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真実の愛は、もう還らない

真実の愛は、もう還らない

By:  こうたろうCompleted
Language: Japanese
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会社が巨額契約を締結するその日、私、久世怜奈(くぜ れな)はひどい風邪で嘔吐と下痢に見舞われ、取引先の顔に汚物を浴びせてしまった。相手は激怒し、その場で契約を取りやめ、会社には20億を超える損失が出た。 社長である恋人の山本颯太(やまもと そうた)は激しく怒り、私を副社長の座から平の営業にまで降格させたうえ、毎日睡眠は三時間まで、それ以外の時間はすべて会社のために身を粉にして稼ぎ、会社の損失を完済するまで働けと命じた。 私は罪悪感を抱えながら、毎日必死に働き、案件を取って金を稼いだ。だが、もうすぐ借金を返し終えられるというところで、喜び勇んで進捗を報告しに社長室へ向かった私は、そこで彼と女性秘書の会話を耳にしてしまった。 「山本社長、あのとき久世さんは私の歩合からたった一円差し引いただけなのに、あなたはこっそり彼女の飲み物に下剤を混ぜて、取引先の前であんな大失態を演じさせたんですよね。そのあとも、巨額契約を失ったのは彼女のせいだって責任を押しつけて、死にものぐるいで損失を穴埋めさせて……さすがに少しやりすぎじゃありませんか? もう借金もほとんど返し終えていますし、そろそろ許してあげてください。だって、社長は本気で久世さんを愛しているんでしょう?もし久世さんを追い詰めすぎて、本当にあなたのもとを去ってしまったらどうするんですか。私のせいで、お二人が引き裂かれるようなことにだけは……」 井上桃花(いのうえ ももか)の言葉を、彼は遮った。 「だめだ。君は俺の命の恩人なんだ。あのとき交通事故で大出血した俺が、今こうして生きていられるのは、君が輸血してくれたからだろう? 怜奈は、俺がこの世でたった一人愛している女だ。だが、君の歩合を差し引いた以上、罰は受けてもらう。それが20億なら20億だ。一銭たりとも減らすつもりはない。それに、あいつは有能だ。あと一か月もあれば完済できる。そのときはきちんと埋め合わせをして、結婚するつもりだ」 けれど彼は知らない。私には、もう一か月も残されていない。 この数年、彼のいう損失を返すために身体を酷使しすぎたせいで、私は胃がんになっていた。余命は、あと一週間しかない。 それに、あの日交通事故に遭った彼に輸血したのは、桃花ではなく私だった。

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Chapter 1

第1話

会社が巨額契約を締結するその日、私、久世怜奈(くぜ れな)はひどい風邪で嘔吐と下痢に見舞われ、取引先の顔に汚物を浴びせてしまった。相手は激怒し、その場で契約を取りやめ、会社には20億を超える損失が出た。

社長である恋人の山本颯太(やまもと そうた)は激しく怒り、私を副社長の座から平の営業にまで降格させたうえ、毎日睡眠は三時間まで、それ以外の時間はすべて会社のために身を粉にして稼ぎ、会社の損失を完済するまで働けと命じた。

私は罪悪感を抱えながら、毎日必死に働き、案件を取って金を稼いだ。だが、もうすぐ借金を返し終えられるというところで、喜び勇んで進捗を報告しに社長室へ向かった私は、そこで彼と女性秘書の会話を耳にしてしまった。

「山本社長、あのとき久世さんは私の歩合からたった一円差し引いただけなのに、あなたはこっそり彼女の飲み物に下剤を混ぜて、取引先の前であんな大失態を演じさせたんですよね。そのあとも、巨額契約を失ったのは彼女のせいだって責任を押しつけて、死にものぐるいで損失を穴埋めさせて……さすがに少しやりすぎじゃありませんか?

