共有

家事と体温

作者: 中岡 始
last update 最終更新日: 2025-08-31 16:19:14

リビングの窓から差し込む陽射しは、床の上に淡い格子を描いていた。風は穏やかで、レースカーテンがときおりふわりと舞い上がる。遠くで洗濯機が回る音がして、家の中に柔らかな律動が生まれている。

拓海は黙って畳んだ洗濯物を膝に乗せ、一枚ずつ丁寧に手を動かしていた。白いタオル、濃紺の靴下、母が生きていた頃と同じ畳み方を、そのまま守っている。誰に教わったわけでもない。ただ、そうしなければならない気がしているだけだった。

そして、手の中にTシャツが落ちてきた。色褪せたチャコールグレー。首元が少しだけ緩んでいて、袖口にはうっすらと擦り切れが見える。

宏樹のTシャツだ。

いつも家の中で着ている、あの何気ない服。目を閉じれば、無精髭のある顎と、眠たげな目と一緒に思い出せる。拓海はその布を持ったまま、しばらく手を止めた。

指先に触れる感触は、柔らかく、長く使い込まれたもの特有のぬくもりを含んでいた。乾いているはずなのに、どこかまだ湿ったような温度が残っていて、それが指の腹からじんわりと伝わってくる。

ほんのりと香るのは、洗剤の香りに混じった、宏樹の匂い。タバコと、インクと、コーヒーと、たまに夜更かしをした朝の空気。それがすべて一つになって、この布に染み込んでいる。

拓海はそのTシャツをもう一度、膝の上に広げた。

何をしているのか、自分でもわからなかった。ただ、畳もうとする手が動かなかった。布のしわを指でなぞるたびに、心の奥で何かがゆっくりと音を立てる。

意識しているわけじゃない。ただ、無意識のままに目が止まり、指が止まり、呼吸の音がやけに大きく響いていることに気づく。

…なんで、こんなに長く触っているんだろう。

ふと我に返って、拓海は自分の手を引っ込めた。まるで熱を持ったものに触れていたかのように、指先が少しだけ震える。

膝の上のTシャツを、急いで畳もうとする。でも、どうしても折り目がうまく揃わない。布が指先をすべって、二度、三度とやり直す。

昼下がりの静けさの中で、カーテンがまた風に揺れる。その音が、やけにうるさく聞こえた。

拓海は膝の上の洗濯物をまとめて立ち上がった。何も

この本を無料で読み続ける
コードをスキャンしてアプリをダウンロード
ロックされたチャプター

最新チャプター

  • 境界線の温度~ “家族”という名の仮面を剥いで、あなたに触れたい    紙の匂い、午後の窓辺

    壁際に置かれた扇風機が、ぎい、とかすかに音を立てて首を振る。窓の向こうでは蝉の声が薄く重なり合い、午後の陽差しがレースのカーテン越しに床を照らしていた。拓海は、編集部の隅にある仮設のデスクに腰を下ろし、目の前に積まれたゲラ刷りの束を指先で整えた。インクの香りと、長く使い込まれた紙の匂いが混じって鼻をくすぐる。手のひらの下で、わずかにざらついた紙の質感が指に馴染んでいく。インターン初日。あらかじめ知らされていたとおり、彼の仕事は校閲補助と、編集者の作業の手伝いだった。だがそれでも、彼の心は妙な熱を帯びていた。この空間には、かつて誰かが書いた言葉が、今日も息づいている…そんな気配が、部屋中に染みついている気がした。通された編集部の一角には、壁際に古い本棚が並び、その中に雑誌のバックナンバーや参考資料、そして著者からの献本が所狭しと詰まっていた。時折、編集者が背表紙を指でなぞりながら引き抜き、ぱらぱらとめくる音が静かに響いた。拓海はその音に、ふと記憶を引き戻された。宏樹の書斎でも、似たような音があった。夜遅く、ページをめくる音。万年筆を試すカリカリという擦過音。そして、沈黙。思えば、自分の生活の中で「音」が印象に残る場所は、いつも本と一緒だった。「山科くん、こっち手伝ってもらえる?」声をかけてきたのは、若手の編集者だった。彼のデスクには校了間近の原稿が山のように積まれており、その隣で拓海は、段ボールから取り出された新刊のゲラを仕分ける。紙の重さは、意外とある。数十枚ずつまとめながら、拓海は思った。ここにある一枚一枚に、誰かの時間が詰まっている。それを壊さないように整え、送り出すのが、この仕事なのかもしれない。「それ、◯◯先生の新作の初校。見てみる?」編集者が無造作に差し出してきた束の表紙に、どこかで見覚えのある名前があった。それは、宏樹がかつて寄稿していた雑誌の常連作家だった。拓海は受け取った束を胸に抱えながら、内心で緊張していた。この部屋に、かつて宏樹も出入りしていたのかもしれない。同じ廊下を歩き、同じ椅子に座ったかもしれない。そこには、もう誰も何も言わないし、跡が残っているわけでもない。ただ、空気の

