一月前に戻ったので、今度はわたくしから仕掛けます

一月前に戻ったので、今度はわたくしから仕掛けます

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By:  紡里Completed
Language: Japanese
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親友に毒を飲まされた令嬢は、終わったと思った次の瞬間、一月前に戻っていた。 毒を飲まずに生き残るには――そのための作戦を考える。 婚約者と親友を信じていた愚かな女は死に、全てを疑ってかかる「わたくし」になる。 そう決意したのだが、果たして……。

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Chapter 1

第一話 運命の一日

目の前にカーヒーコーヒーが置かれた。

湯気がゆらりと立ちのぼる。

本来なら、優雅なひと時を演出するはずの光景だった。

馴染みのメイドが、卵白を泡立てて甘くしたメランジェを、わたくしのカーヒーにだけたっぷりと乗せる。

いつもなら、親友のカタリンのカップにも同じように乗せるのに――

ここはカタリンの屋敷だ。

貴族学園の帰りに、どちらかの家へ寄ることは珍しくない。

友人同士、気の置けない会話を楽しむのが常だった。

けれど、わたくしはカップに手を伸ばさない。

··、この場所で。

わたくしはこの飲み物を口にした。

そして――倒れた。

「どうしたの? いつもは遠慮せずに飲むじゃない」

れた声音で··が、そう勧めてきた。

「ほら。早くしないとメランジェが溶けてしまうわ」

甘く、可愛くお強請ねだりするときの声で言われた。

以前のわたくしなら、親友の勧めを断ることなどなかった。

けれど、今は違う。

「どうして、そんなに飲ませたいの?」

「え?」

カタリンの笑顔が固まった。

「喉が渇いたろうと思って――」

「そう?」

わたくしはカップではなく、カタリンの顔を見る。

「それなら、あなたも喉が渇いているでしょう?」

「……私?」

「ええ」

わたくしは微笑んだ。

「親友ですもの。一緒に飲みましょう?」

前回のわたくしは、なんの疑いもなく飲んでしまった。

そのことを思い出すだけで、口の中に苦い味がよみがえるような気がする。

「……そうね、飲むわ」

 そう言って、カタリンはわたくしの顔から目を離さずに、自分のカップに口をつけた。

 彼女は一口だけ飲むと、にこりと笑って見せる。

「ほら、なんともないでしょう?」

「……変な言い草ね。却って怪しく聞こえるわ」

わたくしは彼女のカップに視線を落とした。

カーヒーは同じモカポットから注がれた。

だとすると、毒が入っているのはメランジェの方――

「し、失礼ね!」

カタリンが焦ったように言い返した。

「それなら、わたくしのカップからも一口召し上がってくださる?」

わたくしは自分のカップを彼女の方へ静かに差し出した。 

「無理にブラックを飲む必要はありませんもの」

わたくしの前に置かれたカップをソーサーごと持ち上げて、彼女の目の前に突きつけた。

「ど、どうして……」

「さぁ? あなたの協力者が寝返ったのかもしれないわね」

カタリンがメイドを睨みつけた。

――そう、その女が共犯者なのね。

貴族学園で出会い、仲良くして三年目に入ったところだった。

その間、あなたは何度もわたくしのことを笑っていたのでしょうね。

婚約者を寝取られても気付かない、間抜けな女だと。

「誤解しないでね? イロナの話で盛り上がっていただけよ」

そんなカタリンの言葉を信じていた、愚かな女ですもの。

もう、他愛もない話で笑い合った、あの日々は戻ってこない。

受け取ってもらえなかったカップを、わたくしはテーブルに戻す。

わずかな未練が手元を狂わせ、ガチャリと無作法な音を立てた。

カタリンは、失敗を悟り青ざめている。

詫びの言葉も言い訳も、カタリンの口から聞くことはできなかった。

「残念だわ」

誰に言うともなく、わたくしはつぶやいた。

反省してくれたら……そんな甘さは、今、捨てなければならない。

わたくしは意を決して、胸元から笛を取り出し唇に当てた。

ピィー!

