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模範解答

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-08-22 16:15:30

昼休みのチャイムが鳴った瞬間、教室の空気が緩む。

誰かが椅子を引く音がして、誰かが弁当袋を机に叩きつけるように置いた。笑い声、缶のプルトップを引く乾いた音、スマホの画面を擦る指の音。全部が同時に押し寄せてきて、教室の壁がわずかに震えたように思えた。

拓海は教科書を閉じ、無言で鞄の中に入れた。机の上を整えてから、ペットボトルの水を一口飲む。それだけで、昼休みをどう過ごすかの姿勢が見えてしまう。誰ともつるまない。誰とも関わらない。最初から、そう決めていたわけじゃない。でも気づけば、こういう立ち位置になっていた。

斜め前の席で、女子二人がこそこそと話しているのが聞こえた。名前までは知らない。たぶん、同じクラスになってから一度も会話をしたことがない。

「やばくない?あの顔であの成績って」

「しかもクール系だし…ってか、人間味ないよね、あの人」

声ははっきりとは届かない。けれど、感じ取るには十分だった。言葉の意味より、温度でわかる。誉め言葉のように聞こえて、そうじゃないことを。

窓際の自分の席。薄曇りの空が、カーテン越しにぼんやり光を落とす。気温は快適だったはずなのに、なぜか腕の内側にじっとり汗がにじんでいた。

周囲からの評価は常に高い。通知表には欠点のない数値が並び、定期テストの順位もほとんど一桁。顔つきについても何かと話題になり、モデルとか俳優とか、現実味のない単語まで飛び交うこともある。

けれど、そういった言葉に一度も心が動いたことはない。

教師に呼び止められたのは、その日の放課後だった。廊下の端、窓のない進路指導室の前で、学年主任の男が手を振った。

「山科、今ちょっといいか?」

「はい」

拓海は立ち止まり、ドアの向こうへ促されるままに入った。

主任は、自分の机の前に座らせると、プリントを一枚差し出してきた。進学に関するアンケート。志望校、学部、希望職種。空欄の多いその紙に、主任は「優等生が苦手とするやつだよな」と冗談めかして言った。

「山科、お前は何でもできるっていうか、模範的すぎてちょっと心配になるんだよな」

拓海は答えなかった。主任の言葉には、よくある評価の裏返しが含まれている。「問題がなさすぎる」という不安。問題を起こす生徒は目につく。けれど、何も起こさない生徒は…見過ごされる。

「先生としては、今のままで大丈夫だと思ってる。ただ、ちゃんと“誰かと話してるか”ってのも、大事なことなんだよ」

その言葉が、妙に引っかかった。

教室に戻ると、すでに夕方の空気が漂っていた。机に残しておいたペットボトルを取り、窓の外を一瞬だけ見る。赤くもなく、青くもない空が、何かの中途半端な感情のように広がっていた。

その日の最後の授業は現代文だった。教師が読み上げる文章の声に耳を傾けながら、拓海は自分の視線が黒板ではなく、斜め後ろの窓に向いていることに気づいた。言葉は耳に入っている。けれど、内容が頭に入ってこない。

生きている実感がない。そう思ったのは、初めてではなかった。

誰とも深く関わらないことが、楽だと感じた時期もある。でもそれは、心を守るための仮面だったのかもしれない。仮面が肌に貼りついて、取れなくなった今、内側に何があるのか、自分でもわからなかった。

授業が終わると、誰かが「山科ー、ノート貸して」と言ってきた。

「…どうぞ」

何ページかを開いた状態で手渡すと、その相手は軽く頭を下げて「助かる」と笑った。

その笑顔が、ただの一枚の紙のやり取りでしかないことに、なぜか胸がざわついた。

誰かと関わるには、理由が必要なのか。感情は、意味があって初めて認識されるのか。

拓海はノートを貸した指先を見つめた。無意識に触れた距離に、何の手応えもなかったことが、妙にこたえた。

無関心だったはずの自分が、今こうして何かを探そうとしている。

そのこと自体が、怖かった。

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