共有

第4話

作者: 一燈月
夜、バー「蛍」。

薄暗い青の照明が落ちるボックス席で、二人の美しい女性が向かい合っていた。そのうち、ショートボブの女性が、怒りを露わにしていた。

「圭介の野郎、何を考えてるの! あなたを完全に馬鹿にしてるじゃない!」

瀬戸芽衣(せと めい)は怒りに肩を震わせ、スマホを小夜の顔に突きつけんばかりの勢いだ。画面には、昼間世間を騒がせたあのニュースが映し出されている。

「若葉と圭介の過去なんて、知らない人はいないわよ!

幼馴染で許嫁だったなんて、あの業界じゃ常識でしょう。妻帯者の身でありながら、自分の会社の社長に据えるなんて。

それも新設の子会社のトップに、いきなりよ?あなたを完全に舐めきってる!公衆の面前で恥をかかせているのよ!」

芽衣の怒りは収まらない。

小夜は長いまつ毛を伏せ、力なく微笑んだ。

「今に始まったことじゃないわ。気にしても仕方ない」

圭介を愛し、彼と結婚した瞬間から、彼女は社交界の笑いものだった。陰でどれほど嘲笑されたことか。何の取り柄もない女が、高嶺の花を手に入れたと、嫉妬と軽蔑の眼差しを浴びせられ続けた。

結婚後は冷遇され、会うたびに侮られ、からかわれた。そんなことをいちいち気に病んでいたら、心はとっくに壊れている。

それでも今日のニュースは、確実に胸に棘を刺した。

妻である自分は、圭介に歩み寄ろうとコンピュータ科学を学び直し、必死に技術を磨いて、希望を胸に長谷川グループの門を叩いた。

返ってきたのは、門前払いと、圭介からの冷笑と辛辣な言葉。

一方の若葉は、帰国するやいなや長谷川グループの新設IT子会社の社長という椅子が用意され、輝かしい未来への道が敷かれた。この差は、一体何なのか。

愛されているか、いないか。その境界線は、これほどまでに残酷だった。

「もういいの。今夜は離婚の相談に来たんだから。あの人たちの話はやめましょう」

小夜は微笑んで芽衣をなだめた。

芽衣は大学時代からの親友で、弁護士として七年のキャリアを持つ、国内でも名の知れた敏腕だ。離婚案件は専門外だが、離婚を決意した小夜が真っ先に頼ったのが彼女だった。

気心の知れた相手だからこそ、惨めな結婚生活の現実を包み隠さず話せる。

芽衣は小夜の表情に揺らぎがないのを見て、ようやく安堵のため息をつき、スマホをテーブルに置いた。

「そうね」

そして、吐き捨てるように付け加えた。

「あのクソ野郎の話なんて、時間の無駄だわ」

スマホをしまうと、芽衣は資料の中から婚前契約書を取り出し、小夜の前に滑らせた。いくつかの条項を指でなぞり、眉間に深いしわを刻む。その声には、憐れみと憤りが滲んでいた。

「昨夜送ってくれた資料、全部目を通したわ。この婚前契約書、完全にあいつの思う壺よ。圭介と離婚したら、あなたは一銭ももらえない。文字通り、身一つで放り出されることになるわ」

