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第5話

Author: 百里
美紗が動かなかった――それは、自分の命令を初めて無視した瞬間だった。

どうした?もう芝居は終わりか?

澄哉は冷え切った眼差しで彼女を睨みつけた。

「香坂、お前が来た初日に言ったはずだ。言うことを聞け。従わないなら、今すぐ出て行け。

今すぐ、全部拾え」

その言葉に、美紗の体がびくりと震えたのを、澄哉ははっきりと見た。彼の目の奥に、薄い嘲りと満足の色が浮かんだ。

そうだ、彼女が何よりも恐れているのは「解雇」だ。

なにせ、自分のそばに張りついているのは、純粋な理由じゃない。

もしここを追い出されれば、彼女の背後にいる「誰か」がきっと黙ってはいないだろう――

美紗の目が真っ赤に染まった。

恐怖が、彼の冷たい声を合図に、じわじわと胸の奥から這い上がってくる。

でも、やっとの思いで彼のそばにいられるようになったのだ。

疑われ、厳しく当たられても、全部我慢してきた。

今では毎日、彼を見守れる。それが叶った途端、彼女はますます欲深くなり、もう彼のそばを離れたくなくなっている。

美紗はうつむき、ゆっくりと身を翻して歩み寄った。

床に落ちた救急箱を拾い上げ、散らばった薬をひとつひとつ丁寧に集めていく。

澄哉のこわばっていた背筋が、ようやくゆるんだ。

まるで勝利した王のようにソファにもたれ、気まぐれな視線で彼女の少しふっくらとした腰つきを眺めた。

彼女が片づけ終えたのを見届けると、間を置かずに言葉を投げた。「――粥をよそえ。腹が減った」

美紗は救急箱を片づけ、足早に部屋を出た。一瞬でも遅れれば、涙を見られてしまいそうだ。

澄哉は苛立たしげにこめかみを押さえ、低く罵りながら立ち上がって後を追った。

彼女は火を止め、土鍋の中身をひと混ぜしてから椀によそい、脇に置いた。さらに漬物や惣菜が入ってる小皿をいくつかトレイに並べ、食卓へと運んだ。

澄哉は腕を組んで壁にもたれ、終始、視線を彼女から離さなかった。

美紗は一度も彼を見ようとせず、黙々と手を動かしていた。ふっくらした頬は固く引き締まり、いつになく冷たい表情をしている。

「俺とお前、どっちが上か分かってるのか?」澄哉は鼻で笑った。「俺の金で飯食っておいて、その態度か」

美紗は床の破片を片づけ、キッチン台を整え、まくっていた袖を下ろした。

その仕草を見た瞬間、澄哉の表情が険しくなった。――また帰るつもりだ。

「先に――」

「今夜は誰かが残って俺を見守らなきゃな。夜中に熱で死んでも、誰も気づかないだろ」

一方的な口調。彼女の言葉など最初から聞く気はなかった。

美紗の動きが止まり、すぐに携帯を手に取った。

澄哉は眉をひそめ、彼女の行動を訝しげに見つめた。

電話がつながると、彼女は落ち着いた声で言った。「三枝秘書、戻ってきてください。社長が今夜、付き添いが必要で――」

「香坂!」

その怒号に、美紗はびくりと顔を上げた。

真っ赤に染まった澄哉の表情に、思わず息をのんだ。「ど、どうされたんですか、社長?」

澄哉は息を荒げ、胸の奥からこみ上げる苛立ちを抑えられなかった。

――わざと俺を怒らせに戻ってきたのか?

