LOGIN親友に毒を飲まされた令嬢は、終わったと思った次の瞬間、一月前に戻っていた。 毒を飲まずに生き残るには――そのための作戦を考える。 婚約者と親友を信じていた愚かな女は死に、全てを疑ってかかる「わたくし」になる。 そう決意したのだが、果たして……。
View More目の前に
湯気がゆらりと立ちのぼる。
本来なら、優雅なひと時を演出するはずの光景だった。
馴染みのメイドが、卵白を泡立てて甘くしたメランジェを、わたくしのカーヒーにだけたっぷりと乗せる。
いつもなら、親友のカタリンのカップにも同じように乗せるのに――
ここはカタリンの屋敷だ。
貴族学園の帰りに、どちらかの家へ寄ることは珍しくない。
友人同士、気の置けない会話を楽しむのが常だった。
けれど、わたくしはカップに手を伸ばさない。
わたくしはこの飲み物を口にした。
そして――倒れた。
「どうしたの? いつもは遠慮せずに飲むじゃない」
「ほら。早くしないとメランジェが溶けてしまうわ」
甘く、可愛くお
以前のわたくしなら、親友の勧めを断ることなどなかった。
けれど、今は違う。
「どうして、そんなに飲ませたいの?」
「え?」
カタリンの笑顔が固まった。
「喉が渇いたろうと思って――」
「そう?」
わたくしはカップではなく、カタリンの顔を見る。
「それなら、あなたも喉が渇いているでしょう?」
「……私?」
「ええ」
わたくしは微笑んだ。
「親友ですもの。一緒に飲みましょう?」
前回のわたくしは、なんの疑いもなく飲んでしまった。
そのことを思い出すだけで、口の中に苦い味が
「……そうね、飲むわ」
そう言って、カタリンはわたくしの顔から目を離さずに、自分のカップに口をつけた。
彼女は一口だけ飲むと、にこりと笑って見せる。
「ほら、なんともないでしょう?」
「……変な言い草ね。却って怪しく聞こえるわ」
わたくしは彼女のカップに視線を落とした。
カーヒーは同じモカポットから注がれた。
だとすると、毒が入っているのはメランジェの方――
「し、失礼ね!」
カタリンが焦ったように言い返した。
「それなら、わたくしのカップからも一口召し上がってくださる?」
わたくしは自分のカップを彼女の方へ静かに差し出した。
「無理にブラックを飲む必要はありませんもの」
わたくしの前に置かれたカップをソーサーごと持ち上げて、彼女の目の前に突きつけた。
「ど、どうして……」
「さぁ? あなたの協力者が寝返ったのかもしれないわね」
カタリンがメイドを睨みつけた。
――そう、その女が共犯者なのね。
貴族学園で出会い、仲良くして三年目に入ったところだった。
その間、あなたは何度もわたくしのことを笑っていたのでしょうね。
婚約者を寝取られても気付かない、間抜けな女だと。
「誤解しないでね? イロナの話で盛り上がっていただけよ」
そんなカタリンの言葉を信じていた、愚かな女ですもの。
もう、他愛もない話で笑い合った、あの日々は戻ってこない。
受け取ってもらえなかったカップを、わたくしはテーブルに戻す。
わずかな未練が手元を狂わせ、ガチャリと無作法な音を立てた。
カタリンは、失敗を悟り青ざめている。
詫びの言葉も言い訳も、カタリンの口から聞くことはできなかった。
「残念だわ」
誰に言うともなく、わたくしはつぶやいた。
反省してくれたら……そんな甘さは、今、捨てなければならない。
わたくしは意を決して、胸元から笛を取り出し唇に当てた。
ピィー!
