LOGIN「……っ!」
強引に振り向かせられる。背中がシンクに当たり、カチャンと食器が音を立てた。逃げ場はない。目の前に彼の顔がある。
「レンく……」
「……ファン?」
その瞳は凍えるように冷たく、同時に火傷しそうなほど熱かった。怒り、苛立ち、そしてどうしようもない飢餓感が彼の瞳に強い光を灯している。
「ふざけるな」
彼は私の手首を掴み上げ、キッチンの壁に縫い付けるように押し込んだ。
◇【レン視点】ファン。その単語を聞いた瞬間、俺の中で何かがブツリと切れた。
ファン。俺を崇め、消費し、理想を押し付けてくる存在。綺更津レンという偶像を愛し、その中身には興味を持たない群衆。
違うだろ。お前は、違うだろ。
「ファンなら、俺のことが一番好きなんだろ?」
問い詰めると、紬は真っ青な顔で頷いた。
「す、好きです! だからこそ……!」
「なら、なんで突き放す」
意味が分からない。好きなら、そばにいたいと思うのが普通じゃないのか。触れたい、触れられたいと願うのが本能じゃないのか。
今の俺自身のように……。「好きなら、もっと近くに来いよ」
俺は紬の手首を掴んだまま、じりじりと距離を詰めた。モチ犬のスウェット越しに、こいつの鼓動が聞こえそうだ。
「俺がこんなに求めてるのに、なんで『ファンだから』なんて理屈で逃げるんだよ」
俺は綺更津レンとして扱われることに疲れている。完璧なアイドル、氷の絶対王者。そんな仮面は、外ではいくらでも被ってやる。だがこの部屋は。お前の前でだけは、ただの「俺」でいたい。
飯を食って、美味いと言って、眠くなったら甘えて。ダメで弱くて情けない俺を、お前だけは許容してくれたじゃないか。俺のこのどうしようもない孤独を埋められるのは、世界中でお前だけなんだ。
最初の日、紬
でも、もし本当だったら? 本当にトラウマがあって、こんな嵐の夜に一人で高級マンションの広い部屋にいるのが怖かったら? いや、それでもダメだ。お泊りだけは避けたい。 最近の私は『CielBlue(シエル・ブルー)』の香水の香りに包まれて、ただでさえ理性崩壊気味なのだ。これ上は焼き切れる。勘弁してください。「……分かりました。タクシー会社に電話してみます。何とか1台くらい捕まえて……」 私は心を鬼にして言った。情に流されてはいけない。 彼はアイドル、私はモブ。スキャンダルになって足を引っ張ったらどうするのか。「やだ」 彼は即座に拒否した。「帰らない」「レンくん!」「絶対帰らない」 彼はクッションから這い出すと、ノソノソと玄関へ向かった。そして玄関の冷たいタイルの上に、ペタリと座り込んだ。「ここから一歩も動かない」 彼は膝を抱えて宣言した。「もし無理やり追い出すなら、ドアの外で待ってる。雨に打たれて、風邪引いて、明日の仕事に穴を開けてやる」「なっ……!」 最低だ! 国宝級アイドルを人質(自分自身)に取って脅迫してくるなんて! 彼が雨の中でずぶ濡れになって震えている姿を想像するだけで、罪悪感で死にそうになる。私が彼を追い出して風邪を引かせたなんてことになったら、国家反逆罪で逮捕されかねない。「私が部屋から出ていって、レンくんがここにいるのは……」「ダメに決まってる」 私は玄関に立ち尽くし、彼を見下ろした。彼は不貞腐れた顔で、でも確信犯的に「お前なら見捨てないだろ?」という瞳で私を見上げている。(……くっ、負けた) 勝てるわけがなかった。最初から勝負にすらなっていなかったのだ。「……分かりました」 私は大きくため息をついた。「
ある夜のこと。 窓ガラスがガタガタと悲鳴を上げている。外は猛烈な暴風雨だ。天気予報では「数十年に一度の大型台風」と報じられていたけれど、まさかこれほどとは。「……うわ」 私はスマホの画面を見て、思わず声を上げた。案の定、都内の電車は全線運転見合わせになっている。「レンくん、電車止まっちゃいましたよ。これ、帰れますか?」 私はリビングを振り返った。そこには、いつものようにパステルイエローの「モチ犬スウェット」を着た巨大な塊が、ビーズクッションに沈み込んでいた。「無理」 彼はテレビのニュース画面をチラリと見て、即答した。