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名前のない疲れ③

作者: なつめ
last update 公開日: 2026-08-16 15:46:54

 澄乃は、瞬きをした。

 指先が震えている。

 疲れているのだと分かった瞬間、心のどこかで否定が起きた。

 まだ平気。

 倒れていない。

 座って作業しているだけ。

 これくらいで疲れたなどと言っていたら、迷惑になる。

 澄乃は左手で右手首を軽く押さえた。震えが収まるまで少し待ち、それからまた書き始める。けれど、今度は文字の線が弱くなった。

 帳場の向こうで、伊織が立ち上がる音がした。

 澄乃は気づいていたが、顔を上げなかった。

 足音が近づく。

 紙の上に、影が落ちる。

「澄乃さん」

 低い声だった。

 澄乃は鉛筆を持ったまま顔を上げる。

「はい」

「手」

 伊織の視線は、澄乃の右手に向いていた。

 澄乃は反射的に手を引っ込めようとした。

「少し、力を入れすぎただけです」

「顔色も悪い」

「大丈夫です」

 言った瞬間、伊織の目が鋭くなった。

 帳場の空気が少し止まる。

 篠田が電話の手を止め、真帆も客室案内の紙を抱えたままこちらを見る。

 澄乃は、自分の声が思ったより硬かったことに気づいた。

「本当に、あと少しで」

「立て」

 伊織が言った。

 短く、逃げ道のない声だった。

「伊織
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  • 夫の不倫相手に「妻の座を譲れ」と言われたので、譲る代わりに全部置いていきます 〜   名前のない疲れ④

     立った瞬間、足元が少し揺れた。 自分が思っていたより、疲れている。 その事実が、悔しくて恥ずかしかった。 伊織は何も言わず、歩幅を少しだけ落として廊下を進んだ。 澄乃はその後ろを歩く。 水篝館の廊下は、昼の光の中で静かだった。客室の障子は閉まり、遠くから川の音と厨房の物音が聞こえる。すれ違った仲居が、伊織と澄乃を見て少しだけ目を丸くしたが、すぐに頭を下げて通り過ぎた。 澄乃は、下を向きがちに歩いた。 恥ずかしい。 みんなが働いている中で、休憩へ連れ出されている。 まるで子どものようだ。 そう思った瞬間、伊織が言った。「子ども扱いしてるわけじゃない」 澄乃は、びくりとして顔を上げた。 伊織は前を見たままだった。「顔に出てる」「……申し訳ありません」「謝るな」 いつもの言葉だった。 澄乃は唇を結ぶ。 連れて行かれたのは、帳場から少し離れた川沿いの小さな休憩室だった。 従業員が使う部屋だろう。畳敷きではなく、古い木の床に小さな卓と椅子が置かれている。窓の外には川が見え、端には湯呑みや急須、茶葉の缶が並んでいた。華やかな場所ではない。けれど、静かで、帳場の音が少し遠い。 伊織は椅子を引いた。「座れ」「はい」 澄乃は素直に座った。 座った瞬間、肩の力が抜けそうになった。ここまでずっと、背中に何かを背負っていたのだと気づく。紙の束ではない。誰かの期待でもない。自分で自分へ乗せた、休んではいけないという重さだった。 伊織は湯呑みに茶を注いだ。 手つきは慣れていないわけではないが、篠田ほど滑らかでもない。湯の量を少し見て、熱すぎないか確かめるように湯呑みの外側へ指を当てる。それから、澄乃の前に置いた。「飲め」「ありがとうございます」 湯呑みを両手で包むと、指先の震えがよく分かった。 澄乃は、思わず手を隠そうとした。 伊織が見ていた。「隠すな」 静かな声だった。「見られるのが嫌なら、見ない。だが隠して働くな」 澄乃は、湯呑みを持つ手を止めた。 湯気が、指先を温めていく。「……恥ずかしいんです」 小さくこぼれた。 伊織は、向かいの椅子には座らず、窓際に立った。「何が」「これくらいで、手が震えることが。皆さん、働いていらっしゃるのに。私だけ休んでいることが」 声がだんだん小さくなる。「役に立ちたく

