊したものは、もう戻らない。 でも、せめて――愛した人の未来だけは残していきたい。」彼女はそっと風に顔を向けた。夜が明ける。その瞬間、彼女の頬を伝う涙が、光に照らされて消えた。⸻翌朝。ニュースは、南夏花の失踪と同時に、東雲グループの会計不正を告発する匿名情報を報じた。社内は混乱。だが、その中心で、東雲 秋《しののめ しゅう》は静かに立っていた。顔には疲労の影。だが、以前のような虚飾の笑顔はもうなかった。「……これが、俺の罪の形か。」秋はすべてを記者会見で語った。自分が経営の多くを秘書に頼りきり、能力を偽り、妻の孤独を見過ごしていたこと。会場に沈黙が落ちる。だが、誰かが拍手した。それは、一番後ろにいた一人の女性――西條 春《さいじょう はる》だった。⸻数日後。春は北宮グループのオフィスの窓辺に立っていた。季節は冬の始まり。吐く息が白く、街の灯りがやわらかく滲む。そこへ、冬が入ってくる。彼は無言でコーヒーを差し出した。「冷える夜ですね。」「……ええ。でも、嫌いじゃないです。」二人の間に、少しの沈黙。そして春が静かに言う。「私、あの会社を出てから、やっと気づいたんです。 “
夜、雨が降っていた。東雲《しののめ》邸の灯りは、いつもより強く揺れている。夏花《なつか》は、窓の外の雨を見つめていた。手にはワイングラス。中身はもう空で、指先に残る赤が血のように滲む。彼女の目は静かに笑っていた。「愛してるわ、秋《しゅう》。だから――全部壊してでも、私の方を見てほしかったの。」テーブルの上には、一枚の報告書。“内部調査報告書:南夏花によるシステム改ざんの疑い”。冬《ふゆ》の署名入りだった。夏花はゆっくりと紙を丸め、指で潰す。「あなたたちが……私の世界を、汚した。」⸻同じ夜。春は会社の会議室で、秋と向かい合っていた。デスクの上には資料も何もない。ただ、互いの沈黙だけがあった。「……ずっと、気づかないふりをしていた。」秋が口を開いた。「君がどれほど支えてくれていたかも、 妻が君にどんな視線を向けていたかも。 全部、わかっていたのに。」春は静かに首を振る。「私は社長のために働いてきただけです。 それ以上でも、それ以下でもありません。」「それが嘘だってことも、俺には分かる。」秋の声は、少し震えていた。「君が笑わなくなってから、会社の空気まで変わった。 ……俺は、君がいることで救われてたんだ。」春の喉が詰まる。「そんなこと……言わないでください。」「なぜだ?」「そんな言葉、今さら意味がない。」「ある。」秋が立ち上がり、机越しに一歩近づく。その瞳は、痛みを抱いたまま真っすぐだった。「俺は、君を――」その瞬間、ドアが勢いよく開かれた。「やめて。」夏花がそこに立っていた。濡れた髪、乱れた呼吸。手には一枚の写真。――春と冬が並んで歩いている写真だった。「あなた、本当に最低ね。」夏花の声は静かで
朝の光は灰色だった。ビルの窓に打ちつける雨が、いつもより重く感じる。春は出社してすぐ、周囲の視線に違和感を覚えた。挨拶をしても、返ってくる声がどこかよそよそしい。コピー機の横で、ひそひそと囁く声。「見た? あのメールの件……」「まさか春《はる》さんが、ね……」“あのメール”――何のことか分からなかった。だが、数分後。人事部からの呼び出しが届く。⸻応接室には秋《しゅう》がいた。そして隣には、夏花《なつか》。彼女は淡いグレーのスーツを着こなし、いつもよりも落ち着いた表情をしていた。「西條《さいじょう》さん。」秋の声は、どこか硬い。「機密資料の一部が外部に流出した件で、調査が入っている。」春は息を呑んだ。「……そんな、私は……」「あなたの端末から、外部送信が確認された。」「そんなはずありません!」「落ち着いて。」夏花がそっと声を差し挟む。「私、昨日あなたのデスクの近くで、USBを見かけたの。 誰のものか分からなくて……まさか、と思ったけど。」優しい声。だが、その言葉が刃のように刺さる。「ちがいます……私はそんなこと――」「調査が終わるまでは、自宅待機にしてもらう。」秋の表情は冷たくはなかった。けれど、どこか“信じ切れない”色があった。春の中で、何かが崩れた音がした。⸻デスクに戻ると、引き出しが開けられていた。中に入れていたはずの契約書控えは消えている。代わりに、小さなメモだけが残されていた。「形ある忠誠ほど脆いものはないわ。」文字は整っていて、あの女の筆跡だった。夏花。春は拳を握りしめ、震える指でスマホを掴む。けれど、秋に連絡を取ることはできなかった。信じてくれないかもしれない。それが一番怖かった。⸻雨の中
