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第5話

作者: 一燈月
小夜は、こんなことで路上で騒ぎを起こす気はなかった。

写真を撮り終えると、彼女は芽衣の腕を引いて道の反対側に停めてある自分の車へ向かい、足早にその場を離れようとした。

しかし、バーの扉を出たその瞬間、進路を阻まれた。

立ちはだかったのは、冷たい顔立ちの精悍な若い男だった。黒いスーツを隙なく着こなし、その長身が威圧感を放っている。

小夜は、その男を知っていた。

桐生彰(きりゅう あきら)。圭介の特別補佐。幼い頃から長谷川家の援助を受けて育ち、高校時代に圭介の側近として抜擢された。圭介への忠誠心は絶対的で、彼が最も信頼を置く懐刀である。

この男は誰に対しても感情を見せず、圭介の命令だけを遂行する、非情な機械のような人間だ。

小夜は、この男に良い印象を抱いたことがない。

このタイミングで現れたこと、そして先ほどの圭介の表情を考えれば、良からぬことであるのは明らかだった。小夜は無意識に携帯を強く握りしめた。

「奥様、携帯電話をお渡しください」

彰は表情一つ変えず、小夜に手を差し出した。

小夜は無言で首を横に振り、携帯を渡す気がないことを態度で示すと、体をずらして圭介の方に視線を送った。

彼は若葉に寄り添い、親密そうに何かを囁いている。こちらに目を向けることすらせず、その横顔には、彼女が一度も見たことのない優しい光が宿っていた。

小夜はそれ以上見るに堪えず視線を逸らすと、再び彰に向き直った。その顔は、氷のように冷え切っていた。

「もし、渡さなかったら?」

「奥様、どうか私を困らせないでいただきたい」

彰はなおも無表情のまま、プログラムされたロボットのように感情のない声で言った。

「そして、ご自身のお立場も、お忘れなきよう」

それは、紛れもない脅しだった。

「何ですって!」

芽衣が小夜を庇うように前に立ちはだかる。

「往来で強盗でも働くつもり?法治国家よ、ここは!」

彰は芽衣を一瞥すると、まるで人事ファイルを読み上げるかのように、淡々と彼女の経歴を口にした。

「瀬戸芽衣さん。弁護士実務経験、六年五ヶ月と十八日。主に民商事訴訟、知的財産権、企業法務を専門とし、現在は国内最大手の明峰法律事務所に所属」

そこで一度言葉を切ると、彼は続けた。

「奇遇ですね。長谷川グループは、明峰法律事務所の主要クライアントの一つです。瀬戸さん、明峰ほどの大事務所ともなれば、あなた一人くらい、代わりはいくらでもいるでしょう」

芽衣は顔面蒼白になり、一言も言い返せなかった。

意味は明白だった。今日この件に首を突っ込めば、彼女はキャリアを失う。長谷川グループの力をもってすれば、明峰に圧力をかけて彼女を業界から追放することなど造作もない。

しかし、今、目の前で脅されているのは、かけがえのない親友なのだ。

「芽衣、落ち着いて」

小夜は深呼吸でこみ上げる怒りを鎮め、努めて穏やかな笑みを浮かべると、芽衣の手を掴んで自分の車の方へ押しやった。

「先に車で待っていて。ここは私が片付けるから。大丈夫よ」

この件で親友のキャリアを台無しにすれば、一生後悔することになる。

だが、芽衣が安心できるはずもなかった。

今日、この男が圭介の目の前で、妻である小夜を堂々と脅している。それが、圭介の意思を何よりも雄弁に物語っていた。

あまりにも、情け容赦がない。

こんな状況で、小夜を一人にできるわけがない。万が一、脅しが通じず、相手が実力行使に出たらどうするのか。

その時、彰が再び手を挙げて遮った。

「恐れ入りますが、瀬戸さんにもまだお帰りいただくわけにはいきません。念のため、あなたの携帯電話も確認させていただく必要があります」

小夜の中で、かろうじて抑えつけていた怒りの糸が、ぷつりと切れた。その声には、もはや隠しきれないほどの険が宿っていた。

「彼女は関係ないでしょう!圭介と直接話すわ!」

彼女は彰の脇を抜け、楽しげに談笑する二人の元へ向かおうとした。

彰はわずかに眉根を寄せ、腕を伸ばして小夜の行く手を阻んだ。その掌は彼女の体に直接触れることなく、肩甲骨のあたりでぴたりと動きを制する。それは、形ばかりの礼節だった。