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     澄乃は、瞬きをした。 指先が震えている。 疲れているのだと分かった瞬間、心のどこかで否定が起きた。 まだ平気。 倒れていない。 座って作業しているだけ。 これくらいで疲れたなどと言っていたら、迷惑になる。 澄乃は左手で右手首を軽く押さえた。震えが収まるまで少し待ち、それからまた書き始める。けれど、今度は文字の線が弱くなった。 帳場の向こうで、伊織が立ち上がる音がした。 澄乃は気づいていたが、顔を上げなかった。 足音が近づく。 紙の上に、影が落ちる。「澄乃さん」 低い声だった。 澄乃は鉛筆を持ったまま顔を上げる。「はい」「手」 伊織の視線は、澄乃の右手に向いていた。 澄乃は反射的に手を引っ込めようとした。「少し、力を入れすぎただけです」「顔色も悪い」「大丈夫です」 言った瞬間、伊織の目が鋭くなった。 帳場の空気が少し止まる。 篠田が電話の手を止め、真帆も客室案内の紙を抱えたままこちらを見る。 澄乃は、自分の声が思ったより硬かったことに気づいた。「本当に、あと少しで」「立て」 伊織が言った。 短く、逃げ道のない声だった。「伊織さん」「休憩だ」「でも、まだ」「休憩だと言った」 伊織は、澄乃の手元から鉛筆を取った。 乱暴ではない。 けれど、有無を言わせない動作だった。 澄乃は、空になった指先を見た。鉛筆を握っていた形のまま、指が少し強張っている。「今、止めると」「誰かが死ぬのか」 伊織の声は低かった。 澄乃は言葉に詰まる。「死なない仕事なら、止められる」 その言い方は厳しい。 けれど、怒っているのとは違った。 澄乃の中で、何かがざわめく。 止められる。 その言葉が怖かった。 自分の手から仕事を離されることが怖い。今止まれば、役に立てない人間になる気がする。みんなが忙しいのに、自分だけ休むことが怖い。篠田も真帆も動いている。料理長も仕込みをしている。伊織も宿のために走り回っている。 自分だけ座って休むなど、許されるのだろうか。「ご迷惑をおかけします」 澄乃は、かすれた声で言った。 伊織は眉を寄せた。「迷惑になる前に止めてる」「でも、私はまだ」「ここでは倒れるまで我慢しなくていい」 その言葉が、帳場の空気にまっすぐ落ちた。 澄乃は、息を止めた。 倒れるまで我慢

  • 夫の不倫相手に「妻の座を譲れ」と言われたので、譲る代わりに全部置いていきます 〜   名前のない疲れ②

     短い言葉だった。 澄乃は、口を閉じた。 篠田が穏やかに続ける。「花屋への確認は、いつも帳場でしております。澄乃さんは、文面の下書きを見ていただけますか」「はい」 澄乃は頷いた。 そうだった。 自分が全部をする必要はない。 そう分かっていても、一度立ち上がりかけた身体が、少し遅れて座り直す。まるで、自分の中にもう一人の自分がいて、動け、動け、と背中を押しているようだった。 午前中は、次々と細かな仕事が重なった。 水明の花の確認。 秋灯の桂木へ出す茶菓子の内容。 季節膳の献立札の紙質。 大浴場の案内紙を置いた部屋で、客が迷わなかったかの聞き取り。 日帰り入浴の問い合わせ。 アレルギー対応表の赤い欄の位置。 どれも、水篝館を大きく変える仕事ではない。 けれど、小さな紙と小さな確認が、帳場の上に積もっていく。ひとつひとつは軽い。まとめると重い。澄乃はそれを知っていた。だからこそ、早めに片づけなければと思う。 昼前、真帆が帳場へ戻ってきた。「澄乃さん、水明のお客様、大浴場の場所は案内紙で分かったって言ってました」「本当ですか」「はい。ただ、食事処の場所は、もう少し絵の方が分かりやすいかもって」「分かりました。矢印を少し直します」「今すぐじゃなくていいですよ」 真帆が言った。 その言葉に、澄乃は少しだけ驚いた。「え?」「今日の分はもう置いてありますし。急がなくても」 真帆は何でもない顔で言う。 以前なら、澄乃の提案に身構えていた真帆が、今は澄乃を止める側に回っている。そのことが少しおかしくもあり、胸に染みもした。 だが、澄乃の手はすでに紙へ伸びていた。「下書きだけ、しておきます」「澄乃さん、朝からずっと書いてますよ」「大丈夫です」 口から自然に出た。 真帆の表情が少し曇った。 帳場の奥で、伊織の手が止まる。 澄乃は、その空気に気づいた。 また言ってしまった。 大丈夫です。 久世家で、自分を消すために使ってきた言葉。 水篝館では、少しずつ別の言葉に置き換えようとしていた。それなのに、忙しくなると真っ先に戻ってくる。 澄乃は笑おうとした。「いえ、本当に、少しだけですから」 真帆はまだ何か言いたげだったが、篠田に呼ばれて客室へ向かった。 伊織は何も言わなかった。 その沈黙が、逆に澄乃を落ち

