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10.二人で見た夢

Author: 中岡 始
last update publish date: 2026-10-17 13:35:05

翌朝、綾乃はフロントの事務室で、前日の引き継ぎ記録を確認していた。

色づき始めた楓に朝日が差し込んでいる。昨夜ほとんど眠れなかった綾乃には、その光が眩しかった。

「女将さん、こちらの変更、厨房にも伝わっています」

予約係が差し出した用紙には、夕食の時間を変更した宿泊客の部屋番号と、各担当者の確認印が並んでいた。

「ありがとうございます。では、食事会場にも予定どおりご案内してください」

用紙を受け取り、綾乃は右端の小さな確認欄を見つめた。

誰が連絡を受け、どこまで伝えたのか。小さな欄があるだけで、伝達の行き違いを減らせる。今では当たり前の書式も、最初からあったわけではない。

二〇一九年四月、神崎楼に入社したばかりの自分は、そんなことさえ知らなかった。

大学で経営学を学び、旅館の仕事に関心を抱いて入社した。当時の綾乃は、経営には数字を読む力が大切だと考えていた。だが、宿泊客を迎える一日がどれほど多くの手で支えられているかは、現場に立って初めて知った。

最初は客室の準備一つにも時間がかかった。備品の位置を覚え、清掃の確認を教わり、次はフロントで予約内容の見方を学ぶ。食事の開始時間が変われば
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  • 夫に追い出された女将は、元夫の旅館を買い取りました   12.居場所のない女将

    綾乃は、前日に渡された新しい宿泊プランの案内資料を机に広げた。季節の料理を一品加え、チェックアウトの時間を延長する。企画の狙いはよくわかるし、広告に使う写真も魅力的だった。ただ、接客担当や清掃担当に確認したはずの項目には、まだ空欄が残っている。「こちらの提供条件は、もう決まっているんでしょうか」予約係に尋ねると、相手は予定表を見せてくれた。「昨日、社長と藤崎さん、それから予約部門の責任者で打ち合わせをしたそうです。今日中に案内の準備を進めるよう言われています」「厨房と接客の担当者も出席したんですか」「いえ、そこまでは聞いていません。決まった内容を各部署へ伝える、ということでした」綾乃は資料の端を押さえた。経営方針の会議から外れることは、隆哉に告げられていた。しかし、料理の提供方法や人員配置まで、現場の意見を聞かずに決めるとは思っていなかった。「ありがとうございます。まず、どこまでが決定事項か確認しますね」予約係を困らせないように、綾乃は声の調子を変えなかった。相手も伝えられた指示に従っているだけだ。厨房の責任者に電話をすると、追加する料理の候補は相談されているものの、提供する組数や時間帯はまだ聞いていないという。「献立が決まれば仕込みの段取りは考えられます。でも、同じ時間に何組も重なるなら話は別ですね」「わかりました。確認できるまで、新しい料理についてお約束する案内は控えてもらうよう伝えます」次に清掃部門へ聞くと、チェックアウト延長の対象客室が決まらなければ、翌日の作業順を組めないとの返事だった。綾乃は資料に書き込みを加えた。今までなら関係者を集め、条件をそろえてから予約係へ伝えていた。今回は、綾乃が知らないところで検討が進んでいる。問い合わせるべき相手を確かめようと社長室に内線を入れると、隆哉は短く答えた。「企画の方向性は俺と藤崎さんで決めた。細かい運用は各部署で調整してくれ」「では、特典の対象となる部屋数や、販売条件については、どなたの判断を仰げばよろしいでしょうか」「変更

