Masuk夜、雨が降っていた。
東雲《しののめ》邸の灯りは、いつもより強く揺れている。 夏花《なつか》は、窓の外の雨を見つめていた。 手にはワイングラス。 中身はもう空で、指先に残る赤が血のように滲む。 彼女の目は静かに笑っていた。 「愛してるわ、秋《しゅう》。だから――全部壊してでも、私の方を見てほしかったの。」 テーブルの上には、一枚の報告書。 “内部調査報告書:南夏花によるシステム改ざんの疑い”。 冬《ふゆ》の署名入りだった。 夏花はゆっくりと紙を丸め、指で潰す。 「あなたたちが……私の世界を、汚した。」 ⸻ 同じ夜。 春は会社の会議室で、秋と向かい合っていた。 デスクの上には資料も何もない。 ただ、互いの沈黙だけがあった。 「……ずっと、気づかないふりをしていた。」 秋が口を開いた。 「君がどれほど支えてくれていたかも、 妻が君にどんな視線を向けていたかも。 全部、わかっていたのに。」 春は静かに首を振る。 「私は社長のために働いてきただけです。 それ以上でも、それ以下でもありません。」 「それが嘘だってことも、俺には分かる。」 秋の声は、少し震えていた。 「君が笑わなくなってから、会社の空気まで変わった。 ……俺は、君がいることで救われてたんだ。」 春の喉が詰まる。 「そんなこと……言わないでください。」 「なぜだ?」 「そんな言葉、今さら意味がない。」 「ある。」 秋が立ち上がり、机越しに一歩近づく。 その瞳は、痛みを抱いたまま真っすぐだった。 「俺は、君を――」 その瞬間、ドアが勢いよく開かれた。 「やめて。」 夏花がそこに立っていた。 濡れた髪、乱れた呼吸。 手には一枚の写真。 ――春と冬が並んで歩いている写真だった。 「あなた、本当に最低ね。」 夏花の声は静かで、でも狂気が滲んでいた。 「女に守られて、女に慰められて、 そして最後は、その女を“正義”に使うの?」 秋が言葉を失う。 「私ね、最初から知ってたの。 あなたがこの子をどう見てるか。 でも、信じたかった。私のほうを見てくれるって。」 夏花の目に涙が溜まり、それが頬を伝う。 「愛してるの。 あなたが息をしてるだけで、私の世界は意味を持ったの。 だから――私以外の誰にも奪わせない。」 彼女は一歩、春へと近づいた。 「あなたがここに来てから、彼が私を見なくなったの。 あなたが彼を“変えた”のよ。」 春は立ち上がり、静かに言った。 「私は奪ってなんかいません。 あなたが壊しているのは、 あなた自身の“愛”です。」 一瞬の沈黙。 夏花の瞳が揺れ、微かに笑った。 「綺麗事ね。 でも、あなたはもう終わり。 彼と一緒にいた記録、全部――私が消してあげる。」 そのとき、背後のドアが静かに開いた。 冬がいた。 黒いコートの肩に雨の滴を残したまま、 まっすぐに夏花を見つめる。 「もうやめましょう、南さん。」 「あなた、邪魔なのよ。」 「ええ。 でも、これ以上彼女を傷つけるなら、 私はあなたを“守らない”立場になります。」 夏花は小さく笑った。 「守る? あなたが?」 「あなたのしていることは、愛じゃない。 “支配”です。」 その言葉に、夏花の表情が崩れた。 微笑みが、涙と怒りに変わっていく。 「支配でもいい。 だって、愛はいつも誰かを閉じ込めてるのよ。」 「でも、その檻にいるのは――もうあなた一人です。」 夏花の瞳から、ぽとりと涙が落ちた。 音もなく、床に消える。 しばらくの沈黙のあと、彼女は静かに笑った。 「そう……いいわ。 でも、覚えておいて。 檻の鍵は、まだ私が持ってるの。」 そう言い残して、夏花は踵を返し、 ドアの向こうに消えていった。 ⸻ 夜が更けた。 雨はやみ、街の灯が静かに滲んでいる。 春は会社の屋上に立ち、風に当たっていた。 「私、もう壊れると思ってた。」 「壊れなかった。」 冬の声が背後から聞こえる。 「あなたがいたから。」 春が呟く。 