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その後、謹也がおかしくなったと聞いた。四六時中自宅に引きこもり、酒に溺れる毎日を送っているらしい。しきりに『新生』のメロディを口ずさみながら、「すまない」と謝り続けているという。眉子も彼に百瀬家から追い出され、どこかの地方の富豪に乗り換えたそうだ。もっとも、そんなことはもう私には関係なかった。悠はバルコニーにもたれかかりながら、笑って百瀬家のそんな近況を話してくれた。月明かりの下で、彼は不意に懐から小さくて上品なベルベットの箱を取り出した。「おや、ずいぶん大きなダイヤね」私は今にもひざまずこうとする彼を制し、自分より十数歳も年下のこの男を真剣に見つめた。しっかりと自分磨きをしているからか、息子の凜と並んでいても同年代に見えた。「私は体型も崩れてるし、容姿も衰えたバツイチで、おまけにあなたより十数歳も年上よ」上がりかけていた彼の口角が、すっと下がった。「でも、花村さんは世界で一番キレイな魂を持っていて、比べるものもない才能がある。ジェーン・エアがロチェスターに言ったあの言葉みたいに——」私たちは声を揃えて読み上げた。「私が貧しくて、美しくなくて、小柄だから、魂も心もないとでもお思いですか?それは間違っています。私には魂があります、それもあなたと同じくらい。もし神様が私を美しく、豊かにしてくれたなら、私はあなたを私から離れられなくしてみせます。私は、私の魂があなたの魂に呼びかけているのです。二人がともに墓場をくぐり抜けて、神の御足の前に、対等なものとして立っているのと同じように!」読み終えて、二人で顔を見合わせ、声を上げて笑った。悠は本当に優れた人だった。さらに言うなら、イケメンで、お金もあり、才能もある。もし彼がもう十数年早く生まれて、もし運よく出会えていたなら。きっと私は彼の才能にすっかり心を奪われ、夢中になって追いかけていただろう。でも私はもう若くはなく、三十年の結婚生活を経てきた。まわり道ばかりの半生を経て、ようやくわかった。結婚は幸せの道標ではないということを。そしてやっと知った。この世で、最も近くて、かつ最も遠い存在が、夫婦なのだと。だから、私はプロポーズを断った。やっとの思いで離婚して、ようやく若い頃の意気揚々とした自分を取り戻したばかり
「十六歳の時、交通事故で一時的に目が見えなくなったんだ。周りは人気のない場所で、怖くて死ぬかと思ったよ。その時、俺を背負って病院まで連れて行ってくれたのは佳澄だろ。さっきの『新生』っていう曲を口ずさんで俺を励ましながらな。持ち合わせがない俺の代わりに、治療費まで立て替えてくれて……覚えてるか?」彼は感極まって、まともに言葉が続かなかった。涙を拭っては鼻をすすり上げていた。私はしばらく考えた。そんなことがあっただろうか。「ああ……そういえば、そんなことがあったような気がするわ」困っている人を助けただけのこと。目の前に困った人がいれば、誰だって助けるはずだ。私にとっては、数ある親切の中のほんのささやかな一つに過ぎなかった。雷に打たれたように、彼はその場に呆然と立ち尽くした。「眉子だとずっと思っていた。目が覚めたとき、最初に見えたのが彼女だったから。なぜ言ってくれなかったんだ!なぜなんだ!俺は……ずっと彼女だと思っていたんだ」そう言いながら髪をかきむしり、口の中で同じ言葉を繰り返し続けた。その様子を見て、私は心配して声をかけた。「大丈夫?精神科に行ったら?」彼はついにドスンと、私の前に跪いた。「すまない、本当にすまなかった……あんな酷い仕打ちをして……頼む、復縁してくれ。これからは家のことなんて一切させないから」半狂乱になっている彼を見て、私はどう対処すればいいか本当にわからなかった。ちょうど悠がすぐに駆けつけ、警備員に彼を引き離させてくれた。……翌日、眉子が私の所属する新しい音楽事務所に乗り込んできて、大騒ぎを起こした。「あんた、謹也に何て言ったの?離婚したんだから、もう彼に纏わりつかないでよ!」眉子はいつも上品で、立ち居振る舞いはまさに淑女そのものだった。それが今、喚き立て、手入れの行き届いた顔が険しく歪んでいた。「私は縁結びの神様じゃないわ。彼があなたと結婚したくないからって、私が無理やり縛りつけて結婚させることなんてできないでしょ?」周りに野次馬がどんどん集まってきた。私は謹也に電話をかけた。向こうは興奮で震える声で言った。「許してくれたんだよね?」私は眉子をさっさと連れ帰るよう伝えた。彼はすぐにやってきた。眉子は彼の顔を見ると、ようや