それを合図に、馬車に隠れていた魔術師と騎士たちが応接室に駆け込んでくる。

制止しようと駆け寄った使用人たちは、気絶させられるか魔術で拘束されるかして、あっという間に無力化された。

カタリンもメイドも、すぐに取り押えられた。

その間に、魔術師はティーカップへ分析の呪文をかけていく。

「あ~あ。致死量の毒だね」

魔術師の口ぶりは、少し不謹慎ふきんしんに思えた。

カタリンの顔が、悔しそうに歪む。

「それで?」

わたくしは拘束されたカタリンから少し距離を置き、問いかけた。

「あなたの単独犯? それともわたくしの婚約者と共謀しているの?」

「私たちは愛し合っているのよ! あなたと違ってね」

カタリンは叫ぶように言い返した。

「それなら、わたくしとの婚約が解消されるまで待つべきだったわね。こんな姑息な真似をするのではなく……」

わざと皮肉を込めて言う。

妊娠してしまったから、カタリンは悠長なことを言っていられなくなったのだ。

ヘーデルヴァーリ伯爵夫人は、新興男爵家の娘など認めないだろう。 

それでも、莫大な資産を武器に、説得する道はあったはずだ。

あるいは、今、抱えている妊娠という醜聞を逆手にとって、結婚を認めさせることができたかもしれない。

けれど、そんなことを今さら言っても仕方ない。

「馬鹿な子ね」

わたくしはカタリンに見えるように、微笑んだ。

「すぐに楽な方に流される。大変でもきちんと筋を通して、話し合えば良かったのに」

わたくしだって、結婚前から私生児がいるような男は願い下げだわ。

「な……なに、それ……」

カタリンが目を丸くしている。

わたくしが言っている内容は正論なのだけど、彼女の中にはその選択肢がなかったのかしらね。

ふと、あることを思いつく。

メランジェが入ったボウルから、一さじスプーンですくいあげた。シルバーではなく陶器のスプーン。

わざわざ、毒に反応しないスプーンを用意したのね。

わたくしは拘束されているカタリンのあごをつかみ、顔を上向かせた。

そして、その額にメランジェをぼたりと垂らしてみた。

「うぎゃああああ!」

応接室に、耳をつんざくような悲鳴が響き渡った。

「熱い? 痛い? ……飲んだ時は、熱くて喉が焼けて苦しかったわ」

わたくしはカタリンにだけ聞こえるような小声で、教えてあげた。彼女は痛みでそれどころではなく、耳に入っていないようだけれど。

これで少しは溜飲りゅういんが下がるというものだ。

前回のわたくしは、何一つ疑うことなく毒を口にし、あっけなく命を落とした。

死んだはずなのに、目を覚ますと一か月前へ戻っていた。

あまりにも生々しい悪夢を見たのかと思った。

けれど、記憶どおりの出来事が毎日のように繰り返されて、ついにこの日を迎えた。

そして今、この光景が、夢ではなかったことを証明している。

やり遂げたという思いと、虚しさが胸に去来した。

カタリンは、立派な体格の騎士ですら押さえ込むのに苦労するほど暴れている。

「これ、肌からも吸収されますの?」

「まあ、少しはね。でも、粘膜から摂取したときほど危険じゃないよ。命に別状はない。少し跡が残るくらいかな」

魔術師は飄々ひょうひょうと答えた。

「あら、そうなの」

額の真ん中に垂らしてしまったわ。

でも、謝るつもりはない。

殺される苦しみに比べたら、ずいぶん軽いものだと思わない?

