スマホが震えた。
画面には、フォローしていないアカウントの投稿が表示されている。
リンク先には宏樹の作品名。添えられた言葉は、短く、切実だった。「この小説、ずっと言葉にできなかった“痛み”を代弁してくれた」
拓海は寝室のベッドにもぐり込んでいた。
足元では、宏樹が文庫を片手にソファにもたれている。リビングからの明かりが扉の隙間から洩れ、天井にぼんやりとした筋を描いていた。再び通知が鳴る。
「“To the one who stayed”って誰のこと?」
「これ、実話でしょ?」「泣きながら読んだ。明日、誰かに優しくなれる気がする」ハッシュタグが増えていく。感想の投稿が、雪崩のように流れてくる。
目が追いつかないほどのスピードで、言葉が、誰かの胸の中から溢れている。拓海はそっと身を起こした。
リビングに向かうと、宏樹がスマホを手にしていた。画面にはトレンド一覧。「#ここに居続けた君へ」が、3位に浮上している。ふたりの目が合う。
どちらも、何も言わなかった。その沈黙は、ただの驚きでも、安堵でもなかった。
何かが、思っていたよりもずっと遠くに届いてしまったという、言いようのない実感だった。宏樹は黙ってスマホを置いた。
そして、テーブルの上のノートパソコンを開いた。検索窓に、タイトルを打ち込む。エッセイ系のニュースサイトが取り上げていた。
「“誰か”を失ったすべての人へ。静かな傑作」「実話かどうかより、これは“本当のこと”だ」レビュー欄には、こんな言葉もあった。
「夫に読ませた。泣いてた」
「読後、久しぶりに母に電話した」「名前が出ないからこそ、誰のことでもある。これは、私の物語だった」拓海は、ただ立ち尽くしていた。
自分たちのことが、今、匿名のまま世界を駆けている。
名夜の帳が落ちる頃、マンションの窓から洩れる灯りが、柔らかく部屋の輪郭を照らしていた。リビングには夕食の名残りと、どこか少し疲れの混ざった空気が漂っている。食後の皿を流しに運んだ拓海が、ふと振り返って言った。「そういえばさ…俺、まだこの家の鍵、持ってなかったんだよな」宏樹は手にしていたコーヒーカップをそっとテーブルに戻した。「…え?ずっと?」「うん。なんかタイミング逃しちゃって。別に困ったことなかったし、宏樹さんが家にいることが多かったから」拓海はそう言って、肩をすくめるように笑った。軽やかに聞こえるその声の奥に、どこか悪戯っぽさと、わずかな照れが混じっていた。宏樹はしばらく言葉を探し、それから呟くように言った。「…でも、それってけっこう、不便だっただろ」「そうでもなかったよ。ほら、いざとなれば近所で時間つぶせるし。ていうか、なんとなくさ」拓海はキッチンの棚からマグを取り出し、コーヒーを注ぎながら続けた。「鍵がなくても帰ってきていいって、思ってたんだよね。たぶん勝手に」それは無邪気とも思える言葉だった。でも、宏樹の胸には、小さな熱が灯ったような感覚が広がっていた。勝手に、という響きには、確信にも似た信頼があった。拓海はずっと、この部屋を“帰ってきていい場所”だと思っていた。その無意識の認識が、言葉よりも深く、宏樹の心に届いた。食卓の引き出しを開け、取り出した銀色の鍵を手のひらにのせて、宏樹は立ち上がる。「遅くなったけど」拓海が視線を向ける。宏樹は無言で鍵を差し出した。「もう、複製じゃなくて“こっちが本物”でいいよ」拓海は受け取った鍵をしばらく見つめてから、目を細めて笑った。「ありがとう」それ以上、何も言わなかった。ただ、手にしたその鍵を、ポケットではなく、胸元のシャツの上からぎゅっと握るようにした。その仕草が、返事の代わりだった。部屋の隅には、未だ片づけきれて