  • 夫に追い出された女将は、元夫の旅館を買い取りました   11.いつから、すれ違ったのか

    窓の外の楓は、昨日より少し赤みを増したように見えた。綾乃は予約一覧を閉じ、机に置かれた業務連絡の束を整えた。神崎楼で働き始めた頃、あれほど頼もしかった隆哉が、いつから自分の意見に耳を貸さなくなったのか。答えを探そうとすると、思い浮かぶのは、神崎家にとって大きな転機となった年だった。二〇二二年、隆哉の父、雅之が病気で亡くなった。雅之は、表に立って宿泊客をもてなすことこそ少なかったが、神崎楼の経営を長く支えていた。資金繰りを見通し、取引先との条件を詰め、設備の更新にどこまで費用をかけられるかを判断する。綾乃が入社した頃も、経営に関わる書類には必ず雅之の確認が入っていた。葬儀を終えたあとも、旅館の営業は続いた。客は予定どおり到着し、仕入先からは納品の連絡が入る。雅之を失った悲しみと、仕事を止められない現実が同時に押し寄せた。「父さんが決めていたことが、思ったより多いんだ」ある晩、隆哉は自宅で書類を広げ、額に手を当てた。「支払いの予定は追える。でも、取引先との話がどこまで進んでいたか、確認しないといけないものがある」「私にできることはありますか」「現場の状況を教えてほしい。数字だけ見ていると、削っていい費用と、そうじゃない費用の区別がつかなくなる」綾乃は頷き、客室で交換を急ぐ備品や、調理場から上がっていた要望を伝えた。すべてが採用されたわけではない。後回しにできるものもあれば、安全やサービスに関わるため、優先しなければならないものもあった。「それは先に手を打とう。ありがとう、綾乃」隆哉は何度もそう言った。慣れない責任を背負い、時には夜遅くまで資料を見ていた夫を、綾乃は支えたいと思った。自分に経営のすべてがわかるわけではない。それでも、現場で見たことを伝えれば、判断の助けにはなれる。やがて隆哉は、取引先との交渉や新しい営業施策を、自分の判断で進めるようになった。費用を見直し、宿泊プランを組み替えた結果、手応えを得られることも増えていった。「今回は俺の判断で進めてよかった」そう笑う隆哉を見て、綾乃もうれしくなった。夫が父

  • 夫に追い出された女将は、元夫の旅館を買い取りました   10.二人で見た夢

    翌朝、綾乃はフロントの事務室で、前日の引き継ぎ記録を確認していた。色づき始めた楓に朝日が差し込んでいる。昨夜ほとんど眠れなかった綾乃には、その光が眩しかった。「女将さん、こちらの変更、厨房にも伝わっています」予約係が差し出した用紙には、夕食の時間を変更した宿泊客の部屋番号と、各担当者の確認印が並んでいた。「ありがとうございます。では、食事会場にも予定どおりご案内してください」用紙を受け取り、綾乃は右端の小さな確認欄を見つめた。誰が連絡を受け、どこまで伝えたのか。小さな欄があるだけで、伝達の行き違いを減らせる。今では当たり前の書式も、最初からあったわけではない。二〇一九年四月、神崎楼に入社したばかりの自分は、そんなことさえ知らなかった。大学で経営学を学び、旅館の仕事に関心を抱いて入社した。当時の綾乃は、経営には数字を読む力が大切だと考えていた。だが、宿泊客を迎える一日がどれほど多くの手で支えられているかは、現場に立って初めて知った。最初は客室の準備一つにも時間がかかった。備品の位置を覚え、清掃の確認を教わり、次はフロントで予約内容の見方を学ぶ。食事の開始時間が変われば、予約係が記録するだけでは済まない。厨房が仕込みを調整し、接客係が会場の準備を変える必要があった。ある日、綾乃は宿泊客から受けた夕食時間の変更を、予約表には記したものの、食事会場への連絡が遅れてしまった。幸い、先輩が気づいて間に合ったが、綾乃は申し訳なさで顔を上げられなかった。「すみません。確認したつもりでした」「予約表に書くのも大事だけど、それを見ない部署もあるからね」責める口調ではなく教えられた言葉が、かえって胸に残った。その日の業務が落ち着いてから、綾乃は引き継ぎ用紙を広げていた。どうすれば伝達漏れを防げるのか、思いつくまま余白に書き込んでいると、後ろから声がした。「安西さん、まだ仕事をしていたのか」振り返ると、神崎家の後継者として働いていた隆哉が立っていた。「はい。今日、私の確認が足りなくて……同じ間違いをしない方法を考えていました」隆哉は用紙に目を落とした。「連絡先を増やすのか?」「いえ、増やすだけでは、かえって煩雑になるかもしれません。変更を受けた人が、関係する部署に伝えたかどうか、確認できる欄があればと思ったんです。でも、実際に使いやすいかはわかり