前回、わたくしは最終的に呼吸ができなくなり、死んだのだと思う。

涙だけでなく、鼻水やよだれまで垂らし、見るも無惨な姿で這いつくばった記憶がある。

苦しくて、悔しくて……悲しかった。

一月前へ巻き戻ってから注意深く周囲を見れば、怪しいことはいくらでもあった。

前回、気がつかなかったのが不思議なほどに。

わたくしは、自分が邪魔者として憎まれているとも知らず、のんきに笑って過ごしていた。

なんて愚かだったのだろう。

そう思い知らされるたび、自己嫌悪で胸が張り裂けそうになった。

   ***

あまりの騒ぎに、この屋敷の主が姿を現わした。カタリンの父親だ。

「ここで何をしているんだね」

一代で巨万の富を築いた男爵だけあって、さすがの胆力だ。

「毒殺未遂の現行犯として、お嬢様を拘束しています」

騎士がきっぱりと言い切った。

「君たちの勘違いじゃないかね?」

男爵は驚く様子もない。

――娘が何をしようとしていたか、知っているのかもしれない。

「勘違いかどうかは、お話をうかがってから判断します。お嬢様はお預かりします」

 騎士が歩き出すと、男爵はその腕をがしりと掴んだ。

「勘違いだろう、そうでなければ……」

その瞬間、父親の体からかすみのようなものがゆらりと滲み出した。

猿ぐつわをされたカタリンは、くぐもった声で嬉しそうにうめいた。

「はい。父親も現行犯逮捕だね」

魔術師はさらりと宣言し、魔術で生み出した紐を男爵へと走らせる。紐は生き物のように男爵へ巻きつき、あっという間に拘束してしまった。

「精神に干渉する禁術か。このブレスレットは魔道具だね。どこで入手したのか、正直に白状してもらうよ」

魔術師が空へ向かって信号弾を放つと、屋敷の外で待機していた増援の騎士たちが入ってきた。

「……ご令嬢の妄想じゃなかったのか」

そんな誰かのつぶやきが耳に入る。半信半疑でも、来てくれたことに感謝しよう。

わたくしは騎士たちとともに騎士団の詰め所へ向かい、事件の経緯についての調書に協力した。

時が巻き戻っていることを隠して話すのは、なかなか大変だ。考えすぎて、頭が痛くなりそうだ。

その後、騎士団の馬車で屋敷まで送ってもらう。夕食の時間には間に合うとほっとした。

   ***

家に着いて、カタリンの屋敷に馬車を置いてきたことを思い出した。明日にでも取りに行かなければ――そう考えるだけで気が重くなる。

出迎えてくれた執事にそれを話すと、御者は状況を判断してすでに帰ってきているという。

安心したところに、追加の情報があった。

「ヘーデルヴァーリ伯爵令息がお待ちです」

「え、なぜ?」

カタリンと親密な関係になってから、理由をつけて我が家を避けていたというのに。

「もうすぐ夕食の時間なのに、まだいらっしゃるの?」

約束もなく晩餐の時間まで居座るなど、無作法にも程がある。

仕方なく応接室へ入ると、マールトンはソファから腰を浮かせた。

「無事だったんだね」

心から心配していたかのような口ぶりだった。

「何がでしょう?」

疲れきっているせいか、この男が元凶だと思っているからか。

自分でも驚くほど冷たい声が出た。

「だから、彼女の誘いには乗るなと言っただろう? 本当に仕方のない子だなぁ」

そう言って、彼は懐から小瓶を取り出す。

「解毒薬だ。ほら」

……この人は、カタリンが凶行に及ぼうとしていると知っていて、黙っていたのだ。

「駄目だよ」と口にするだけで、理由を説明することも、カタリンの屋敷に乗り込んで防ぐ様子もなかった。

まったく信用できない男だ。

「『彼女』で通じると思っているなんて……まるで、特別な存在だと言っているようなものね」

つい、嫌味が口をついて出た。

胸に湧いたのは、落胆と怒りだった。

カタリンの殺意を知っていたのに。

わたくしが傷つけられるとわかっていて、ただ成り行きを見ていただけの男。

まだ取り繕えると思っている姿が、ひどく滑稽に映った。今さら……だ。

一度目のわたくしなら、きっと泣いて縋っていたでしょう。

「怖かった」と訴え、「どうして力尽くで止めてくれなかったの?」と彼に弁解の余地を与えた。

けれど、今は違う。

身体と一緒に、心まで一度死んでしまったみたい。

……いいえ。

巻き戻ってからの一か月で、少しずつ心が枯れていったのかもしれないわ。

「何をおっしゃっているのか、わかりかねます」

わたくしは、きっぱりと彼を拒絶した。

気持ち悪い。

この人が何を考えているのか、もう理解したくもない。

そんな嫌悪感が、湧き上がってきた。

「君を助けるために、俺が時間を巻き戻したんだよ!」

マールトンは、まるで素晴らしい偉業を成し遂げたかのように胸を張った。

ああ、そういうこと……。

今、それを切り札として使うのね。

だから何だというの?

恩に着せて、わたくしに何を求めているの。

「……」

無言で立ちすくむわたくしを、マールトンはもどかしそうに見つめている。

人の善性を信じ、言われた言葉を信じていたわたくしは、もういないわ。

いえ、信じたかったのでしょうね。

婚約者からの愛も、親友との友情も。

「俺は君を愛しているんだ」

突然告げられた言葉が、今のわたくしにはとても寒々しく聞こえた。

あの··がお茶会や観劇に乱入してきたとき、あなたはどうしていた?

嬉しそうに鼻の下を伸ばしていたではないか。

鼻にかかるような甘い声。勢いのある新興貴族の令嬢。彼女と陰で親しくなりたいという男性は、少なくなかったようだ。

だからこそ、彼女に選ばれたということが自慢だったのだろう。

けれど、それを堂々と自慢することはできない。ただの浮気だから。

その歪んだ優越感と罪悪感が、この男の心を少しずつ狂わせていったのかもしれない。

いい人ぶらないで、婚約解消してくれればよかったのに。

捨てられた··と呼ばれても、殺されるよりましだったわ。

「あの女が、俺を誘惑してきたんだ」

自分から甘い毒にふらふらと近寄っていったくせに、何を言っているのだろう。

「前回はあいつと結婚してしまった。でも、君を毒殺したと知って、あいつを殴ってやったんだ。

それで、君とやり直すために……」

時間を遡るのも禁術だ。

わたくしは、魔術師に借りた魔導具をこっそり起動した。この男の自白を、記録しておかなければ。

「今、あなた……時間を巻き戻したと言ったの?」

信じられない、という表情を作る。棒読みだったかしら。大根役者と言われるかもしれないが、大切なのは演技力ではない。

この男の口から真実を引き出すことだ。

「そうだ。君も記憶があるんじゃないのか?