「でも、これからは?」 冬は少しだけ笑った。 「あなたが決めることです。 過去の檻を壊すのも、そこに残るのも。」 春はゆっくりと空を見上げた。 雲の切れ間から、ひとすじの月光が落ちる。 それが、まるで“自由”の形をしていた。夜明け前、まだ街が眠っている時間。東雲《しののめ》グループの本社ビルの屋上に、一人の女性が立っていた。白いワンピースが風に揺れ、髪が月光に透けて見える。南 夏花《みなみ なつか》。かつて社交界で“氷の華”と呼ばれた女。その姿は、いまや儚い影のようだった。手に持つスマートフォンの画面には、ひとつの送信ボタン。そこには、東雲家の不正会計を示す証拠と共に、彼女自身の告白文が添えられている。「これで、終わりね……」夏花は微笑んだ。「私が壊したものは、もう戻らない。 でも、せめて――愛した人の未来だけは残していきたい。」彼女はそっと風に顔を向けた。夜が明ける。その瞬間、彼女の頬を伝う涙が、光に照らされて消えた。⸻翌朝。ニュースは、南夏花の失踪と同時に、東雲グループの会計不正を告発する匿名情報を報じた。社内は混乱。だが、その中心で、東雲 秋《しののめ しゅう》は静かに立っていた。顔には疲労の影。だが、以前のような虚飾の笑顔はもうなかった。「……これが、俺の罪の形か。」秋はすべてを記者会見で語った。自分が経営の多くを秘書に頼りきり、能力を偽り、妻の孤独を見過ごしていたこと。会場に沈黙が落ちる。だが、誰かが拍手した。それは、一番後ろにいた一人の女性――西條 春《さいじょう はる》だった。⸻数日後。春は北宮グループのオフィスの窓辺に立っていた。季節は冬の始まり。吐く息が白く、街の灯りがやわらかく滲む。そこへ、冬が入ってくる。彼は無言でコーヒーを差し出した。「冷える夜ですね。」「……ええ。でも、嫌いじゃないです。」二人の間に、少しの沈黙。そして春が静かに言う。「私、あの会社を出てから、やっと気づいたんです。 “
夜、雨が降っていた。東雲《しののめ》邸の灯りは、いつもより強く揺れている。夏花《なつか》は、窓の外の雨を見つめていた。手にはワイングラス。中身はもう空で、指先に残る赤が血のように滲む。彼女の目は静かに笑っていた。「愛してるわ、秋《しゅう》。だから――全部壊してでも、私の方を見てほしかったの。」テーブルの上には、一枚の報告書。“内部調査報告書:南夏花によるシステム改ざんの疑い”。冬《ふゆ》の署名入りだった。夏花はゆっくりと紙を丸め、指で潰す。「あなたたちが……私の世界を、汚した。」⸻同じ夜。春は会社の会議室で、秋と向かい合っていた。デスクの上には資料も何もない。ただ、互いの沈黙だけがあった。「……ずっと、気づかないふりをしていた。」秋が口を開いた。「君がどれほど支えてくれていたかも、 妻が君にどんな視線を向けていたかも。 全部、わかっていたのに。」春は静かに首を振る。「私は社長のために働いてきただけです。 それ以上でも、それ以下でもありません。」「それが嘘だってことも、俺には分かる。」秋の声は、少し震えていた。「君が笑わなくなってから、会社の空気まで変わった。 ……俺は、君がいることで救われてたんだ。」春の喉が詰まる。「そんなこと……言わないでください。」「なぜだ?」「そんな言葉、今さら意味がない。」「ある。」秋が立ち上がり、机越しに一歩近づく。その瞳は、痛みを抱いたまま真っすぐだった。「俺は、君を――」その瞬間、ドアが勢いよく開かれた。「やめて。」夏花がそこに立っていた。濡れた髪、乱れた呼吸。手には一枚の写真。――春と冬が並んで歩いている写真だった。「あなた、本当に最低ね。」夏花の声は静かで
