Mag-log in私が前世の凄惨な経験から学び、今世を生きる上で魂に深く刻み込んだ決意が三つある。
一つ、人は絶対に助けない。
一つ、自分の利益以外は何も考えない。 一つ、自分の決断からは決して逃げない。我欲に塗れた悪女だと謗られようが、知ったことではない。私のこの決意に文句があるなら、あの雨の日に逆恨みされ、歩道橋の階段から突き落とされてみればいいのだ。
あの、内臓まで凍りつくような死の恐怖は、二度と御免だ。
誰かのために自分が不幸になるのも、人生をめちゃくちゃにされるのも、理不尽な暴力を振るわれるのも、背後から突き落とされるのも、本当にすべて、金輪際勘弁だった。
だから私は、この先の人生で自分以外の誰かが困っていても絶対に手を差し伸べない。
徹底的に自分のためだけにこの命を使う。
他人からの助けも期待しないし、ハナから求めるつもりもない。
私の人生は、私の力だけで掴み取っていく。
そう決めたからこそ、今日まで天才と謳われる才能に溺れず、死ぬ気で努力して魔術の力を付けてきた。
他人に打ちのめされても、今度こそ自分の力でねじ伏せるために。
まずは、この国からの〝自由〟を手に入れる。
生まれ変わってまで、誰かに飼い殺されるだけのカゴの鳥で終わるつもりはない。だからこその〝勇者〟だ。
アレはこの世界に生まれてから十数年間、私が積み上げてきた努力と執念の結晶なのだ。
絶対、あの傲慢な兄姉なんかに渡さないし、渡せるはずがない。
「贅沢なドレスや、お飾りの侍女なんて、今の私には必要ないわ」 激しい夜風に銀髪をなびかせながら、私は自身のボロボロになったドレスを一瞥した。儀式による煤がつき、汗をかいて乱れている。
王族の晩餐会に出るには、あり得ないほど不敬で無様な格好だ。
だけど、それがどうした。
私の価値を決めるのはドレスじゃない。私の背後にある、この圧倒的な『暴力』だ。
「いくわよ、ポチ! あいつらの度肝を抜いてやりなさい!」 「グルゥァアアッ!!」 赤炎竜の猛烈な咆哮が、静まり返った王城の夜空に木霊する。目指すは、一層激しい光が漏れ出す王城の最上層——晩餐会が催されている『太陽の間』の巨大テラスだ。
突如として夜空から襲来した伝説の巨大竜に、テラスを警備していた近衛騎士たちが「な、なんだアレは!?」「敵襲ーーッ!」と色めき立ち、腰を抜かして武器を取り落とす。
その混乱のど真ん中へ、ポチは凄まじい風圧とともにドスンと豪快に着陸してみせた。
「ふぅ、到着。ありがとうポチ、ここで待機していて」 「グルゥ、グルゥララァ」 私が巨躯の背から軽やかに飛び降り、鼻先をひとなでしてやると、ポチは満足そうに翼を畳んでテラスに鎮座した。近衛兵たちは、伝説の赤炎竜をまるで大型犬のように従える私の姿を見て、恐怖のあまり誰も一歩も動けないでいる。
私は乱れた銀髪を手ぐしで堂々と整え、ガラス張りの大きな扉を開けて、晩餐会の会場へと足を踏み入れた。
***
重厚な扉が内側から開き、広間に私の姿が露わになる。
「な、第十王女、アイン様が……ご帰還……?」 案内役の騎士が、私のあまりに凄絶でボロボロな姿と、テラスにそびえ立つ竜の影に完全に気圧され、震える声で告げた。静まり返る豪華絢爛な広間。
私は汚れのついたドレスの裾をあえて優雅に翻し、毅然とした足取りで進んだ。
一際豪奢な玉座に腰掛ける男の前で立ち止まり、完璧な
「お、おお……アインよ、その格好は一体……。いや、此度は勇者召喚の快挙、実に見事であった!