最近、少し変わったよ。冷たくなったんじゃないかな」

「――ある方が、教えてくださったんです」

録音しているので、自分にも記憶があるとは言えない。

「マールトン・ヘーデルヴァーリとカタリン・ヴァッシュが、浮気をしていると」

「それは……。少し気が合うだけだと言たじゃないか。信じてくれ」

「それなら、なぜ今日、彼女がわたくしを招くと知っていたのですか?」

言い逃れできないように、追い詰める。

「カタリンと示し合わせていたのではなくて?」

この会話を聞いた人は、二人が共犯だと思うだろう。

マールトンは、カタリンが捕まったことをまだ知らない。

「違う! 前回は知らなかったし、今回は君を止めようとしただろ!」

「理由もおっしゃらず、ただ『行かない方がいい』と言っただけでしょう?」

わたくしは冷静に指摘する。

「それは『止めようとした』うちに入るのかしら?」

「君は……何もわかっていない!」

マールトンは声を荒げた。

こうやって威圧して、わたくしを自分の思い通りにしようとする。

以前のわたくしは、それを心配ゆえの愛情だと思っていた。

でも、愛ではないのだ。

「そうだ。急いで飲まないと」

そう言って強く腕を掴まれたので、もみ合いになった。その拍子に、その解毒薬とやらの瓶が床へ落ち、砕け散る。

本当に毒を飲んでいたのなら、こんな悠長に話などしていられない。あの毒はすぐに症状が出たのだから。

呆れるほど間抜けな男だ。

「なんてことを! 君を死なせたくないんだ」

嘘を吐いているは思えないくらい、迫真の演技だった。

これなら、一回目のわたくしが騙されても仕方ないと感心する。

「マールトン様が錯乱なさっているわ。誰か、助けて!」

わたくしは困惑しているように見せかけて、叫んだ。

控えていた侍女が廊下へ出て、従僕たちが駆けつける。彼らは抵抗するマールトンを取り押えた。

侍女はわたくしの乱れてしまった髪を整えながら、小言を言った。

「『助けてと言うまで黙って見ていろ』などと……肝が冷えました」

わたくしも、マールトンがあんなに必死になるとは予想できなかった。

マールトンは「どうしてわかってくれないんだ」と言いながら、もがいている。

彼の家の馬車を待機場所から屋敷の入り口に移動させ、従僕たちが彼を押し込むように乗せた。

「落ち着いてくださいませ。本日はもうお帰りになったほうがいいと思いますわ」

わたくしはマールトンに形ばかりの気遣いの言葉をかけた。

御者はただならぬ雰囲気を察したようで、急かすように馬を走らせた。

   ***

それから食堂へ向かい、父に事情を説明した。

「マールトンは、わたくしが毒殺されるはずだったと言いました。カタリンと共謀しているに違いありません」

父はすぐに騎士団へ通報してくれた。禁術を使ったというマールトンの自白を録音した魔道具を、証拠としてたくした。

カタリンはもう捕まっている。これで婚約者のマールトンも捕まえてもらえば、ひとまず安心できる。

死に戻ってから一月の間に、わたくしから婚約解消を申し出ることも考えた。

それだけで、わたくしが殺される未来は潰せただろう。

けれど、それでは犯人たちの思うつぼになってしまう気がしたのだ。

やり返さなければ、胸の奥にくすぶる怒りや悔しさを、ずっと抱えたままになるのではないだろうか。

被害を受けたわたくしだけが、不快な思いを飲み込んだままなんて……あまりにも理不尽だわ。

婚約を解消されるよりも、犯罪者になることの方が、彼にとっては痛手になるだろう。

わたくしの命を軽んじ、もてあそんだことは、絶対に許さない。

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第一話 運命の一日
目の前にカーヒーが置かれた。湯気がゆらりと立ちのぼる。本来なら、優雅なひと時を演出するはずの光景だった。馴染みのメイドが、卵白を泡立てて甘くしたメランジェを、わたくしのカーヒーにだけたっぷりと乗せる。いつもなら、親友のカタリンのカップにも同じように乗せるのに――ここはカタリンの屋敷だ。貴族学園の帰りに、どちらかの家へ寄ることは珍しくない。友人同士、気の置けない会話を楽しむのが常だった。けれど、わたくしはカップに手を伸ばさない。前回、この場所で。わたくしはこの飲み物を口にした。そして――倒れた。「どうしたの? いつもは遠慮せずに飲むじゃない」焦れた声音で親友が、そう勧めてきた。「ほら。早くしないとメランジェが溶けてしまうわ」甘く、可愛くお強請りするときの声で言われた。以前のわたくしなら、親友の勧めを断ることなどなかった。けれど、今は違う。「どうして、そんなに飲ませたいの?」「え?」カタリンの笑顔が固まった。「喉が渇いたろうと思って――」「そう?」わたくしはカップではなく、カタリンの顔を見る。「それなら、あなたも喉が渇いているでしょう?」「……私?」「ええ」わたくしは微笑んだ。「親友ですもの。一緒に飲みましょう?」前回のわたくしは、なんの疑いもなく飲んでしまった。そのことを思い出すだけで、口の中に苦い味が蘇るような気がする。「……そうね、飲むわ」 そう言って、カタリンはわたくしの顔から目を離さずに、自分のカップに口をつけた。 彼女は一口だけ飲むと、にこりと笑って見せる。「ほら、なんともないでしょう?」「……変な言い草ね。却って怪しく聞こえるわ」わたくしは彼女のカップに視線を落とした。カーヒーは同じモカポットから注がれた。だとすると、毒が入っているのはメランジェの方――「し、失礼ね!」カタリンが焦ったように言い返した。「それなら、わたくしのカップからも一口召し上がってくださる?」わたくしは自分のカップを彼女の方へ静かに差し出した。 「無理にブラックを飲む必要はありませんもの」わたくしの前に置かれたカップをソーサーごと持ち上げて、彼女の目の前に突きつけた。「ど、どうして……」「さぁ? あなたの協力者が寝返ったのかもしれない