もう借金もほとんど返し終えていますし、そろそろ許してあげてください。だって、社長は本気で久世さんを愛しているんでしょう?もし久世さんを追い詰めすぎて、本当にあなたのもとを去ってしまったらどうするんですか。私のせいで、お二人が引き裂かれるようなことにだけは……」

井上桃花(いのうえ ももか)の言葉を、彼は遮った。

「だめだ。君は俺の命の恩人なんだ。あのとき交通事故で大出血した俺が、今こうして生きていられるのは、君が輸血してくれたからだろう?

怜奈は、俺がこの世でたった一人愛している女だ。だが、君の歩合を差し引いた以上、罰は受けてもらう。それが20億なら20億だ。一銭たりとも減らすつもりはない。それに、あいつは有能だ。あと一か月もあれば完済できる。そのときはきちんと埋め合わせをして、結婚するつもりだ」

けれど彼は知らない。私には、もう一か月も残されていない。

この数年、彼のいう損失を返すために身体を酷使しすぎたせいで、私は胃がんになっていた。余命は、あと一週間しかない。

それに、あの日交通事故に遭った彼に輸血したのは、桃花ではなく私だった。

……

オフィスの外。

颯太と桃花の会話を耳にした瞬間、私は全身を雷に打たれたような衝撃に襲われ、身体の震えが止まらなくなった。

この三年間、私は毎日三時間しか眠っていない。いや、三時間にも満たない日だって少なくなかった。徹夜で働き続けることも何度もあった。

仕事を取るために、私はほとんど毎日取引先の酒席に付き合わされ、日本酒や焼酎を浴びるように飲まされた。限界を超えれば病院で胃洗浄を受け、退院したその足でまた、命を削るように酒をあおった。

普段も金を浮かせるため、接待のとき以外は蒸しパンのような質素なものだけで飢えをしのぎ、水だけを飲んでいた。会社と家は十キロ離れていたが、私は毎日走って通勤していた。

ただ一日でも早く、自分が会社に与えてしまった20億を超える損失を返しきるために。

その20億を超える損失は、まるで巨大な山のように私の肩にのしかかり、颯太に対する罪悪感と自責の念で、私はずっと押し潰されそうになっていた。

颯太は何もないところから会社を立ち上げ、一歩ずつ会社を上場目前まで育て上げた。その道のりがどれほど苦しかったかは、ずっとそばで支えてきた私が誰よりよく知っている。

だからこそ、取引先の前で失態をさらし、会社に巨額契約の機会を失わせたうえ、上場まで延期に追い込んでしまったあのとき、颯太から厳しい処分を下されても、私はそれを当然の報いとして受け入れた。