ちょうど宴を始めたところだが、勇者殿と言葉が通じず手を焼いていたのだ。アイン、お前なら彼の言葉がわかるか?」
国王が引きつった笑みを浮かべて問いかけてくる。私はそれに、冷徹な仮面の笑顔を貼り付けて応じた。 「もちろんでございます、お父様。私が責任を持って、勇者様のお言葉を通訳いたします」 (言葉が通じないことくらい想定できたでしょうに。なぜ私が目覚めるのを待たずに勝手に始めるのかしら、この浅慮な王は。……それにしても、一段高い玉座の間から、客席へのこの大階段……) ふと視線を落とした瞬間、背筋に悪寒が走った。未だに、私は『階段を降りる』ことができない。
エリカに突き落とされた時の感覚がフラッシュバックし、激しい嘔吐感が込み上げる。
(……チッ、こんなところで怯えてたまるもんですか。試してあげるわ) 「——来なさい、私の眷属」 背後に隠した手のひらに魔力を集中させ、極小の術式を展開する。現れたのは、一匹の小さな『転移コウモリ』のぽん太だ。事前に力でねじ伏せ、強制的に契約印を刻んでおいた私専用の隠し球。
「ぽん太、あそこの客席の椅子の前まで、私を跳ばしなさい」 「キィッ!」 パシィン!と小さな空間の爆ぜる音が響いた瞬間、私の身体は大階段を一切踏むことなく、一瞬で最前列の客席へと転移した。またしても物理法則を無視した私の魔術ムーブに、周囲の貴族たちが「空間転移だと!?」「無詠唱で、あれほどの高等魔術を……!」と今度こそ完全にざわつき始める。
「チッ——」 不快そうな舌打ちが耳に届いた。視線を向ければ、案の定、あからさまな敵意と嫉妬を孕んだ兄姉たちの視線が私を射抜いていた。
「お兄様、お姉様方……お待たせいたしました」「アイン、あなたが召喚した男でしょう。ボロボロの醜い姿でしゃしゃり出るのは不愉快よ。早くその男の口を開かせなさい」
冷たく言い放ったのは、私の異母姉シルヴィアだ。 「……かしこまりました、シルヴィアお姉様」 (この危険な男を何の準備もなく引きずり出したのは貴方たちでしょう。傲慢に眉をひそめる暇があるなら、少しはその足りない頭を働かせたらどうかしら) 私は張り付いた笑顔を崩さぬまま、第一王子の向かいに座る男の元へと進む。そこにいたのは、底知れない鋭さを秘めた美貌の男——あの黒髪の青年だった。
出会い頭のような荒々しさはない。
だが、一切の緊張感を感じさせない群青の瞳で、彼は部屋に乱入してきた私を、まるで『何かを確認する』かのように、執拗に、じっと凝視していた。
その目が、なぜか私の奥底を見透かしてくるようで、背筋に奇妙な粟立ちを覚える。
「アレクお兄様、前のお席を失礼いたします」「ああ、構わないよアイン。早く勇者様の言葉を聞かせておくれ」
余裕に満ちた笑みを浮かべるのは、第一王子アレクサンダー。誰にでも寛容で人当たりの良い聖君を演じているが、その本質は肥大化したプライドに塗れた男だ。
権力の座に最も近い、独善の塊。
私は第一王子に冷ややかに頭を下げ、勇者の隣に座る女性へと視線を移した。
「アリエルお姉様、お隣を失礼いたします」 第二王女アリエル。彼女は私の煤けたドレスを見て、これ見よがしに鼻を鳴らした。 「そうね、末席のあなたが私達の隣に座れること、光栄に思いなさい。それにしても……相変わらず、薄汚い髪色に、その薄汚い格好。王家の恥さらしね」
(貴女のその燃えるような品のない赤髪こそ、私から見れば随分と下品に思えるけれど?ボロボロの私に怯えて指一本触れられないくせに。
何の脈絡もなく他者を貶めるその低俗な口を、今すぐ縫い合わせて差し上げたいわ)
胸の内で最高級の罵倒を浴びせながらも、私は完璧な微笑を保ったまま、他の兄姉たちへの儀礼的な挨拶を済ませた。側近が引いた椅子に深く腰掛け、私はその冷徹な眼差しを持つ勇者(仮)の、真正面へと向き合った。
さあ、私の獲物を取り戻す時間よ。