病院を出るとき、私はあの離婚協議書を空にかざした。そこに降り注ぐ陽の光を浴びながら、深くため息をついた。……それから、謹也は私を訪ねてこなくなった。次に顔を合わせたのは、コンクールの会場だった。謹也と眉子も、出場者だ。私は最後の一枠で演奏することになった。最後の音を弾き終え、私は立ち上がって客席へと深々と頭を下げた。曲の終わりとともに、客席から割れんばかりの拍手が湧き起こった。審査員席の先生方が、満足げな笑みを浮かべていた。中央に座る審査員が、私に一つ問いを投げかけた。「ピアノを手放したこの三十年間、後悔はしていますか?」彼は大学時代の恩師であり、私はかつて、彼にとって最も誇りとする教え子だった。業界のトップと顔を合わせるたびに、誇らしげに私を引き合わせてくれた。ピアノを辞めると決めたあの日、先生は何も言わなかった。ただそこに立ち尽くし、失望したような目で私を見つめたあと、やがて背を向けて去っていった。あのとき彼が聞きたかったのも、きっとこの問いだったのだろう。ピアノを手放したことを、私は後悔するだろうか?考えたことはあった。答えは、「後悔していない」だ。家族のために働いた日々は、どれも充実していた。心の中では、仕事も家事も同じだけ大切なものだった。もし彼らが、私の家庭への献身を少しでも認めてくれていたなら。家事という日々の労働も、今こうしてスポットライトの下で喝采を受ける私自身と、同じくらい価値があるものだったはずだ。先生はその場にじっと動かず、私の答えを待っていた。「後悔していません。人生ですべての決断は、深く考え抜いた末の結果です。その選択がどんな結末を迎えたとしても、後悔はありません。全力を尽くしたから、悔いはありません」恩師は私の答えに、あまり納得していないようだった。続けて問いかけた。「当時の決断を後悔していないなら、今日なぜここに立っているのですか」私は二歩前へ出て、悠のいる方向へと微笑みを向けた。「努力の向かう先が間違っていたと気づいたなら、すぐに引き返すべきだと思ったからです。今日演奏したこの曲は、何年も前に書き上げ、未発表のままだった私のオリジナル作品『新生』です。困難に直面したとき、皆さんが枯れ木に花咲く春を迎えら
今日は義父の誕生日だ。義父も義母と同じく、足が不自由だった。百瀬家の一階で、祝いの席が設けられた。行くまいと思っていたが、あのお年で子孫のことで心を痛めている姿を見るのは忍びなかった。もう長くはないと聞いていたし、長年「お父さん」と呼んできた相手でもあった。部屋に入るなり、義父が私を手招きした。老いて細くなった手が、ふるふると震えながら私の手の上に重なり、その顔には申し訳なさがにじんでいた。「佳澄……百瀬家はお前に申し訳ないことをした。長い間、百瀬家のためにしてくれたこと、わしはすべて見てきた。謹也のやつがふがいないばかりに、お前を引き止められなかったのだ」謹也は義母の傍らに座り、私に向かってあからさまに嫌な顔をした。義母はその時、「あーあ」とわざとらしい大声を上げた。こんな恩知らずの嫁がいるなんて、百瀬家の恥だと言い張り、私と結婚していなければ、今の嫁の座には謹也の幼馴染である眉子が収まっていたはずだと言い添えた。「あなた自身を見てごらんなさい、眉子ちゃんとは大違いよ。同じ音楽専攻だったのに、眉子ちゃんはどんどん名が売れていって、あなたときたら家の中をぐるぐる回るだけじゃないの」眉子はその言葉を聞いて、すぐに義母のそばに駆け寄ってしゃがみ込み、申し訳なさそうな目で私を見た。謹也は隅っこで壁にもたれかかり、からかうように笑った。「あいつにできることなんて、その程度のものだよ」その時、ドンと部屋が地震のように激しく揺れ、廊下の火災報知器が鳴り響き始めた。黒煙がたちまち部屋の中に広がった。外から慌ただしい足音と悲鳴が聞こえてきた。火事だった。火はあっという間に食卓のそばまで燃え広がった。炎をまとった横梁が突然落ちてきて、私の腕に直撃した。謹也と凜がいっせいに私のほうへ走ってきた。次の瞬間、眉子が大声で助けを求めた。二人は一瞬ためらい、火勢の弱い眉子のほうへと駆けていった。咄嗟に身をかわしたおかげで、私は致命傷を避けることができた。それでも当たった皮膚には水ぶくれができて、えぐり込まれるような激痛が走った。私は傍にいた義父を背負って外へ走り、戻って謹也たちの様子を確認しようとした。突然、焼け焦げたドアが倒れてきた。ドアの縁が太ももをかすめ、ぱっくりと生々