それを合図に、馬車に隠れていた魔術師と騎士たちが応接室に駆け込んでくる。
制止しようと駆け寄った使用人たちは、気絶させられるか魔術で拘束されるかして、あっという間に無力化された。
カタリンもメイドも、すぐに取り押えられた。
その間に、魔術師はティーカップへ分析の呪文をかけていく。
「あ~あ。致死量の毒だね」
魔術師の口ぶりは、少し
カタリンの顔が、悔しそうに歪む。
「それで?」
わたくしは拘束されたカタリンから少し距離を置き、問いかけた。
「あなたの単独犯? それともわたくしの婚約者と共謀しているの?」
「私たちは愛し合っているのよ! あなたと違ってね」
カタリンは叫ぶように言い返した。
「それなら、わたくしとの婚約が解消されるまで待つべきだったわね。こんな姑息な真似をするのではなく……」
わざと皮肉を込めて言う。
妊娠してしまったから、カタリンは悠長なことを言っていられなくなったのだ。
ヘーデルヴァーリ伯爵夫人は、新興男爵家の娘など認めないだろう。
それでも、莫大な資産を武器に、説得する道はあったはずだ。
あるいは、今、抱えている妊娠という醜聞を逆手にとって、結婚を認めさせることができたかもしれない。
けれど、そんなことを今さら言っても仕方ない。
「馬鹿な子ね」
わたくしはカタリンに見えるように、微笑んだ。
「すぐに楽な方に流される。大変でもきちんと筋を通して、話し合えば良かったのに」
わたくしだって、結婚前から私生児がいるような男は願い下げだわ。
「な……なに、それ……」
カタリンが目を丸くしている。
わたくしが言っている内容は正論なのだけど、彼女の中にはその選択肢がなかったのかしらね。
ふと、あることを思いつく。
メランジェが入ったボウルから、一
わざわざ、毒に反応しないスプーンを用意したのね。
わたくしは拘束されているカタリンの
そして、その額にメランジェをぼたりと垂らしてみた。
「うぎゃああああ!」
応接室に、耳をつんざくような悲鳴が響き渡った。
「熱い? 痛い? ……飲んだ時は、熱くて喉が焼けて苦しかったわ」
わたくしはカタリンにだけ聞こえるような小声で、教えてあげた。彼女は痛みでそれどころではなく、耳に入っていないようだけれど。
これで少しは
前回のわたくしは、何一つ疑うことなく毒を口にし、あっけなく命を落とした。
死んだはずなのに、目を覚ますと一か月前へ戻っていた。
あまりにも生々しい悪夢を見たのかと思った。
けれど、記憶どおりの出来事が毎日のように繰り返されて、ついにこの日を迎えた。
そして今、この光景が、夢ではなかったことを証明している。
やり遂げたという思いと、虚しさが胸に去来した。
カタリンは、立派な体格の騎士ですら押さえ込むのに苦労するほど暴れている。
「これ、肌からも吸収されますの?」
「まあ、少しはね。でも、粘膜から摂取したときほど危険じゃないよ。命に別状はない。少し跡が残るくらいかな」
魔術師は
「あら、そうなの」
額の真ん中に垂らしてしまったわ。
でも、謝るつもりはない。
殺される苦しみに比べたら、ずいぶん軽いものだと思わない?
前回、わたくしは最終的に呼吸ができなくなり、死んだのだと思う。
涙だけでなく、鼻水やよだれまで垂らし、見るも無惨な姿で這いつくばった記憶がある。
苦しくて、悔しくて……悲しかった。
一月前へ巻き戻ってから注意深く周囲を見れば、怪しいことはいくらでもあった。
前回、気がつかなかったのが不思議なほどに。
わたくしは、自分が邪魔者として憎まれているとも知らず、のんきに笑って過ごしていた。
なんて愚かだったのだろう。
そう思い知らされるたび、自己嫌悪で胸が張り裂けそうになった。
***
あまりの騒ぎに、この屋敷の主が姿を現わした。カタリンの父親だ。
「ここで何をしているんだね」
一代で巨万の富を築いた男爵だけあって、さすがの胆力だ。
「毒殺未遂の現行犯として、お嬢様を拘束しています」
騎士がきっぱりと言い切った。
「君たちの勘違いじゃないかね?」
男爵は驚く様子もない。
――娘が何をしようとしていたか、知っているのかもしれない。
「勘違いかどうかは、お話をうかがってから判断します。お嬢様はお預かりします」
騎士が歩き出すと、男爵はその腕をがしりと掴んだ。
「勘違いだろう、そうでなければ……」
その瞬間、父親の体から
猿ぐつわをされたカタリンは、くぐもった声で嬉しそうにうめいた。
「はい。父親も現行犯逮捕だね」
魔術師はさらりと宣言し、魔術で生み出した紐を男爵へと走らせる。紐は生き物のように男爵へ巻きつき、あっという間に拘束してしまった。
「精神に干渉する禁術か。このブレスレットは魔道具だね。どこで入手したのか、正直に白状してもらうよ」