禍々しい雰囲気を漂わせ始めた『暴食の大鎌』を見やり、緊迫感のない表情でポリポリと頬を掻くリヒト。 次第に彼の手にしていた鎌から紫黒の瘴気が溢れ出し、蛇のようにリヒトの腕へと絡みつこうとする。(うげ、なんだコイツ!気持ち悪りぃな!!) ひょっこりと姿を現した美少年のコクライが、その瘴気のモヤを空中で蹴り飛ばし、容赦なく踏みつけた。『きひっ!? 痛いってのっ!! このちびガキ!!』「え……? あなた、今何か言ったかしら?」 どこからか、妙に癇に障る甲高い声が聞こえたような気がした。「いや、俺じゃないぞ……。爺さん、そういう質の悪い冗談は笑えないな」「はて? 声とは何のことですかな? ワシには何も聞こえませぬが」 首を傾げながら応えるマーリン。私たちの視線は自然と、コクライに足蹴にされている大鎌へと向かう。(誰がチビだと……? 消し飛ばしてやる! 灰塵になりやがれ!!) 額に青筋を浮かべてモヤを踏みにじるコクライの周囲に濃密な魔力が渦巻き、バチバチと黒い雷光が迸る。「こ、これは……! 遥か古の暗黒時代、地上を焼き尽くしたと言われる神話の『漆黒の雷』!? いや、まさか、そんなはずは……!」 マーリンが良くわからない大古の伝説を引き合いに出して狼狽え始めた。 マーリンには精霊であるコクライの姿が見えていないため、大鎌から直接雷が湧き出しているように見えているのだろう。 なんにせよ、これ以上コクライが暴れるのはまずい。 この塔が崩壊したら、マーリンの住処がなくなってしまう。『きひひっ! 上等ぢゃ〜ん! ちびガキ!! この宿主を食った後はお前の『存在』ごと喰い尽くしてやるわよっ!』 下品な笑い声とともに、溢れ出した瘴気の波がリヒトを覆い尽くそうと、その全身にまとわりつく。「あの、アイン様? 助けてもらったりなんか……」「嫌よ、自業自得でしょう?」「ですよねぇー……」 とはいえ、私自身の信条としても、私やマーリンの身に危害が及ばない限り、自ら「手助け」などという殊勝な真似をするつもりはない。 そもそも、私の宝物庫を踏み荒らしたリヒトが悪いのだから。 面倒くさい? ええ、そうね、否定はしないわ? 私、歪んでいるらしいし?「なんと禍々しい呪詛の力……! アイン様! ここはワシに任せてお逃げくだされ!」 瘴気と漆黒の雷光が周囲に満
離宮の見張り塔ほどもある高さだろうか。 私は今、我が離宮の北側にそびえる『賢者の塔』のバルコニーへ向け、ポチの背に乗って上空から降下している最中だった。「あら。本当に走って来ているわね」 城の私室からここまで、庭園の小道を全速力で駆けていく哀れな人影を視界の端に捉えたけれど、特に気にかけることもなくポチをバルコニーへ着陸させる。 吹き抜けの広大なバルコニーは、四方を優美な柱で囲まれているだけで、遮る壁も窓もない。私はそのまま、堂々と塔の内部へと足を踏み入れた。「これはこれは、アイン様。困りますなぁ。このマーリンが施した『反魔結界』を、毎回こうも易々とすり抜けられては。ワシ、その度に自信をなくして泣いてしまいそうなのですぞ」 魔術式を言葉ではなく「感覚」で構築できる私にとって、この程度の結界をすり抜けるのは、飛んでくる風船を避けるくらい容易いことなのだ。「あら、ごめんなさい。結界があることすら忘れていたわ」「忘れて……。ワシ、今日はもう立ち直れそうにありませんじゃ」 どんよりとした精神的な暗雲が老魔術師の周囲に漂っている気がするけれど、面倒なので無視することにする。「マーリンも大変よね。かつては宮廷魔術師の筆頭だったのに、こんな離宮の隅の塔に追いやられて。 ……半分は、私のせいでもあるのだけれど」「何を仰います。住み慣れればここも素晴らしい場所ですぞ。並の侵入者では辿り着くことすら困難な造りゆえ、夜も安心して眠れます。おかげでこの通り、お肌もツヤツヤですぞ!」 両手を頬に添えて年齢不詳な老魔術師のお肌のツヤをアピールされても、誰に対する需要もない。「……へえ、うん、すごいわね」 こんな人でも、私にとっては数少ない恩人だ。 内心で「気持ちが悪い」などと切って捨てるのは流石に心が痛む。……それ以上クネクネされると本当に、少々、大分気持ちが悪いけれど。「アイン様、表情が青ざめておりますが如何なされ――む、今度はワシの反魔結界に何かが引っかかったようですな」 途端に鋭い眼光を宿したマーリンが全身に濃密な魔力を纏わせ、颯爽と塔のバルコニーから階下へと身を躍らせた。「ああ――それは……」 この塔には実質、まともな出入り口が存在しない。 適切な手順を踏んで結界を解除しなければ、あらゆる殺意を孕んだ防衛機構が侵入者を迎撃する、かつての『重