last updateLast Updated : 2026-07-21
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第二話 マールトンの家庭の事情
マールトンのヘーデルヴァーリ家に家宅捜索が入った。その結果、彼が事件の共犯であることを示す証拠が見つかる。イロナの親友カタリンが所持していた毒の材料が、婚約者マールトンの部屋から発見されたのだ。ヘーデルヴァーリ伯爵夫妻は、「そんな馬鹿な!」と叫んだ。さらにカタリンは投獄されるや否や「妊娠しているので牢から出せ」と訴えたらしい。もちろん、お相手はマールトンだという。つまり、二人にとってイロナの存在は邪魔だったことになる。それは、殺人計画の動機として充分すぎるものだった。マールトンは無実だと主張したが、それを信じる者はいなかった。 動機も証拠も揃ってしまったのだから。だが、たとえ無実だったとしても、時を巻き戻した以上、禁術を行使した罪からは免れない。時を巻き戻した魔道具が見つからないため、あるのはマールトンの自白だけという状況だ。そのため両親は自白を翻すように勧めたが、「イロナへの愛を証明するのだ」と言い、頑として証言を変えようとしなかった。「お前、あれだけ邪険に扱っておきながら、今さら何を言っているんだ? 我が家を潰す気か!」監視のための立会人がいる面会室で、伯爵は息子を怒鳴りつけた。この事件が起きる前から、伯爵はマールトンを諫めてきた。伯爵は、イロナの父親であるセーケイ子爵から「婚約を何だと思っているのか」と何度も抗議を受けていた。その都度、子爵を宥め、言い訳をし、詫びてきたのだ。その後で、息子を呼びつけ、反省を促してきた。「我がヘーデルヴァーリ家は、魔道具で名を馳せた歴史ある家門だ。だが、今は財政が厳しい。だからこそ、量産型の魔道具を手がけるセーケイ家と手を組み、今の時代に合う形に変わっていく必要があるんだ」そう言って何度も諭したものの、マールトンは聞く耳を持たなかった。「イロナは俺に惚れているから」と自慢げに言い返すだけ――彼は相変わらずセーケイ家を爵位が下だと軽んじ、イロナのことを「口うるさい」と疎ましがった。たとえカタリンの男爵家と縁を結び直し、資金援助を受けたところで、家門の未来は開けない。しかも、数多の令息にちやほやされて喜んでいる娘など、ヘーデルヴァーリ家に迎え入れたくはない。――それが、伯爵の考えだった。言えば言うほど意固地になるマール
last updateLast Updated : 2026-07-24
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第三話 イロナは考える
実家にも見捨てられたマールトンから、手紙が届いた。わたくしが殺される原因を作り、二度目の今回も未然に防止できなかったくせに。図々しい。「イロナ。君のために時間を巻き戻したのだから、私の罪ではないはずだ」手紙にはそう書かれている。禁術を使った罪をどう判断するかは、裁判所の権限だ。わたくしの知ったことではない。「情状酌量の余地があると、訴え出てくれ」余地……?罪を犯してしまうのも仕方がないと思える事情――ということよね。そんなもの、一つも思い浮かばない。あまりにも自分勝手な内容に、思わず怒りで手に力が入る。ぐしゃり。手の中で手紙が歪んだ。そもそも――婚約者であるわたくしをないがしろにして親友と浮気をしたことを、謝罪するべきではないのか。けれど、そのようなことは一言も書いていなかった。一度目のわたくしなら、「わたくしだけが頼りなのね」と喜んで訴え出たかもしれない。そう考えると、わたくしも愚かだったわ。親に「婚約者と仲良くしなさい」「好かれるように自分を磨きなさい」と言われて、それを疑うことなく実践しようとした。うまくいかないのは、自分に魅力がないせいだと考えた。婚約者を何よりも優先すれば、いつか振り向いてくれると信じてしまったのだ。その結果は、ただ我が儘な男を甘やかし、間違った自信を付けさせただけだった。「嫌な男」と感じるたびに、自分を叱咤した。彼の機嫌を損ねたのは、自分が至らなかったせいだと反省までした。いつも冷たくされるからこそ、たまに見せる優しさが嬉しかった。そして「本当は優しい人なんだわ」と、自分に都合のいい婚約者像を作り上げた。けれど、そんなわたくしはもういない。時を巻き戻ってから、「支配する愛に囚われた女性たち」という本を読んだ。――実は、ある人に読めと命じられたのだ。わたくしとマールトンの関係性を見つめ直せ、と。それは、その人がわたくしの反撃に協力する条件だった。その本を読み進めるうちに、ようやく気付いた。マールトンがやっていることは、精神的に支配し、人を自分の思いどおりにコントロールしようとするやり口だった。そこに愛はなかった。あのまま結婚していたら、妻ではなく、奴隷のように生きることになっていただろう。そして、本を読み終えた今だからわかる。わたくしたちは、ある意味では似た者
last updateLast Updated : 2026-07-25
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第四話 事件の前と後