魔術師が空へ向かって信号弾を放つと、屋敷の外で待機していた増援の騎士たちが入ってきた。
「……ご令嬢の妄想じゃなかったのか」
そんな誰かのつぶやきが耳に入る。半信半疑でも、来てくれたことに感謝しよう。
わたくしは騎士たちとともに騎士団の詰め所へ向かい、事件の経緯についての調書に協力した。
時が巻き戻っていることを隠して話すのは、なかなか大変だ。考えすぎて、頭が痛くなりそうだ。
その後、騎士団の馬車で屋敷まで送ってもらう。夕食の時間には間に合うとほっとした。
***
家に着いて、カタリンの屋敷に馬車を置いてきたことを思い出した。明日にでも取りに行かなければ――そう考えるだけで気が重くなる。
出迎えてくれた執事にそれを話すと、御者は状況を判断してすでに帰ってきているという。
安心したところに、追加の情報があった。
「ヘーデルヴァーリ伯爵令息がお待ちです」
「え、なぜ?」
カタリンと親密な関係になってから、理由をつけて我が家を避けていたというのに。
「もうすぐ夕食の時間なのに、まだいらっしゃるの?」
約束もなく晩餐の時間まで居座るなど、無作法にも程がある。
仕方なく応接室へ入ると、マールトンはソファから腰を浮かせた。
「無事だったんだね」
心から心配していたかのような口ぶりだった。
「何がでしょう?」
疲れきっているせいか、この男が元凶だと思っているからか。
自分でも驚くほど冷たい声が出た。
「だから、彼女の誘いには乗るなと言っただろう? 本当に仕方のない子だなぁ」
そう言って、彼は懐から小瓶を取り出す。
「解毒薬だ。ほら」
……この人は、カタリンが凶行に及ぼうとしていると知っていて、黙っていたのだ。
「駄目だよ」と口にするだけで、理由を説明することも、カタリンの屋敷に乗り込んで防ぐ様子もなかった。
まったく信用できない男だ。
「『彼女』で通じると思っているなんて……まるで、特別な存在だと言っているようなものね」
つい、嫌味が口をついて出た。
胸に湧いたのは、落胆と怒りだった。
カタリンの殺意を知っていたのに。
わたくしが傷つけられるとわかっていて、ただ成り行きを見ていただけの男。
まだ取り繕えると思っている姿が、ひどく滑稽に映った。今さら……だ。
一度目のわたくしなら、きっと泣いて縋っていたでしょう。
「怖かった」と訴え、「どうして力尽くで止めてくれなかったの?」と彼に弁解の余地を与えた。
けれど、今は違う。
身体と一緒に、心まで一度死んでしまったみたい。
……いいえ。
巻き戻ってからの一か月で、少しずつ心が枯れていったのかもしれないわ。
「何をおっしゃっているのか、わかりかねます」
わたくしは、きっぱりと彼を拒絶した。
気持ち悪い。
この人が何を考えているのか、もう理解したくもない。
そんな嫌悪感が、湧き上がってきた。
「君を助けるために、俺が時間を巻き戻したんだよ!」
マールトンは、まるで素晴らしい偉業を成し遂げたかのように胸を張った。
ああ、そういうこと……。
今、それを切り札として使うのね。
だから何だというの?
恩に着せて、わたくしに何を求めているの。
「……」
無言で立ちすくむわたくしを、マールトンはもどかしそうに見つめている。
人の善性を信じ、言われた言葉を信じていたわたくしは、もういないわ。
いえ、信じたかったのでしょうね。
婚約者からの愛も、親友との友情も。
「俺は君を愛しているんだ」
突然告げられた言葉が、今のわたくしにはとても寒々しく聞こえた。
あの
嬉しそうに鼻の下を伸ばしていたではないか。
鼻にかかるような甘い声。勢いのある新興貴族の令嬢。彼女と陰で親しくなりたいという男性は、少なくなかったようだ。
だからこそ、彼女に選ばれたということが自慢だったのだろう。
けれど、それを堂々と自慢することはできない。ただの浮気だから。
その歪んだ優越感と罪悪感が、この男の心を少しずつ狂わせていったのかもしれない。
いい人ぶらないで、婚約解消してくれればよかったのに。
捨てられた
「あの女が、俺を誘惑してきたんだ」
自分から甘い毒にふらふらと近寄っていったくせに、何を言っているのだろう。
「前回はあいつと結婚してしまった。でも、君を毒殺したと知って、あいつを殴ってやったんだ。
それで、君とやり直すために……」
時間を遡るのも禁術だ。
わたくしは、魔術師に借りた魔導具をこっそり起動した。この男の自白を、記録しておかなければ。
「今、あなた……時間を巻き戻したと言ったの?」
信じられない、という表情を作る。棒読みだったかしら。大根役者と言われるかもしれないが、大切なのは演技力ではない。
この男の口から真実を引き出すことだ。
「そうだ。君も記憶があるんじゃないのか?