春《はる》が朝のオフィスに入ったとき、空気が少し違っていた。社員たちが小声でざわめき、いつもより早く会議室が準備されている。「今日、北宮《きたみや》グループの方が来社されるらしいよ。」同僚の言葉に、春は小さく頷いた。北宮――東雲《しののめ》と並ぶ大企業。社長の秋とは同世代で、業界でも常に比較されてきた存在。だが春にとって、それは遠い名前でしかなかった。今までは。⸻午前十時。会議室のドアが開かれ、北宮冬《きたみや ふゆ》が現れた。彼は黒のスーツに、薄いグレーのネクタイ。無駄のない所作で席につくその姿は、冷たく洗練された印象を与える。けれど、目だけは穏やかだった。深く静かな灰色――まるで冬の空を閉じ込めたような色。春は資料を配りながら、そっと視線を合わせた。その瞬間、彼が一度だけ微かに微笑んだのを見た。挨拶でも、礼儀でもない。――“あなたを見ている”という静かなサイン。⸻会議が始まる。秋はいつものように堂々とした口調で話を進めていた。だがその発言の多くは、春がまとめた資料に沿ったものだ。冬は一言も挟まず、ただ聞いていた。しかし、時折春のほうに視線をやる。それが何度も繰り返されるうちに、春は不思議な感覚に包まれた。――この人、私の“役割”を見抜いている。会議の終盤、秋《しゅう》が少し言葉を詰まらせたとき、冬が静かに助け舟を出した。「資料のページ七、補足が抜けていますね。こちらは……秘書の西條さんが作成された?」「えっ……あ、はい。そうです。」春が答えると、冬はごく自然に頷いた。「論理が明快でいい。数字の流れも無駄がない。非常に参考になります。」秋が軽く笑い、「彼女は優秀なんです」と返す。だが、春の胸の奥では別の何かが動いた。久しぶりに、純粋な評価を受けた気がした。誰かに認められるという行為が、こんなにも温
朝の空は曇り、雨上がりのアスファルトがまだ湿っている。 その上を、春《はる》はゆっくりと歩いていた。 出社停止から一週間。 その間、冬《ふゆ》は水面下で動いていた。 社内の監査ログ、通信履歴、関係部署の権限記録―― 全てを調べ、彼女の潔白を裏づける証拠を集めた。 「あなたは戻れる。」 冬のその一言が、春の背を押していた。 けれど、オフィスの空気は冷たいままだった。 「戻ってきたんだ」 「よく顔を出せるな」 ――小さな囁きが、まるで針のように背中を刺す。 春は何も言わなかった。 ただ、デスクに手を置く。 何も変わらない位置、同じ机。 けれど、もうその上に置く手は、以前の自分のものではなかった。 ⸻ 午前十時。 役員会議室に、秋《しゅう》と夏花《なつか》、そして冬が並んでいた。 冬は、冷静な口調で調査結果を述べる。 「結論から申し上げます。 資料流出に関して、西條春氏の関与は認められません。 送信記録の改ざんが確認されました。 内部IDを不正に使用した痕跡があります。」 室内がざわめく。 夏花は、すぐに微笑みを整えた。 「まあ……そんなことが? 恐ろしいわね。 でも、社の信頼を揺るがせないためにも、慎重に進めなければ。」 冬はその笑みを、まっすぐに見つめた。 「同感です。 ただ――奇妙なことがひとつ。 改ざんに使われた端末は、社長室のサブPCでした。」 秋の眉が動いた。 「それは……俺の部屋の?」 「はい。使用ログによれば、当日、その部屋に入っていたのは――」 冬は一瞬だけ、言葉を切った。 「南 夏花様、お一人です。」 室内に、沈黙が落ちた。 夏花はゆっくりと目を伏せ、 静かに笑みを浮かべる。 「私が? まさか。 夫の部屋に入ることくらいあるでしょう?」 「ええ、もちろん。ただ……その時間帯は夜の八時半。 通常、オフィスは施錠されています。」 「……夜、主人を迎えに来たのよ。」 「鍵の記録は手動開錠でした。 あなたのカードキーで。」 その言葉に、空気が冷たく張り詰める。 秋が口を開いた。 「夏花……どういうことだ?」 「あなた、私を疑うの?」 夏花の瞳に、薄い光が揺れる。 「私が何のためにそんなことを? 全部、この女のため? あなたが“彼女を守