  • 境界線の温度~ “家族”という名の仮面を剥いで、あなたに触れたい    “読者”としての手紙

    パソコンの画面に、静かに新しいメールの通知が現れた。青白い未明の光が、窓の隙間から差し込む。宏樹は椅子にもたれかかり、背中を伸ばすように息を吐いた。長い夜だった。原稿はまだ、白いままだった。コーヒーの香りもすでに冷め、マグカップの底には褐色のしみがうっすらと残っている。通知音がなければ、今日も無言のまま朝を迎えるところだった。受信トレイには見慣れない名前があった。「山科拓海」その文字列を見た瞬間、指先がわずかに震えた。迷うようにマウスが止まる。けれど、手は自然とクリックしていた。件名はない。ただ本文が淡々と綴られていた。> こんばんは。お久しぶりです。> 大学に入りました。文学部です。毎日、授業とバイトでけっこう大変ですが、ちゃんと通えています。> ひとり暮らしもまだ慣れません。スクロールするたびに、宏樹の中に残っていた拓海の姿が、少しずつ上書きされていくようだった。あの細い背中、ぶっきらぼうな目線。沈黙の多い日々。それでも、時折見せた素直な笑顔の断片が、行間からこぼれていた。> 編集の仕事に興味を持ちました。> 最初はただ、文章が好きだと思っていたけど、最近は、それを「読む側」にいたいと感じています。そこまで読んだとき、宏樹はゆっくりと手を止めた。息を整えるように目を閉じる。部屋は静かすぎるほど静かで、彼の耳には自分の鼓動だけが鳴っていた。> あなたの小説を、俺は読んでいました。> 台所に置きっぱなしだった草稿を、こっそり読んでいたこともあります。> どこかで、自分に向けられていたような気がしたから。苦笑が漏れた。気づかれていたのか、と。あの夜も、この夜も。拓海が背を向けたと思っていた時間に、実は彼はずっと読んでいたのだ。> 読んでいるあいだだけ、自分がひとりじゃないような気がしました。> あなたの小説が、俺を救いました。> あれがなかったら、今の俺はいなかったかもしれません。画面の前で、宏樹はまばたきをひ