最近、少し変わったよ。冷たくなったんじゃないかな」
「――ある方が、教えてくださったんです」
録音しているので、自分にも記憶があるとは言えない。
「マールトン・ヘーデルヴァーリとカタリン・ヴァッシュが、浮気をしていると」
「それは……。少し気が合うだけだと言たじゃないか。信じてくれ」
「それなら、なぜ今日、彼女がわたくしを招くと知っていたのですか?」
言い逃れできないように、追い詰める。
「カタリンと示し合わせていたのではなくて?」
この会話を聞いた人は、二人が共犯だと思うだろう。
マールトンは、カタリンが捕まったことをまだ知らない。
「違う! 前回は知らなかったし、今回は君を止めようとしただろ!」
「理由もおっしゃらず、ただ『行かない方がいい』と言っただけでしょう?」
わたくしは冷静に指摘する。
「それは『止めようとした』うちに入るのかしら?」
「君は……何もわかっていない!」
マールトンは声を荒げた。
こうやって威圧して、わたくしを自分の思い通りにしようとする。
以前のわたくしは、それを心配ゆえの愛情だと思っていた。
でも、愛ではないのだ。
「そうだ。急いで飲まないと」
そう言って強く腕を掴まれたので、もみ合いになった。その拍子に、その解毒薬とやらの瓶が床へ落ち、砕け散る。
本当に毒を飲んでいたのなら、こんな悠長に話などしていられない。あの毒はすぐに症状が出たのだから。
呆れるほど間抜けな男だ。
「なんてことを! 君を死なせたくないんだ」
嘘を吐いているは思えないくらい、迫真の演技だった。
これなら、一回目のわたくしが騙されても仕方ないと感心する。
「マールトン様が錯乱なさっているわ。誰か、助けて!」
わたくしは困惑しているように見せかけて、叫んだ。
控えていた侍女が廊下へ出て、従僕たちが駆けつける。彼らは抵抗するマールトンを取り押えた。
侍女はわたくしの乱れてしまった髪を整えながら、小言を言った。
「『助けてと言うまで黙って見ていろ』などと……肝が冷えました」
わたくしも、マールトンがあんなに必死になるとは予想できなかった。
マールトンは「どうしてわかってくれないんだ」と言いながら、もがいている。
彼の家の馬車を待機場所から屋敷の入り口に移動させ、従僕たちが彼を押し込むように乗せた。
「落ち着いてくださいませ。本日はもうお帰りになったほうがいいと思いますわ」
わたくしはマールトンに形ばかりの気遣いの言葉をかけた。
御者はただならぬ雰囲気を察したようで、急かすように馬を走らせた。
***
それから食堂へ向かい、父に事情を説明した。
「マールトンは、わたくしが毒殺されるはずだったと言いました。カタリンと共謀しているに違いありません」
父はすぐに騎士団へ通報してくれた。禁術を使ったというマールトンの自白を録音した魔道具を、証拠として
カタリンはもう捕まっている。これで婚約者のマールトンも捕まえてもらえば、ひとまず安心できる。
死に戻ってから一月の間に、わたくしから婚約解消を申し出ることも考えた。
それだけで、わたくしが殺される未来は潰せただろう。
けれど、それでは犯人たちの思うつぼになってしまう気がしたのだ。
やり返さなければ、胸の奥にくすぶる怒りや悔しさを、ずっと抱えたままになるのではないだろうか。
被害を受けたわたくしだけが、不快な思いを飲み込んだままなんて……あまりにも理不尽だわ。
婚約を解消されるよりも、犯罪者になることの方が、彼にとっては痛手になるだろう。
わたくしの命を軽んじ、
学園の卒業が近づいてきた。卒業と同時に結婚する同級生たちもいる。楽しそうに未来を語る様子を見ていると、マールトンとの婚約が続いていたら、自分もあの輪の中にいただろうか――そんなことを考えた。いいえ――と、首を振る。もしそうだったとしても、楽しくはなかったと思い直す。カタリンがそばにいたら、何かと邪魔されて、人の輪に入ることさえできなかったに違いない。結婚する予定がないということに、ほんの少し寂しさを覚えただけだ。だから、彼との婚約がなくなった今の方が、ずっと幸せなのだと再確認する。そんな気持ちは口にせず、事件のあとにできた友達と卒業試験の話をしよう。目の前のことに集中すべきだ。