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夫と息子に捨てられた私、大物の子を授かった
夫と息子に捨てられた私、大物の子を授かった
作者: 迷い魚

第1話

作者: 迷い魚
「旦那様、奥様がお戻りになりました」

二階にいた男はその声を聞き、床まで届く大きな窓から邸の外へ視線を落とした。しなやかな体つきの女が車を降り、玄関の中へ消えていく。

望月紗和(もちづき さわ)が階段を上がってくると、力強い腕にぐいと引き寄せられた。振り向いた先にいたのは、御堂怜央(みどう れお)だった。

こういう時、怜央はたいてい何も言わない。

紗和は、熱を帯びた腕の中に閉じ込められた。

灼けるような体温に、身体の輪郭まで溶けてしまいそうだった。

しばらくして、肌に残る熱が少しずつ引いていく。

紗和は、乱れた掛け布団に残る情事の跡を見つめたあと、黙って身を起こした。ピルのシートから一錠を押し出し、そのまま飲み込む。

背後から、男の低い声がした。

「自分の子どもが欲しかったんじゃないのか。俺は別に、お前に産ませないと言っているわけじゃない」

紗和は錠剤を飲み下し、静かに言った。

「忘れたの?あなたの大事な幼なじみが、私からお腹の子を奪ったあの日、私は言ったはずよ。あなたが彼女を許す示談書に署名するなら、私はもう二度と、あなたの子どもなんて産まないって」