  • 境界線の温度~ “家族”という名の仮面を剥いで、あなたに触れたい    この言葉が、背中を押した

    窓の外では、風がカーテンをゆるやかに揺らしていた。深夜の静けさが部屋全体に降り積もるように広がり、壁の時計の針が小さな音を刻むたびに、その静けさはより深く身体に染み込んでいった。拓海は机に向かっていた。講義のノートを広げたまま、しかし視線はずっとノートの上ではなく、開いたままのメール作成画面に向けられている。キーボードの上に置いた指先は動かず、ただその場に凍りついたように止まっていた。画面の白い余白が、言葉のなさを際立たせていた。最初に打ち込んだ「お元気ですか」の五文字は、もう何度も書いては消され、上書きされてきた。慧の言葉が、まだ胸の奥でくすぶっていた。「伝えなきゃ、届かないままだよ」そう言った彼の目は真っ直ぐだった。ふざけた口調で言ったくせに、あの時だけは、ちゃんと自分を見ていた。冗談でも励ましでもなく、ただひとつの真実として。拓海は背もたれに身体を預け、天井を見上げた。白い天井に浮かぶシミのひとつをぼんやりと眺めながら、言葉とはなんだろうと考える。言えばいいだけなのに、それが一番むずかしい。感謝も、後悔も、憧れも。すべてを一言で済ませることなどできないとわかっているからこそ、手が止まる。だけど、言わなければ、本当に何も伝わらない。深く息を吐き、再び画面に目を戻す。キーボードに手を乗せる。「こんばんは。お久しぶりです」指がゆっくりと動き出す。ぎこちなく、慎重に、でも確かに。「大学に入って、毎日忙しくしています。授業もバイトも、思ったより大変です。でも、なんとかやっています」書きながら、心の奥に広がる微かな熱を感じる。書けば書くほど、自分の中にあるものが浮かび上がってくる。あの日、祖母の家で一人、窓を見つめていた自分。あの時の沈黙も、こうして言葉にすれば、少しずつ意味になる。一度、手を止めた。画面にはいくつもの文が並んでいる。どれも平易で、取り立てて特別な言葉ではない。それでも、拓海にとっては、それらすべてが、今の自分の精一杯だった。目を閉じて、ゆっくりと息を吸い込む。胸の中がざわめいていた。もう少しだけ書

  • 境界線の温度~ “家族”という名の仮面を剥いで、あなたに触れたい    バイト終わりの空

    街の空はすっかり夜に染まっていた。黒に溶け込むような雲が薄く流れ、その下でコンビニの明かりや車のテールランプが、ぼんやりとした赤や白を灯している。拓海は、制服のシャツをパーカーに着替えたまま、コンビニの脇にある自販機の前で立ち止まっていた。バイトが終わった直後、通勤客に混じって最寄り駅からここまで歩いてきたが、どうにも足が止まったのだった。財布の中身を確認する。小銭入れには、百円玉が二枚と十円玉が数枚。自販機のボタンの明かりを眺めながら、どれを押そうかと迷ってはみるものの、何を飲んでも空腹は埋まらないと知っていた。「…別に、家に帰れば、何かある」そう自分に言い聞かせるように呟いたが、足はまだ動かない。お腹が空いているというより、何かが足りない。温かいものでも、甘いものでもない、別の何かが。冷たい風が首筋を撫でた。春だというのに、夜の空気は容赦なく肌を刺す。駅前のざわめきは遠ざかり、この場所はひどく静かだった。その時、スマホが震えた。ズボンのポケットから取り出すと、画面には慧の名前があった。「今日もおつかれー。バイト死んだ? 生きてる?笑」短い文と、軽い調子。でも、そのひと言が、どうしようもなく温かく感じられた。指が勝手に動いた。「生きてる。ギリで」そう返して、ポケットにスマホを戻そうとしたが、ほんの数秒後、また震えが返ってきた。「えらい。てか、明日ゼミ前に学食寄るけど、一緒にどう?」その一文を読んだ瞬間、拓海の体から少しずつ力が抜けていった。今、自分がこの場にいることを、誰かが知ってくれている。それだけのことが、こんなにも心に沁みるなんて。「行く」短い返事を送り、スマホをしまう。手のひらに残ったぬくもりのような感覚が、指先から腕へ、肩へと広がっていく気がした。もう一度自販機に目を向けると、先ほどまで無機質だったボタンの灯りが、ほんの少しだけ柔らかく見えた。拓海は百円玉を一枚、自販機に差し込み、ホットミルクティーを選んだ。缶を手に取ると、掌に広がる熱