一回目には断ち切られてしまったわたくしの未来は、これからも続いていくのだから。そんなある日のことだった。「明日は来客があるから、イロナは外出しないように」夕食の席で、父がそう言った。「どなたがいらっしゃいますの?」普段なら母が尋ねるところだ。だが、何も言わないので、わたくしから父に質問した。「明日になればわかるよ」思わせぶりな口調だった。父の表情を見る限り、悪い話ではなさそうだけれど。そんなふうに呑気に構えていたわたくしは、翌日、花束を抱えて訪ねてきたガーボルを見て、目を丸くすることになった。「嘘……何、それ」「求婚しに来ました」驚いて何も言えずに立ち尽くすわたくしを見て、父が苦笑いした。「おほん。ガーボル・ヴェレシュ卿。そのような紹介は私の役目ですし、今日はあくまで見合いです。いささか気が早いかと」ガーボルは真っ赤になり、父に謝罪した。「え? 卿って……?」話を聞けば、わたくしとお見合いするため、この半年ほどで魔術爵を得ようと頑張っていたという。だから、連絡をする暇もなかったのね。そう知らされて、嬉しいという気持ちはある。けれど、それ以上に、どう表現していいかわからない感情で、ぐちゃぐちゃになっていく。二回目の人生が始まった一か月間は、起こる出来事がある程度予想できた。けれど、それも事件を乗り越える時点まで。その先は、何が起こるのかわたくしにはわからない。みんなと同じように、「まだ見ぬ日々」を生きていく。ただ、それだけだのことなのに。怖くて堪らなかった。そんな気持ちを、事情を知っているガーボルに聞いてほしかった。一緒に悩ん
わたくし、イロナは二年生まではマールトンの婚約者として、いじけた日々を送っていた。カタリンには、いつから憎まれていたのだろう。彼女がマールトンを好きになる前から?。それとも、好きになったから、わたくしが邪魔になったのか。考えても答えは出ない。婚約者だったマールトンに嫌味を言われたり、無視されたりするのは辛かった。何をしても否定されているような気がして、どんどん自信がなくなっていった。いつの間にか、気が緩むと背中を丸めがちになり、廊下を歩くのも足が重くなっていた。教室でわたくしの名前が出ると、何か失敗したのか、また笑われるのかと身構える。そんな中で、カタリンが笑顔で話しかけてくれるのが救いだった。友達って、ありがたいなと心の底から感謝していた。けれど、それもわたくしを貶める前振りのようなものだった。親切そうな言葉で、わたくしに恥をかかせる。カタリンは心配そうな声を出し、他の人たちがクスクス笑う。わたくしは笑って誤魔化すことしかできなかった。自分でも、笑顔がぎこちなくなっていくのを、心の隅で自覚していた。認めたくなくて、見ない振りをしていた気持ちを……。そして、三年生の始めに毒殺未遂。いいえ。前回は、未遂ではなく、そこで人生が終わってしまった。今回は違う。魔術師ガーボルの手を借りて、わたくしは生き残った。殺されるという恐怖と、未来を覆そうとしている緊張感。手探りの中で、一緒に考えてくれる人がいる頼もしさ。あの一か月は、今までの人生で一番濃い時間だった。あの高揚感は、今後の人生でも二度と味わえないかもしれない。危機が去ってしまえば、あの夜も眠れないほどの不安も、いつかは思い出に変わる。……そう思っていたのに、何か物足りない。達成感のあとの虚脱――それもあるだろう。だが、それ以上に、ガーボルと「回避できて良かった」と喜びを分かち合いたい。そう思ってしまった。けれど、事件の直後は、詮索されないために連絡を控えようと言われていた。時を戻すという禁術を行使した魔術師が、ガーボルだと知られてはいけないから。そして、事件から一か月。捜査が一段落した頃に、ちょうど魔道具の具合が悪くなったのでガーボルを呼び出した。応接室に彼が修理道具を抱えて入ってきた瞬間、どれほどほっとしたことか。歓喜の表情を押し殺すことが、難しかっ