小夜にとって、それは予想通りの結末だった。

圭介は彼女を愛してもいなければ、信頼もしていない。だからこそ、結婚前にこの契約を交わしたのだ。長谷川の財産は、長谷川家のもの。小夜には、指一本触れる権利もない。

「慰謝料の請求は?」

小夜は静かに尋ねた。

圭介の財産など、初めから当てにしていない。

ただ、この七年間、家族のために尽くしてきた。その対価として、せめてわずかな慰謝料を。ほんの少しの償いを。

それは、自分が受け取るべき正当な権利のはずだ。

「厳しいわね。まず、この婚前契約書が大きな壁になる。それに、あなた自身に十分な収入があるし、圭介は仕事の面であなたと完全に一線を画してきた……」

言葉は途切れたが、小夜にはその意味が痛いほど伝わった。

それでも諦めきれず、最後の望みを託して尋ねる。

「相手に不貞行為があった場合は?有責配偶者としてなら……」

芽衣は頷いた。

「確実な証拠さえあれば、勝算はあるわ」

残念ながら、小夜の手にそんな証拠はなかった。

無一文での離婚が、現実味を帯びてくる。それでも、この結婚には終止符を打たなければならない。冷遇と無視、そして裏切りに、もう耐えられなかった。

その後も離婚について長時間話し合い、夜十時を回った頃、ようやくバーを出た。

店の入り口で、小夜の足が不意に止まった。

「どうしたの?」

芽衣が振り返る。

「圭介の車……」

小夜は、斜め前の路上に停まる黒のファントムを指差した。ナンバープレートは「99999」。

見間違えるはずがない。

なぜ圭介の車がここに、と二人が戸惑っていると、後部座席のドアが開き、ピーチピンクのショートダウンを着た美しい女性が降りてきた。

栗色のウェーブヘアは乱れ、潤んだ瞳は艶やかに潤んで揺れている。真冬にもかかわらず頬は上気し、おぼつかない足取り。ダウンジャケットのファスナーは開けられ、その装いは全体にだらしなく見えた。

その様子は、明らかに普通ではなかった。

二人とも、その女性が誰なのかすぐに分かった。相沢若葉、圭介の幼馴染で初恋の相手。まさか、こんな場所で遭遇するとは。

若葉も視線に気づいたのか、こちらを振り返った。小夜の姿を認めると、乱れた口紅を慌てて手で隠した。

続いて、圭介も後部座席から姿を現した。

小夜の鋭い視線が捉えたのは、圭介の姿だった。体にフィットしたスーツのボタンは開け放たれ、白いシャツの襟元は乱れ、そこには口紅の跡がべったりと付着していた。

唇も異様に赤く染まり、何かを貪るかのような余韻を残していた。切れ長の瞳は満足げに細められ、妖艶な色香を漂わせている。

夫婦として過ごした年月で、小夜は圭介が情欲に満たされた時の表情を知っていた。今の彼が、まさにその状態にあることは明白だった。

二人が車内で何をしていたかは、火を見るより明らかだった。

初恋の相手を前にして、車の中ですら自分を抑えられなかったというの? 自分と圭介の間には、もう一年近く夫婦の営みがないというのに。

この二人は、一体いつから……?

どれほど長い間、自分を欺いてきたというのか!

小夜の顔から、さっと血の気が引いた。彼女はバーの入り口の陰にいたため、圭介はまだ気づいていない。彼は車を降りるなり、よろめく若葉の体を支え、耳元で何かを囁いている。