この数年、疲れ果ててもう無理だと思うたびに、押し寄せてくる強烈な罪悪感が私を支え、また命を削るように働き続けさせた。

けれど今、最後の案件がまとまろうとしていて、20億を超える損失もまもなく返し終え、この身にのしかかっていた大きな山がようやくどかされようとしていたそのとき、颯太は私にさらに重い一撃を与えた。
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第1話
会社が巨額契約を締結するその日、私、久世怜奈(くぜ れな)はひどい風邪で嘔吐と下痢に見舞われ、取引先の顔に汚物を浴びせてしまった。相手は激怒し、その場で契約を取りやめ、会社には20億を超える損失が出た。社長である恋人の山本颯太(やまもと そうた)は激しく怒り、私を副社長の座から平の営業にまで降格させたうえ、毎日睡眠は三時間まで、それ以外の時間はすべて会社のために身を粉にして稼ぎ、会社の損失を完済するまで働けと命じた。私は罪悪感を抱えながら、毎日必死に働き、案件を取って金を稼いだ。だが、もうすぐ借金を返し終えられるというところで、喜び勇んで進捗を報告しに社長室へ向かった私は、そこで彼と女性秘書の会話を耳にしてしまった。「山本社長、あのとき久世さんは私の歩合からたった一円差し引いただけなのに、あなたはこっそり彼女の飲み物に下剤を混ぜて、取引先の前であんな大失態を演じさせたんですよね。そのあとも、巨額契約を失ったのは彼女のせいだって責任を押しつけて、死にものぐるいで損失を穴埋めさせて……さすがに少しやりすぎじゃありませんか?もう借金もほとんど返し終えていますし、そろそろ許してあげてください。だって、社長は本気で久世さんを愛しているんでしょう?もし久世さんを追い詰めすぎて、本当にあなたのもとを去ってしまったらどうするんですか。私のせいで、お二人が引き裂かれるようなことにだけは……」井上桃花(いのうえ ももか)の言葉を、彼は遮った。「だめだ。君は俺の命の恩人なんだ。あのとき交通事故で大出血した俺が、今こうして生きていられるのは、君が輸血してくれたからだろう?怜奈は、俺がこの世でたった一人愛している女だ。だが、君の歩合を差し引いた以上、罰は受けてもらう。それが20億なら20億だ。一銭たりとも減らすつもりはない。それに、あいつは有能だ。あと一か月もあれば完済できる。そのときはきちんと埋め合わせをして、結婚するつもりだ」けれど彼は知らない。私には、もう一か月も残されていない。この数年、彼のいう損失を返すために身体を酷使しすぎたせいで、私は胃がんになっていた。余命は、あと一週間しかない。それに、あの日交通事故に遭った彼に輸血したのは、桃花ではなく私だった。……オフィスの外。颯太と桃花の会話を耳にした瞬間、私は全身を雷に打たれたような
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第2話
まさか、命がけで私を愛しているはずの颯太が、こんな卑劣な企みを巡らせていたなんて、夢にも思わなかった。私の水筒に下剤を入れ、取引先の前で恥をかかせ、身に覚えのない20億超の損失を背負わせて返済させる。そのすべてが、たった1円、桃花の歩合を差し引いたというだけの理由だった!けれど、私が桃花の歩合を1円差し引いたのは、彼女が毎日遅刻し、営業成績もまるで基準に達していなかったからだ。今でもはっきり覚えている。その1円の歩合の件で、当時の颯太は烈火のごとく怒っていた。とはいえ、私の判断は規定に則った正当なもので、あくまで軽い戒めにすぎなかった。颯太は怒りこそしたものの、社内規定がある以上、最終的には引き下がるしかなかった。私はてっきり、その件はそれで終わったのだと思っていた。まさか颯太がそのことで私を逆恨みし、ここまで容赦なく手を下していたなんて。すべては、桃花が彼の命の恩人だったから。彼の恩人を傷つけた私を罰しようとしたのだ。でも、あの時、交通事故で大出血した彼に3000ミリリットルの血を輸血して命を救ったのはこの私だ。どうして、それが桃花になっているの?颯太は騙されてる!