魔術師ガーボルがわたくしに接触してきたのは、時を巻き戻した翌日のことだった。彼には、前回の世界がどうなったか――様々なことを教えてもらった。わたくしの死がどう扱われたのか。マールトンとカタリンが、その後どんな結婚生活を送ったのか。わたくしの両親についても聞いたけれど、特に変わりなく暮らしていたらしい。仕事さえあれば、幸せなのだろう。ガーボルは普段、街の小さな魔道具店で、修理を請け負って生計を立てている。ときには騎士団の依頼を受けたり、便利屋のような仕事を引き受けたりもするそうだ。例えば、令状を取るほどの証拠はないが、どうも怪しい――そんな場面でこっそり魔術による鑑定をしてあげることもあるらしい。そうやって貸しを作っておけば、今度は騎士団が便宜を図ってくれる。 持ちつ持たれつの関係を築き、比較的自由に暮らしているそうだ。今回、わたくしもその伝手にずいぶん助けられた。   ***ガーボルと初めて会ったのは、「珍しい魔道具に興味はありませんか」と、突然わたくしの屋敷を訪ねてきたときだった。執事たちも、魔道具関係の客はあまり警戒しない。魔術師は変わり者が多く、商談を逃すと、二度と縁が繋がらないことも珍しくないからだ。両親も兄もいない時間を見計らったかのように、彼はやってきた。応接室でわたくしの前に並べられたのは、色とりどりの花を咲かせる魔道具や、紅茶を淹れてくれるぬいぐるみなど、実用性があるのかないのか判断に困る品ばかり。――この魔術師はハズレだったかしら。そう思った矢先、ガーボルが身を寄せ、侍女にも聞こえないように囁いた。「マールトン・ヘーデルヴァーリから、イロナ・セーケイを生き返らせる依頼を受けた。 成功したと考えていいかな?」わたくしは息が止まるかと思った。探し求めていた情報が、向こうから転がり込んで来たのだ。「そうね。そう考えていいと思うわ」この話は、事情を知らない者たちには聞かせたくない。侍女に「魔道具の仕組みについて詳しくうかがいます。いつものように――」わたくしが命じると、侍女は慣れた様子で壁際まで下がり、耳栓をした。けれど、巻き戻ったことが自分の妄想ではないと知って、張り詰めていた糸が切れたように、わたくしは泣いてしまった。それで、その日は話を切り上げることにした。「では、何かあっ
last updateLast Updated : 2026-07-26
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第五話 魔術師の執着
僕は、イロナとの見合いの席で、自分がどれほど優秀な魔術師なのかを存分にアピールしていた。魔術関係以外で、初めて欲しいと思った相手だ。どうにかして、彼女に僕を認めてもらいたい。だが、お相手の彼女は、なかなか手厳しい。「犯罪者になったマールトンからまきあげた魔道具を、フル活用しているだけじゃない」「いやいや。あの家は代々、あれだけの魔道具を持っていながら活かせなかったんだ。どう使うかも、才能のうちさ」「図々しいわ」憎まれ口を叩きながらも、彼女はカーヒーを注いでくれる。今日のお菓子はチョコレートだ。ポピーシードが乗っているものもあれば、サワーチェリーが入っているものもある。甘くてほろ苦い。異なる刺激が、代わる代わる舌と鼻を楽しませてくれる。――まるで、君のようだ。ツンとすました顔に隠した優しさと、素直で豊かな表情に、僕の頬が緩む。出会った頃の彼女は親友に毒を盛られ、婚約者に裏切られたショックで、まるで仮面をつけているような顔をしていた。それが少しずつ柔らかさを取り戻していく。その様子は、魔術の素材がゆっくり変質していくのを、見守る時間を思い出させた。急かしてはいけない。けれど、変化を見逃してもいけない。イロナが本来の自分を取り戻していく過程を、ずっと眺めていたいと思った。彼女は確かに、少々口うるさい。だが、それは目端が利いて、いろいろなことに気がついてしまうからだ。食事を抜けば叱られ、無理をすれば文句を言われる。そんなときに「ありがとう」と返せば、ほんのり頬を染めて「しっかりなさって」と少し照れるのだ。ちょっとした言葉に腹を立てるような、器の小さい人間は、彼女の前から消え去ればいい。僕は、彼女に「仕方のない人」と言われるのが、案外好きなのだから。何度、時を巻き戻ろうと、思考の癖を変えなければ、同じ失敗を繰り返す。彼の一族、ヘーデルヴァーリの血を垂らし、その血の持ち主の寿命を使って時を巻き戻す魔道具。その説明を書いた古文書が読めないマールトンは、路地裏の小さな魔道具店に泣きついてきた。巻き戻ったあとに、僕がその知識を利用してうまく立ち回るなんて、想像もしなかったのだろう。平民の魔術師など、ただ利用するだけの存在だとでも思っていたのか。――浅はかな男だ。一族の中には、古文書を読める者もいるだろう。
last updateLast Updated : 2026-07-26
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第六話 魔術師の求婚の行方
マールトン・ヘーデルヴァーリは、愚かな男だった。宝の持ち腐れとは、ああいうのを言うのだろう。イロナは輝く魔石のようだ。ヘーデルヴァーリ家の家宝の「時戻りの魔道具」だって、僕に活用されて嬉しいだろうさ。……といっても、何回も使えるような代物じゃない。マールトンから採取した血液も、奴の寿命も有限だ。魔道具を分解して解析するか。それとも、また使いたくなったときのために温存しておくか。悩ましいところだ。そもそも、あの男が息絶えてしまったら、瓶に保管してある血液が残っていても魔道具は使えなくなるのだろうか。それから、あの魔道具が反応する「血縁」というのは直系だけなのか。分家でも反応するとしたら、どこまで有効範囲なのか。そういう疑問を、気軽に実験できないのが悩ましいところだ。古代の魔道具は、わからない部分が多すぎる。「寿命を代償にする」というのも古文書に書いてあっただけだ。検証する方法などない。僕があの魔道具を所有していると知られるのもまずい。譲渡されたわけじゃない。僕は、歴とした窃盗犯だからな。