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第6話

Author: 百里
澄哉は喉の奥でくぐもった笑い声を漏らし、鏡越しに美紗の冷えきった顔を見つめた。

一目で、彼女が不機嫌なのが分かる。

だが、彼はその不機嫌そうに頬を引き締める彼女の顔を見るのがたまらなく好きだ。

むず痒い歯茎を舌でなぞり、心の奥の得体の知れない痒みを鎮めるように――あの柔らかそうな頬をつねって、ぷにっと弾けさせてやりたい衝動に駆られた。

静音ドライヤーの低い音でも、澄哉の下卑た笑いは隠しきれない。

美紗は聞こえないふりをして、さらに表情を硬くし、黙々と髪を乾かし続けた。

彼の髪は少し長めで、きれいに整えられている。

会社ではいつも、後ろへ撫でつけたオールバックで圧倒的な存在感を放っていた。

だが、洗い立てで整えていない今は、前髪が少し長く、柔らかく乱れた毛先が額にかかっている。

ドライヤーを当てながら、美紗の指先がどうしても髪の間をすり抜ける。そのたびに、言葉にならない温度が、静かに空気の中へ広がっていく。

澄哉はまぶたが重くなり、何度も落ちかける。それでも、鏡越しに彼女の姿を見ようと必死に耐えていた。

ときおり頭皮に触れるやわらかな感触が、心地よい眠気を誘い、意識を溶かしていく――

数分後、美紗がドライヤーを置いた。「終わりました、社長」

背後からの返事はない。

振り返ると、澄哉は椅子にもたれたまま、首を傾げて眠っている。彼女の手の支えがなくなると、重い頭が少しずつ床の方へ倒れていく。

慌てて支えようとして、反射的に手を引っ込め、代わりにタオルを取って彼の頬の下にそっと当てた。「社長、ベッドで休んでください」

しかし――

不快そうに眉をひそめた澄哉は、そのタオルを乱暴に払いのけ、美紗の手を掴み、自分の頬に押し当てた。

ひんやりとした柔らかさに、彼は安堵の吐息をもらした。「……頭、揉め。痛い」

半分寝言のような声。目はもう開かない。

美紗はまるで戦場に立つような緊張感に包まれている。

いま澄哉が目を覚まし、二人の距離に気づいたら――そう思うだけで、息が詰まる。

けれど、彼の肌は灼けるように熱く、意識も朦朧としている。

その姿を見ると、どうしても突き放すことができない。

震える指先で、そっと彼の額を撫で始めた。

しかし澄哉はじっとしていない。彼女の手が動くたびに、その冷たい感触を追うように頭を傾け、離れまいとする。

美紗は仕方なく、彼を抱き起こして支えながら、息を詰めたまま腰に手を回した。高くて重い身体を、なんとかベッドへ運んだ。

汗を拭こうと手を上げた瞬間、その手が強く掴まれた。

澄哉はまっすぐ彼女を見つめ、「……揉め。止めるな」とかすれ声で命じた。

美紗はびくりと肩を震わせた。てっきり、腰に腕を回したことを怒られるかと思ったが――幸いそうではなかった。

彼はただ、また静かに目を閉じたのだ。

胸を撫で下ろしながら、彼女はそっと毛布を掛け、再び額を撫で、耳のあたりを指でやさしくさすった。

淡いランプの灯りが、部屋に柔らかな影を落とす。どこか甘く、切ない空気が漂い、澄哉の呼吸は穏やかになり、深い眠りに落ちていった。

美紗はその端正な横顔を、まるで夢を見ているかのように見つめた。呼吸すらも乱さぬよう、そっと息を潜めながら。

――こんなにも近くで、彼に触れ、寄り添える日が来るなんて。

七年もの間、夢の中ですら願うことを恐れてきた瞬間が、今ここにある。

胸の奥が熱く、泣き出したいほどだ。

この一瞬のためなら、彼のもとへ勝手に来たことなど、どんなに責められても後悔はしない。

自分があまりにも身勝手なのは分かっている。彼が女性を恐れていることも知っている。

それでも、どうしても止まれなかった。

思いが、もう自分を壊してしまいそうだったのだ。

七年にわたる片思い。真夜中に何度も夢から醒め、悪夢にうなされるたび、彼を想うことでしか心を繋ぎとめられなかった。

――美紗は、あの路地裏のことを一生忘れない。

あのとき澄哉が、数人の暴漢たちの手から、自分を力いっぱい引き離してくれたことを。

彼はあの時、地獄から自分を救い出してくれたのだ。

彼が自分を守るために、あの暴漢たちと取っ組み合いになったことも。そして彼自身の素性を明かし、その力であの有力者の子息たちを刑務所送りにしたことも忘れられない。

