LOGIN会社が巨額契約を締結するその日、私、久世怜奈(くぜ れな)はひどい風邪で嘔吐と下痢に見舞われ、取引先の顔に汚物を浴びせてしまった。相手は激怒し、その場で契約を取りやめ、会社には20億を超える損失が出た。 社長である恋人の山本颯太(やまもと そうた)は激しく怒り、私を副社長の座から平の営業にまで降格させたうえ、毎日睡眠は三時間まで、それ以外の時間はすべて会社のために身を粉にして稼ぎ、会社の損失を完済するまで働けと命じた。 私は罪悪感を抱えながら、毎日必死に働き、案件を取って金を稼いだ。だが、もうすぐ借金を返し終えられるというところで、喜び勇んで進捗を報告しに社長室へ向かった私は、そこで彼と女性秘書の会話を耳にしてしまった。 「山本社長、あのとき久世さんは私の歩合からたった一円差し引いただけなのに、あなたはこっそり彼女の飲み物に下剤を混ぜて、取引先の前であんな大失態を演じさせたんですよね。そのあとも、巨額契約を失ったのは彼女のせいだって責任を押しつけて、死にものぐるいで損失を穴埋めさせて……さすがに少しやりすぎじゃありませんか? もう借金もほとんど返し終えていますし、そろそろ許してあげてください。だって、社長は本気で久世さんを愛しているんでしょう?もし久世さんを追い詰めすぎて、本当にあなたのもとを去ってしまったらどうするんですか。私のせいで、お二人が引き裂かれるようなことにだけは……」 井上桃花(いのうえ ももか)の言葉を、彼は遮った。 「だめだ。君は俺の命の恩人なんだ。あのとき交通事故で大出血した俺が、今こうして生きていられるのは、君が輸血してくれたからだろう? 怜奈は、俺がこの世でたった一人愛している女だ。だが、君の歩合を差し引いた以上、罰は受けてもらう。それが20億なら20億だ。一銭たりとも減らすつもりはない。それに、あいつは有能だ。あと一か月もあれば完済できる。そのときはきちんと埋め合わせをして、結婚するつもりだ」 けれど彼は知らない。私には、もう一か月も残されていない。 この数年、彼のいう損失を返すために身体を酷使しすぎたせいで、私は胃がんになっていた。余命は、あと一週間しかない。 それに、あの日交通事故に遭った彼に輸血したのは、桃花ではなく私だった。
View Moreけれど、桃花が現れてからというもの、そんな約束はすべて煙のように消えてしまった。彼はもう、そのことを一言たりとも口にしなくなっていた。今になって誤解が解け、しかも私が死んでから昔の約束を持ち出されても、感動なんてできなかった。ただただ滑稽に思えた。ふと、昔よく聞いた言葉を思い出した。誰も、いつまでも同じ場所であなたを待ってはくれない。今の颯太には、これ以上ないほどぴったりの言葉だった。私は、颯太が私の死を引きずるとしても、せいぜいほんのしばらくの間だけだと思っていた。だって彼は今や億万長者で、将来も約束されている。望めばどんな暮らしだって手に入るし、どんな女性だって思いのままだ。けれど意外なことに、彼は新しい人生を始めようとはしなかった。会社のことをすべて放り出し、代わりに思い出を辿るようになったのだ。私たちがかつて訪れた場所を一つ残らず巡り、かつて一緒に食べたものを一つ残らず口にした。丸三か月、彼はひたすら思い出の中に沈み込み、毎日涙を流して暮らしていた。そして私はその得体の知れない力に縛られたまま、ずっと彼のそばについて回っていた。私はこの力が本当に腹立たしかった。せっかく死んだのに、まだ颯太に付き合って思い出をなぞらされるなんて。私はもう、彼との感情には決着をつけていた。それでも、あれだけ時間をかけて育ててきた想いだったのだ。過去が映画みたいに目の前へ映し出されれば、どうしたって心に少しは波が立つ。やがて三か月後、颯太は会社へ戻った。