紗和の目元が、じわりと赤く染まった。

苦しい記憶が、一気に胸の奥からあふれ出す。

5年前、紗和は怜央と結婚した。これからの人生は、この男に守られ、愛されながら幸せに続いていくのだと、本気で信じていた。

けれど妊娠七か月の時、家を訪ねてきた花宮莉乃(はなみや りの)に、何度も腹を蹴られた。そのせいで紗和は流産し、お腹の子を失った。

それでも、紗和を何より深く傷つけたのは、夫である怜央が、莉乃を許してやれと求めてきたことだった。

あの時、怜央が口にした、感情も本心も読み取れない言葉を、紗和は一生忘れられない。

「莉乃もわざとやったわけじゃない。子どもはまた作れる。だが莉乃を刑務所に行かせるわけにはいかない」

莉乃、だなんて。

ずいぶん親しげに呼ぶのね。

その女は、私のお腹の子を奪った張本人なのに。

紗和は三日間、泣き続けた。そして、こう言った。

「私は一生許せない。私の子どもを奪った人間を許す書類になんて、署名できない。あの女が憎くてたまらないの」

けれど最後には、紗和が怜央の前でどれほど取り乱しても、呪いのような誓いを口にしても、怜央は彼女の代わりに示談書に署名した。

怜央の声が、不意に耳元で響いた。

「もう過ぎたことだろう。養子も迎えたじゃないか。今さら蒸し返してどうする。自分を苦しめるだけだ」

まるで大したことではないとでも言うように、あまりにも軽い声だった。

怜央の手が、なだめるように紗和の頬へ触れる。

「子どもが欲しくないなら、それでいい。好きにしろ」

そう言うと、怜央はベッドを降り、バスルームへ向かった。

本当なら、紗和は真っ先に子どもの様子を見に行きたかった。けれど怜央に引き止められてしまったため、急いで身支度を整え、子ども部屋へ向かった。

途中でシッターに会った。

「晴翔は?」

紗和が尋ねると、シッターは答えた。

「お休みになっています」

子ども部屋に入ると、たしかに晴翔は寝間着を着ていた。けれど、眠ってはいなかった。

小さな机の前にきちんと座り、スマホを両手で持って、真剣な顔で誰かとビデオ通話をしている。

紗和が入ってきたことにも気づいていない。

「晴翔?」

御堂晴翔(みどう はると)はその声を聞くなり、すぐに小さな手を伸ばして通話を切った。けれど、振り向こうとはしなかった。

紗和は歩み寄り、晴翔を抱き上げた。頬に口づけた途端、晴翔はわっと泣き出した。

「ママ、いや。偽物のママなんか、いや」

紗和はその場で固まった。言いようのない悲しみが、胸の奥に広がっていく。

この子が自分の実子ではないことは、紗和も分かっていた。けれど、ずっと本当の子どものように育ててきた。晴翔にも、その生い立ちを一度も話したことはない。

それなのに、たった半月家を空けただけで、どうして急に自分を偽物だと言うのだろう。どうして、こんなにも拒むのだろう。

紗和は抱きしめていた腕の力を緩めた。

「ママね、ずっと晴翔に会えなかったから、会いたかったの」

けれど、どれほど言葉を尽くしても、晴翔は泣き続けた。紗和が部屋を出ていって、ようやく落ち着いた。

紗和は晴翔のスマホを持って部屋を出た。まだ五歳の子どもに、スマホを自由に使わせるのはよくない。

画面を確認すると、晴翔がビデオ通話をしていた相手は、「莉乃おばさん」と登録されたアカウントだった。

胸が、ぎゅっと詰まる。

けれど紗和はすぐに、幼稚園に新しく来た先生かもしれない、あの女のはずがないと思い直した。

子ども部屋のドアを閉めたあと、ふと何かを思い出し、シッターに尋ねる。

「最近、晴翔の幼稚園に新しい女の先生が来た?」

シッターは首を横に振った。

寝室へ戻ると、紗和の心はさらに重く沈んでいった。

自分が最も嫌い、最も憎んでいる人間の名前が、なぜ形を変えて晴翔のスマホに現れたのか。

この「莉乃おばさん」とは、いったい誰なのか。

紗和ははっとして、スマホを手に取った。

それは怜央のスマホだった。画面の中央に、未読メッセージが一件表示されている。

【莉乃:怜央くんと一緒に晴翔のそばにいられて、私、本当に幸せ】

紗和の喉が、きゅっと締めつけられた。

指先に力が入り、関節が白くなる。

彼女はそのメッセージを開いた。

怜央と莉乃のメッセージ画面には、数えきれないほどのやり取りが並んでいた。

それも、ほとんど毎日。

5年前、莉乃が紗和と怜央の子どもを奪ったことで、怜央も少しは莉乃を嫌うようになったはずだと、紗和は思っていた。

まさか、それどころか、以前にも増して親密に連絡を取り合っていたなんて。

さらに紗和を打ちのめしたのは、莉乃が会話の中で晴翔のことを呼ぶ時の、あまりにも親しげな口ぶりだった。

まるで晴翔が、莉乃と怜央の隠し子であるかのように。

涙が、ぽたぽたと雨のように落ちた。

固く握りしめた手の下で、スマホの画面へこぼれていく。

全身が震えていた。

怒り、屈辱、痛み。すべてが押し寄せる波のように、胸の中へなだれ込んでくる。

つまり5年前、紗和がわが子を失ったのは、莉乃がこの隠し子を家に迎え入れるために、怜央と示し合わせて仕組んだことだったのか。

そして当時の紗和は、子どもを失って心身ともに弱りきっていたから、この子を心のよりどころとして受け入れてしまった。

すべては、彼らに都合よく操られていただけだったのか。

証拠を録画しようとした、その時だった。

バスルームの水音が、ぴたりと止まった。

怜央がバスルームから出てきた。

紗和はすでに彼のスマホを元の場所へ戻していた。けれど髪は乱れ、顔は涙に濡れ、悲しみと怒りで全身が震えていた。

怜央は伏し目がちに彼女を一瞥した。もう一度抱こうとしていた欲は、一瞬で消え失せた。

「私たちの子の命日がいつか、覚えてる?」

紗和が尋ねた。

怜央は冷ややかに言った。

「お前は今、普通じゃない。少し一人で落ち着け。話は明日にしよう」

そう言い終えると、彼はスマホとベッドに置いてあった寝間着を手に取り、寝室を出ていった。

結婚して何年も経つというのに、身体を重ねる時を除けば、怜央はずっと紗和に冷たかった。見せる優しさは形だけで、いつもどこか距離があり、彼女を煩わしそうにしていた。

失ったわが子の命日さえ、彼は言えない。

それなのに莉乃には、どれほど面倒でも付き合い、何を聞かれても答えた。いつも寛大で、辛抱強かった。

本当なら、もう慣れているはずだった。

けれどその時、紗和は突然、これ以上はもう無理だと思った。

離婚しなければ。

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