玄関を開けた瞬間、土間に漂う干し椎茸の香りがふたりを迎えた。拓海の祖母、澄江が、戸口まで出てきて小さく笑う。エプロンの裾を手で拭いながら、「まあ、よく来たねえ」と、目尻を細めた。宏樹は深く頭を下げ、「ご無沙汰しています」と声をかけた。澄江はその言葉に軽く頷き、拓海の背をぽんと叩くと、「はいはい、立ってないで、まずお仏壇に」と言った。縁側から差し込む光が、廊下を淡く照らしていた。木の床は夏の名残を残してあたたかく、風鈴がかすかに鳴っている。仏間に入ると、飾られた花の香りと線香の煙がふわりと漂ってきた。宏樹は静かに手を合わせ、隣で拓海も同じように目を閉じる。澄江が背後からそっと言った。「文学賞、おめでとうね。美幸も喜んでるわよ、きっと」その声に、宏樹の胸が小さく揺れた。拓海の祖母は、あの日以来ずっと変わらずに、静かに彼らを見守ってくれていた。それは、宏樹にとってどこか救いだった。手を合わせ終えると、澄江は台所へと向かいながら、「さ、ふたりとも。ごはんできてるよ。座って待ってて」と、軽やかに言った。ちゃぶ台の上には、炊きたての白米と味噌汁、煮物、焼き魚、季節の漬物。どれも丁寧に作られた家庭の味だった。宏樹は箸を持ったまま、思わず言った。「…すごい、懐かしい匂いです」「そりゃあ、十年前と同じメニューだもの」澄江がそう言って笑い、拓海が小さく吹き出す。「高校の夏休みに来たとき、ずっとこれだったんだよ。宏樹さんには話してたっけ?」「聞いた気がする。でも、こうして食べるのは初めてだな」しばらくの間、食卓には静かな箸の音と、湯気の香りだけが満ちた。食べながら、澄江はふと話題を切り出した。「小説の中の“彼”、拓海なのね?」拓海は少し箸を止めたが、すぐに頷いた。宏樹も少しだけ背筋を伸ばす。「…書かせてもらいました。名
墓地の入口に足を踏み入れた瞬間、午後の風がそっと頬を撫でた。空は高く、どこまでも澄んでいて、秋の陽が緩やかに墓石を照らしている。周囲には誰もおらず、ただ風に揺れる草と、遠くから届く鳥の声だけが耳を満たした。拓海は数歩後ろを歩いていた。音を立てないように、慎重な足取りでついてくる気配が、背中にやわらかく届いてくる。宏樹は花束を抱えながら、ひとつの墓前で立ち止まる。その名が刻まれた文字に、思わず呼吸を詰めるような感覚が胸を走った。けれどもう、痛みではなかった。輪郭のはっきりした哀しみが、長い時間の中で角を失い、今は静かな感謝として胸に残っている。宏樹は手を伸ばし、墓前の花立てに、白と淡いピンクの花をそっと差し込んだ。花の香りが風に乗り、ふたりのあいだを通り抜けていく。合掌をすると、拓海も自然と隣に並んだ。二人とも、何も言わなかった。言葉よりも大切なものが、そこには流れていた。指先がふと触れ合い、拓海の手が、そっと宏樹の手の甲に重ねられた。そのぬくもりは驚くほど穏やかで、かつてここに訪れたときの、ひどく冷えた自分を思い出す。拓海はそのときの自分を知っている。名前を呼ばれても応じられなかったあの頃の、自分の中の暗がりまで。なのに今、こうして隣にいてくれる。宏樹は目を閉じた。まぶたの裏で、美幸の笑顔が揺れた。あのまっすぐな眼差し、肩越しに微笑む横顔、そして誰よりも強く、自分を信じてくれた声。たぶん、ずっと許されていたのだと思う。自分が自分を許せなかっただけで。拓海がそっと手を離す。宏樹も手を下ろした。ふたりは並んで墓前に立ち、しばらく何も言わずにいた。風が木々を揺らし、葉の擦れる音が、まるで返事のように響いた。帰ろうかと歩き出したとき、拓海がぽつりと言った。「…今なら、言えるかも。ここに来てよかったって」宏樹は歩みを止めて、拓海の横顔を見つめた。彼の視線はまっすぐ前を向いていて、けれ
壇上のマイクが少しだけ軋んだ。宏樹は深く息を吸い、目の前に広がる光景を静かに見渡した。正装を纏った編集者や作家たちの間に、拓海の姿がある。壇上のライトが眩しくて、表情までは見えない。けれど、そこにいることだけはわかる。「…本日は、このような場に立たせていただき、ありがとうございます」ゆっくりと、言葉を選ぶように語り出す。「この作品は、フィクションでありながら、私にとっては記録のようなものでもあります」言葉にするたび、胸の奥で何かが熱を持つ。書き終えたはずの物語が、今この瞬間、もう一度、彼自身を試しているようだった。「誰かに伝えたいというよりも、残しておきたいと思いました。書かずにはいられなかったと言ったほうが、正確かもしれません」客席は静かだった。誰一人として、咳払いすらない。音を立てるのがはばかられるほど、彼の声だけが空間を支配していた。「いくつもの後悔があります。けれど、今ここに立って、はっきりと言えることがあるとすれば、それは…」言葉が、少しだけつかえた。