「誰が勝手に指図していいと言った?電話を切れ!」

「でも、社長ご自身が『今夜は誰かが残ろ』とおっしゃいました。三枝秘書じゃない方がいいなら、どなたに頼めばいいか仰ってください。今すぐ連絡します」

美紗は手元の時計を見た。すでに夜の十一時を過ぎている。誰を呼ぶにしても、早くしなければ。

澄哉の視界が暗く揺れた。怒りのせいか、熱のせいか、自分でも分からない。

――ったく、どこまで演技がうまいんだ、こいつは。

澄哉は皮肉を込めた声で言った。「他の奴はいらねぇ。今夜は香坂秘書に頑張ってもらうさ。俺がベッドで死んでても、誰も気づかねぇなんて嫌だからな」

美紗は胸がぎゅっと縮むのを感じ、顔を上げた。「わ、私が……付き添うんですか?」

その驚きようが、かえって澄哉をいら立たせた。「嫌なのか?」

美紗はすぐには答えられなかった。

言葉が出ない――どう答えても地雷を踏みそうで。

澄哉は決して女性を自宅に寄せつけない。

彼のそばで仕事してから半年以上になるが、ここに来たのは数えるほどしかない。

ましてや一晩泊まるなんて、考えたこともなかった。

明日彼が熱から醒めて、自分がここにいるのを見たら――

怒り狂うのではないかと考えるのも怖い。

「決まりだ」澄哉は人の意見など一切聞かない。一度決めたことは、誰が何を言っても覆らない。

彼は腰を下ろして粥をすすった。好物の白粥に、小皿の惣菜。腹が満ちるにつれて、声にも少し柔らかさが戻った。「突っ立ってないで。腹減ってないのか?一緒に食え」

美紗は一瞬ぼんやりして、すぐ首を横に振った。「お腹、空いてません」

彼と二人きりで食事なんて、あり得ない。彼に「安心感」を与えるためにも、常に一定の距離を取らなければ。

澄哉は冷たい目で彼女を一瞥し、椀を置いた。「おかわりだ」

美紗は無言で粥をよそい、また差し出した。

結局、彼は三杯も食べてようやく箸を置いた。

美紗は薬と水を持ってきて、静かにテーブルに置いた。「解熱剤を先に。抗炎症薬は三十分後です」

だが澄哉は面倒くさそうに、二種類まとめて口に放り込んだ。

美紗はそれを見ても、表情一つ変えず、心の中で「次からは一種類ずつ渡そう」と思うだけ。

澄哉はすっかりくつろいだ様子で、まるで殿様のように椅子にもたれ、美紗が洗い物をする姿を眺めていた。

その視線は、会社の女たちより二回りはふっくらした彼女の腰に、つい何度も向かってしまった。

腕に残る柔らかな感触を思い出し、彼は腕をさすりながら、からかうように言った。「お前、そんなに食ってないのに、なんでそんなに太ってんだ?さっき抱えて降ろした時、腕が折れるかと思ったぞ」

美紗は心の中でため息をついた。

――やっぱりおかしい。

以前から口は悪かったけど、こんな下品なことを言う人じゃなかった。

きっと熱のせいだ。そうに違いない。

だから、何も言い返さなかった。

だが、それが澄哉には気に入らなかった。今回戻ってきてから、なぜ美紗はずっと自分に話しかけようとしないのか。

夢の中でも言葉を交わさず、いまこうして現実に目の前にいるというのに、彼女は相変わらず素っ気ない態度だ。

――まったく、調子に乗っている。

澄哉は立ち上がり、命じるように言った。「来い。髪を乾かせ」

美紗は彼が寝室へ向かう背中を見つめ、呆然とした。

この半年間、彼女は自分を厳しく律してきた。絶対に澄哉に触れてはいけない――彼を不快にさせてしまうから。

誰よりもよく知っている。彼の心的外傷後ストレス障害がどれほど深刻なのかを。

だからこそ、彼が不安や恐怖を感じることだけは避けたかったのだ。

なのに……今のこれは何?

一度や二度なら「偶然」で済ませられるけど、髪を乾かすなんて、もう十分に「親密な行為」だ。

まさか――熱で頭がおかしくなった?

明日、彼が目を覚ました後、自分が彼の髪を乾かしてあげたからって、髪を全部切っちゃったりはしないよね……?

考えれば考えるほど、胸がざわつく。この半月、澄哉に一体何があったのだろう。

「早く来いって言ってんだろ、何モタモタしてんだ!」苛立ちを含んだ、かすれた声が奥の部屋から響いた。

美紗はため息をつき、手袋を外し、丁寧に手を洗ってから浴室へ向かった。

そこには、彼女が先持ち込んだ椅子に腰を下ろした澄哉の姿があった。長い手足を投げ出し、ぐったりとした姿はどこか壊れた人形のようだ。

熱のせいで頬は不自然に赤く、ぼんやりとした目で美紗を見つめた。

その視線には、黙って早く世話をしろという催促の色があった。

美紗は慎重に口を開いた。「社長……私は誰か、分かってますか?」

澄哉は不自然な紅潮を浮かべ、朦朧とした目で嗤った。「病気になっただけで、馬鹿にはなってねぇよ。お前?俺の太っちょ秘書だろ。もう少しで腕、折れるかと思った――」

「はい、もう結構です社長!」美紗は慌てて遮った。「すぐ乾かしますから」
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