「お兄様? 起きてください、お兄様」「んぁ……? ここは……アイン? はっ! 勇者様は!?」 私の、どこまでも柔らかく慈愛に満ちた声に目を覚ましたアルフレッドお兄様は、意識を取り戻すと同時にガバッとその場で飛び起き、 狼狽した様子で周囲に視線を巡らせた。 だが、今の彼の視界には、穏やかな笑みを湛える美しい妹の姿以外、何も映っていないはずだ。「勇者……様、が……?」「何のことですか? お兄様」 お兄様の背後、ベッドの上でのたうち回っている、シルクのシーツを幾重にも巻き付けられた人型の「す巻き」など、決して視界に入ってはいない。「い、いや……なんでもない、な」 底の知れない穏やかな笑みを浮かべたまま佇む私を見て、流石に察してくれたのだろう。 アルフレッドお兄様はそれ以上何も追及することなく、引きつった笑みを浮かべて私だけを見つめていた。それ以外の余計なものには一切視線を向けない、という明確な意思表示を伴って。「ところでお兄様? 先ほどのお話ですけれど」「ん? ああ、いや、やはり兄として、妹に縋るなどというのはあまりに――」「お受けいたしますわ」「へ?」 静かに即答して完璧な笑顔を向けた私に、アルフレッドお兄様はポカンと間の抜けた声を漏らした。「お兄様の危機ですもの。私にできることがあるのなら、喜んでお役に立ちたいですわ。 勿論、私だけでは戦場では力不足ですから、勇者様に同行してもらうという形で……。 お父様には私の方からお話を通しておきますわね。『勇者としての見聞を広める目的』と、今後のために『功績を立てる好機』だと説明すれば、きっと納得してくださるでしょう」 ――だから、後のことは分かるわね? そう無言の圧力を込めて微笑みかける私に、お兄様はゴクリと緊張に喉を鳴らした。「僕としてはこれ以上ない有り難い話だが……ただでさえ戦況は最悪だ。 そんな泥沼の状況に勇者様を送り込んで、もしものことがあれば……。 勇者様を召喚したという威光は、予想以上に我が国の貴族たちにも多大な影響を及ぼしている。 国王や上層部が、そんな貴重な人材をみすみす危険な場所に送り出すだろうか」 ……最初から勇者の武力をアテにして私を頼ってきたのでしょうに。 もしかして本当に、私個人に助けてもらうつもりだったのかしら? だとしたら、この人の中での私
この場にいるはずのない、あまりにも聞き慣れた男の声。 私は全身の毛が逆立つような衝撃に、弾かれたように背後を振り向いた。 同時に、恐怖に顔を白くしたアルフレッドお兄様が、あろうことか私の背中に隠れるようにして後ろから覗き込んでくる。 ——仮にも王族で、しかも一応兄が妹を盾に隠れるのは如何なものかしら。 そんな内心の毒づきさえ、次の瞬間の光栄によって消し飛んだ。 視線の先——ついさっきまで私が微睡んでいた天蓋付きのベッドが、モゴモゴと怪しげに蠢いている。 直後、豪奢なシルクのシーツが勢いよく撥ね除けられ、そこから一人の男が姿を現した。 「ぷはっ! やっとあの骨の地獄から生還できたぞ……! よぅ、アイン様? サプライズは成功したか?」 全身傷だらけで、衣服はボロ布のように裂け、もはや裸同然の格好をしたリヒトが、悪戯っぽく白い歯を見せて笑っていた。 なぜ、ここにリヒトがいるのか。……いや、考えるまでもない。 彼の影に潜む黒い思惑の気配——コクライの仕業だ。 この際、彼の言葉が酷く流暢なこちらの言語になっている驚きすら、今は後回しにするしかなかった。 最悪の状況だ。 「ゆう、勇者……様? 勇者様がなぜ、そのような……破廉恥な格好で、アインのベッドから……。まさか、お前たち、既に——」 アルフレッドお兄様の顔から完全に血の気が引き、哀れなほどに唇を震わせている。 私は即座に、彼の言葉を遮った。 「いたしていません! 断じて、何一つ、指一本たりとも! そのような不埒な事実はありませんわ!!」 声音に冷徹な魔力を乗せ、真っ直ぐに兄の瞳を射すくめる。 「あ、ああ、わかった……。信じる、信じるよ、アイン……」 お兄様は凄まじい勢いで視線を泳がせながら、チラチラとリヒトの無駄に引き締まった半裸の肉体を気にしている。 ——だめだわ、この男、一ミリも信じていない。 婚姻を控えた王族の乙女が、自身の私室のベッドに、半裸の異性を囲っている。 この事実だけでも、この世界の厳格な社交界の常識に照らし合わせれば一発でアウトだ。 最悪の場合、王室の不名誉として幽閉、あるいは永久追放すらあり得る。 「なぁ、あんたがアイン様の兄貴か? 俺は一応勇者だが、それ以上にアイン様とは『召喚』という深い、血よりも濃い絆で心も身体も結ばれて——ゴフゥッ!?