「頼む、戻ってきてくれ」謹也の声には、どうにもならない焦りと必死さがにじんでいた。「俺が悪かった。レストランに一人残していくなんてひどいことをした。早く帰ってきてくれ」私の答えは、変わらなかった。「必ず離婚するわ。明日、区役所で」謹也は電話の向こうで泣き出しそうな声で、どうか戻ってきてくれと繰り返した。そこへ凜までが泣きついてきた。「母さん、早く帰ってきてよ。おばあちゃん、うんこまみれでさ。悪臭のせいで、夕飯を吐きそうだよ」私は冷ややかに鼻で笑った。「自分でどうにかしなさい」と言い放った。凜は電話口で罵り続けていた。良心のかけらもない、眉子の足元にも及ばないと。「ちょうどいいわ。私がいないおかげで、ようやく心置きなく眉子を『お母さん』と呼べるわね」そう言って電話を切り、電源まで落とした。彼らの目から見て、私がこれほど悪いというのなら、いっそとことんまで悪人になりきってやろう。ふと顔を上げると、悠が驚いた表情でこちらを見ていた。彼は何も言わず、所有している空き家へ私を連れて行ってくれた。「落ち着く場所が見つかるまで、ここにいてください」東都の高級住宅地にある一室で、内装の隅々に主の財力がにじみ出ていた。広々としたリビングの中央に、スタインウェイのグランドピアノが置かれていた。どうしてか、何かに引き寄せられるかのように。気づけば足がピアノの前へと向かっていた。車の中で流れていたあの曲を、一音一音、弾き始めた。ただ、かつてのような軽やかさはなく、代わりに深く沈んだ哀愁が滲み出ていた。「ピアノを弾く花村さんの姿は、記憶の中とまったく同じです。自信に満ち溢れています」家事に追われる日々の中で、私のすべてはとうにすり減っていた。誇りも、自信さえも。いつも怯えていた。謹也や凜を不快にさせていないか、自分のやることが足りないのではないかと。家の中で自分にできることは何でも、できる限り完璧にこなそうとしてきた。そうやって、一日また一日を重ねてきた。三ヶ月後のコンサートでは、必ずあの頃の姿でもう一度舞台の中央に立ってみせる。私を応援してくれるすべての人に向かって、深々と一礼するために。その後の数日間、謹也は何度も電話をかけてきた。戻ってきてくれと懇願し
スーツケースを引きながら、雨の中を当てもなく歩いた。こんな夜更けに、なぜあんなに衝動的になってしまったのかと、自分を責め始めた。ここ数年の稼ぎは全部、謹也に預けていたから。決済アプリを開いてみると、残高はわずか1100円しかなかった。毎日、仕事と家事のことだけで手一杯で、昔の友人たちともとうに疎遠になっていた。路肩で途方に暮れていたその時、一台の黒いベンツが横に止まった。窓がゆっくりと下がり、洗練された身なりの男が私に声をかけてきた。「どこへ行くんですか?送ります」私は数歩後ずさりし、警戒した目で彼を見ながら、丁寧に申し出を断った。男性は何かに思い当たったのか、苦笑いを浮かべた。「この雨じゃタクシーも拾えません。変なつもりはありませんから」そう言うと、彼はバッグの中から職員証を取り出し、開いて私に見せた。「東都トップクラスの楽団で首席指揮者を務めています。こんな夜更けに女性が一人で歩くのは危ないでしょうから」身分証の名前を見て、私は息を呑んだ。まさか、こんな状況で彼と再会することになるとは。数日前、三ヶ月後の国際楽器コンクールに向けて、私にオファーを出してきた男——真壁悠(まかべ ゆう)だった。車内のスピーカーから流れてきたのは、三十年前の私の最後の演奏会で弾いたピアノ曲だった。原曲とは異なる一節がある。より軽快になるように、私がアレンジした部分だ。聴けばすぐにわかる。私が弾いたものだと。悠はバックミラー越しに、何度もこちらをちらりと見た。それから少し気まずそうに、どこへ行くのかと聞いてきた。窓の外では、雨粒が絶え間なく車窓を叩いていた。途切れることのない車の流れが、次々と脇を通り過ぎていく。「行く当てがないんです。もう帰る家がなくて」私の言葉に、車内の空気がふっと凍りついた。「……この曲が、お好きなんですか?」オーディオでは同じ曲が繰り返されており、私は思わず聞いた。悠はしばらく黙ってから、思いに沈むような口調で話してくれた。「十歳のとき、チケットが買えなくてコンサートホールの前で泣きじゃくっていたんです。そのとき、一人の若いピアニストが涙を拭いてくれて、中に連れて行ってくれました。『ずっと音楽を愛し続けてね』って言ってくれたんです」