Share

夫の不倫相手に「妻の座を譲れ」と言われたので、譲る代わりに全部置いていきます 〜
夫の不倫相手に「妻の座を譲れ」と言われたので、譲る代わりに全部置いていきます 〜
Author: なつめ

登場人物

Author: なつめ
last update publish date: 2026-06-09 14:07:20

杠澄乃

ゆずりは・すみの

容姿

落ち着いた黒髪を持つ、清楚で品のある女性。

派手な華やかさで目を引くタイプではないが、背筋がすっと伸び、ひとつひとつの所作に丁寧さが宿る。久世家では淡い色のブラウスや上品なワンピースを身につけ、控えめで失礼のない装いを選んでいる。

水篝館で働き始めると、藍鼠の着物や白い割烹着がよく似合うようになる。

静かな廊下、川の音、季節の花に囲まれる姿は、久世家で息を詰めている時よりもずっと自然で美しい。

人物紹介

久世昌親の妻。

久世家の嫁として、家の中のあらゆることを静かに支えている女性。

朝食を整え、親族付き合いをこなし、義母の機嫌を読み、義父の来客対応にも気を配り、夫の体裁を守る。贈答、慶弔、季節の挨拶、食卓、衣類、家の空気まで、久世家が「勝手に整っている」と思い込むものを、澄乃がひとつずつ支えている。