これでようやく私は解放されるのだと思った。けれど、その時彼はさらに奇妙なことをし始めた。なんと彼は、私がこの三年間やってきたことを、自分でそのままなぞり始めたのだ。死にものぐるいで働き、死にものぐるいで接待し、安アパートに住み、高級車には乗らず、毎日十キロを走って会社に通う。この男は、私が過ごした三年間の苦しみを、自分の身で味わおうとしていたのだ。そして三年が過ぎた。颯太は安アパートの部屋で、声を上げて泣いた。「怜奈、お前がどれほど苦しかったのか、やっと分かった……俺がどれだけお前に申し訳ないことをしたのか、やっと分かったんだ!」そのあと、彼は私の想像を超える行動に出た。会社を公益団体に寄付し、自分が人を殺した証拠を警察へ提出した。そし
防犯カメラの映像には、桃花が勝ち誇ったように私を侮辱し、自分の企みを嬉々として語る姿がはっきり映っていた。映像を見終えた颯太の顔色は、極限まで暗く沈んでいた。自分の命の恩人だと信じていた相手が偽物だったうえ、その裏でそこまで恐ろしい企みを巡らせていたなんて、彼は夢にも思っていなかったのだ。「井上桃花、お前は人間じゃない!」颯太は激昂し、桃花を思いきり蹴り飛ばした。「社長、あの時あんなことを言ったのは、ただ久世さんを怒らせたかっただけなんです!あなたの財産を狙っていたわけでも、あなたを殺そうとしていたわけでもありません!あなたの命の恩人だと偽ったのは、ただ……ただ愛していたからなんです!お願いです、見逃してください!」桃花は泣きじゃくりながら床にひざまずき、命乞いをした。「山本社長、こいつはまだ嘘をついてます!こいつは本気で財産を奪って、あなたも殺すつもりだったんです。俺のスマホに動画があります。信じられないなら見てください」医者はもう道連れにするつもりなのか、証拠を差し出した。その背筋が凍るような証拠を目にした瞬間、颯太の顔色はさらに険しくなった。「言え。どう死にたい?」ここまで来て、桃花ももう取り繕えないと悟ったのだろう。ついに開き直って吐き捨てた。「死ぬなら死ぬで構わないわ。どうせ大した命じゃないもの。だけど、これから先、あなただって楽には生きられないわよ?本当に馬鹿よね。私が何を言っても、あなたは全部そのまま信じた。久世怜奈を死なせたのは私じゃない。あなたよ。あの女があなたにどれだけ尽くしてきたか、ちゃんと分かってた?心も体もすり減らして、私に毒を盛られて胃がんになっても、それでもまだ命を削ってあなたのためにお金を稼いでたのよ。なのに、あなたはどうだった?私がそれっぽくあの女の悪口を吹き込んだだけで、あっさり信じたじゃない。よくそんなことができたわよね。本当に一番報いを受けるべきなのは、あなただったのよ!」「黙れ!こいつを始末しろ!」颯太は全身を震わせながら、桃花を殺せと命じた。そして私の亡骸へ目を向けたその瞳には、罪悪感と自責の色が満ちていた。「はははっ、私は死ねばそれで終わり。でも、あなたは生き地獄ね。これから先、永遠に久世怜奈への罪悪感を抱えて生きていくのよ!」死の間際になっ
「本当か?」颯太は桃花の首を締める手を少しだけ緩め、半信半疑のまま傍らの医者を見た。その医者はとっくに桃花に買収されており、ためらいもなくうなずいた。「本当です。久世さんが私を買収して、もっと多く血を抜くよう頼んだんです」颯太の目つきが冷えきったものに変わった。「怜奈に言われたからといって、そのまま血を抜いたのか?お前は医者だろう、常識もないのか。5000ミリリットルも抜けば、人は死ぬんだぞ!怜奈の命で償ってもらう!」そう言って彼が手を振ると、外から二人の警備員が駆け込んできて、医者を取り押さえた。「怜奈から抜いたのと同じ量の血を、こいつからも抜け!」「山本社長、どうかお許しください!わざとじゃないんです、全部久世怜奈の指示だったんです!」