朝の光は灰色だった。ビルの窓に打ちつける雨が、いつもより重く感じる。春は出社してすぐ、周囲の視線に違和感を覚えた。挨拶をしても、返ってくる声がどこかよそよそしい。コピー機の横で、ひそひそと囁く声。「見た? あのメールの件……」「まさか春《はる》さんが、ね……」“あのメール”――何のことか分からなかった。だが、数分後。人事部からの呼び出しが届く。⸻応接室には秋《しゅう》がいた。そして隣には、夏花《なつか》。彼女は淡いグレーのスーツを着こなし、いつもよりも落ち着いた表情をしていた。「西條《さいじょう》さん。」秋の声は、どこか硬い。「機密資料の一部が外部に流出した件で、調査が入っている。」春は息を呑んだ。「……そんな、私は……」「あなたの端末から、外部送信が確認された。」「そんなはずありません!」「落ち着いて。」夏花がそっと声を差し挟む。「私、昨日あなたのデスクの近くで、USBを見かけたの。 誰のものか分からなくて……まさか、と思ったけど。」優しい声。だが、その言葉が刃のように刺さる。「ちがいます……私はそんなこと――」「調査が終わるまでは、自宅待機にしてもらう。」秋の表情は冷たくはなかった。けれど、どこか“信じ切れない”色があった。春の中で、何かが崩れた音がした。⸻デスクに戻ると、引き出しが開けられていた。中に入れていたはずの契約書控えは消えている。代わりに、小さなメモだけが残されていた。「形ある忠誠ほど脆いものはないわ。」文字は整っていて、あの女の筆跡だった。夏花。春は拳を握りしめ、震える指でスマホを掴む。けれど、秋に連絡を取ることはできなかった。信じてくれないかもしれない。それが一番怖かった。⸻雨の中
春《はる》が朝のオフィスに入ったとき、空気が少し違っていた。社員たちが小声でざわめき、いつもより早く会議室が準備されている。「今日、北宮《きたみや》グループの方が来社されるらしいよ。」同僚の言葉に、春は小さく頷いた。北宮――東雲《しののめ》と並ぶ大企業。社長の秋とは同世代で、業界でも常に比較されてきた存在。だが春にとって、それは遠い名前でしかなかった。今までは。⸻午前十時。会議室のドアが開かれ、北宮冬《きたみや ふゆ》が現れた。彼は黒のスーツに、薄いグレーのネクタイ。無駄のない所作で席につくその姿は、冷たく洗練された印象を与える。けれど、目だけは穏やかだった。深く静かな灰色――まるで冬の空を閉じ込めたような色。春は資料を配りながら、そっと視線を合わせた。その瞬間、彼が一度だけ微かに微笑んだのを見た。挨拶でも、礼儀でもない。――“あなたを見ている”という静かなサイン。⸻会議が始まる。秋はいつものように堂々とした口調で話を進めていた。だがその発言の多くは、春がまとめた資料に沿ったものだ。冬は一言も挟まず、ただ聞いていた。しかし、時折春のほうに視線をやる。それが何度も繰り返されるうちに、春は不思議な感覚に包まれた。――この人、私の“役割”を見抜いている。会議の終盤、秋《しゅう》が少し言葉を詰まらせたとき、冬が静かに助け舟を出した。「資料のページ七、補足が抜けていますね。こちらは……秘書の西條さんが作成された?」「えっ……あ、はい。そうです。」春が答えると、冬はごく自然に頷いた。「論理が明快でいい。数字の流れも無駄がない。非常に参考になります。」秋が軽く笑い、「彼女は優秀なんです」と返す。だが、春の胸の奥では別の何かが動いた。久しぶりに、純粋な評価を受けた気がした。誰かに認められるという行為が、こんなにも温
朝の空は曇り、雨上がりのアスファルトがまだ湿っている。 その上を、春《はる》はゆっくりと歩いていた。 出社停止から一週間。 その間、冬《ふゆ》は水面下で動いていた。 社内の監査ログ、通信履歴、関係部署の権限記録―― 全てを調べ、彼女の潔白を裏づける証拠を集めた。 「あなたは戻れる。」 冬のその一言が、春の背を押していた。 けれど、オフィスの空気は冷たいままだった。 「戻ってきたんだ」 「よく顔を出せるな」 ――小さな囁きが、まるで針のように背中を刺す。 春は何も言わなかった。 ただ、デスクに手を置く。 何も変わらない位置、同じ机。 