私はその瞬間、すべてを悟った。あの時、颯太に輸血したあと、私は極度の虚弱状態に陥って、そのまま意識を失った。目を覚ましたあとも、私はそのことを颯太に一度も話さなかった。彼に気を遣わせたくなかったからだ。だからこそ、桃花に付け入る隙を与えてしまい、私のしたことを横取りされたのだ。すべてを理解した私は怒りで全身が煮え立ち、オフィスのドアを蹴り飛ばして中へ駆け込んだ。「颯太、あの時あなたに輸血して命を救ったのは私よ!この女に騙されてる!」私は桃花を睨みつけた。口先だけでは証明にならないと分かっていたから、すぐにスマホの中の献血記録を突きつけた。嘘を暴かれ、桃花の顔には一瞬、狼狽と後ろめたさが浮かんだ。だが次の瞬間にはそれを押し隠し、いかにも傷ついたような顔で言った。「さっき、私と山本社長の話を聞いていたんでしょう?それで私を恨みしてるのかもしれませんけど、でもこの件は私のせいじゃありません。山本社長がどうしてもあなたを罰して、私のために鬱憤を晴らすんだって聞かなかったんです。私はそのとき、ちゃんと止めたんですよ。あなたが私を恨む気持ちは分
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第3話
「1円の歩合の件で、お前への処分が少し重すぎたのは認める。けど、だからってここまでやるか?俺に罰された腹いせに桃花を陥れて、挙げ句の果てには、俺に献血した手柄まで自分のものにしようとするなんてな。怜奈、今はっきり言う。あのときお前を罰したのは、恩人を傷つけたからだけじゃない。お前が桃花に嫉妬して、何かあるたびに突っかかってたからだ。俺はその性根を叩き直すつもりで、お前に罰を与えた。けど、今になって分かった。お前は嫉妬深いだけじゃない。他人の手柄まで横取りしようとする最低な人間だったんだな。本当に見る目がなかった。もともとは、お前がこの二十億の損失を返し終えたら結婚するつもりだった。けど今のお前は、到底そんな資格なんかない。処分はさらに十億上乗せだ。会社のためにあと十億稼いだら、そのとき改めて結婚のことは考えてやる。受け入れられないなら、そこで終わりだ。今すぐ跪いて、桃花に謝れ」私は一瞬、呆然と立ち尽くした。胸の奥からどうしようもない失望がじわじわと広がっていく。桃花が彼の命の恩人としての功績を横取りしていたと知った時、私はこの三年間の颯太の仕打ちを責めようとは思わなかった。颯太が、恩義というものを何より重く見る人間だと知っていたからだ。しかも、その恩は常軌を逸するほど返そうとする。だから私は、彼はただ桃花に騙されていただけだと、そう固く信じていた。けれど今、私は証拠を彼の目の前に突きつけたのに、彼は一瞥すらしなかった。ただひたすら桃花の言葉だけを信じて、さらに私への罰を重くしようとした。私が桃花の能力に嫉妬している?あの女に何の取り柄があるというの?毎日遅刻して、成績は最下位、どうしようもない役立たずじゃない。その時になってようやく分かった。彼の桃花への感情は、ただの恩義なんかじゃない。とっくに心はあの女へ傾いていたのだ。「ははっ、私がこの女に謝る?寝言は寝て言って」私は込み上げるものを押し殺しながら、苦く笑って背を向けた。ここまで完全に心が離れている相手に、これ以上ここへ留まる理由なんて、もうどこにもない。「久世さん、怒らないでください。このことは全部、私が悪いんです。私がいけなかったんです、あのとき社長を助けたりしなければよかった。全部私のせいですから、お願いです、私のことでお二人の仲まで壊さないで
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第4話
