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第2話

迷い魚
紗和はベッドの上で、一晩中うつろに座り込んでいた。

胸の中は空っぽで、ただ茫然としていた。

自分の人生が、ひどく悪い冗談のように思えた。

紗和は小さく笑った。

結婚して5年。彼女はもう、8年も怜央を愛していた。

大学時代、紗和は怜央にひと目で恋をした。けれど同時に、自分が彼にふさわしくないことも痛いほど分かっていた。

御堂家は、この地域で名実ともに頂点に立つ名家だった。一方の紗和は、両親を亡くした孤児にすぎなかった。

それでも紗和は必死に努力し、夢を追うように彼を追いかけた。

そしてついに、彼の目に留まった。

大学時代、紗和はプログラミングの才能を発揮し、自作した小さなゲームが学内で大きな話題になった。卒業前から、大手企業が破格の条件で権利を買い取りたいと申し出てきたほどだった。

本来なら、それは紗和にとって人生で初めて手にする大金になるはずだった。

けれど彼女は最終的に、その権利を無償で怜央のために使うことを選んだ。

当時、怜央はすでに御堂ホールディングス傘下の御堂ゲームスに配属されていた。兄弟たちの中でいち早く実績を上げ、後継者の座を手に入れるためでなければ、彼が紗和を妻に迎えることなどなかっただろう。

それでも、妻にしたからといって、怜央が紗和を愛することはなかった。

昔の紗和は、努力し続ければ、いつかきっと彼に大切にされる日が来ると、愚かにも信じていた。

けれど現実は、その思いを何度も何度も容赦なく打ち砕いた。

もう、目を覚ますべきだった。

怜央と離婚する。

紗和はシャワーを浴びに行こうとした。けれど長く座り込んでいたせいで脚がこわばり、危うく転びかけた。結局、ベッドへ倒れ込むようにして、そのまま意識を失うように眠ってしまった。

再び目を覚ました時には、すでに夕方五時を過ぎていた。

その日、紗和は一日中家にいた。けれど屋敷の中は妙に静かで、誰も彼女を邪魔しに来なかった。

まるで夫も子どもも、彼女など最初からいないものとして扱っているかのようだった。

誰も、紗和を必要としていない。

彼女は電話を手に取った。

「彩葉、離婚届と協議書を用意して」

桐谷彩葉(きりたに いろは)は、紗和の一番の親友であり、離婚案件に強い弁護士でもあった。

「あなたの希望どおりに作ってあるわ。送るから確認する?」

「ありがとう、彩葉」

紗和はそう言ってから、すぐに続けた。

「送らなくていい。直接届けて」

「そんなに急ぐの?本当に決めたの?」

彩葉は、紗和の離婚に反対しているわけではなかった。

紗和が莉乃に故意に傷つけられ、流産して子どもを失った時から、彩葉はずっと、許すべきではない、示談に応じるべきではない、必ず莉乃に罪を償わせるべきだと主張していた。