二人の頭は触れ合わんばかりに近く、その親密さは誰の目にも明らかだった。

「ふざけないで! あのクソカップル、人目も憚らず……恥知らずにも程があるわよ!」

先に爆発したのは芽衣だった。親友が裏切られる現場を目の当たりにし、怒りで全身が燃え上がりそうだ。今にも飛び出して二人を殴りつけんばかりの勢いだった。

小夜は慌てて彼女の腕を掴んで制し、冷静に言い放った。

「騒がないで。写真は撮ったから」

芽衣は弁護士だ。公の場で暴力を振るえば、彼女のキャリアに傷がつく。こんな下らないことのために、そんなリスクを冒す必要はない。

勝つための証拠は、すでにこの手にある。

芽衣は一瞬呆然とし、次いで驚愕した。

「あなた、写真を撮る余裕があったの?」

何か言いかけた時、自分を掴む小夜の手が微かに震えていることに気づいた。途端に胸が締め付けられ、憐れみと怒りが同時に込み上げてくる。

その時、若葉と密談していた圭介が、彼女から何かを聞いたのか、こちらに顔を向けた。眉間にしわを寄せ、その表情は明らかに不快感を露わにしている。

圭介も、小夜がここにいることに驚いていた。出張中ではなかったのか。もう戻っていたとは。

だが、そんなことはどうでもいい。

戻るなり自分を尾行し、あまつさえ盗撮するとは。これは、彼の許容範囲を完全に超えていた。

分をわきまえない女だ。

圭介は、小夜が意図的に自分を尾行し、盗撮したのだと決めつけた。嫌悪と不快に満ちた表情で、半開きの運転席の窓を指で叩き、冷たく命じた。

「始末してこい」

自ら出向く価値もない、とでも言うように。

運転席にいた冷徹で精悍な顔つきの若い男は、「承知いたしました」と応じると車を降り、小夜たちに向かって大股で歩み寄ってきた。

この本を無料で読み続ける
コードをスキャンしてアプリをダウンロード

最新チャプター

  • 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった   第644話

    深夜、竹園地区。書斎には暖かな明かりが灯り、机の上には、縁を金で彩った赤い巻紙が広げられていた。銀縁の眼鏡をかけた青山が筆を手に取り、金色の墨を含ませて文字をしたためていく。赤い紙の上に、金色の文字が一つ、また一つと並んだ。だが、十数文字を書いたところで青山は眉を寄せ、紙を破ってゴミ箱へ捨てた。そばに控えていた神崎執事が、すぐに新しい巻紙を広げる。青山は、また初めから書き始めた。同じことが、夜中にもう何十回も繰り返されている。ゴミ箱が赤い紙で埋まりかけているのを見て、神崎執事は新たな紙に並ぶ、力強く流麗な金文字へ目を落とした。ついに、見かねて声をかける。「旦那様、もう十分に素晴らしい出来です。文字にも申し分ございません。そのまま最後までお書きになってよろしいかと」「駄目だ。まだ足りない」青山は顔も上げなかった。「これは、僕とささよの婚約の契約書なんだ」完璧でなければならない。わずかな瑕も、あってはならないのだ。「ですが、そのお手が……」筆を握る青山の手は、かすかに震えていた。神崎執事は心配そうに眉を寄せる。青山の手は、まだ完全には治っていない。それなのに、これほど長い間、机に向かって書き続けている。「何か言った?」よく聞き取れなかった青山が尋ねた。「もう夜も更けております。今夜はお休みになり、英気を養ってからお書きになったほうが、かえって良いものになるのではないでしょうか」青山は首を横に振り、筆を走らせたまま答える。「明日は婚約披露パーティーだ。今夜のうちに仕上げないと」そこで筆を止め、顔を上げて笑った。「それに、どうせ眠れないんだ」パーティーが近づくほど、気持ちは昂る一方だった。これ以上言っても無駄だと悟り、神崎執事も諦めた。青山がこれほど浮き立っている姿など、めったに見られない。婚約は一生に一度なのだから、今夜くらいは仕方がない。時計の針が音を刻み、夜はさらに深まっていく。床には、破られた赤い紙が散らばっていた。やがて窓の外が白み始めた頃、青山はようやく筆を止めた。震える手で筆を置き、赤い紙に縦書きされた金文字を眺めると、晴れやかな笑みを浮かべる。「できた」赤い紙に、金の文字。伸びやかで流麗な筆致には、躍動するような力が宿っていた。最初から

  • 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった   第643話

    やっぱり、あなただったのね。小夜は笑った。「でも、すごく気に入ってる。青山、ありがとう」「じゃあ、結婚式の衣装は?」「もちろん私がデザインするわ」そう答えてから、小夜は少し困ったように眉を寄せた。「でも、私がデザインして仕立てられるのは、あなたの衣装だけ。私のウェディングドレスは、大叔母様が自分で作ると前から決めているの。ずっと叶えたかったことだから」「うん。それもいいね」青山は、ピンクのチュールに包まれた小夜の細い腰をそっと抱き寄せ、その眉間に口づけた。「じゃあ、僕の衣装はささよにお願いしていいんだね?」「ええ」小夜はわずかに顔を上げ、避けることなくその口づけを受け入れた。照明の下に立つ二人は、どちらも息を呑むほど美しかった。ピンクとブルーを基調にした二人の衣装に、咲き乱れる無数の花。その華やかさが二人の整った顔立ちをいっそう引き立て、目が眩みそうなほどだ。そばにいた店長は思わず見惚れ、気づけばスマホを取り出していた。そして、その瞬間を写真に収める。咲き誇る花の中に浮かぶ、華麗な夢を。……時間はなかったが、婚約披露パーティーに必要な準備は、こうして滞りなく整っていった。ところが前夜になって、小夜のもとへ思いがけない人物から電話がかかってきた。「佑介?」前に別れたときの様子を思い出し、小夜は尋ねる。「……少しは落ち着いた?」「はい」佑介の声は穏やかで、特に変わった様子もなかった。だが、その次の言葉には鋭さが滲んだ。「お姉さんが婚約するって、どうして僕に教えてくれなかったんですか?僕たちは姉弟ではないんですか?こんなに大切なことなのに、僕はほかの人から聞かされたんですよ」「……ごめん」小夜は言葉を選びながら答えた。「事情があって、今回の婚約披露パーティーには、長谷川家の人を呼べないの」「呼べないんですか。それとも、呼びたくないんですか?」小夜は眉をひそめ、何も答えなかった。自分の口調がきつすぎたと気づいたのか、佑介は少し間を置いた。次に聞こえてきた声は、普段の柔らかさを取り戻していたが、どこか傷ついたようでもあった。「僕が長谷川の姓を名乗っているからですか?でも、お姉さんは僕のこと、本当に長谷川家の人間だと思っているんですか?お姉さんの人生にとって大切な

