Masuk私がきっぱりと言うと、彼は怪訝そうに眉をひそめた。スプーンを置いて不機嫌そうに黙り込む。部屋の空気がピリリと張り詰めた。
「……座れ」
低い声だった。テレビの向こうの甘い声ではない、怒りすら感じる声に背筋が凍る。
「飯が不味くなる」
絶対王者の命令だ。逆らったら命はない(私が色んな意味で死ぬので比喩ではない)。
私は「ひっ」と小さな悲鳴を上げて、渋々自分の分のオムライスを持ってテーブルに着いた。ただし正面ではない。斜め向かいの一番遠い角だ。「……いただきます」
彼が無言で食べ始めたのを確認し、私も急いでスプーンを動かした。味なんて分からない。ただひたすら、早くこの「食事」というイベントを消化することだけに集中した。
◇「ごちそうさまでした」食後、彼は定位置のクッションに戻って、ふぅ、と息を吐いた。
いつもならここでお茶を出して、テレビを見ながら今日あったことを話したりする時間だ。でも今日は違う。私はすぐに食器を下げ、キッチンへ逃げ込んだ。スポンジに洗剤をつける。泡立てていると、背後から気配がした。
「……紬」
呼ばれても振り向かない。
「洗い物は後でいいだろ」
「すぐに片付けないと、汚れが落ちにくくなりますから」
「こっち来て」
背後で彼が、自分の太ももをトントンと叩く音がした。
昨日の膝枕の再現、あるいは、マッサージを求めているのかもしれない。 声は甘えた色を帯びている。いつもの私なら、デレデレしながら飛んでいっていただろう。でも私は動かなかった。皿を洗う手を止めず、背中越しに告げる。
「いけません」
「……あ?」
「そういうのは、ファンサービスでやるべきことじゃありません。安売りは良くないです」
「安売りって……お前にしてるんだから
彼は慣れた手つきでパッケージを開け、歯磨き粉をつける。ロケなどでホテルに泊まる機会が多いからだろう。 狭い洗面台の前には2人並ぶスペースはない。彼は鏡の前で、私はリビングで歯磨きをすることにした。 シャカシャカ、という音が重なる。鏡の中にはモチ犬スウェット姿の彼と、後ろの方に部屋着姿の私が映っている。生活感の塊のような光景だ。まるで、新婚夫婦の夜のひとときみたいだ。(……いやいやいや!) 私はブンブンと首を振って妄想を振り払った。 口をゆすぎ、顔を洗う。次いで彼がバシャバシャと豪快に顔を洗った。 タオルで顔を拭くと、スッピンの彼はさらに幼く無防備に見えた。それでいて前髪が濡れて張り付いているのが、妙に色っぽい。「さっぱりした」 彼は能天気に言った。この状況の重大さを分かっていないのは、彼だけだ。◇ さて、最大の問題はここからだ。 私の部屋は手狭な1DKである。6畳のリビングと5畳の部屋があるだけ。 5畳の部屋は私のシングルベットが置いてあって、それだけでいっぱいになっている。 お客様用の布団などない。あるのは毛布と季節用の布団だけだ。「私は床で寝ますので、レンくんはベッドを使ってください」 私は毛布を引っ張り出しながら言った。推しを床に寝かせるわけにはいかない。「やだ」 彼はベッドに腰掛け、スプリングの感触を確かめながら言った。「床は痛い」「ですから、レンくんがベッドで……」「お前が床で寝るのもやだ。風邪引く」「じゃあどうしろと……まさか、私がベッドでレンくんが床?」「それもやだ。俺が痛い」 わがまますぎる。 じゃあどうするんですか、と詰め寄ろうとした時。 彼はポン、とベッドの空いているスペースを叩いた。「一緒に寝ればいいだろ」「…&hellip
でも、もし本当だったら? 本当にトラウマがあって、こんな嵐の夜に一人で高級マンションの広い部屋にいるのが怖かったら? いや、それでもダメだ。お泊りだけは避けたい。 最近の私は『CielBlue(シエル・ブルー)』の香水の香りに包まれて、ただでさえ理性崩壊気味なのだ。これ上は焼き切れる。勘弁してください。「……分かりました。タクシー会社に電話してみます。何とか1台くらい捕まえて……」 私は心を鬼にして言った。情に流されてはいけない。 彼はアイドル、私はモブ。スキャンダルになって足を引っ張ったらどうするのか。「やだ」 彼は即座に拒否した。