  • 夫に追い出された女将は、元夫の旅館を買い取りました   9.もう戻れない

    「夫婦としての関係を終わらせたい」隆哉の言葉が、綾乃の耳に残っていた。さっきまで食事をしていたテーブルには、夫が置いた仕事のファイルがある。綾乃はその表紙を見つめたまま、何度か息を整えた。「……それは、離婚したいということですか」「ああ」隆哉は言い直すことも、言葉を濁すこともしなかった。「俺の気持ちは、もう決まっている」綾乃は目を伏せた。先ほど不倫を認めたときの沈黙とは違う。今の隆哉は、自分が何を望んでいるのか、はっきりわかっているようだった。「藤崎さんと、一緒になりたいんですか」「すぐに何もかも決められるわけじゃない。けど、綾乃との結婚を終えて、莉央と新しい関係を築いていきたいと思っている」聞きたくて尋ねたはずなのに、返ってきた答えは胸の奥に重く沈んだ。「……そうですか」それ以上の言葉が出ない。隆哉は綾乃の沈黙を、話を続けてもよいという意味に受け取ったらしい。「神崎楼も、これから変えていく。莉央が進めている広告は成果が出ているし、新しいプランにも手応えがある。もっと若い客に来てもらえる宿にしたいんだ」「はい」「女将にも、今までとは違う役割を担ってほしい。莉央なら、企画と発信を一つにつなげられる」綾乃は顔を上げた。「だから、私に女将を降りてほしかったんですね」隆哉はすぐには答えず、指先でファイルを引き寄せた。「仕事のことは、仕事のことだ。神崎楼のために必要だと判断した」「では、離婚のお話とは関係がないと?」「まったく関係がないとは言わない。でも、どちらも中途半端にはできないだろう」綾乃には、その言葉がかえって明瞭に聞こえた。自分との結婚を終え、莉央と新しい生活を考える。そして、神崎楼の女将の座にも彼女を据える。隆哉の中では、その二つが同じ未来へ向かう決断になっていたのだ。「私が担当してきた仕事は、どうなるんでしょうか」問いは口をついて出た。「そこは順に引き継げばいい。各部署には責任者がいるし、莉央も覚えていくだろう」「予約の調整や、お客様からのご相談は、広報だけでは対応できません」「わかっている。今すぐ全部できるとは思っていないよ。みんなにも協力してもらう。新しい体制が落ち着くまで、多少の混乱はあるかもしれないけど」隆哉は、解決できる問題だという口ぶりだった。本当にそうだろうか。女将の仕事を覚えるには、厨