  • 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった   第642話

    まだ出てこない。互いの衣装を選ぶと決めた以上、小夜は辛抱強く待つしかなかった。菓子を何個かつまみ、紅茶を半分ほど飲んだ頃、ようやく青山が衣装の山から姿を現した。だが、その手には何も持っていない。「衣装は?」まさか、まだ決められていないのだろうか。「やっと一着見つけたよ。試着室に置いてある」青山は腰をかがめ、小夜が持っていた菓子を口元へ運んでほしいと目で促した。それを一口で頬張ってから続ける。「君自身の目で見てほしいんだ。ちょっと驚かせたくてね。僕の分は?」小夜は笑った。「私が選んだのも、試着室よ」……それぞれ着替えて試着室から出てきた二人は、揃って目を見張り、やがて顔を見合わせて笑った。照明の下に立つ小夜は、色とりどりの花をあしらった、淡いピンクのチュールドレスに身を包んでいた。何層にも重ねられたチュールは膝のあたりで蕾のようにふくらみ、そこからさらに柔らかな布が流れ落ちて床を引いている。胸元にはピンクや白、紫の花が咲き、腰から裾へも連なるように散りばめられていた。細かな輝きが星屑のようにドレス全体を覆い、歩くたび、花々を乗せた天の川が揺らめくようだった。青山の目には、小夜が星の川に咲いた花の精のように映った。まるで、華やかな夢がそのまま形を得たかのようだ。あまりに真っすぐな視線を向けられ、小夜の頬が熱くなった。少しためらってから裾を持ち上げ、青山の前まで歩いていく。その場で軽く一回りすると、ドレスの裾が花と星の川のように広がり、露わになった背中には、白い肌がほんのりと紅潮していた。小夜は目を伏せ、そっと尋ねる。「似合う?」青山の喉が小さく動いた。返ってきた声は、かすかに掠れている。「あまりに綺麗だ。ささよ、魂も命も、何もかも君に捧げてしまいたい」この花の夢に、いつまでも溺れていたいと思うほどに。もう、この人は。また恥ずかしげもなく、こんなことを言って。ほかの人もいるのに!そばに控えていた店長や店員たちも小夜の美しさに見惚れていたが、青山の言葉を聞くと、口元を押さえて笑った。小夜はますます顔を赤らめ、慌てて青山の袖を引くと、今度は彼の姿をじっくり眺める。「私が選んだもの、気に入った?」ようやく小夜から目を離した青山は両腕を広げ、彼女の前でくるりと回ってみせた。「も

  • 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった   第641話

    「どうだった?」書斎で仕事をしていた小夜は、外の物音を聞きつけると、慌てて扉を開けて問いかけた。だが、その声に応えるよりも早く、樹が胸へ飛び込んでくる。「ママ、青山おじちゃんが僕に意地悪した!ママにも会わせてくれなかったんだ!」小夜は樹を抱き止め、どういうことかと視線で後ろの青山に尋ねた。青山は笑みを浮かべて頷き、声には出さず「もう大丈夫」と口の動きだけで伝える。小夜にも、おおよその事情は察せられた。樹の髪を撫でながら、なだめるように優しい声で言った。「そんなに意地悪されたの?じゃあ今夜は、ママと二人で遊びに行こうか。青山おじちゃんは連れていかないでおこうね」樹の目がぱっと輝いた。「うん!」青山は思わず笑った。「まったく、ちゃっかりしてるな」だが、その顔に腹を立てた様子はない。「ふん!」樹はママの腕の中へ隠れ、振り返って青山にあかんべえをした。ママにとって一番大切なのは僕なんだから。これからも僕を怒らせるなら、ママに相手にしてもらえなくなるからな!これが僕を怒らせた罰だ!小夜も、青山が本当に樹を納得させられるとは思っていなかった。わずかな時間で、樹はまだ怒っている素振りを見せながらも、婚約そのものには反発しなくなっていた。とはいえ、機嫌が直ったわけではない。青山を見送ったあと、スマホで彼から事の顛末を聞いた小夜は、樹を連れて出かけた。樹の好きなように思いきり遊ばせ、ようやく胸に残っていた不満を吐き出させることができた。何はともあれ、これで樹のことはひとまず落ち着いた。翌朝早く、玄関のチャイムが鳴った。小夜が扉を開けると、青山が外で待っていた。「行こうか」今日は、婚約披露パーティーで着る衣装を選ぶ日だ。日程はかなり迫っていた。パーティーは二日後で、今から一から仕立ててもらう時間はない。最近発表されたオートクチュールブランドの新作から、すでに仕立て上がっているものを選ぶしかなかった。珠季からは、スプレンディドへ直接行くよう言われている。二人が帝都にあるスプレンディドの本店へ着くと、貸し切りにされた豪華なホールは静まり返っていた。早くから待っていた店長が歩み寄る。「高宮社長、小林様。こちらへどうぞ」小夜はスプレンディドのイギリス本社で要職に就いているため、店長も役職で呼