  • 夫の不倫相手に「妻の座を譲れ」と言われたので、譲る代わりに全部置いていきます 〜   名前のない疲れ①

     水篝館の帳場には、朝から紙の匂いがしていた。 雨天時玄関対応の手順書、館内案内の試作、記念日対応の確認表、料理長から預かった季節膳の一行。古い台帳の紙の匂いと、新しく書き足された紙の匂いが混ざり、帳場の空気に少しだけ新しい熱が生まれている。 川は穏やかに流れていた。 雨のあと膨らんでいた水音も少し落ち着き、朝の光を受けて白く揺れている。川沿いの窓から入る風は冷たすぎず、湿った木の匂いを運んできた。廊下では真帆が客室案内を差し替える足音がして、厨房の方からは豆腐屋の湯葉を確かめる料理長の低い声が聞こえてくる。 澄乃は帳場の端に座り、記念日対応の紙をもう一度見直していた。 花の有無。 食事時のひと言。 記念写真の声かけ。 部屋に置く小さな菓子。 前日までの予約。 一日の上限。 無料にしないこと。 無理な希望は帳場で止めること。 文字のひとつひとつを確認していく。水篝館の空気を壊さず、客に押しつけず、けれど現場の負担も隠さない。そう考えると、短い文を書くにも何度も迷った。強く言いすぎれば冷たい。柔らかくしすぎれば、何でも受けるように見えてしまう。 澄乃は、鉛筆の先を紙の端に置いたまま、目を細めた。 もう少しだけ整えたい。 昨日、料理長が言っていた甘味の件も、篠田に確認したい。食後のお茶を変えるなら、茶葉の在庫も見なければならない。真帆が言っていた客室案内の置き場所も、三部屋だけでなく、廊下の曲がり角が多い部屋でも試せるかもしれない。 頭の中に、次々と仕事が浮かぶ。 どれも急ぎではない。 そう分かっているのに、浮かんだものをその場で拾わずにいると、落ち着かなかった。放っておけば誰かが困るかもしれない。先に整えれば、現場が楽になるかもしれない。少しでも役に立てば、ここにいていいと自分に言える。 そこまで考えて、澄乃はふと手を止めた。 ここにいていい。 その言葉が胸の奥に引っかかった。 水篝館の人たちは、そんなふうに言ったことはない。伊織は雇用として条件を出した。篠田は仕事として教えてくれた。真帆は不安も意見も口にするようになった。料理長は文句を言いながらも試作を始めた。 ここでは、役に立たなければ捨てられるとは言われていない。 それなのに、澄乃の身体はまだ信じきれていなかった。 役に立たなければ。 気づかなければ。 

