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酔いと沈黙

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-08-31 16:21:23

時計の針が一時をまわった頃、家の鍵が回る音がした。重く、やや手間取るような金属音。拓海はソファに座ったまま、音の出どころに視線を向けた。テレビは消してあった。窓の外は雨。しとしとと降るその音が、部屋の静けさをかすかに濡らしていた。

ガチャリと扉が開き、数秒の間を置いて、宏樹が姿を現す。黒いコートの肩に雨粒が浮き、髪もやや濡れていた。ネクタイは少し緩んでいて、シャツの第一ボタンが外れている。玄関に踏み入れた彼は、ゆっくりと靴を脱ごうとして、バランスを崩しかけた。

「…っと」

腰をかがめたまま、少し笑いながら体勢を整える。普段ならあり得ないほどの緩慢な動作だった。

そのまま顔を上げ、拓海の姿に気づくと、小さく目を見開いた。

「拓海か…起きてたんだな」

少し遅れて、声が続いた。

「ただいま」

その言葉がやけに間延びして聞こえた。酔っている。明らかに。酒の匂いが距離を越えてこちらに届く。鼻の奥に鋭く、けれどどこか甘さも混じった、アルコール特有のにおい。

拓海は口を開きかけた。

「…」

けれど、声が喉元で止まった。

ただいま、と言われて返すべき言葉は頭に浮かんでいたはずだった。それでも、言葉にならなかった。身体が先に反応してしまっていた。視線が宏樹のシャツの襟元に落ちる。濡れた髪が額に張りつき、頬はいつもより少し赤い。目の奥がとろんとしていて、焦点が定まらない。

見慣れたはずのその人が、どこか違って見えた。

酔いが、彼の纏う空気を柔らかくしすぎていた。いつものような張りつめた静けさも、孤独も、今日はその輪郭が曖昧だった。誰かの“父親”であり、“作家”である宏樹の鎧が、酒によって、ほんのわずか緩んでいた。

宏樹は脱いだ靴を乱雑に揃え、ふらふらと廊下に足を踏み出す。その動きも、足音も、どこか子供じみていた。体温が少し高そうな肌。ふらつく足取り。無防備、という言葉が頭をよぎる。

「飲み会、長引いてな…」

ぽつりと言いながら、宏樹は壁にもたれ

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