小夜は冷笑し、身をかわそうとしたが叶わず、手で押してもびくともしない。よろめいて数歩後ずさると、肩甲骨に鋭い痛みが走った。

「申し上げたはずです。ご自身を追い詰めるような真似は、おやめください」

彰は静かに告げた。

「無意味な抵抗です」

芽衣はもう我慢ならなかった。弁護士を辞めることになったとしても、親友が目の前で辱められるのを見ていることなどできない。

彼女がハンドバッグを振り上げて殴りかかろうとした瞬間、小夜に強く腕を掴まれた。

「芽衣、やめて!彼らのやり方を見て。あそこの交差点を」

芽衣ははっとし、言われた方に目を向けた。

いつの間にか、交差点に四、五台の黒塗りの車が停まっていた。開いた窓の向こうには、いずれも冷たい表情でスーツを着込んだ屈強な男たちが乗っており、威圧的な空気を放っている。

その矛先が誰に向けられているかは、火を見るより明らかだった。

彰が再び手を差し出す。

「奥様は賢明な方だ。どうすべきか、お分かりのはずです」

芽衣は呆然とし、信じられないといった面持ちだった。

「あなたたち、夫婦じゃなかったの……?どうして……」

これが夫婦の姿だろうか。仇敵と言われた方が、まだしっくりくる。

親友の結婚生活がうまくいっていないことは知っていたが、これほどまでに酷いとは想像もしていなかった。結婚してから、彼女は一体どんな日々を送ってきたというのか。

小夜は、今日この場を穏便に収めることは不可能だと悟った。

彼女は遠くの圭介に視線を送る。正妻である自分が彼の手下に追い詰められているというのに、彼は初恋の相手のそばで談笑している。手を取り合って親密に語らう姿は、知らない者が見れば、そちらこそが仲睦まじい夫婦だと思うだろう。

しかも、この男を差し向けたのは、圭介自身なのだ。

何という、茶番。

心臓に針を刺されるような、細かい痛みが走る。小夜は一度目を閉じ、再び開いた時には、その瞳は静寂を取り戻していた。彼女は口角を標準的な角度に引き上げたが、目に笑いの色はなく、氷のように冷え切っていた。

小夜は彰を見た。

「桐生さん。私の携帯の写真は消します。でも、芽衣は撮っていません。この件は彼女とは無関係です」

「それは、私が拝見してから判断いたします」

彰は一切譲らない。

「絶対にさせない」

この点において、小夜も一歩も引かなかった。彼女は言い放った。

「どうぞ、お好きになさい。この往来で、圭介の目の前で、私を殺すというのなら。そうでなければ、私の友人の携帯に指一本触れさせるものですか」

深夜十時過ぎとはいえ、この通りは有名なバー街で、隠れ家的な料理店も点在し、人通りはまだ少なくない。

すでに何人かがこちらを窺い、写真を撮っている者もいた。

だが、写真を撮っていた者たちは、すぐに車から降りてきた黒服の男たちに連れて行かれた。今夜ここで起きたことは表には出ないだろう。しかし、事が大きくなれば、もみ消すことはできない。

彰は黙り込んだ。

圭介が小夜を好いていないとはいえ、彼女は紛れもなく長谷川夫人だ。ここまで追い詰めるのが限界だった。

小夜はバーの入り口にある監視カメラを指さした。

「言ったでしょう。友人は無関係だと。撮ったか撮っていないかは、それで確認すればいい」

目の前の、予想外に強い態度に出る夫人を、彰は少し眉を上げて見つめ、やがて携帯をタップしてメッセージを送った。

すぐに返信があったらしい。

彰の表情が少し和らぎ、小夜が先ほど撮った圭介と若葉の親密な様子や、車から降りてきた時の乱れた姿の写真をすべて消去したことを確認し、再度チェックしてから、ようやくその場を離れた。

小夜は遠目で見ていた。彰が報告に戻った後、圭介はこちらを一瞥もせず、若葉の手を取って近くの料亭へと入っていく。

その途中、圭介の腕に抱きつくようにしていた若葉が、ふと振り返って小夜を見た。その魅力的な瞳は輝き、もう片方の手で口紅が乱れた唇をそっと押さえると、唇の端を吊り上げて微笑んだ。

「あのクソ野郎ども!」

芽衣は怒りで我を忘れそうだった。

しかし、小夜の顔に感情はなかった。彼女は若葉の挑発を無視し、俯いて黒いコーディング画面を呼び出すと、いくつかのコマンドを打ち込んだ。すると、画面に隠されていたロックアイコンが浮かび上がった。

それをタップすると、無数の緑色のコードが滝のように画面を流れ落ちていく。

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