  • 夫の不倫相手に「妻の座を譲れ」と言われたので、譲る代わりに全部置いていきます 〜   季節膳の試作⑤

     伊織が横で紙を見た。「軸になるな」 澄乃は顔を上げる。「季節膳ですか」「ああ。料理が届けば、宿は強い」 伊織は厨房の奥へ視線を向けた。「今までは、届く前に止まってた」 その声には、悔しさが少しだけ混じっていた。 水篝館を守りたい男の声だった。 澄乃は、紙を丁寧に持ち直した。「届くように、整えます」「ひとりで抱えるなよ」 すぐに言われた。 澄乃は少しだけ苦笑しそうになりながら、頷いた。「はい。料理長と、篠田さんと、真帆さんと、伊織さんに確認します」「それでいい」 伊織は短く言った。 厨房の外へ出ると、廊下には午後の光が差していた。 雨上がりの湿気を含んだ木の匂い。川の音。遠くで客の笑い声がする。帳場では篠田が電話を取り、真帆が客室案内の紙を揃えていた。 水篝館は、まだ綻びの多い宿だった。 古い台帳。 分かりにくい案内。 統一されていない記念日対応。 外へ届ききらない料理の魅力。 けれど、その綻びは直せるかもしれない。 壊すのではなく、縫い直すように。 誰かひとりの手を食べるのではなく、仕事として分け合いながら。 澄乃は帳場へ戻り、試作の一行を書いた紙を篠田に見せた。 篠田はそれを読み、目元を柔らかくした。「水篝館らしいですね」 真帆も横から覗く。「お客様に言いやすそうです」「まだ試作です」 澄乃は言った。「料理長の確認が必要ですし、紙質も考えないと」 真帆が笑った。「料理長、紙質まで言ったんですか」「はい」「それ、かなり本気ですね」 澄乃は少し驚いた。「そうなんですか」「本当に嫌なら、紙なんて見ませんよ」 真帆の言葉に、篠田も頷いた。 澄乃は、厨房の方を振り返った。 葛城の怒ったような横顔が思い浮かぶ。 ぶっきらぼうで、手厳しくて、紙が嫌いで、けれど料理が客へ届くことを誰より真剣に考えている人。 水篝館には、そういう人たちがいる。 澄乃は、その中へ少しずつ入れてもらっている。 そのことが、まだ不思議で、ありがたく、怖くもあった。 夕方、帳場の仕事が落ち着いた頃、伊織が小さな紙片を澄乃へ渡した。「これ、料理長から」「料理長から、ですか」 澄乃は受け取った。 そこには、無骨な字で短く書かれていた。 豆腐屋の湯葉。明日見る。 それだけだった。 澄乃は、その紙を

  • 夫の不倫相手に「妻の座を譲れ」と言われたので、譲る代わりに全部置いていきます 〜   季節膳の試作④

    「はい」「塩は強くしない。皮を食わせる」 澄乃は素早く書き取った。 葛城は続ける。「山椒は少し。香りだけでいい。川魚が苦手な客にも、臭みを感じにくいはずだ」 澄乃は頷きながら書く。 その横で、伊織が低く言った。「十分だな」 澄乃は紙を見た。 雨のあとで身が締まった川魚を、皮目まで香ばしく焼きます。山椒は香りだけを添え、川の涼しさを残しました。 書いてから、少し考え、言葉を削る。 雨のあとで身が締まった川魚を、皮目まで香ばしく。山椒は香りだけを添えました。 短い。 押しつけがましくない。 料理の邪魔をしない。「いかがでしょうか」 澄乃が紙を差し出すと、葛城は読んだ。「川の涼しさ、とか書かないのか」 澄乃は少し驚いた。「入れた方がよろしいですか」「いや。恥ずかしいからいらん」 葛城は紙を返した。「これくらいなら、まあ」 それは、かなり大きな前進だった。 試作の魚が焼かれる。 炭火ではないが、焼き台の上で皮が少しずつ音を立てる。脂が落ち、香ばしい匂いが厨房に広がった。葛城は魚を何度も触らない。火の通りを見る目が鋭く、無駄な動きがなかった。 澄乃は、その手元を見ていた。 料理は、軽くない。 紙にした瞬間、軽く見えてしまう危うさがある。だからこそ、言葉は料理より前へ出てはいけない。届く道を整えるだけで、料理そのものを飾りで隠してはいけない。 そのことを、葛城の手が教えているようだった。 焼き上がった魚は、小さな皿にのせられた。 添えられたのは、蕗を炊いたものと、酢を控えめにした大根。派手ではない。けれど、雨上がりの山と川の匂いがした。 葛城は、箸を添えて言った。「食え」 澄乃は少し躊躇した。「私が、ですか」「提案したのはお前だろう」 伊織が横から言う。「食べられる分だけでいい」 その一言があったので、澄乃は箸を取った。 川魚の皮を少しだけほぐし、口に運ぶ。 香ばしさの後に、身の淡い甘さが来た。塩は強くない。山椒の香りがほんの少し鼻に抜ける。重くないのに、印象が残る味だった。 澄乃は、しばらく言葉を探した。「……美味しいです」「それしか言えないなら紙なんか作るな」 葛城が即座に言った。 澄乃は、少し慌てて首を横に振る。「すみません。まず、それが出てしまって」「まず?」「はい。皮が