けれど当時の彼女の小さな法律事務所では、巨大な資本の圧力に到底太刀打ちできなかった。

それでも彩葉には、はっきり分かっていた。

あの一件で、紗和と怜央の結婚には深い亀裂が入った。もう、元どおりになることなどあり得ない。

割れた鏡が元に戻ることなど、現実にはまずない。彩葉が信じているのは、割れた鏡はさらに細かく砕けていくだけだということだった。

あの事件のあと、彩葉は紗和がそう長くは持たずに離婚すると思っていた。

まさか、そこからさらに何年も耐え続けるとは思いもしなかった。

何より卑劣だったのは、怜央が自ら紗和を連れて養子を迎え、実の子を失った痛みから目を逸らさせたことだった。

ここまで耐えてしまった以上、彩葉はもう、このまま時間だけが過ぎていくのかと思っていた。

まさか紗和が、今になって動き出すとは思わなかった。

とはいえ、彩葉はこれまで数えきれないほどの離婚案件を見てきた。だからこそ、紗和が一時の感情で突っ走っているのではないかと心配だった。

「怜央は、いい夫ではないかもしれない。でも、ある意味では……」

紗和は明かりをつけ、身を起こした。

頭の中が、かえって冴えていく。

「決めたの。彩葉、知ってる?晴翔はたぶん、怜央と莉乃の子よ」

「何ですって?」

彩葉は息をのんだ。

仮にも御堂ホールディングスの後継者であり、名家に生まれた男である怜央が、そこまで卑劣で恥知らずなことをするとは思ってもみなかった。

人を、ここまで踏みにじれるものなのか。

彩葉は思わず悪態をついた。

「あいつ、人間じゃないわね!」

そしてすぐに言った。

「宅配なんてやめる。今日はもう残業しない。私が直接届けに行く」

電話を切ると、紗和の涙もこぼれ落ちた。

昨夜、崩れ落ちてからずっと、胸の奥に何かが詰まっていた。

それは体にも心にも重くのしかかり、息をすることさえ苦しくさせていた。けれど今、そのことを彩葉に言葉にして伝えた瞬間、紗和はようやく気づいた。

胸につかえていたのは、恨みだった。

憎しみだった。

踏みにじられた悔しさだった。

莉乃は紗和のお腹の子を奪った。それなのに、紗和と怜央の結婚生活が続いているその裏で、怜央の子を産んでいた。

あげく、その子を紗和に育てさせ、長年にわたる世話も、母としての愛情も、すべて自分たちの子どものために奪い取っていたのだ。

もし気づかなければ、その献身はいつまで続いていたのだろう。

紗和は一生、愛してもくれない夫と、自分の子でもない子どものために、身を削って尽くし続けることになっていたのだろうか。

紗和がまだ涙も拭ききらないうちに、彩葉はもう到着していた。

玄関のチャイムが鳴る。

ドアを開けると、そこには書類を握った彩葉が立っていた。

まるで役所の窓口さえ開いていれば、今すぐ紗和と怜央を連れて手続きに行かせる勢いだった。

紗和が口を開く前に、彩葉が言った。

「私、ここへ来る途中で誰を見たと思う?」

彼女はスマホを取り出し、道中で撮った動画を紗和に見せた。

映っていたのは、通り沿いのレストランだった。

そこに怜央と莉乃、そして晴翔がいた。三人で親密そうに夕食をとっている。

莉乃は晴翔と同じ側に寄り添うように座っていた。

怜央と話しながら、晴翔をあやしている。

晴翔は得意げに身を寄せ、莉乃に甘えていた。

怜央は二人に料理を取り分けていた。

その視線は終始、向かい側に座る莉乃へ向けられていて、まるで彼の目には彼女しか映っていないかのようだった。

ついさっきまで、紗和の心のどこかには、もしかすると自分の勘違いかもしれないという、かすかな期待が残っていた。

けれど今、その期待も完全に冷え切った。

離婚届と協議書を受け取ると、紗和は彩葉の腕の中に倒れ込み、声を上げて泣いた。

少し気持ちを整えたあと、彩葉は依頼人から相談の連絡が入り、長くは留まれなくなった。

紗和は彼女を見送った。

夜十時を過ぎた頃になって、ようやく邸の階下から物音が聞こえた。

晴翔が名残惜しそうに尋ねている。

「パパ、莉乃ママはおうちに住めないの?晴翔、莉乃ママに会えてすごくうれしい」

紗和は窓を開けていた。しかも、ちょうど窓辺に立っていたため、その声ははっきりと耳に入った。

何年も自分が育ててきた息子が、自分を傷つけたあの女を、ママと呼んでいる。

スマホに「おばさん」と登録されていたのは、ただ人目をごまかすためだったのだ。

本当の呼び方は、ママだった。

三人は食事を終え、満ち足りた様子で帰ってきた。

一方の紗和は、水一口飲むこともできず、食事もひと口として喉を通らなかった。

怜央が何と答えたのか、紗和には聞こえなかった。

どれほど時間が過ぎたのか分からない。背の高い影が、彼女のほうへ近づいてきた。

薄い唇が、耳元に触れる。低くかすれた声には、人を惑わせるような響きがあった。

「紗和、まだ昨日のことを怒っているのか?」

そう言いながら、怜央は彼女に口づけた。

紗和はそこでようやく我に返り、後ろへ退こうとした。けれど怜央の広い胸に、すっぽりと囲い込まれてしまう。

怜央は彼女を抱き上げ、ベッドまで運ぶと、その上に放り出すように寝かせ、覆いかぶさった。

紗和には分かっていた。

彼は昨夜満たされなかった欲を、今度は彼女で満たそうとしているのだ。

けれど、受け入れるはずがなかった。

紗和は思いきり怜央に噛みついた。怜央の唇から血がにじみ、彼は痛みに低く呻いて顔を上げた。

長い指で唇の血を拭い、怒りをにじませた目で紗和を睨みつける。

そしてまた覆いかぶさり、さらに強く彼女に口づけた。

紗和は両手で彼の厚い胸を押し返した。

目の前にある、人形のように整った怜央の顔を見た瞬間、心臓が激しく跳ねた。

8年前の出会いが、脳裏によみがえる。

クリスマスに開かれたIT系の展示会で、初めて彼を見た。怜央は黒いカシミヤのコートをまとい、気品があり、近寄りがたいほど冷ややかな空気を纏っていた。

彼が通り過ぎた時、紗和は思わずその姿を目で追った。

すると、白いフォックスファーを羽織り、赤いスパンコールのドレスを着た少女が、親しげに彼の肩へ身を寄せ、甘えるように話しかけているのが見えた。

その瞬間、怜央の凍りついたような眼差しがふっとほどけた。彼は甘やかすように、少女の頭を撫でた。

紗和は後になって知った。

その少女こそ、怜央と幼い頃から一緒に育った幼なじみであり、彼が最も愛する人だったのだと。

紗和は完全に目を覚ました。

全力で、自分の上で欲を満たそうとしている怜央を押しのける。

「どうした?」

頬を赤く染め、怜央がかすれた声で尋ねた。

紗和は口を開いた。

「怜央、あなたと莉乃には、子どもがいるの?」

その言葉を聞いた瞬間、怜央の顔色が変わった。

ひどく冷たい表情になり、紗和へ向けていた欲も一瞬で消え失せる。

彼は起き上がり、紗和から距離を取った。

「そうだ」

不意に、彼は認めた。

「莉乃は子どもを産んだ。俺の子だ」

紗和の声は震えていた。

「その子が、晴翔なのね?」

「そうだ」

怜央の声は、重くはっきりと響いた。

「晴翔だ」

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