真っ白な転移の視界に鮮やかな色彩が戻れば、そこは見慣れた私の離宮の私室だった。「到着、と。 ……はぁ、なんだか疲れたわ。ぽん太、ありがとう。また呼ぶけれど、それまで休んでいてちょうだい」「キィッ」 短く愛らしい鳴き声を返したぽん太が、フッと虚空へ溶けるように消えていく。 空間転移——前世の常識からすれば、あまりにも超常的で便利な魔術だ。 行ったことのない場所へは跳べないという制約こそあるものの、そんなものは常識の範疇であり、ぽん太の持つ能力の驚異的な価値をいささかも損ねるものではない。 実際、魔術という不可思議な概念が満ち溢れているこの異世界だが、馴染んでしまえば案外普通というか、想像していたほどの「万能」というわけでもなかった。「少し、休憩ね……」 贅沢な弾力を持つ天蓋付きのベッドに腰掛ければ、柔らかな反発が私を優しく包み込む。 この肌触りも、前世の記憶にあるものと大差ない。 いや、前世の私の部屋にあった狭いシングルベッドとは雲泥の差だが、あるべき場所にはありそうな、調度品の一つに過ぎないのだ。 食べ物も、文化も、特に致命的な違和感はない。 日常生活を支えていた前世の科学技術が、そのまま魔術というエネルギーにシフトしただけ、という感覚だった。 細かい利便性を言えば、インフラの整っていた前世の方が圧倒的に勝っているが。 だが、生活する分には困らない。 電気もガスもないが、魔術の灯火は夜を照らし、蛇口をひねれば温かな湯が出る。 風の魔術を応用した『魔道具』を使えば一瞬で髪は乾くし、その気になれば空だって飛べる。 ——もっとも、飛行魔術は一部の限定的な才を持つ者か、私のように「手段」を持つ者に限られるけれど。「……退屈だわ」 ただ一つ。この世界には、決定的に娯楽が欠如している。 かつて貪るように消費していたゲーム、漫画、アニメ、ドラマ。 そして、それらすべてを内包していた電子の文明。 掌の上の小さな画面がもたらしていた、あの果てしない娯楽の海。 それらが存在しないということこそが、私にとって何よりの不自由だった。 先ほどの転移にしても、確かに便利ではあるし、一個人が容易に所有できる技術ではない。 私の使役する『転移コウモリ』は世界でも超絶な希少価値を誇る魔獣であり、普通は捕獲して使役するなどという発想にすら至らない
ギルド本部での騒動から数日。 大々的な勇者のお披露目の儀や、軍事会議への強制参加など。 色々と煩わしく多忙な日々は巡っているが、特に私の状況が劇的に好転した訳ではない。 強いて言うなら、私の台頭を警戒する兄姉たちの対応が、以前にも増して冷淡なものに変わってきた事くらいだ。 リヒトとコクライは、なんだかんだと上手くやっている。 常にリヒトの肩の辺りをパタパタと飛び回っているコクライとは、相変わらず口を開けば子生意気な発言ばかりして、リヒトが反論してと騒がしい感じである。「それじゃあ、今日はあなた達の連携確認を兼ねた戦闘訓練を行うけれど。準備はいいかしら?」 王都から数キロほど離れた荒野。 人の往来が一切ない、荒れ果てた大地に私たちは立っていた。(ハッハァ!! ようやく暴れられるぜぇ!! 複数の町をまとめて焼き払うのか? それとも国ごと更地に変えるかっ——っが、やめろ! リヒト! 冗談っ、アバババババ) 手のひらサイズでツンツン髪のコクライが、私の目の前で威勢よく黒い電撃を散らした瞬間、背後から伸びてきたリヒトの大きな手に、またしても無造作に鷲掴みにされて短い手足をジタバタと暴れさせていた。『ったく、いい加減その物騒な発想をしまえ。俺らはアイン様専属の勇者だぞ?