「帰らない」「レンくん!」「絶対帰らない」 彼はクッションから這い出すと、ノソノソと玄関へ向かった。そして玄関の冷たいタイルの上に、ペタリと座り込んだ。「ここから一歩も動かない」 彼は膝を抱えて宣言した。「もし無理やり追い出すなら、ドアの外で待ってる。雨に打たれて、風邪引いて、明日の仕事に穴を開けてやる」「なっ……!」 最低だ! 国宝級アイドルを人質(自分自身)に取って脅迫してくるなんて! 彼が雨の中でずぶ濡れになって震えている姿を想像するだけで、罪悪感で死にそうになる。私が彼を追い出して風邪を引かせたなんてことになったら、国家反逆罪で逮捕されかねない。「私が部屋から出ていって、レンくんがここにいるのは……」「ダメに決まってる」 私は玄関に立ち尽くし、彼を見下ろした。彼は不貞腐れた顔で、でも確信犯的に「お前なら見捨てないだろ?」という瞳で私を見上げている。(……くっ、負けた) 勝てるわけがなかった。最初から勝負にすらなっていなかったのだ。「……分かりました」 私は大きくため息をついた。「
ある夜のこと。 窓ガラスがガタガタと悲鳴を上げている。外は猛烈な暴風雨だ。天気予報では「数十年に一度の大型台風」と報じられていたけれど、まさかこれほどとは。「……うわ」 私はスマホの画面を見て、思わず声を上げた。案の定、都内の電車は全線運転見合わせになっている。「レンくん、電車止まっちゃいましたよ。これ、帰れますか?」 私はリビングを振り返った。そこには、いつものようにパステルイエローの「モチ犬スウェット」を着た巨大な塊が、ビーズクッションに沈み込んでいた。「無理」 彼はテレビのニュース画面をチラリと見て、即答した。「タクシーも捕まらないだろ、これじゃ」「配車アプリ見てみますね」「見なくていい。どうせ無理だ」 彼はスマホを取り出すと、画面をタップするフリをしてすぐに閉じた。絶対に呼ぶ気がない。というか、そもそも帰る気がない顔をしている。「困ります! 明日は平日ですよ? お仕事あるでしょう?」「明日の午前中はオフだ。午後入りだから問題ない」「そういう問題じゃなくて……!」 スキャンダル以前に物理的に危険だ。こんな嵐の日に、国民的アイドルを安アパートから放り出すわけにはいかない。 でも泊めるわけにもいかない。一線を超えてしまう。ファンとしての最後の砦が崩壊する。 もう崩壊しているのかもしれないけど、最後の砦というものがあるのだ……! 私がひたすら悩んでいると、突然。 ドカァァァ――ン!! すぐ近くに雷が落ちたような、凄まじい轟音が響いた。部屋の明かりが一瞬、チカッと瞬く。「ひっ」 私が肩をすくめたのと同時に、ビーズクッションの上の黄色い塊が、ビクンと大きく跳ねた。「……っ!」 見ればレンくんが両手で耳を塞ぎ、小さく震えている。モチ犬のプリントがくしゃっと歪んでいる。「&h
優先どころか。自分の身体に「私の匂い」をまとわせて、何食わぬ顔で外を歩くことに、一種の背徳的な喜びを感じているようにすら見える。「俺だけのものだっていう、マーキングみたいで悪くない」 彼がボソリと呟いた言葉に、心臓が跳ね上がった。 逆だ。私が彼を独占しているんじゃない。彼が、私の匂いを「所有の証」として身につけているのだ。「……分かりました。変えませんけど、気をつけてくださいね」「ん。善処する」 彼は満足げに笑うと、私の首筋にちゅっ、と音を立てて口づけた。◇ 帰り際、彼は玄関で靴を履くと、ポケットから何かを取り出した。 透明なクリスタルの小瓶だった。中には、夜空を溶かしたようなブルーの液体が入っている。 コトッ。 彼はそれを、私の家の狭い下駄箱の上に置いた。「……え、これ」 見間違うはずがない。彼が愛用している高級香水、『CielBlue』だ。一本数万円はする、彼のトレードマークである。 実は私も持っている。今でも未開封のあの香水は、レンくん神棚(まだ片付けていない)に祭られているのだ。 未開封なのはお高い香水がもったいなすぎて開けられなかったからでもある。「忘れ物ですか?」「違う。やる」「へ?」「ここに置いておく」 彼は当然のように言った。「俺はお前の匂いをつけていく。……だからお前は、俺がいない時、この匂いをつけてろ」「ええっ!?」 匂いの交換。それは指輪の交換よりも濃密で、逃げ場のない契約に思えた。私がこれを身にまとえば、どこにいても彼の気配に包まれることになる。 そして彼は私の柔軟剤の匂いをまとって、煌びやかなステージに立つ。 共犯。そんな言葉が頭をよぎった。「……浮気すんなよ」 彼はいたずらっぽく、でも目は笑っ