視線を正面から外し、そっとマイクの前に立ち直る。「それは、“ここに、居続けた君へ”という、この作品に捧げた献辞です」静寂が、数秒間続いた。拍手はまだ始まらない。その言葉の意味を、誰もが測っているようだった。けれど、宏樹は知っていた。ただ一人、それを正確に受け取ってくれた人がいるということを。客席のなか、拓海はその言葉を耳で聞いたわけではなかった。鼓膜よりも先に、胸の奥が反応した。献辞の一文を、彼は知っていた。けれど、それがあの場で再び口にされたことで、なにかが決定的に変わったように思えた。宏樹の声は、誰の名前も呼ばなかった。けれど、それは確かに“自分”だった。過去のすべてと、現在のすべてが、静かに肯定された気がした。拍手が起こった。
スマホが震えた。画面には、フォローしていないアカウントの投稿が表示されている。リンク先には宏樹の作品名。添えられた言葉は、短く、切実だった。「この小説、ずっと言葉にできなかった“痛み”を代弁してくれた」拓海は寝室のベッドにもぐり込んでいた。足元では、宏樹が文庫を片手にソファにもたれている。リビングからの明かりが扉の隙間から洩れ、天井にぼんやりとした筋を描いていた。再び通知が鳴る。「“To the one who stayed”って誰のこと?」「これ、実話でしょ?」「泣きながら読んだ。明日、誰かに優しくなれる気がする」ハッシュタグが増えていく。感想の投稿が、雪崩のように流れてくる。目が追いつかないほどのスピードで、言葉が、誰かの胸の中から溢れている。拓海はそっと身を起こした。リビングに向かうと、宏樹がスマホを手にしていた。画面にはトレンド一覧。「#ここに居続けた君へ」が、3位に浮上している。ふたりの目が合う。どちらも、何も言わなかった。その沈黙は、ただの驚きでも、安堵でもなかった。何かが、思っていたよりもずっと遠くに届いてしまったという、言いようのない実感だった。宏樹は黙ってスマホを置いた。そして、テーブルの上のノートパソコンを開いた。検索窓に、タイトルを打ち込む。エッセイ系のニュースサイトが取り上げていた。「“誰か”を失ったすべての人へ。静かな傑作」「実話かどうかより、これは“本当のこと”だ」レビュー欄には、こんな言葉もあった。「夫に読ませた。泣いてた」「読後、久しぶりに母に電話した」「名前が出ないからこそ、誰のことでもある。これは、私の物語だった」拓海は、ただ立ち尽くしていた。自分たちのことが、今、匿名のまま世界を駆けている。名
書店の店頭に並ぶ前から、宏樹の新作は少しずつ“話題”になっていた。タイトルは簡潔で意味深だった。『ここに、居続けた君へ』発表と同時に、出版社の公式アカウントがジャケットとあらすじを公開した。そしてすぐに、SNSのタイムラインがざわついた。「これって…例の作家の私小説?」「過去作との繋がりがあるって聞いたけど、まさか恋愛要素も?」「“君”って誰?」夜、拓海はスマホを伏せて深く息を吐いた。通知音が何度も鳴る。タグ付きの投稿に「読者の考察」と「好奇の目」が入り混じっていた。何も間違っていないのに、ざわざわとした緊張が胸の奥に広がる。心の内側が、誰かに見られているような感覚。知っている者だけが、行間を正確に読める内容。自分が“君”であることを、誰かが気づくかもしれない。気づかないかもしれない。そのどちらも、落ち着かなかった。翌日、出社してすぐ、編集部の空気が微かに変わっていることに気づいた。「拓海くん、お疲れさま」笑顔で声をかける同僚の視線が、どこか泳いでいる。何人かはあえて目を合わせようとせず、逆にひとりの後輩はやけに親しげに話しかけてきた。昼休み、会議室の端でスマホを見ていた先輩が、そっと目を上げて拓海と目が合う。その直後、画面を伏せた。職場では、何も言われない。けれど、すべてが雄弁だった。ふと、手元のノートに落ちる自分の影が、どこか“別の誰か”のように見えた。宏樹と暮らしてきた日々を、ただ“事実”として思い出すたび、心がくしゃりと波打った。自分の過去が、物語の一部として公になり、消費される。あの時間が切り取られ、読まれ、解釈される。それでも、自分は読んだ。あの原稿のすべてを。だから知っている。宏樹は、どこま