医者は顔面蒼白になり、床に跪いて命乞いをした。「やれ!」颯太はまったく取り合わなかった。「山本社長、今までずっと怖くて言えませんでした。でも、もう久世さんはいなくなったから、やっと本当の気持ちを言えます。私はずっと前からあなたが好きでした。私と一緒になってください。結婚しましょう!」桃花はこの隙を逃すまいと、なりふり構わずその場にひざまずき、結婚を迫った。颯太の顔には迷いが浮かんだ。「無理だ。怜奈は死んだ……それが自業自得だったとしても、俺たちは十年一緒にいたんだ。俺は本気であいつを愛してた。今すぐお前に気持ちを向けることなんてできない。少し時間をくれ」桃花の顔に一瞬、どす黒いものがよぎった。けれど次の瞬間には、それをきれいに押し隠し、健気そうな顔で口を開いた。「分かっています。あなたのどこに一番惹かれたか、知っていますか?そういう一途なところです。私は待てます。どれだけでも待ちます」颯太はすっかり心を動かされたようだった。二人は私の亡骸を前にして、そんなやり取りを平然と交わしていた。医者はすでに手術台に縛りつけられていて、恐怖で今にも失禁しそうになっていた。「井上さん、助けてください!」「助ける?人の命を何とも思わない、そんなクズが医者を名乗る資格あると思う?あなたは死んで当然よ!」桃花は用済みになった途端、容赦なく切り捨てた。計画はすでに成功し、颯太の心も手に入れた今となっては、医者の生き死になどどうでもよかったのだ。すると医者
「怜奈、俺が悪かった。やっと分かったんだ。あのとき俺を助けたのは、お前だったんだな。だったら、どうしてもっと早く言ってくれなかったんだよ。お前が黙ってたせいで、俺は恩人を取り違えた。お前が何も言わなかったせいで、あんなに長い間お前を罰することになったんだぞ。俺がどれだけショックを受けたと思ってる?どれだけ傷ついたか、分かってるのか?……全部、お前のせいだ。もう輸血なんてしなくていい。今すぐ役所に行って、婚姻届を出すぞ」颯太は駆け寄ってきて、私の身体につながっていた採血用の針を引き抜いた。ようやく彼は、自分の命を救ったのが誰だったのかを知った。なのに、どうして私は少しも嬉しくないのだろう。たぶん、もう死ぬからだろうか。それとも、真実を知ったこの瞬間になってなお、彼はまだ私を責めていたからだろうか。私はふいに、すべてを理解した。彼の心が桃花だけに向いていたわけではない。献血記録を調べに行った以上、桃花のことを完全に信じ切っていたわけでもなかったのだ。けれど同時に、その心は私にも向いていなかった。最初から最後まで、彼の心の中にあったのは自分だけだったのだ。私たちが一緒に過ごしてきたあの幸せな日々も、甘かったのはきっと私だけだったのだろう。彼が求めていたのは、自分に寄り添ってくれる相手だった。苦労を共にしてくれる相手。会社が上場するまで支え続けてくれる相手。自分の夢を叶えるために、隣で走り続けてくれる相手。もしかしたら、私の受け取り方が間違っていたのかもしれない。もしかしたら、彼は本当に私を愛していたのかもしれない。でも、もう何もかもどうでもよかった。私の魂はすでに完全に身体を離れ、身体はすっかり冷たくなっていた。私は死んだ。ようやく死んだのだ。この世のあらゆるしがらみから、ようやく解き放たれて。けれど不思議なことに、私の魂はそのまま消え去らず、天井のあたりに浮かんでいた。私は見た。颯太が私の手を掴み、そのまま手術室の外へ連れ出そうとしているのを。今すぐ役所へ行って、婚姻届を出そうとでもいうように。けれど、どれだけ揺さぶられても、私の体はぴくりとも動かなかった。まるで石のように冷たく、硬くなっていた。指先から伝わる冷たさに、ようやく颯太も異変に気づいた。「先生、どういうことだ?ど