「それはお前に決められることじゃない!俺の命の恩人に手を出したんだ、この血は嫌でも輸血してもらう!誰か、怜奈を病院へ連れて行け!」颯太が怒鳴ると、すぐに外から二人の警備員が駆け込んできて、私を取り押さえた。まさか彼が、桃花のためにここまでやるとは思わなかった。私は慌てて叫んだ。「颯太、私は胃がんなの。余命はあと一週間しかない。輸血なんてできない、したらその場で死んでしまう!」私は本当に、もうすぐ死ぬ。この三年間、私は死にものぐるいで働き、死にものぐるいで酒を飲み続けた。そのせいで胃はとっくにぼろぼろになっていて、三か月前にはすでに胃がんの末期だと診断されていた。本来、今日ここへ颯太に会いに来たのは、仕事の進捗を報告するためだけじゃない。別れを告げるつもりでもいた。末期の胃がんで、余命一週間の人間が、雲の上のような社長である彼に釣り合うはずがない。私なんかが彼の未来を邪魔したくなかった。この三か月、私を生かしていたたった一つの支えは、20億の借金を返しきって、せめて颯太が少しでも楽に生きられるようにすることだけだった。なのに、そこで私は真実を知ってしまった。しかも、颯太の心がとっくに私から離れていたことまで思い知らされた。それでも私は、もうすぐ死ぬことを颯太に伝えるつもりはなかった。さっきまでは、彼の負担になりたくなかったから。今は、彼には知る資格なんてないと思ったからだ。私はもともと、相手にすがりつくような性格じゃない。颯太の心が桃花へ傾いているとはっきり分かった時点で、私はもう彼とこれ以上関わるつもりはなかったし、何かしらの正義を取り戻したいとも思わなかった。死を間近にした人間にとって、これまで受けた理不尽も、怒りも、どれも取るに足らないものになっていく。けれど、私はまだ今日ここで死にたくはない。颯太と出会う前の私は父も母もいない孤児で、必死に働いて、たった一人で生きてきた。彼と付き合うようになってからは、ずっと彼に付き添って会社を立ち上げ、上場の夢を叶えるために走り続けた。この三年、身に覚えのない借金を返すために、私は自分の人生を一度も生きてこなかったようなものだった。だから残された最後の一週間だけは、自分がずっと生きたかったように生きてみたかった。海を見て、山を見て、この美しい世界をち
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第5話
「ポケットに診断書が入ってるの!出して見れば分かる!」私は最後の抵抗を試みた。「連れて行け!」颯太はもう私に視線すら向けず、警備員に私を引きずって行けと冷酷に命じた。はは……なんて滑稽なのだろう。この、私が十年近く守ってきた男。命を懸けてまで、彼の上場という夢を叶えようとしてきた男が、こんなふうに私を扱うなんて。たとえ桃花が本当に彼の命の恩人だったとしても、たとえ私が本当にどんな手でも使う卑劣な人間だったとしても、それでも私たちは十年ものあいだ、ずっと一緒に生きてきた。苦しい時には寄り添い合い、一緒に会社を立ち上げ、一緒に駆けずり回り、金のない頃には屋台の焼きそばを二人で分け合って食べた。私たちは……脳裏に浮かぶのは颯太と過ごした、苦しくも甘いあの頃の日々だった。私たちの間には、確かにたくさんの幸せな思い出があった。いったいいつから、私たちの愛は変質してしまったのだろう。たぶん、桃花が現れてからだ。あの日、桃花が突然現れた時、颯太の目にそれまで見たことのない光がよぎった。あの時の私は、それをただ新人への期待や評価だと思っていた。けれど今なら分かる。あれは、颯太が彼女に恋心を抱き始めたサインだったのだ。そうだろう。若くて美しい命の恩人の魅力に、誰が抗えるというのだろう。だから颯太は、桃花を際限なく庇うようになった。私が会議で彼女を少し注意しただけで、颯太は私の四半期ボーナスをまるごと取り上げた。私が規定どおりに桃花の歩合を1円引いただけで、彼は私に20億を背負わせる罠まで仕掛けた。恋ゆえのえこひいきは、きっとずっと前から始まっていたのだ。そして今、それがようやくはっきり形になって現れただけだった。私も、もっと早く身の程を知るべきだったのだ。この十年を振り返ると、自分がとてつもなく大きな笑い話の主人公みたいに思えてくる。ふと、海を見たいとか、山を見たいとか、この世界を見てみたいとか、そんな願いさえ急に色を失っていった。こんな人生で、こんな境遇なら、こんなふうに死んでいくのも相応しいのかもしれない。私はもう抵抗しなかった。もう何も説明しなかった。ただ二人の警備員に引きずられるまま会社を出て、車に乗せられ、病院へと運ばれていった。今の颯太は巨万の富を持ち、思いのままに物事を動かせ