「タクシーも捕まらないだろ、これじゃ」「配車アプリ見てみますね」「見なくていい。どうせ無理だ」 彼はスマホを取り出すと、画面をタップするフリをしてすぐに閉じた。絶対に呼ぶ気がない。というか、そもそも帰る気がない顔をしている。「困ります! 明日は平日ですよ? お仕事あるでしょう?」「明日の午前中はオフだ。午後入りだから問題ない」「そういう問題じゃなくて……!」 スキャンダル以前に物理的に危険だ。こんな嵐の日に、国民的アイドルを安アパートから放り出すわけにはいかない。 でも泊めるわけにもいかない。一線を超えてしまう。ファンとしての最後の砦が崩壊する。 もう崩壊しているのかもしれないけど、最後の砦というものがあるのだ……! 私がひたすら悩んでいると、突然。 ドカァァァ――ン!! すぐ近くに雷が落ちたような、凄まじい轟音が響いた。部屋の明かりが一瞬、チカッと瞬く。「ひっ」 私が肩をすくめたのと同時に、ビーズクッションの上の黄色い塊が、ビクンと大きく跳ねた。「……っ!」 見ればレンくんが両手で耳を塞ぎ、小さく震えている。モチ犬のプリントがくしゃっと歪んでいる。「&h
優先どころか。自分の身体に「私の匂い」をまとわせて、何食わぬ顔で外を歩くことに、一種の背徳的な喜びを感じているようにすら見える。「俺だけのものだっていう、マーキングみたいで悪くない」 彼がボソリと呟いた言葉に、心臓が跳ね上がった。 逆だ。私が彼を独占しているんじゃない。彼が、私の匂いを「所有の証」として身につけているのだ。「……分かりました。変えませんけど、気をつけてくださいね」「ん。善処する」 彼は満足げに笑うと、私の首筋にちゅっ、と音を立てて口づけた。◇ 帰り際、彼は玄関で靴を履くと、ポケットから何かを取り出した。 透明なクリスタルの小瓶だった。中には、夜空を溶かしたようなブルーの液体が入っている。 コトッ。 彼はそれを、私の家の狭い下駄箱の上に置いた。「……え、これ」 見間違うはずがない。彼が愛用している高級香水、『CielBlue』だ。一本数万円はする、彼のトレードマークである。 実は私も持っている。今でも未開封のあの香水は、レンくん神棚(まだ片付けていない)に祭られているのだ。 未開封なのはお高い香水がもったいなすぎて開けられなかったからでもある。「忘れ物ですか?」「違う。やる」「へ?」「ここに置いておく」 彼は当然のように言った。「俺はお前の匂いをつけていく。……だからお前は、俺がいない時、この匂いをつけてろ」「ええっ!?」 匂いの交換。それは指輪の交換よりも濃密で、逃げ場のない契約に思えた。私がこれを身にまとえば、どこにいても彼の気配に包まれることになる。 そして彼は私の柔軟剤の匂いをまとって、煌びやかなステージに立つ。 共犯。そんな言葉が頭をよぎった。「……浮気すんなよ」 彼はいたずらっぽく、でも目は笑っ
ハルは気づいているが、この場での追及はしない。 ここにはメイク係など複数の他人がいる。トップアイドルであるレンのスキャンダルが表沙汰になれば、どれだけの騒ぎになることか。 セナは何も言わずに眼鏡の位置を直しただけだったが、その沈黙こそが「後で裏を取る」という無言の宣告に見えた。 レンは小さく息を吐き、自分の手首から漂う微かな甘い香りを、誰にも気づかれないように吸い込んだ。◇【紬視点】「ぶっ!!」 楽屋でのやり取りを聞かされて、私は盛大にお茶を吹き出した。慌ててティッシュで口元とテーブルを拭く。「……汚ねぇな」 目の前で焼き魚(サバの塩焼き)をきれいに食べていたレンくんが、呆れたように私を見る。 いや、あなたのせいですから! というか、お魚きれいに食べるなあ。さすが育ちがいい。 そうじゃなくて。「だ、大丈夫だったんですか!? 遊馬くんって、あの遊馬ハルくんですよね!? バラエティ番組やクイズ番組とかで『勘が鋭すぎる』って有名な!」「ああ。あいつ鼻だけは犬並みだからな」「呑気なこと言ってる場合じゃないですよ! バレたら終わりですよ!」 私は青ざめて立ち上がった。アイドルの衣装から一般家庭の柔軟剤の匂い。匂わせどころか直撃弾ではないか。 しかも相手はあの『Noix』のメンバー。リーダーの葛城セナさんに至っては、笑顔で人を追い詰めるドS策士という噂(ファンの間での解釈)がある。殺される。物理的にも社会的にも消される。「やっぱり、私の家の柔軟剤なんて安物だし、匂いがつきやすいから……」 ドラッグストアの特売で買った、フローラルの香りの柔軟剤である。私にとっては日常の匂いでも、彼にとってはスキャンダルの火種でしかない。「変えます! 明日、高い無香料の洗剤買ってきます!それなら文句な……」「変えるな」 低い声がさえぎった。