  • 夫の不倫相手に「妻の座を譲れ」と言われたので、譲る代わりに全部置いていきます 〜   妻の座を譲れと言われました⑤

    「私は、器ではありません」 澄乃は言った。 瑠璃花の瞳が揺れる。「何でも入れておけるものではありません」 その声は、少しだけ低かった。 昌親が目を見開く。 澄乃自身も、自分の声の温度に気づいていた。怒鳴ってはいない。だが、今まで久世家の中で出したことのない硬さがあった。 瑠璃花は唇を噛みかけ、すぐにやめた。爪を傷つけるのを恐れたのかもしれない。彼女は両手を膝の上で握った。「でも、澄乃さんは大人ですよね。私たちのこと、ちゃんと分かってくださるって、昌親さんも」「瑠璃花」 昌親が初めて彼女の名を強く呼んだ。 瑠璃花は肩を震わせた。 その声には、澄乃を庇う響きはなかった。ただ

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     朝食。洗濯。掃除。夫の世話。義父母への気遣い。そういう、表に出やすいものだけだろうか。 それとも、何も見えていないのだろうか。「必要なことは、分かる範囲でまとめておきます」 澄乃は言った。 瑠璃花は目を輝かせた。「助かります。私、こういう家のことってまだ慣れていなくて。でも、細かすぎると逆に分からなくなってしまうので、簡単で大丈夫です」 簡単。 澄乃は内心で、その言葉に薄く触れた。 簡単にできると思われていたのだ。 七年分の労働が。気遣いが。記憶が。先回りが。怒られないために削ってきた眠りが。感謝されないまま積み上げた手間が。 簡単でいいものとして、受け取られようとしてい

  • 夫の不倫相手に「妻の座を譲れ」と言われたので、譲る代わりに全部置いていきます 〜   妻の座を譲れと言われました①

     久世家の応接間には、雨上がりの庭の匂いが薄く入り込んでいた。 障子は半分だけ開けられ、濡れた庭石の上に夕方の光が鈍く残っている。庭木の葉先から落ちる雫が、時折、ぽたりと低い音を立てた。その音は妙に大きく聞こえた。室内にいる誰もが声を潜めているわけではないのに、この部屋だけが息を殺しているようだった。 澄乃は、座卓の向こうに座る若い女を静かに見ていた。 汐見瑠璃花。 夫である久世昌親の隣に、ごく自然な顔をして座っている女だった。 薄桃色のワンピースは、昼間の喫茶店や洒落た店先なら可愛らしく映えただろう。けれど、年季の入った黒檀の座卓、落ち着いた絹張りの座布団、壁に掛けられた古い山水画

  • 夫の不倫相手に「妻の座を譲れ」と言われたので、譲る代わりに全部置いていきます 〜   登場人物

    杠澄乃ゆずりは・すみの容姿落ち着いた黒髪を持つ、清楚で品のある女性。 派手な華やかさで目を引くタイプではないが、背筋がすっと伸び、ひとつひとつの所作に丁寧さが宿る。久世家では淡い色のブラウスや上品なワンピースを身につけ、控えめで失礼のない装いを選んでいる。水篝館で働き始めると、藍鼠の着物や白い割烹着がよく似合うようになる。 静かな廊下、川の音、季節の花に囲まれる姿は、久世家で息を詰めている時よりもずっと自然で美しい。人物紹介久世昌親の妻。 久世家の嫁として、家の中のあらゆることを静かに支えている女性。朝食を整え、親族付き合いをこなし、義母の機嫌を読み、義父の来客対応に

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