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第6話
それから、颯太が立ち去る足音が聞こえた。扉が閉まる音も。そのあとで、桃花の得意げな声が耳に入った。「まさか、自分が十年も愛した男が、ここまで私に肩入れするなんて思わなかったでしょう?私があんたの手柄を横取りして命の恩人になりすましただけで、あの人は私に感謝してくれた。あんたが私の歩合をたった一円引いただけで、私は少し可哀想なふりをしただけなのに、あの人はあんたを丸三年もかけて罰したのよ!あんたが献血の証明書を目の前に突きつけても、あの人は一目も見ようとしなかった。でも私は少し口を動かしただけで、全部信じてもらえたの。今だって、私はただの貧血なだけなのに、あんたから3000ミリリットルも血を抜こうとしてる。あんたが胃がんの末期で、もうすぐ死ぬなんて、これっぽっちも信じてないのよ。それなのに、あんたはあんなに弱ってて、病院へ来る途中には血まで吐いてた。普通の人なら、誰だって様子がおかしいって気づくはずなのに、あの人はまるで気づかなかった。どういうことか分かる?あの人の心は、全部私に向いてるってことよ。久世怜奈、あんたって本当に哀れね!」「それであなたが満足なら、それでいいわ」私は冷たくそう返した。桃花はたしかに憎たらしいし、口にすることも腹立たしいものばかりだった。けれど私はもうすぐ死ぬ身だ。今さら何もかも、どうでもよかった。桃花は、こちらがまるで相手にしないのが気に入らなかったのか、悔しそうにぎりっと歯を食いしばった。「じゃあ、もう一つ秘密を教えてあげる。あんたの胃がん、酒の飲みすぎが原因じゃないの。私がずっと少しずつ毒を盛ってたのよ!」私ははっと目を見開いた。もうすぐ死ぬとしても、自分の胃がんが誰かに毒を盛られたせいだと知れば、さすがに怒りが込み上げてくる。桃花は嘲るように笑った。「そんな目で見ないでよ。私だって、こうするしかなかったの。だって、あんた本当にしぶといんだもの。三年も寝る間も惜しんで働き続けるくらいなら、いっそ社長と別れてくれればよかったのに、最後までしがみついて離れようとしなかったでしょう?それに、社長も社長よ。あんたに本気だったから、私が命の恩人として三年間ずっとあんたの悪口を吹き込んでも、なかなか別れようとしなかった。どうしてもあんたと結婚するつもりだった。だからもう、あんたに消えて
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第7話
「怜奈、俺が悪かった。やっと分かったんだ。あのとき俺を助けたのは、お前だったんだな。だったら、どうしてもっと早く言ってくれなかったんだよ。お前が黙ってたせいで、俺は恩人を取り違えた。お前が何も言わなかったせいで、あんなに長い間お前を罰することになったんだぞ。俺がどれだけショックを受けたと思ってる?どれだけ傷ついたか、分かってるのか?……全部、お前のせいだ。もう輸血なんてしなくていい。今すぐ役所に行って、婚姻届を出すぞ」颯太は駆け寄ってきて、私の身体につながっていた採血用の針を引き抜いた。ようやく彼は、自分の命を救ったのが誰だったのかを知った。なのに、どうして私は少しも嬉しくないのだろう。たぶん、もう死ぬからだろうか。それとも、真実を知ったこの瞬間になってなお、彼はまだ私を責めていたからだろうか。私はふいに、すべてを理解した。彼の心が桃花だけに向いていたわけではない。献血記録を調べに行った以上、桃花のことを完全に信じ切っていたわけでもなかったのだ。けれど同時に、その心は私にも向いていなかった。最初から最後まで、彼の心の中にあったのは自分だけだったのだ。私たちが一緒に過ごしてきたあの幸せな日々も、甘かったのはきっと私だけだったのだろう。彼が求めていたのは、自分に寄り添ってくれる相手だった。苦労を共にしてくれる相手。会社が上場するまで支え続けてくれる相手。