イロナが変わった?生意気にも、頼んだ課題をやらなかった。そのせいで、マールトンと一緒に先生に叱られたじゃない。まったく、ふざけてる。それに、マールトンに何か言いたげに、おどおどしていたのも……ちょっと変わった気がする。以前なら、縋るような目で彼を見ていたのに。最近は、なにか違う。まるで「話しかけるな」と言わんばかりの雰囲気を出している。どういうこと?でも、幸いにして気のせいだったみたい。数日で、元のイロナに戻った。資料集めを頼めばやってくれるし、イロナが読みかけていた小説も先に読ませてくれた。私はちゃんと本を返すんだから、問題ないわよね。「友達のいないあなたと、一緒に行動してあげる」そう言って、マールトンと一緒にいられないときだけ、そばにいる。いつも通り。ただ、最近はマールトンの方がイロナと接触しようとしている。不愉快だわ。学園に通うようになって、わかったことがある。学園に通って基本のマナーを教わったところで、貴族社会では通用しない。圧倒的に足りないのだ。何か失敗すれば笑われる。「あら、それは常識以前のことかと思っていたの。言葉が足りなくて、ごめんなさいね。では説明するわ」そんなのはもう、辱めでしかない。貴族たちには暗黙の了解が多すぎる。たまに生粋の令嬢でさえ「それは知りませんでしたわ」なんて言っているのだから、果てしない世界なのだ。どうしたらいいの?そんなことを考えた末に、私はひとつの答えを出した。私に逆らえない人たちを作ればいい。その上に立ってしまえば、少しは息がつける。手段なんか、選んでいられないでしょう?そう考えたら、早々にイロナを確保したのは我ながら英断だった。課題も、資料集めも、わからないことは彼女に聞けばいい。失敗はさりげなく彼女のせいにして。そして、男子を何人か確保した。陰からさりげなく手を貸してくれる人材だ。これで、悠々自適な生活が手に入った。――そう思っていたのに。生理が来ない。最初は、明日には来るかもと思っていた。ちょっと遅れているだけ。それで一週間。あっという間に、二週間。さすがに、本格的にヤバイ気がしてきた。父親が誰なのか、わからない。手駒の中で、一番爵位が高いのがマールトンだ。他の男たちは、彼がいつまでも経ってもイロナと婚約解消してくれないから、遊んだだ
初めてイロナに会ったとき、ぽやんとした子だと思った。学園に入学したものの、成り上がりと色眼鏡で見て、私を見下す貴族ばかり。そんな中で、イロナは見るからに人が良さそうだった。利用できると思って、友達になった。彼女を貴族社会に引き戻そうとする女の子たちは、当然蹴散らした。そのイロナの婚約者が伯爵家の令息だという。いいじゃない。奪い取ってやる。そう思った。そのマールトンと仲良くなってみると、イロナにノートを借りたり、課題を手伝ってもらったりしている。「じゃあ、ついでに私の分も」なんて頼んでみたら、あっさり引き受けてくれた。驚いたわ。お人好しで。イロナをのけ者にして、マールトンと二人で行動することを徐々に増やしていく。堂々と二人で登下校したり、昼食のときに、わざとイロナがわからない話題で盛り上がったり。それだけで、不思議と気分が浮き立った。初めのうちは、イロナに嫌われないよう、さじ加減に注意を払っていた。けれど、鈍い彼女は少しも疑わない。そうすると、気を遣っているのが馬鹿らしくなってくる。そうしたら、「距離が近すぎる」とイロナに注意された。私たちが揃って不機嫌になったら、イロナはすぐに意見を撤回した。そんなことなら最初から言わなければいいのに。「もう、イロナを無視してやったらどう?」「ああ。そうしたら、自分が出しゃばったことを反省するか。大人しくなって、いいかもな」マールトンは、イロナよりも私といる時の方がずっと楽しそだった。「これはいける」――そう確信した。それなのに、彼は手を出してこない。出会ってから二年も経つというのに、貴族はお行儀がいい。年頃の男なのに、妙に堅物だった。男女の仲にさえなってしまえば、あとは簡単。そう思って、最初は少し強引に関係を持った。これで、マールトンは私のもの――そう思った。それなのに、マールトンはいつまで経ってもイロナとの婚約を解消しようとしない。「婚約というのは、そんなに簡単に解消できないんだよ」そう言いながらも、マールトンは私を抱く。一度体を繋げてしまえば、あとは流されやすくなる。マールトンが煮え切らない苛立ちを、ほかの生徒で埋めていくことにした。男たちは「淑女らしくない」と私を批判しながらも、視線は胸に釘付けになっている。笑いかけて耳元で囁けば、簡単に落ちた。私を馬鹿にす