【三人称視点】 都内某所のテレビ局、タレントの楽屋。本番前の張り詰めた空気の中、アイドルグループ『Noix(ノア)』のメンバー3人が揃っていた。「レンくんさぁ」 メイク直しの最中、鏡越しに声をかけてきたのは、派手なオレンジ髪の青年だった。Noixのパフォーマーであり、最年少の遊馬(あすま)ハルだ。「ん?」 ソファでスマホをいじっていたレンが、顔を上げずに応える。「今日、なんか機嫌いいね? お肌ツヤツヤじゃん。エステ変えた?」 ハルは人懐っこい笑顔で近づいてくると、猫のようにレンの首元に鼻を寄せた。「近い」 レンが嫌そうに身を引くが、ハルはお構いなしだ。クンクン、と鼻を鳴らした瞬間。ハルの動きがピタリと止まった。「あれ?」 ハルの目が、スッと細められる。「香水、変えた? いつもの『CielBlue(シエル・ブルー)』じゃない」「……つけてるぞ」「ううん、違う。香水の奥に、別の匂いが混ざってる」 ハルはレンのパーカーの袖口を摘み、再度匂いを嗅いだ。「なんか、スーパーで売ってる柔軟剤みたいな、甘い匂いがする」 その一言で、楽屋の空気が凍りついた。『Noix』は「高貴で孤高の王」をコンセプトにしている。 その絶対的センターである綺更津レンから、生活感丸出しの「スーパーの柔軟剤」の匂いがする。それはつまりプライベートで「そういう匂いのする生活」をしている誰かと、深く関わっていることを意味する。 部屋の隅で台本を読んでいたリーダー、葛城(かつらぎ)セナの手が止まった。縁なしの眼鏡の奥で、知的な瞳が冷たく光る。無言の圧力がレンの背中に突き刺さった。 しかしレンは動じなかった。スマホから視線を外さず、涼しい顔で言い放つ。「ああ、衣装係が新しい洗剤でも試したんじゃないか?知らねぇけど」 完璧なポーカーフェイス。微塵の動揺も見せないその態度に、ハルは数秒間、レンの顔をじっと見つめ――。
食後。温かいほうじ茶を飲みながら、まったりとした時間が流れる。テレビからはバラエティ番組の笑い声が聞こえているが、BGM代わりだ。空気が柔らかくなった今なら、日常に戻れると思った。ファンと、推し。飼い主と、迷い猫。心地よい距離感に。 しかし。彼が唐突に切り出した。「……なぁ」 湯呑みを置くコトッという音が、妙に大きく響く。「紬」ドキリとした。心臓が、早鐘を打つ。 これまでも無意識だったり緊急時だったりに、名前を呼ばれたことはあった。でもこんなに静かな、慈しむようなトーンで呼ばれたのは初めてだ。 世界中のファンが渇望する「国宝級ボイス」で、私の名前が丁寧に紡がれる。その破壊力たるや、核弾頭クラスだ。「は、はいっ!?」 挙動不審な声が出てしまう。「なんでそんな驚くんだよ。……名前だろ」 彼は不思議そうに首を傾げた。「だって、レンくんに名前を呼ばれるなんて、畏れ多くて……私はただのモブですし……」 卑下しているわけではない。事実だ。私は彼の物語における、名もなき通行人Aに過ぎないのだから。「……はぁ」 彼は呆れたようにため息をついた。身を乗り出してくる。長い指が伸びてきて、私の頬に触れた。「誰がモブだ」 低い声が、鼓膜を震わせる。「俺の名前を呼んでいいのは、世界でお前だけなのに」 えっ。思考が停止する。世界で私だけ? そんな馬鹿な。ファンだって、メンバーだって呼んでいるのに。 でも彼の瞳は真剣そのものだった。そこにあるのは、「綺更津レン」というアイドルに向けられる呼称ではなく、ただの一人の男としての名前を呼んでほしいという、切実な願い。「だから俺も、お前を呼ぶ」 彼の親指が、私の唇の端を優しくなぞる。「……紬」 再度、名前を呼