自分の夢を叶えるために、隣で走り続けてくれる相手。もしかしたら、私の受け取り方が間違っていたのかもしれない。もしかしたら、彼は本当に私を愛していたのかもしれない。でも、もう何もかもどうでもよかった。私の魂はすでに完全に身体を離れ、身体はすっかり冷たくなっていた。私は死んだ。ようやく死んだのだ。この世のあらゆるしがらみから、ようやく解き放たれて。けれど不思議なことに、私の魂はそのまま消え去らず、天井のあたりに浮かんでいた。私は見た。颯太が私の手を掴み、そのまま手術室の外へ連れ出そうとしているのを。今すぐ役所へ行って、婚姻届を出そうとでもいうように。けれど、どれだけ揺さぶられても、私の体はぴくりとも動かなかった。まるで石のように冷たく、硬くなっていた。指先から伝わる冷たさに、ようやく颯太も異変に気づいた。「先生、どういうことだ?ど
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第8話
「本当か?」颯太は桃花の首を締める手を少しだけ緩め、半信半疑のまま傍らの医者を見た。その医者はとっくに桃花に買収されており、ためらいもなくうなずいた。「本当です。久世さんが私を買収して、もっと多く血を抜くよう頼んだんです」颯太の目つきが冷えきったものに変わった。「怜奈に言われたからといって、そのまま血を抜いたのか?お前は医者だろう、常識もないのか。5000ミリリットルも抜けば、人は死ぬんだぞ!怜奈の命で償ってもらう!」そう言って彼が手を振ると、外から二人の警備員が駆け込んできて、医者を取り押さえた。「怜奈から抜いたのと同じ量の血を、こいつからも抜け!」「山本社長、どうかお許しください!わざとじゃないんです、全部久世怜奈の指示だったんです!」医者は顔面蒼白になり、床に跪いて命乞いをした。「やれ!」颯太はまったく取り合わなかった。「山本社長、今までずっと怖くて言えませんでした。でも、もう久世さんはいなくなったから、やっと本当の気持ちを言えます。私はずっと前からあなたが好きでした。私と一緒になってください。結婚しましょう!」桃花はこの隙を逃すまいと、なりふり構わずその場にひざまずき、結婚を迫った。颯太の顔には迷いが浮かんだ。「無理だ。怜奈は死んだ……それが自業自得だったとしても、俺たちは十年一緒にいたんだ。俺は本気であいつを愛してた。今すぐお前に気持ちを向けることなんてできない。少し時間をくれ」桃花の顔に一瞬、どす黒いものがよぎった。けれど次の瞬間には、それをきれいに押し隠し、健気そうな顔で口を開いた。「分かっています。あなたのどこに一番惹かれたか、知っていますか?そういう一途なところです。私は待てます。どれだけでも待ちます」颯太はすっかり心を動かされたようだった。二人は私の亡骸を前にして、そんなやり取りを平然と交わしていた。医者はすでに手術台に縛りつけられていて、恐怖で今にも失禁しそうになっていた。「井上さん、助けてください!」「助ける?人の命を何とも思わない、そんなクズが医者を名乗る資格あると思う?あなたは死んで当然よ!」桃花は用済みになった途端、容赦なく切り捨てた。計画はすでに成功し、颯太の心も手に入れた今となっては、医者の生き死になどどうでもよかったのだ。すると医者
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第9話
防犯カメラの映像には、桃花が勝ち誇ったように私を侮辱し、自分の企みを嬉々として語る姿がはっきり映っていた。映像を見終えた颯太の顔色は、極限まで暗く沈んでいた。自分の命の恩人だと信じていた相手が偽物だったうえ、その裏でそこまで恐ろしい企みを巡らせていたなんて、彼は夢にも思っていなかったのだ。「井上桃花、お前は人間じゃない!」颯太は激昂し、桃花を思いきり蹴り飛ばした。「社長、あの時あんなことを言ったのは、ただ久世さんを怒らせたかっただけなんです!あなたの財産を狙っていたわけでも、あなたを殺そうとしていたわけでもありません!あなたの命の恩人だと偽ったのは、ただ……ただ愛していたからなんです!