LOGIN翌日になっても、芹奈から連絡はなかった。 千紘も何も送らなかった。 昨夜の「あれ」の続きが気にならないわけではない。それでも、ここで自分から答えを求めれば、芹奈はまた警戒するだろう。 昼休み、千紘がスマートフォンを確認すると、代わりに彰人からメッセージが届いていた。『少し相談したいことがあるんですが』 またか。 そう思いながら返信する。『何でしょう?』『相沢のことで』 千紘は小さく息を吐いた。 ◇『最近、相沢から何か相談されてませんか?』『前にも聞かれましたよね』『すみません。でも、少し心配で』『相沢さん本人に聞いた方がいいと思います』『聞いても話してくれないんです』 それも前に聞いた。 千紘は少し考えてから文字を打つ。『榊原さんは、どうして私に何度も同じことを聞くんですか?』 送信すると、しばらく返事が来なかった。『雨宮さんには話してる気がしたので』『どうしてそう思うんですか?』『最近、相沢があなたのことを気にしていたから』 千紘の指が止まる。『それだけですか?』 また返事が途切れた。『俺たちのことで、変なことを言ってないかと思って』『変なことって?』『昔のこととか』 千紘は画面を見つめた。 彰人自身が、少しずつ範囲を狭めている。 こちらから何も聞いていないのに。『昔のことと言われても、私には分かりません』『そうですよね。すみません』 そこでやり取りは終わった。 千紘はスマートフォンを伏せた。 彰人は芹奈が何を話したのか知りたがっている。 そして芹奈は、彰人が何を隠しているのか知りたがっている。 二人とも、自分の知らないところで相手が何かをしていること
第119話 聞かれたくないこと その日の夕方、芹奈は仕事を終えてもすぐには席を立たなかった。 彰人が先に帰るのを待っていた。 昼間のことを考えると、二人きりになるのが嫌だった。 やがて彰人が鞄を持って立ち上がる。こちらを一度見たが、何も言わずに会社を出ていった。 それから十分ほど待って、芹奈も席を立った。 ◇ 駅へ向かう途中、スマートフォンが震えた。 彰人かと思ったが、違った。 雨宮凛だった。『この前のこと、その後大丈夫でしたか?』 芹奈は足を止めた。 以前、自分から「消してと言われたらどうするか」と尋ねた。その話だろう。『大丈夫です』 そう返してから、少し迷う。『消してません』 すぐに返事が来た。『そうなんですね』 それだけだった。 何を持っているのかも、誰に消せと言われたのかも聞いてこない。 芹奈は画面を見つめた。 彰人とは違う。 彰人は何が残っているのか知りたがる。 見せろと言う。 今度は渡せとまで言った。 なのに雨宮は、何も聞かない。『聞かないんですか?』 思わず送っていた。『何をですか?』『私が何を消してって言われたのか』 少し間が空いた。『相沢さんが話したいなら聞きます。でも、私から聞き出すことではないと思うので』 芹奈は返事を打ちかけて、やめた。 また打って、消した。 何度か繰り返したあと、ようやく送る。『昔のメッセージです』 そこまでだった。 誰とのメッセージなのかは書かなかった。『そうだったんですね』 雨宮はやはり、それ以上尋ねなかった。 ◇ 芹奈は駅前のベンチに座った。 電車を一本見送る。『もし』 文字を打つ。『もし、そのメッセージを持ってることを相手がすごく嫌がってたら、どう思います?』『内容によると思います』 当然の答えだった。 芹奈は唇を噛んだ。『相手にとって都合が悪い内容だったら?』 今度は少し返事が遅かった。『私なら、なぜそこまで消してほしいのか考えます』 芹奈はスマートフォンを握り締めた。 自分と同じだった。 彰人が何度も消せと言うからこそ、消すのが怖くなる。『ですよね』 送った直後、別の通知が入った。 彰人だった。『今どこ?』 芹奈の背中が強張る。『帰るところ』『少し話せない?』『今日は無理』
週明けの朝、芹奈が出社すると、机の上に彰人からのメモが置かれていた。『昼、少し時間ください』 それだけだった。 社内チャットでも電話でもなく、わざわざ紙に書いたことが気になった。 芹奈はメモを裏返し、そのまま仕事を始めた。 ◇ 昼休みになると、彰人は何も言わずに芹奈の席の横を通り過ぎた。 ついてこいということなのだろう。 迷った末、芹奈は少し時間を置いて席を立った。 彰人が待っていたのは、会社から数分離れた小さな公園だった。「何?」「スマホのこと」「もう話さないって言ったよね」「これで最後にする」 彰人は周囲を確認してから、声を落とした。「古いスマホ、俺に預けてくれない?」 芹奈は耳を疑った。「……なんで?」「俺が持ってた方が安全だから」「何から?」「何かあったときに」「何かって?」「だから、万が一だよ」 芹奈は彰人を見つめた。「消せって言って、見せろって言って、今度は渡せって?」「消したくないなら、それでもいい。だったら俺が保管する」「嫌」 即答だった。「芹奈」「絶対に嫌」「俺を信用できないのか?」 その言葉に、芹奈は思わず笑った。「彰人さんがそれ言うの?」「何がおかしいんだよ」「自分のメッセージは消したんでしょう?」「それは前にも説明しただろ」「じゃあ、私が持ってても同じじゃない」「同じじゃない。芹奈は最近、様子がおかしいから」「私が?」「あちこちで余計なこと話してないか心配なんだよ」 芹奈の顔から笑みが消えた。「あちこちって、誰に?」「雨宮さんとか」
