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境界線の温度~ “家族”という名の仮面を剥いで、あなたに触れたい
境界線の温度~ “家族”という名の仮面を剥いで、あなたに触れたい
Author: 中岡 始

透明な朝食

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-08-21 16:14:20

朝の光は柔らかく、カーテン越しに淡く差し込んでいた。まだ春の気配を引きずる風が、キッチンの窓を小さく震わせる。湯気をあげる味噌汁の鍋が、静かな空間の中でかすかな存在感を主張している。

拓海は淡々と手を動かしていた。卵を溶いて、火を弱め、フライパンの上で優しく転がす。焼き魚は昨夜の残りで、温め直すだけだった。そうやって、朝食はいつも通りに整っていく。誰のためとも言えないその手際が、まるで毎朝の儀式のようだった。

「…いただきます」

不意に後ろから聞こえた声に、拓海は振り返らなかった。聞き慣れた、けれどどこか間の抜けたような、眠たげな声。山科宏樹。母の再婚相手であり、拓海にとっては戸籍上の“父”になる男。

三十三歳。在宅の小説家。髪は無造作に伸びかけ、Tシャツの首元は少しだけよれている。だけど顔立ちは整っていて、街中で見かければ確実に二度見される。最近は目の下に少し隈があって、タバコの匂いをまとっていることが多い。

拓海は炊きたてのごはんをよそい、宏樹の席の前に置いた。会話はない。礼も、言わない。いや、宏樹は言っているのかもしれない。ただ、記憶に残らない程度の声で。

拓海も何も返さず、自分の分を皿に盛る。食卓に向かい合って座る。二人で暮らし始めてから、一年が経つ。

母が亡くなったのは、ちょうどその一年前。病気だった。倒れるのは突然だったけれど、思い返せば兆しはあった。疲れた表情、微熱、食欲の減退、病院の予約。拓海は、何も気づかなかったわけじゃない。でも、何も言えなかった。

そして、今。母のいない家に、拓海と宏樹だけが残されている。

宏樹は朝からぼんやりとしていた。茶碗を持ったまま視線を落とし、ごはんを口に運ぶだけ。何かを考えているふうでも、何かを感じているふうでもなかった。ただ、生きて、そこにいるというだけの姿だった。

「今日、学校?」

ようやく出た声は、思った以上に掠れていた。

「うん」

短く答えたが、目は合わせなかった。宏樹もそれ以上は何も言わない。どうでもいい会話ができないのは、近くにいるからだろうか。それとも、血がつながっていないからだろうか。

母がいた頃は、もっと賑やかだった。朝の食卓はパンの焼ける匂いがして、テレビがついていて、母の笑い声がしていた。小さなことで叱られて、文句を言って、でも最後には笑っていた。

今は、湯気の立つ味噌汁と、静かな咀嚼音だけがこの部屋を満たしている。

拓海は、箸を置いた。

「ごちそうさま」

それだけ言って、椅子を引いた。宏樹は軽く目を上げたようだったが、声はかけなかった。

流しに食器を持っていき、水を出す。温かさを持った水が手のひらを撫でる。でも、その温度すらも拓海には他人事のように思えた。

ふと、振り返ると、宏樹は煙草を取り出していた。口にくわえ、火を点ける仕草が妙に丁寧だった。

「…食事中はやめてって言ったろ」

声に刺を立てたつもりはなかった。でも、宏樹の手が一瞬止まり、煙草を外に持っていく気配もなく、口だけでこう言った。

「もう、食べ終わったじゃん」

拓海はそれ以上何も言わず、布巾で食器の水を拭いた。

宏樹の煙草の匂いは、初めてのときは嫌いだった。けれど最近は、どこか安心する。それがまた、気にくわなかった。母がいなくなっても、身体は何かの代わりを求めている。きっとその程度の存在なのだ、自分は。

「いってきます」

玄関に立ち、靴を履きながら小さく告げた声に、奥から返事はなかった。

拓海はドアを閉める直前、そっと振り返った。キッチンの奥、光の中に溶けるようにして宏樹が座っている。壁にかかった時計の針だけが、時間が進んでいることを告げていた。

閉じた扉の向こうに、音はなかった。春の空気が頬に触れても、何も感じなかった。

この家は、まだ母がいなくなったことを受け入れていない。いや、きっとどちらも、それを許していないのだ。

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