  • 境界線の温度~ “家族”という名の仮面を剥いで、あなたに触れたい    開かれた扉の向こうで

    ガラス窓越しに斜陽が射し込むカフェの片隅、テーブルには教科書とノートが広げられていた。騒がしすぎず、静かすぎもしない、大学近くにしてはちょうどいい喧騒。その中に、慧の声が軽やかに混じっていた。「この課題、要は“読者の視点”ってことだよね。作者の意図とかより、どう読ませるか。編集志望的にはさ、そこ重要じゃん」そう言って、慧はコーヒーに口をつけた。その指先には、昨日見たのと同じレインボーカラーのピンバッジが光っている。拓海は頷きながらも、気持ちはうまく集中できていなかった。慧の言葉ひとつひとつが、当たり前のように空気に溶け込む。その自然さが、時に拓海の中の「無言」を鋭く照らした。「…拓海はどう思う?」不意に振られた問いに、拓海はペンを止めて顔を上げた。「俺は…まだ、うまく言葉にできない。自分が、読者だったときの感覚を思い出そうとすると…どうしても、主観ばっかりになってしまって」「主観、いいじゃん。そういうのが読者だし。ていうかさ…」慧はスプーンをくるくる回しながら、どこか遠くを見るように呟いた。「俺、小学生のときに初めて“好きな子”に手紙書いたんだよね。で、それが男子だったの」拓海の手が止まった。心臓が、一瞬だけ跳ねたように感じた。「そのときは、恋って言葉すら知らなかったけど。ああ、自分はきっと“普通”じゃないんだなって、初めて思った。で、そのあと誰にも言えなくて…でも今は、別に隠してない。好きって言葉は、自分を守るものじゃなくて、自分を知ってもらうためにあるんだって気づいたから」慧の声は変わらなかった。淡々と、けれど芯のある響きで、言葉を紡ぐ。拓海は視線を落とし、目の前のノートの罫線をじっと見つめた。心がざわついていた。慧が言ったことに驚いたのではない。驚くべきなのは、自分が驚いたことに、だった。――自分は、どこまでを他人に見せている?好き嫌いも、恐れも、憧れも、すべて、無難に包み込んで

  • 境界線の温度~ “家族”という名の仮面を剥いで、あなたに触れたい    出会いは校舎の影で

    講義が終わると、教室を出る学生たちの足音と、ざわついた声が廊下に溢れ出した。拓海は、肩にかけたトートバッグの紐を握りしめながら、そっと人波を避けて歩く。春とはいえ、午後の日差しは強く、ガラス張りの廊下に反射する光が、彼の目を細めさせた。大学に入ってまだ数日。講義の進みは早く、誰が誰だかも把握しきれないまま、ただ時間だけが過ぎていく。誰かと会話を交わすわけでもなく、名前を呼ばれることもなく、拓海は透明な存在としてその場にいた。ふと、校舎の影の落ちる植え込みのそばで、誰かが声をかけてきた。「君、文学部? てか、出版志望でしょ?」その言葉に、拓海は思わず足を止めた。見上げると、背の高い青年が、飄々とした笑みを浮かべてこちらを見ている。黒縁のメガネ。ゆるく巻いた髪。胸元には、レインボーカラーのピンバッジが小さく光っていた。「えっと…どうして…」「だって、ガイダンスでの自己紹介で言ってたじゃん。拓海くんでしょ。俺、小日向慧。慧って書いて、けい。よろしく」いとも簡単に距離を詰めてくるその空気に、拓海は少し圧倒された。「…覚えてたんだ」「わりと、覚えてるタイプ。ていうか、俺も編集志望なのよ。ほら、同志」そう言って、慧は握手を求めるように手を差し出してきた。拓海は戸惑いながらも、その手をそっと握る。指先が、ほんのりと温かい。会ったばかりの相手とは思えないほど、慧の立ち居振る舞いには、揺るがない自信があった。「このあと、空いてる? 学食ってもう激混みだし、近くのカフェ、穴場知ってるんだよね。良かったら、行かない?」拓海は一瞬、断る言葉を探しかけた。だが、それよりも早く、別の感情が胸に浮かんだ。…話してみたい。慧の、軽やかさの裏にあるもの。自分を堂々と示すその強さ。さっきまでの無色の時間が、淡く色づき始めていた。「…うん。行く」その答えに、慧は満足そうに笑った。校舎を出ると、春風が二人の間を通り抜ける。通学路には、新入生らしいグ

続きを読む
無料で面白い小説を探して読んでみましょう
GoodNovel アプリで人気小説に無料で!お好きな本をダウンロードして、いつでもどこでも読みましょう!
アプリで無料で本を読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status