予約していたレストランは、水族館から少し離れた場所にあった。 窓の向こうには海が見える。 席へ案内された瞬間、律が千紘を振り返った。「席、変えてもらいましょうか?」 千紘は一瞬、何のことか分からなかった。 すぐに窓の外を見て気づく。「大丈夫です」「本当に?」「はい。ここなら平気です」 ガラス越しの明るい海は、先ほどよりずっと遠く感じられた。「それならいいんですけど」 律は向かいに座った。 それ以上、海については何も言わなかった。 ◇ 料理が運ばれてくる頃には、千紘もすっかり落ち着いていた。「これ、おいしい」「よかったです」「律さんが作ったわけじゃないでしょう」「店を選んだのは俺なので」「じゃあ律さんの手柄ですね」「そういうことにしておきます」 二人で笑う。 さっきまで海を怖がっていたことが嘘のようだった。 食事をしながら、次に見たい映画の話をした。水族館で見たペンギンの話もした。 気づけば外は薄暗くなっている。「そろそろ出ましょうか」 律に言われて時計を見る。「もうこんな時間?」「結構いましたね」「全然気づかなかった」 そう言ってから、千紘は少し寂しくなった。 今日はもう終わる。 ◇ 帰りの電車では、行きよりも二人とも静かだった。 疲れたせいもある。 それでも居心地は悪くない。 隣に律がいる。 それだけで、不思議と落ち着いた。 やがて乗り換えの駅へ着いた。「雨宮さん、ここですよ」「あ……はい」 二人で電車を降りる。 ホームを歩きながら、千紘は何度も時計を見
休日の朝、千紘は待ち合わせより十五分早く駅へ着いた。 少し遠出するだけなのに、服を選ぶのにいつもより時間がかかった。 デートではない。 そう思いながら鏡の前で何度も服を替えたことは、考えないことにした。「雨宮さん」 呼ばれて振り返ると、律が歩いてくる。「すみません。待ちました?」「私も今来たところです」「それならよかったです」 並んで改札へ向かう。 電車に乗ってからも、千紘はいつも通り律と話していた。 最近見た映画のこと。仕事のこと。途中の駅で見つけた変わった広告のこと。 けれど目的地が近づき、車窓の向こうに海が見えた瞬間、言葉が途切れた。「雨宮さん?」「……海だなと思って」 青い水面が遠くまで続いている。 昼間の明るい海。 あの日とは何もかも違う。 それでも胸の奥が冷たくなった。「大丈夫ですか?」「はい」 千紘は海から視線を外した。「ちょっとぼんやりしてただけです」 律はそれ以上聞かなかった。 ◇ 水族館へ入ってしまえば、不思議と平気だった。 大きな水槽の中を魚が泳ぎ、頭上をエイがゆっくり通り過ぎていく。「大きいですね」「近くで見ると結構怖くないですか?」「律さん、エイ苦手なんですか?」「苦手というか、裏側がちょっと……」「顔みたいで可愛いじゃないですか」「雨宮さん、あれを可愛いって言えるんですね」 思わず笑った。 そのまま館内を回り、ペンギンの前では律が予想以上に長く立ち止まった。「好きなんですか?」「見てると飽きないです」「さっきからずっと同じ子見てません?」「こいつだけ妙に落ち着きがなくて」
昼休み、千紘がスマートフォンを見ると、律からメッセージが届いていた。『今度の休み、空いてますか?』 以前なら、予定を確認してから返事をしていただろう。 けれど今回は、ほとんど迷わなかった。『空いてます』『よかった。少し遠出しませんか?』 遠出。 その言葉に、千紘の指が止まる。『どこへですか?』 しばらくして、海沿いにある水族館の名前が送られてきた。 千紘は画面を見たまま動けなくなった。 海。 暗い水。 沈んでいく自分。 ほんの一瞬で、あの日の記憶が蘇る。 指先から力が抜けた。 ◇『雨宮さん?』 返事をしないままでいたせいか、律からもう一通届いた。 千紘は我に返った。 律は何も知らない。 ただ水族館へ行こうと誘っただけだ。『すみません。ちょっと仕事してました』 嘘を返す。『水族館、苦手でした?』『いえ、大丈夫です』 送信してから、千紘は目を閉じた。 本当に大丈夫なのだろうか。 以前、律とは別の水族館へ行ったことがある。あのときは楽しめた。 怖いのは水族館ではない。 海そのものだ。 それでも、彰人に殺された夜のために、これからずっと海を避け続けるのは嫌だった。『行きたいです』 そう送った。『じゃあ決まりですね。詳しい時間はまた連絡します』 千紘は小さく息を吐いた。 楽しみだと思う気持ちは、ちゃんと残っていた。 ◇ その日の夜、千紘が帰宅すると、クロが窓際にいた。「今度、水族館に行くことになった」「また律か」「そう」「最近よく会うな」「……そうかな」「そうだろ」 クロはそれだけ言うと、千紘を見た。「海の近くだぞ」「分かってる」「平気なのか?」「たぶん」「たぶんか」 千紘は鞄を置いた。「嫌なら途中で帰る」「そうすればいい」 クロはあっさり言った。 千紘は少しだけ肩の力を抜く。「止めないんだ」「俺が止める理由がない」「まあ、そうだけど」「行きたいんだろ?」 千紘は少し考えてから頷いた。「……うん」「なら行けばいい」 クロはそれ以上何も言わなかった。 ◇ 寝る前、律からいくつかメッセージが届いた。 水族館までの行き方と、周辺にある店の情報だった。『せっかくだから、帰りにこの辺で食事でもどうですか?』 千紘は店のページ