  • 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった   第640話

    今回の婚約披露パーティーも、単に長谷川家と縁を切るためだけのものではない。珠季に心から安心して、これからの人生を楽しんでもらうためでもある。いつまでも小夜のことを気に病み、心を煩わせずに済むように。青山は、そのおかげでずいぶん得をしたのだ。あの夜、小夜と一緒にイギリスへ行き、珠季に会うと決めたことは、今振り返っても会心の一手だった。珠季から、はっきりと拒絶されない限り、青山の想いはほとんど実ったも同然だった。もともと、小夜も青山を強く拒んでいたわけではない。珠季が青山を嫌いさえしなければ、あとは自然に進んでいく。では、樹の気持ちはどうか。もちろん大切ではあるが、それだけで全てが決まるわけではない。樹とうまくやれれば、さらに望ましいということだ。たとえ関係を築けなくても、婚約そのものに大きな支障はないかもしれない。だが、小夜を失望させることにはなる。それだけは、絶対に避けたかった。青山自身も、このことで小夜を悩ませたくはない。小夜には、幸せを心から味わってほしかった。後悔など、させたくない。もし後悔させてしまったら、これほど情けないことはなかった。……樹は、目の前にいる男を食い入るように見つめた。馬鹿ではない。青山が嘘をついていないことも分かっている。それでも、やはり青山が嫌いだった。樹は勢いよく立ち上がると、扉へ歩み寄った。ドアノブを掴み、扉を開けようとした。「今の話をママに言ったら、ママは……」「言ってもいいよ」青山は椅子に座ったまま、身じろぎもしなかった。樹が扉を細く開け、外へ出ようとしたところで、静かに続けた。「樹くんは、おじちゃんの秘密を知ってる。おじちゃんも、樹くんの秘密を知ってる。おじちゃんを父親として認めたくないなら、それでも構わないよ。親子になれなくても、友達にはなれるだろう?それに、今はまだ婚約しただけだ。君を大切にしてくれる人が一人増える。それって、悪いことかな。どうして一度試してみようと思わないの?」樹が動かないのを見て、青山はさらに言葉を重ねた。「君のママは、僕を受け入れた。君と僕、ママにとって同じように大切な二人がいがみ合っていたら、一番幸せなはずのときに、ママを悲しませることになる。君はもう、何度もママを悲しませてきた。それでも、ま

  • 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった   第639話

    青山にとって、こうした電子制御の仕組みなど、ないも同然だった。規則に沿って組まれた、単純なコードにすぎない。飛んできたレゴブロックを、軽く首を傾けてかわした。青山は後ろ手に扉を閉め、笑顔を浮かべた。「ごめんね。勝手に入ったのは悪かったけど、こうして話し合いから逃げるのはよくないよ」それほど申し訳なく思っているようには見えなかった。何にせよ、問題は解決しなければならないのだ。そのために、どんな手段を取るかは二の次だった。まして、樹のように扱いの難しい子供が相手なら、ときには強引な方法も必要になる。「少し落ち着こう。冷たいジュースでも飲む?」青山は笑顔で近づき、持っていたグラスを一つ差し出した。だが、樹はその手を勢いよく払いのけた。グラスは傾いたものの、床には落ちなかった。しかし、中の桃色のジュースは青山の手にこぼれ、指を伝って滴り落ちた。部屋中に、桃の甘い香りが広がった。「出ていって!」樹は冷たい目で青山を睨みつけた。「もったいないな」青山は気にする様子もなく、デスクへ歩み寄った。空になったグラスを置き、もう一杯のジュースもその隣へ置いた。それからティッシュを取り、手にまとわりつくジュースを丁寧に拭き始めた。「せっかく、おじちゃんが心を込めて作ったのに。君のママは、とても気に入ってくれたよ」「僕はママみたいに騙されないからな!」樹は怒りに満ちた目で、青山を睨んだ。「騙す?」指を拭く手が、わずかに止まった。青山は目を伏せて、樹を見下ろした。口元の笑みは少し薄れたものの、声は変わらず穏やかだった。ただ、眼鏡の奥の瞳には、何の感情も浮かんでいなかった。「それは逆じゃないかな、樹くん」その場にしゃがみ込み、怒りを隠しきれない樹の目を正面から見つめた。「おじちゃんは、君のママに嘘をついたことは一度もないよ。君はどう?嘘をつくのは、いい子とは言えないね」樹の顔色が変わった。部屋へ入る前、青山も穏やかに話し合うつもりではいた。だが、実際にはそう簡単にいかなかった。樹は、まともに話す機会すら与えようとしなかった。樹が青山を拒む気持ちは、理屈より先にある。このまま何も話さないか。それとも、強引にでも向き合わせるか。ほかに選択肢はなかった。幸い、樹は