けれど、もうその上に置く手は、以前の自分のものではなかった。 ⸻ 午前十時。 役員会議室に、秋《しゅう》と夏花《なつか》、そして冬が並んでいた。 冬は、冷静な口調で調査結果を述べる。 「結論から申し上げます。 資料流出に関して、西條春氏の関与は認められません。 送信記録の改ざんが確認されました。 内部IDを不正に使用した痕跡があります。」 室内がざわめく。 夏花は、すぐに微笑みを整えた。 「まあ……そんなことが? 恐ろしいわね。 でも、社の信頼を揺るがせないためにも、慎重に進めなければ。」 冬はその笑みを、まっすぐに見つめた。 「同感です。 ただ――奇妙なことがひとつ。 改ざんに使われた端末は、社長室のサブPCでした。」 秋の眉が動いた。 「それは……俺の部屋の?」 「はい。使用ログによれば、当日、その部屋に入っていたのは――」 冬は一瞬だけ、言葉を切った。 「南 夏花様、お一人です。」 室内に、沈黙が落ちた。 夏花はゆっくりと目を伏せ、 静かに笑みを浮かべる。 「私が? まさか。 夫の部屋に入ることくらいあるでしょう?」 「ええ、もちろん。ただ……その時間帯は夜の八時半。 通常、オフィスは施錠されています。」 「……夜、主人を迎えに来たのよ。」 「鍵の記録は手動開錠でした。 あなたのカードキーで。」 その言葉に、空気が冷たく張り詰める。 秋が口を開いた。 「夏花……どういうことだ?」 「あなた、私を疑うの?」 夏花の瞳に、薄い光が揺れる。 「私が何のためにそんなことを? 全部、この女のため? あなたが“彼女を守
昼下がりのオフィス。 窓際の観葉植物が、午後の光に透けている。 その柔らかな緑の向こうに、冷たいヒールの音が響いた。 「はじめまして。――あなたが、西條春《さいじょう はる》さんね?」 その声は甘く澄んでいた。 南夏花《みなみ なつか》は、香水の香りをほのかに漂わせながら微笑んだ。 淡いクリーム色のワンピースに、真珠のイヤリング。 そのどれもが控えめで上品なのに、なぜか“支配の気配”があった。 春は立ち上がり、一礼する。 「はい。社長秘書の西條と申します。いつも社長がお世話になっております。」 「まあ、お上手ね。主人があなたの話をよくしているわ。“春がいれば大丈夫だ”って。 ……まるで奥さんみたいな言葉でしょ?」 軽やかな笑い。けれど、その奥にわずかな刺。 春は静かに微笑みを返す。 「恐れ入ります。私は、仕事を支える立場ですので。」 「ええ、もちろん。そうよね。」 夏花はゆっくりと歩きながら、春のデスクに目を走らせた。 完璧に整えられた書類の並び、無駄のない配置。 「几帳面なのね。主人の好みにぴったり。」 「……ありがとうございます。」 夏花は、まるで偶然のように一枚の書類を摘み上げた。 そこには秋《しゅう》の署名があり、春が前夜までかけて作成した契約案だ。 「こういうものも、あなたが作るの?」 「最終的な判断は社長がされますが、補助的に。」 「補助、ね。」 夏花の唇にわずかに浮かんだ笑みは、氷のように冷たかった。 「――うらやましいわ。主人の一番近くにいられるなんて。」 春は何も答えなかった。 ただ、少しだけ手に力をこめ、資料を丁寧にそろえる。 ⸻ その日を境に、オフィスの空気が少しずつ変わった。 共有フォルダからファイルが消え、会議資料がなぜか差し替えられている。 春が出した報告書には、見覚えのない誤字が混ざっていた。 原因を調べても、記録は曖昧。 だが、上層部から「確認が甘い」と指摘されるのはいつも春だった。 「春さん、最近ミス多いね。大丈夫?」 同僚の軽い一言にも、胸がざらりと痛んだ。 自分の中で何かが崩れ始めているのを感じる。 秋は優しく声をかけてくれた。 「無理するなよ。妻も心配してたんだ。『春さん、すごく頑張ってるけど疲れてるように見える』って。」 ――ああ、そう伝えて