  • 夫に追い出された女将は、元夫の旅館を買い取りました   8.裏切りの告白

    「藤崎さんとは、男女としてのお付き合いをしているんですか」隆哉は答えなかった。食卓の上には、先ほど彼が置いたファイルがある。綾乃はその端がわずかにめくれているのを見つめながら、返事を待った。違うと笑ってほしかった。二人で食事をしただけなのに、何を考えているんだと言われたなら、きっと謝ることができた。けれど隆哉は、視線を合わせようとしない。「隆哉さん」名前を呼ぶと、夫はゆっくり顔を上げた。「……そうだ」短い返事だった。「莉央とは、仕事だけの関係じゃない。……付き合っているんだ」綾乃は夫の顔を見た。言葉の意味を確かめるように、隆哉は続けた。「結婚している俺が、彼女と関係を持った」綾乃は口を開いたまま、何も言えなかった。聞こうと決めていたはずなのに、答えが言葉になった途端、その先をどうすればいいのかわからなくなる。壁の時計が、かすかに音を立てている。さっきまで二人で夕食を取っていた部屋は、いつもと変わらない。夫の湯呑みも、綾乃が置いたままの布巾も、そこにある。それなのに、同じ場所にはもう戻れない気がした。神崎楼では、莉央と何度も顔を合わせてきた。予約ページを改善したとき、綾乃も成果を喜んだ。新しい宿泊プランを提案されたときには、厨房や接客担当との調整が必要だと伝えた。莉央は熱心に説明し、綾乃の意見にも耳を傾けていた。あの会議のときも、その前も、二人はすでに特別な関係だったのだろうか。莉央にとって綾乃は、同じ旅館で働く女将であり、隆哉の妻でもある。そこに曖昧なところなどなかったはずだ。互いの立場を知ったうえで笑顔を交わしていたのだと思うと、記憶の一つひとつが急によそよそしくなった。問いかけが胸の内に浮かんでも、声にはならない。莉央が「綾乃さん」と呼ぶ声まで思い出してしまい、綾乃は膝の上で両手を強く握った。彼女の仕事の能力を認めたことに、嘘はない。神崎楼のためになると思ったから、協力したかった。それでも、何も知らずに向き合っていた自分を、二人はどんな気持ちで見ていたのだろう。「綾乃」隆哉が名前を呼んだ。綾乃は答えず、食卓の木目を見つめた。涙が出ると思っていたのに、目の奥が痛むだけで、一滴もこぼれない。「何か、言ってくれないか」夫の声が遠く感じられた。「……少し、待ってください」やっとそれだけ告げると、隆哉は黙った。綾

  • 夫に追い出された女将は、元夫の旅館を買い取りました   7.仕事上の関係ですか

    「藤崎さんとは、仕事以外でも親しい関係なんですか」綾乃が尋ねると、隆哉は食卓のそばで足を止めた。仕事の資料を取りに戻ってきたところだったのだろう、片手には薄いファイルを持っている。「何だよ、急に」「急に思いついたわけではありません。前から、少し気になっていました」隆哉は椅子を引いて腰を下ろしたが、ファイルは手放さなかった。「藤崎さんは神崎楼にとって大事な人材だ。あの人が広告を見直してくれたおかげで、今までうちを知らなかった客にも来てもらえるようになった。知っているだろう?」「はい。予約の数字にも表れていますし、仕事ぶりは私も評価しています」「だったら、俺が頻繁に打ち合わせをするのは当然じゃないか。新しいプランを出すにも、写真を替えるにも、俺が判断しなきゃ進まないことがある」説明は筋が通っていた。莉央が企画を出し、経営者の隆哉が判断する。綾乃もその仕事の流れを知っているし、二人が顔を合わせる機会が多いこと自体に疑問はない。ただ、今聞きたいのは、そこではなかった。「お仕事で会うことを問題にしているのではないんです」「じゃあ何が問題なんだ」「藤崎さんと、仕事を離れても会っているのかを聞いています」隆哉は一度、口を開きかけた。それから手元のファイルに視線を落とす。「仕事と私生活を、そんなにはっきり分けられるわけじゃない。企画の相談が長引いて、外で話すことだってある」「外で、というのは?」「店に入って話すとか、そういうことだよ。事務室にいるだけが仕事じゃないだろう」綾乃は頷いた。打ち合わせの場所が旅館の外になったというだけなら、夫を疑う理由にはならない。それでも隆哉は、誰とどんな時間を過ごしているのかという問いには答えていない。「二人でお会いになったこともあるんですか」「綾乃、俺は今、神崎楼の新しい客層を開拓しようとしているんだ。広告の反応がいい時期を逃したくない。そんな話までいちいち報告しなきゃいけないのか」「報告を求めているのではありません。ただ、知りたいんです」自分の声が平静なのを、綾乃は不思議に思った。胸の内側では、夫が明るく笑って莉央に向き合っていた姿が消えずにいる。けれど、その印象だけを根拠に責めたくはなかった。隆哉が「仕事だけだ」と言ってくれれば、ほっとできるかもしれない。そう思って待ったが、その言葉は返ってこなかっ

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