お願いです、見逃してください!」桃花は泣きじゃくりながら床にひざまずき、命乞いをした。「山本社長、こいつはまだ嘘をついてます!こいつは本気で財産を奪って、あなたも殺すつもりだったんです。俺のスマホに動画があります。信じられないなら見てください」医者はもう道連れにするつもりなのか、証拠を差し出した。その背筋が凍るような証拠を目にした瞬間、颯太の顔色はさらに険しくなった。「言え。どう死にたい?」ここまで来て、桃花ももう取り繕えないと悟ったのだろう。ついに開き直って吐き捨てた。「死ぬなら死ぬで構わないわ。どうせ大した命じゃないもの。だけど、これから先、あなただって楽には生きられないわよ?本当に馬鹿よね。私が何を言っても、あなたは全部そのまま信じた。久世怜奈を死なせたのは私じゃない。あなたよ。あの女があなたにどれだけ尽くしてきたか、ちゃんと分かってた?心も体もすり減らして、私に毒を盛られて胃がんになっても、それでもまだ命を削ってあなたのためにお金を稼いでたのよ。なのに、あなたはどうだった?私がそれっぽくあの女の悪口を吹き込んだだけで、あっさり信じたじゃない。よくそんなことができたわよね。本当に一番報いを受けるべきなのは、あなただったのよ!」「黙れ!こいつを始末しろ!」颯太は全身を震わせながら、桃花を殺せと命じた。そして私の亡骸へ目を向けたその瞳には、罪悪感と自責の色が満ちていた。「はははっ、私は死ねばそれで終わり。でも、あなたは生き地獄ね。これから先、永遠に久世怜奈への罪悪感を抱えて生きていくのよ!」死の間際になっ
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第10話
けれど、桃花が現れてからというもの、そんな約束はすべて煙のように消えてしまった。彼はもう、そのことを一言たりとも口にしなくなっていた。今になって誤解が解け、しかも私が死んでから昔の約束を持ち出されても、感動なんてできなかった。ただただ滑稽に思えた。ふと、昔よく聞いた言葉を思い出した。誰も、いつまでも同じ場所であなたを待ってはくれない。今の颯太には、これ以上ないほどぴったりの言葉だった。私は、颯太が私の死を引きずるとしても、せいぜいほんのしばらくの間だけだと思っていた。だって彼は今や億万長者で、将来も約束されている。望めばどんな暮らしだって手に入るし、どんな女性だって思いのままだ。けれど意外なことに、彼は新しい人生を始めようとはしなかった。会社のことをすべて放り出し、代わりに思い出を辿るようになったのだ。私たちがかつて訪れた場所を一つ残らず巡り、かつて一緒に食べたものを一つ残らず口にした。丸三か月、彼はひたすら思い出の中に沈み込み、毎日涙を流して暮らしていた。そして私はその得体の知れない力に縛られたまま、ずっと彼のそばについて回っていた。私はこの力が本当に腹立たしかった。せっかく死んだのに、まだ颯太に付き合って思い出をなぞらされるなんて。私はもう、彼との感情には決着をつけていた。それでも、あれだけ時間をかけて育ててきた想いだったのだ。過去が映画みたいに目の前へ映し出されれば、どうしたって心に少しは波が立つ。やがて三か月後、颯太は会社へ戻った。これでようやく私は解放されるのだと思った。けれど、その時彼はさらに奇妙なことをし始めた。なんと彼は、私がこの三年間やってきたことを、自分でそのままなぞり始めたのだ。死にものぐるいで働き、死にものぐるいで接待し、安アパートに住み、高級車には乗らず、毎日十キロを走って会社に通う。この男は、私が過ごした三年間の苦しみを、自分の身で味わおうとしていたのだ。そして三年が過ぎた。颯太は安アパートの部屋で、声を上げて泣いた。「怜奈、お前がどれほど苦しかったのか、やっと分かった……俺がどれだけお前に申し訳ないことをしたのか、やっと分かったんだ!」そのあと、彼は私の想像を超える行動に出た。会社を公益団体に寄付し、自分が人を殺した証拠を警察へ提出した。そし
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