実は、爵位を得るための資金作りで、あの魔道具を一度使ってしまった。子爵家の令嬢に釣り合うためには、揃えなければならないものがたくさんあったんだ。けれど、もし……もう一度そんな使い方をしたら。僕は坂を転げ落ちるように、魔道具に依存し、使い続けるようになるだろう。そうやって、魔道具の誘惑に負け、自滅する人間を何人も見てきた。これからは、己の自制心との闘いだ。便利なものほど、使い方を誤れば身を滅ぼす。それから――前回と同じなら、彼女の家は二年後に銀鉱山を掘り当てるはずだ。確か、お義兄さんが深い土の中の成分も分析できる魔道具を発明する。試しに領地を調べたら、銀鉱山があったというわけだ。僕は、その富のおこぼれに預かりたいわけじゃない。彼女を大切にして、彼女の実家とも良好な関係を築いておきたい。本当に困ったときに、助けてもらえる程度の関係でいい。理想は、僕の魔道具の店が順調で、お金に困らず穏やかな家庭を築けることだけどね。彼女の家族に認められるよう、功績をアピールして貴族の末席に名を連ねることができた。そして僕はついに、彼女に求愛することを許された。事前に、爵位をもらえたらチャンスをくれと、彼女の父親には打診しておいた。だ
last updateLast Updated : 2026-07-27
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第七話 納得がいかないマールトン
俺は罪人として、魔術研究のモルモットにされている。新たな攻撃魔法を浴びせられ、骨折を治せるはずの魔法陣に乗せられ、体液を採取される。ここには人権など存在しない。まるで、マッドサイエンティストの巣窟だ。時間だけは嫌と言うほどある。だからこそ、過去の出来事を思い返し、あれこれと考えてしまう。俺は、由緒あるヘーデルヴァーリ伯爵家で生まれ育ったマールトンだ。――俺は何一つ罪など犯していない。   ***禁術を使ったのは、あのしけた魔道具屋の店員だ。イロナを毒殺したのはカタリンであって、俺は何もしていない。何も悪いことをしていないのに、俺は冤罪でこんな場所に閉じ込められている。……なぜだ。イロナ。助けてくれ。今度こそ、お前を大切にする。ちゃんと愛してやる。だから、まずはここから出してくれ。父上、母上。大切に育てた俺を、本当に見捨てるはずがありませんよね。俺が心から反省すれば、「それでいいんだ」と頭を撫でてくれますよね。魔術研究の他に、俺は騎士団の調査に協力している。時間を巻き戻した魔術師を見つけ出すためだ。あの男に、俺がイロナとやり直すためにどれだけ苦労したか、証言させる。そうしたら、イロナも素直に俺の愛を受け入れられるだろう。巻き戻りに協力した魔術師は、陰気な奴だった。背中を丸め、長いぼさぼさの髪で目元を隠し、不気味な雰囲気をまとっていた。路地裏の小さな魔導具店の店員だった。騎士団に命じられ、その店へ案内した。だが、そこにいたのは、はきはきと話す爽やかな青年だった。姿勢は良く、身なりも整っている。髪型もすっきり清潔感があり、とても同一人物とは思えない。少しだけ、イロナが好きだと言っていた役者に似ている気がする。他に店員はいない、小さな店だという。「こいつじゃない……」そうつぶやくと、騎士が鼻で笑った。「――だろうな。念のために確認に来ただけだ」どうやら騎士団の捜査にも何度か協力しているらしく、騎士が「この前は世話になったな」と気さくに話しかけている。店員はちょっと緊張した面持ちで、俺の方を見た。「この人はヴァッシュ邸での毒殺未遂の関係者なんですか?」と驚いたように尋ねてきた。関係者というか……直接事件に関わったわけではないんだが。しかし、そうか。こいつがあの日、イロナを助けてくれた者の一人か。
last updateLast Updated : 2026-07-28
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第八話 一回目のイロナ
わたくしはセーケイ子爵家の娘です。兄がおりますので、いずれはどこかへ嫁ぐ身でした。十五歳の時に、お見合いをしました。お相手は、マールトン・ヘーデルヴァーリという同い年の男の子です。どきどきしていたわたくしに、彼は優しく微笑みかけてくれました。それで、学園に入学する前に婚約が成立しました。彼がいてくれるので、とても心強いと思ったことを覚えています。入学してすぐに、カタリン・ヴァッシュというお友達ができました。カタリンは男爵位を授かったばかりの家の娘で、貴族社会のことがよくわからないそうです。そのため、わたくしも知っていることを、いろいろと教えてあげました。逆に、平民のことを教えてもらうこともありました。婚約者のいる男性でも構わずに声をかけるので、あまり馴れ馴れしくしてはいけないと教えると、「平民ならこれくらい普通よ」と笑います。学園では、婚約者同士でお昼を一緒に食べることを推奨していました。「明日は別に食べましょう」そう提案すると、カタリンは頬を膨らませました。以前、「人見知りのイロナに付き合っているせいで、他の人とお昼が食べられないのよ」と言われたことがあったからです。だから、特に問題ないと思ったのですが……。ところが当日、カタリンは「賑やかな方がいいでしょ」と言って、当たり前のようにわたくしたちの間に入ってきました。呆気にとられているうちに、カタリンはマールトンとすっかり打ち解けてしまったのです。「ああいう、明るい子がいるといいよね」マールトンにそう言われたとき、胸がちくりと痛みまました。嫌だと思ってしまうわたくしは、心が狭いのでしょうか。「今度は二人きりで食べましょう」と誘うのは、はしたない気がして、どうしても口にすることができませんでした。そのうち、要領の悪いわたくしが課題を終える前に、二人だけで帰ってしまう日が増えていきました。以前は待っていてくれたのに、と寂しくなるわたくしは、我が儘なのでしょうね。わたくしは自分の家の馬車に乗り、一人で帰ります。入学したばかりの頃は、マールトンが彼の家の馬車で送り迎えをしてくれました。ですが、何度か帰りに置き去りにされてしまったので、それからは別々に登校しています。婚約者だからといって、その厚意に甘えすぎたのでしょう。だから、マールトンは何も悪くないのです。「あまりに距離が