俺らの一挙手一投足全てはアイン様に捧げるべく、俺とアイン様の間には主従を超えた深い深い——』「ただの取引相手よ。この男は召喚の代価として、この世界ならではの強力な武器を携えて元の世界へ帰る。私は、勇者という大義名分を利用して王族としての立場を確立させる。それだけのことよ」 相変わらず何を考えているかわからない。 リヒトの軽薄な態度がどこまで本気なのか測れない。 いや、そもそも全部嘘ね。 今、妙に好意的な態度を見せるのも、すべては従属刻印のバグのせいなのだから。 リヒトは相変わらず日本語で喋っているけれど、コクライとの契約により感覚を共有したため、私の話すこの世界の言語は無条件で完全に理解できるようになっている。 簡単な受け答えができる程度には、裏で必死に言語の勉強もしているみたいだけれど。『相変わらず素直じゃないな、アイン様。ところで、この豪勢な剣がその報酬って訳じゃないよな? 正直使いにくいんだよこれ、無駄に眩しいし、重いし』「素直どころか、そもそもあなたには一欠片だ
ここぞとばかりに言語の優位性を最大限に活かし、言外に「この勇者は私が管理する」と突きつけた私に、しかし国王は大手を振って喜び、玉座から立ち上がった。 「おお、まことか! 勇者殿が我らの味方となってくださるとは心強い! これで魔族との長い争いも終わりに——」「ちょっと待て。待ってくれよ、親父殿」 まとまりかけた空気を無遠慮にぶち壊したのは、今まで不機嫌そうに無言を貫いていた第三王子ヨシュアだった。 「……チッ」『おいおい、露骨に不快そうな顔をしているぞ。スマイル、スマイル』 うるさいわね。 あんたのせいでこっちはもう表情筋が限界を迎えているのよ。 それにしても、よ
私は一呼吸おいた後、目の前に座る麗しい容貌の男——我が勇者(仮)に向け、ふんわりと極上に可憐な微笑を湛えて日本語で語りかけた。 『改めまして、先ほどはお見苦しいところを。 突然の状況に混乱されていると思いますが、まずは自己紹介をさせてください』『……』 軽く会釈をして謝意を表情に表しつつ、可憐な王女を演じて低姿勢に言葉を紡ぐ。 見れば、男の端正な眉が僅かに跳ね上がった。意外そうな顔をしている。 (フフ、この見知らぬ異境で、唯一言葉が通じる可憐な美少女が手を差し伸べてくれたのだもの。 先ほどの無礼は水に流してあげるから、このまま私を頼り、私に心を委ねてくれ
「ポチ、ここでいいわ。終わったらまた呼ぶから、森の周りで適当に遊んでいて。 あっ、近くの警備兵は食べちゃダメよ?」「グルゥ、グルゥア」 私がバルコニーへ降り立つと、赤炎竜ポチは嬉しそうに夜空へ駆け出した。 ここは王宮の最果てにある、私の私宮——通称『日陰の離宮』。 国王も、兄も、姉たちも、私を単なる「十番目の出来損ない」としか見ていないからこそ、滅多に人が寄り付かない。 有用性が認められている間だけ許された、この自由。 いわば王家の飼い殺しだけど、今の私にはそれで十分だ。 彼らが私を甘く見ているうちに、私は伝説の勇者をでっち上げる。 そして、私だけ
最後に見た景色は、冷たい雨に濡れる歩道橋。 その手すりにそっと添えられた、誰かのための白い花束だった。 不意に、背中に受けた強い衝撃。 舞い上がる傘。 遠ざかる意識。 (……ああ、私は、誰かに突き飛ばされたんだ——) 情報の濁流に呑まれながら、視界の端に映った「自分の死体」を見て、私は心の中で猛烈に毒づいた。 ふざけないでよ。 十五年しか生きていない前世の記憶なんて、ただの未練と呪いに過ぎなかったのに。 私はあいつのために——。 ——プツンと、世界が消えた。 *** 「ふふふん、ふふふ〜ん♪」 私は今