  • 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった   第292話

    あの晩、圭介は電話を受けると、何も言わず、部屋に戻ることもなく、そのまま去っていった。小夜を大学まで送ったのは、彰だった。その後何日も、圭介は姿を見せず、大学で会うこともなかった。彰さえも大学から姿を消し、二人の消息はぷっつりと途絶えた。当時の小夜は、心配するよりもむしろ安堵していた。圭介が忙しいなら、それに越したことはない。あの男と渡り合うには、かなりのエネルギーと精神力を消耗するからだ。来ないなら、その方がいい。契約恋愛の期限も、刻一刻と終わりに近づいていた。彼女はプロジェクトの学習に没頭した。そして、契約期間終了の一週間前。青山率いるチームのプロジェクトに

  • 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった   第367話

    小夜は軽く視線を走らせると、青山に微かに頷き、そちらへ歩き出した。宴になど興味はない。若葉からお守りを取り返したら、すぐに立ち去るつもりだった。彼女が歩き出すと、青山も周囲の人々に社交辞令を述べ、適度な距離を保ちつつ後を追った。若葉は小夜が近づいてくるのに気づくと、ふっと笑みを浮かべ、圭介と組んでいた腕を解き、身を翻して去っていった。小夜は眉をひそめ、足早に後を追った。圭介のそばを通り過ぎる際、彼が手を伸ばしてくるのが視界の端に見えたが、彼女は反射的に身をかわし、さらに歩調を速めた。その時、背後にいた青山が突然歩み寄り、追いかけようとした圭介と肩を激しくぶつけ合った

  • 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった   第365話

    食事会に来ないことを見越してか、開催の前日になって、若葉から突然一枚の写真が送られてきた。写真に写っていたのは、金と白玉で作られたお守り勾玉だった。小夜にとって、これほど見覚えのあるものはない。だが、これは樹が身につけているはずのものだ。なぜ若葉が持っているのか?小夜の顔色が曇った。ずっと以前、大叔母の珠季が帰国した際、曾姪孫である樹に一目で会い、とても気に入って、特級の白玉を探し出し、自らデザイン画を描き、月島工房の職人に彫らせ、さらに寺院で高僧に開眼供養までしてもらったものだ。すべては、樹の厄除けと健康、そして一生の平穏を願ってのことだった。それが今、若葉の手にある

  • 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった   第361話

    実のところ、圭介が小夜に対してどのような感情を抱いているのか、若葉にはもう全く読めなくなっていた。哲也に対しては自信ありげに振る舞ってはいるものの、内心では確信などこれっぽっちもなかったのだ。少し考えた後、若葉は顔を上げ、その艶やかな瞳に鋭い光を宿して言った。「お父様、ご安心ください。私にはまだ手があります」「どんな手だ?」「受理されるまでは長すぎます」若葉は冷ややかに言った。「ここ数日のうちに、あの女を海外へ追い出す方法を考えます。一度出てしまえば、もう誰も助けることはできません」哲也は一瞬呆気にとられ、何かに思い当たったのか顔色を変えた。「お前、まさか…

続きを読む
無料で面白い小説を探して読んでみましょう
GoodNovel アプリで人気小説に無料で!お好きな本をダウンロードして、いつでもどこでも読みましょう!
アプリで無料で本を読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status