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呼吸の交差点

作者: 中岡 始
last update 最終更新日: 2025-08-31 16:20:07

夜のリビングは、蛍光灯の照明が天井から柔らかく降りて、テレビの音だけが空間を満たしていた。

ニュース番組の中継映像に、拓海はほとんど注意を向けていない。ただ画面を眺めているだけだ。宏樹は、そのすぐ隣にいる。

ソファの端に腰を下ろしたとき、少しだけ距離を空けたはずだった。けれど、何気なく腕を伸ばした宏樹が欠伸をした拍子に、肩と肩がかすかに触れた。

それは、本当に一瞬だった。

…なのに、内側の鼓動だけが派手に跳ねた。

生ぬるい熱が、触れたところから広がる。

宏樹は気にしていないらしく、手を頭の後ろに組んでソファに身体を預けた。息を吐く音が、いつもより近い。

拓海は動けなかった。逃げるように距離を取ることも、逆に気づかぬふりでそのままにすることもできなかった。

身体は正面を向いたまま、意識だけが隣に集中していく。

香水のような香りはない。けれど、洗い立てのシャツと、微かにタバコの匂いが混ざった空気が、拓海の鼻先をくすぐった。

あの煙の匂いは、ずっと嫌いだったはずなのに、今はなぜか呼吸の邪魔にならなかった。

「…あれ、見たっけ?去年の豪雨の映像だって」

宏樹が少し声を上げる。拓海は遅れて画面に目を向けた。

テレビには茶色く濁った川が暴れるように流れていて、住民が避難している様子が映っていた。

「ああ。…たしか、母さんが、この近くの川も危ないとか言って、非常食詰めてた」

言葉が口をついて出たのは無意識だった。

その一言で、宏樹の身体がわずかに揺れる。

「そうだったな」

「……」

返事は短く、だがどこか懐かしむような調子だった。

沈黙が戻る。

そのまま時間が止まったように、ふたりは並んで座り続ける。

肌と肌が直接触れているわけではない。でも、ほんの少しの体温と、ほんの少しの空気の揺れが、確かにそこにあった。

拓海は息をひそめた。鼓動が早くなるのを誤魔化すように、ゆっくりと息を吸い、また吐いた。

心の奥に渦巻いていた感
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