last updateLast Updated : 2026-07-29
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第九話 二回目のイロナ・巻き戻りに気付く
苦しかった肺に、一気に空気が流れ込んでくる。「ぶわっ」おかしな声を上げて、わたくしは目を覚ました。親友のカタリンの家で毒を飲まされ、死んだと思ったのに……生きている?体を起こした途端、激しくむせ込んだ。あの焼け付くような痛みはない。それなのに、咳が止まらない。「お嬢様、どうなさいましたか?」メイドが部屋の外から声をかけてくる。返事をしたくても咳き込むばかりで、言葉にならない。「イロナ様、失礼いたします!」侍女が部屋に駆け込んできた。すぐに水を用意し、わたくしの背中をさすりながら、そっと口元へ運んでくれる。飲むのが怖い。けれど、信用できる侍女が用意してくれたもの。勇気を振り絞り、震える手でコップを受け取った。思わず眉間にしわが寄ってしまう。思い切って、こくりとひと口飲む。冷たい水が乾ききった喉を潤し、体の奥まで染み渡っていくような心地がした。しばらくすると、荒い息が少しずつ落ち着いてきた。「イロナ様、大丈夫ですか?」咳き込みすぎてあふれた涙を、侍女がやさしく拭ってくれる。「ありがとう。……むせてしまったわ」あれは嫌な夢……だったのだろうか。それにしては、あまりにも生々しい。息ができない恐怖が、まるで魂に刻み込まれてしまったような気さえする。でも、ただの悪夢だったのなら、いつまでも引きずってはいけない。今日も学園へ行かなければならないのだから。少し早いけれど、わたくしは着替えることにした。学園へ持っていくノートを何気なく開くと、最近の授業内容が消えていた。どういうこと?慌てて他のノートも開いてみる。けれど、どれも同じだった。突然、ノートを次々とめくり始めたわたくしを、侍女は不思議そうな顔で見つめている。落ち着かなければ。あまりおかしな振る舞いをしてはいけないと、自分に言い聞かせた。「……ねえ、今日は何日?」内心の動揺を隠しながら侍女に問いかけると、返ってきた答えは、一か月前の日付だった。窓の外へ目を向ける。庭に咲いている花々も、記憶より少し前のものだった。え……ど、どういうこと?とにかく状況を把握しなければ。そう考えたわたくしは、いつも通り食堂へ向かった。今日はわたくしが一番乗りのようだ。父の席には、まだ誰も読んでいない新聞が置かれている。さりげなく日付に目をやると、そこには確かに一か月前の
last updateLast Updated : 2026-07-30
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第十話 二回目のイロナ・魔術師と会う
翌日は学園が休日だったため、部屋で考え事をすることにした。どうやら、毒殺されて時を遡ったのは、夢ではなく現実らしい……。考えを整理するため、ノートを取り出す。・一か月後にカタリンに毒殺される。トルタを食べる前だから、毒はカーヒーの中?・カタリンはどうやって毒を手に入れた?・殺害動機はマールトンの子を妊娠し、一刻も早く彼と結婚する必要があったから。・マールトンはどこまで知っていたか。妊娠は? 毒殺は?・誰が時を戻す魔導具を使ったのか?最初に浮かんだのは、マールトンだった。わたくしが死ねば、婚約解消で揉めることもなく、カタリンと結婚できただろう。彼にとっては望み通りの結末なのだから、時を戻そうとする理由はない気がする。では、彼の父親であるヘーデルヴァーリ伯爵?いいえ。我がセーケイ家との繋がりを重視するなら、もっと早い段階でマールトンを叱っていたはずだ。もしかして、結婚後にカタリンがおかしなことをしたのかしら?……わからない。頬杖をついてノートを眺めていても、答えは出ない。自分の死後のことなど、わかるはずもないのだから――思わずため息を吐いた、そのときだった。「お客様がお越しです」侍女に声をかけられ、わたくしは顔を上げた。「あら。先触れはあったのかしら?」「ございません。突然のご訪問でございます」まさかマールトンかと思ったが、違うらしい。訪ねてきたのは、魔術師だという。我がセーケイ家は魔道具の廉価版を製作している。そのため、オリジナルの魔道具を生み出す魔術師は、何より大切な存在だ。良い関係を築き、できれば我が家のパートナーになってもらいたい。わたくしはノートをしまうと、応接室へ急いだ。そこにいたのは、ぼさぼさの長い髪に、清潔とは言いがたい服をまとった男だった。身なりに頓着しない魔術師は珍しくない。前髪に隠れて目元は見えず、どこか胡散臭い雰囲気を漂わせている。だが、実力ある魔術師かもしれない。丁寧に応対するべきだ。「初めまして。魔術師のガーボル・ヴェレシュです」「お目にかかれて光栄ですわ。イロナ・セーケイと申します」ガーボルが差し出した手を取り、握手を交わした。手の甲に口づけを受けるのではなく握手というのが新鮮だ。パーラーメイドがガーボルの前にカーヒーを運び、わたくしに
last updateLast Updated : 2026-07-31
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