ハルは気づいているが、この場での追及はしない。 ここにはメイク係など複数の他人がいる。トップアイドルであるレンのスキャンダルが表沙汰になれば、どれだけの騒ぎになることか。 セナは何も言わずに眼鏡の位置を直しただけだったが、その沈黙こそが「後で裏を取る」という無言の宣告に見えた。 レンは小さく息を吐き、自分の手首から漂う微かな甘い香りを、誰にも気づかれないように吸い込んだ。◇【紬視点】「ぶっ!!」 楽屋でのやり取りを聞かされて、私は盛大にお茶を吹き出した。慌ててティッシュで口元とテーブルを拭く。「……汚ねぇな」 目の前で焼き魚(サバの塩焼き)をきれいに食べていたレンくんが、呆れたように私を見る。 いや、あなたのせいですから! というか、お魚きれいに食べるなあ。さすが育ちがいい。 そうじゃなくて。「だ、大丈夫だったんですか!? 遊馬くんって、あの遊馬ハルくんですよね!? バラエティ番組やクイズ番組とかで『勘が鋭すぎる』って有名な!」「ああ。あいつ鼻だけは犬並みだからな」「呑気なこと言ってる場合じゃないですよ! バレたら終わりですよ!」 私は青ざめて立ち上がった。アイドルの衣装から一般家庭の柔軟剤の匂い。匂わせどころか直撃弾ではないか。 しかも相手はあの『Noix』のメンバー。リーダーの葛城セナさんに至っては、笑顔で人を追い詰めるドS策士という噂(ファンの間での解釈)がある。殺される。物理的にも社会的にも消される。「やっぱり、私の家の柔軟剤なんて安物だし、匂いがつきやすいから……」 ドラッグストアの特売で買った、フローラルの香りの柔軟剤である。私にとっては日常の匂いでも、彼にとってはスキャンダルの火種でしかない。「変えます! 明日、高い無香料の洗剤買ってきます!それなら文句な……」「変えるな」 低い声がさえぎった。
【三人称視点】 都内某所のテレビ局、タレントの楽屋。本番前の張り詰めた空気の中、アイドルグループ『Noix(ノア)』のメンバー3人が揃っていた。「レンくんさぁ」 メイク直しの最中、鏡越しに声をかけてきたのは、派手なオレンジ髪の青年だった。Noixのパフォーマーであり、最年少の遊馬(あすま)ハルだ。「ん?」 ソファでスマホをいじっていたレンが、顔を上げずに応える。「今日、なんか機嫌いいね? お肌ツヤツヤじゃん。エステ変えた?」 ハルは人懐っこい笑顔で近づいてくると、猫のようにレンの首元に鼻を寄せた。「近い」 レンが嫌そうに身を引くが、ハルはお構いなしだ。クンクン、と鼻を鳴らした瞬間。ハルの動きがピタリと止まった。「あれ?」 ハルの目が、スッと細められる。「香水、変えた? いつもの『CielBlue(シエル・ブルー)』じゃない」「……つけてるぞ」「ううん、違う。香水の奥に、別の匂いが混ざってる」 ハルはレンのパーカーの袖口を摘み、再度匂いを嗅いだ。「なんか、スーパーで売ってる柔軟剤みたいな、甘い匂いがする」 その一言で、楽屋の空気が凍りついた。『Noix』は「高貴で孤高の王」をコンセプトにしている。 その絶対的センターである綺更津レンから、生活感丸出しの「スーパーの柔軟剤」の匂いがする。それはつまりプライベートで「そういう匂いのする生活」をしている誰かと、深く関わっていることを意味する。 部屋の隅で台本を読んでいたリーダー、葛城(かつらぎ)セナの手が止まった。縁なしの眼鏡の奥で、知的な瞳が冷たく光る。無言の圧力がレンの背中に突き刺さった。 しかしレンは動じなかった。スマホから視線を外さず、涼しい顔で言い放つ。「ああ、衣装係が新しい洗剤でも試したんじゃないか?知らねぇけど」 完璧なポーカーフェイス。微塵の動揺も見せないその態度に、ハルは数秒間、レンの顔をじっと見つめ――。