もし彼が名乗り出て、「彼らに然るべき報いを受けさせる」と言わなければ――

あの連中は実際に手を下す前だったというだけで、罪に問われずに終わったに違いない。

重刑が下されたのは、きっと澄哉の尽力があったからだ。

その結果、あの暴漢たちがこれまでに犯してきた悪事も暴かれた。彼らは何人もの女子生徒を傷つけてきた、救いようのない人間たちだった。

美紗は、不幸の中の幸運だった。

いや、もっと幸運だったのは――澄哉に出会えたこと。

彼女は、澄哉を一生愛し続けるだろう。

澄哉は女性恐怖症で、女からの欲情を何よりも嫌う。だから美紗は、自分の心を静かに胸の奥に隠し、ただ彼のそばにいられるだけで満たされていた。

――そう、満たされていたはずだった。

だが今、彼女の中に芽生えたのは、決して抱いてはいけない「欲」だ。

美紗は、澄哉の長く白い指先を見つめながら、抑え込んだ渇望と、怯え、そして狂気のような衝動が胸の中でせめぎ合うのを感じている。

なんて厚かましいのだろう。

必ず自分の心を守り、決して彼に触れないと誓ったのに、今この瞬間――彼にキスしたい。

邪念が湧き上がり、抑えきれない。

分かっている。今を逃せば、もう一生その唇に触れることはできない。

美紗は怖くて、でもどこかで求める気持ちを抱えながら、その手を見つめていた。半時間が過ぎ、全身は冷や汗でびっしょりになっても、まだ動く勇気はなかった。

「……私は、絶対にあなたを傷つけたりしない」

誰にも聞こえないほどの小さな声でつぶやいた。もし澄哉に聞かれたら――きっと嫌悪されるに違いない。

だからこれは、自分への戒め。

欲しがるな。

望むな。

美紗は急に立ち上がり、部屋を出てドアを閉めた。

それは、彼との間を隔てる音であり、自分の「欲」を断ち切る音でもあった。

壁にもたれ、呼吸が荒くなる。手の甲を噛みしめた。血の味が口に広がっても気づかない。

涙が溢れそうになり、必死に顔を上げてこらえた。

まるで水面に浮かび上がろうともがく魚のように、彼女は苦しそうに息を吸い込み、そして自分に言い聞かせた。「……欲を出しちゃだめ。触れちゃだめ。彼は壊れてしまう。今のままで、十分だから」

彼女は慎重に愛する人を想っていた。どんなに欲望が湧き上がっても、必死に耐え、決して彼を傷つけてはいけないと心に誓った。

……

息が詰まるほどの暗闇は、次第に朝の光に飲み込まれていく。

輝かしい朝日が空に差し込むと、金色の光が家々の中にあふれ込む。

美紗は食卓に伏して眠っていたが、落ち着かない寝顔だった。太陽の光が顔に触れると、眉をひそめて目を開けた。

ぼんやりと手を伸ばして時計を見て、まだ朝の五時過ぎだと気づいた。

少しぼんやりした頭を押さえながら、混沌とした思考の中で何かを思い出し、慌てて立ち上がろうとした瞬間、足がしびれて床にひざまずいた。

「うっ……」唇を噛みしめ、痛みをこらえた。

夜通し座ったまま寝ていたせいで、足はすっかりしびれて、一度動かすと、その痛みとしびれで頭皮までぞわりとした。

美紗はじっと動かずにしばらく待って、ようやく両足が元に戻ったが、すでに全身は汗だくだ。

今の彼女は少しふくよかになり、ちょっと動いただけで汗をかく。きっちり閉められた部屋の扉を見て、結局ゲストルームの洗面所は使わなかった。

澄哉は彼女に対して警戒心が強く、以前は彼女が何かに触れるたびに嫌がって許してくれなかった。ここ二か月でようやく少し落ち着いたが、怒らせないよう、自覚を持たねばならない。

美紗は澄哉の様子を見に行くと、彼は安らかに眠っていて、額に触れてももう熱はなかったので、ようやく安心して部屋を出た。

彼女はスーツケースから着替えを取り出してまとめ、スマートフォンを手に外へ出た。

この住宅地には24時間営業のスパがあり、彼女はそこへ直行した。全身のマッサージとミルクバスを受け、きれいに洗い流してようやく疲れを癒した。

出てきたときには、もう二時間が経っていた。

澄哉が起きて自分を見つけられずに怒るのを恐れ、朝食を買って急いで帰路についた。

だが、やはり戻るのは少し遅れてしまった。
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