けれど久世家では、その働きに感謝が向けられない。

家事も気遣いも段取りも、すべて「妻なら当然」「嫁なら当然」として消費されている。

そんな澄乃に、夫の不倫相手・汐見瑠璃花が告げる。

「妻の座を譲ってください」

澄乃は泣き縋らない。

怒鳴り散らさない。

ただ静かに決める。

ならば、本当に譲る。

ただし、譲るのは“妻の座”だけ。

家事も、気遣いも、親族対応も、贈答も、食卓も、夫の生活の後始末も、久世家を支えるために背負っているものすべてを置いていく。

澄乃が向かう先は、老舗旅館・水篝館。

そこで彼女は、誰かの妻でも、誰かの嫁でもなく、杠澄乃として働き始める。

久世家で当たり前のように消費されている気配り、段取り、季節を読む力、人をもてなす力は、水篝館で少しずつ花開いていく。

澄乃は、捨てられる妻ではない。

自分を粗末にする場所から、自分の意思で離れていく人である。

終盤、追いかけてくる昌親に向けて、澄乃は静かに線を引く。

「私が譲るのは妻の座だけです。人生まで渡すつもりはありません」

この物語は、澄乃が誰かに選ばれる話ではない。

澄乃が、自分自身を選び直す話である。


匂坂伊織

さぎさか・いおり

容姿

すらりと背が高く、落ち着いた雰囲気をまとう水篝館の若旦那。

黒髪は短く整えられ、涼しげな目元には穏やかさと鋭さが同居している。和装がよく似合い、旅館の廊下に立つだけで、その場の空気が静かに引き締まる。

笑う時は柔らかい。

けれど、人の本質を見る時の目は決して甘くない。

客にも従業員にも丁寧に接する一方で、理不尽なものには静かに距離を取る芯の強さを持っている。

人物紹介

老舗旅館・水篝館の若旦那。

澄乃が久世家を離れて辿り着く場所で、彼女を迎える人物。

伊織は、澄乃を「かわいそうな妻」として扱わない。

同情で囲い込まず、勝手に救いの物語へ押し込まない。

ひとりの働く女性として、ひとりの人間として、まっすぐ向き合う。

久世家では「当然」とされている澄乃の気遣いを、伊織はきちんと価値として見る。

客の表情を読む力。

季節に合わせて場を整える力。

誰かが困る前に先回りする力。

言葉にならない不安を拾い上げる力。

それらを、伊織は澄乃自身の力として認める。

澄乃は少しずつ、自分が無価値ではないことに気づいていく。

伊織は、澄乃の人生を勝手に塗り替える王子様ではない。

けれど、澄乃が自分の足で立とうとする時、隣に立ってくれる人である。

昌親が水篝館へ追いかけてくる時も、伊織は澄乃の代わりにすべてを決めない。

澄乃自身が言葉を選び、自分の人生を選べるように、静かに支える。

澄乃にとって伊織は、逃げ場所の主ではない。

再生した先で出会う、新しい人生の象徴である。


久世昌親

くぜ・まさちか

容姿

整った顔立ちで、外では感じのいい夫に見える男。

身なりには気を遣い、スーツも靴もきちんとしている。仕事関係者や親族の前では穏やかに振る舞い、表面上は余裕のある人物として映る。

けれど、その清潔感や体裁は、澄乃が陰で生活を整えているから保たれている。

澄乃が離れるにつれて、服装、食事、予定管理、親族への対応、表情の余裕が少しずつ崩れていく。

人物紹介

澄乃の夫。

そして、澄乃がいなくなってからようやく、彼女が何を支えているのかを思い知る男。

昌親は、澄乃の献身を当然のものとして受け取っている。

整えられる朝食も、用意される服も、円滑に進む親族付き合いも、会社関係への気遣いも、家の空気が荒れないように澄乃が飲み込む言葉も、すべて見えていない。

その一方で、若く華やかな汐見瑠璃花との関係に溺れていく。

甘えられ、頼られ、男として必要とされている気分になり、澄乃の存在を軽んじていく。

瑠璃花が澄乃に「妻の座を譲って」と迫る時、昌親は本気で思っている。

澄乃がいなくても、生活はどうにかなる。

妻の座に別の女が座れば、家はそのまま回る。

けれど、澄乃が本当にすべてを置いていくことで、久世家は崩れ始める。

食卓は乱れ、義母は苛立ち、義父は体裁を失い、親族対応は滞り、会社関係の気遣いも抜け落ちる。

瑠璃花を迎え入れても、澄乃の代わりにはならない。

昌親が取り戻したいものは、澄乃という女性なのか。

それとも、澄乃が整えている生活なのか。

彼自身も、その違いを最後まで正しく理解できない。

そこが彼の愚かさであり、哀れさでもある。

終盤、昌親は澄乃を追って水篝館へ現れる。

けれど、もう遅い。

澄乃はすでに、彼の妻であることをやめている。

それどころか、彼の人生を支える役目そのものから降りている。

昌親は、妻を失う男ではない。

妻を人として扱わないことで、自分の居場所ごと失っていく男である。


汐見瑠璃花

しおみ・るりか

容姿

華やかで、目を引く可愛らしさを持つ若い女性。

明るめの髪色に、手入れされた巻き髪。甘い色のワンピースや揺れるアクセサリーを好み、自分が一番可愛く見える服装や仕草をよく知っている。

笑うと無邪気に見える。

けれど、その無邪気さは時に残酷さと紙一重になる。

昌親の前では甘え上手で、弱さを見せることで相手を引き寄せる。

人物紹介

久世昌親の不倫相手。

澄乃に「妻の座を譲ってください」と告げる女性。

瑠璃花は、昌親に愛されている自分こそが本物だと信じている。

澄乃は古い妻で、自分は選ばれるべき新しい女。

そう思い込み、澄乃が長く支えている生活の重さを知らないまま、妻の座を欲しがる。

けれど、瑠璃花が欲しがるものは昌親だけではない。

“妻”という立場。

久世家の中で認められる場所。

澄乃が日々整えている生活の上に、苦労なく座る権利。

彼女は知らない。

妻の座は、きれいな椅子ではない。

家事、気遣い、親族の顔色、義母の機嫌、義父の体裁、夫の世話、家の空気、見えない責任が積み上がる場所である。

澄乃がすべてを置いていくことで、瑠璃花はようやく現実に触れる。

自分が欲しがるものは恋の勝利ではなく、他人の人生を消費する場所なのだと。

瑠璃花は、完全な悪女というより、浅はかで、自分に都合のいい夢だけを見ている女性である。

だからこそ、現実に直面する時の転落は容赦がない。

彼女が望む“妻の座”は、澄乃が抜けた瞬間、ただの重荷へ変わっていく。


義母

容姿

きちんとした身なりを崩さない、上品ぶった雰囲気の女性。

髪は常に整えられ、服装も落ち着いている。外では“良家の奥様”として振る舞い、家の格を重んじるように見せている。

しかし、表情にはいつも薄い不満が滲む。

目元や口元には、人を値踏みする癖が出る。

澄乃を見る時の視線には、感謝ではなく「嫁なら当然」という冷たさがある。

人物紹介

澄乃を嫁として使い倒している人物。

久世家の家事、親族付き合い、来客対応、季節の行事を澄乃に背負わせながら、それを当然のものとして扱っている。

義母にとって澄乃は、家を整えるための嫁である。

疲れているかどうか。傷ついているかどうか。限界に近いかどうか。

そんなことは見ようとしない。

澄乃がいる間、久世家は整っている。

食事は出る。

親族対応は乱れない。

贈答は遅れない。

来客への気遣いも行き届く。

義母はそれを、久世家の格や自分の采配だと思い込んでいる。

けれど実際には、澄乃が誰にも見えない場所で支えているだけである。

澄乃が去ることで、義母は思い知る。

嫁がいなくなるとは、便利な手がひとつ消えることではない。

家の空気を整える人そのものが消えることなのだと。

瑠璃花に不満をぶつけても、昌親を責めても、澄乃は戻らない。

義母は、嫁を失う人ではない。

自分が“使っている人間”にも心があると見ないまま、自分の暮らしの土台を失っていく人である。


義父

容姿

白いものが混じる髪に、落ち着いた服装をしている。

外では穏やかで、物分かりのよい家長に見える男性。声を荒らげることは少なく、親族や来客の前では品のある人物として振る舞う。

しかし、その穏やかさは優しさではない。

家庭内の面倒ごとを見ないようにしているだけで、澄乃の負担を軽くするために動くことはない。

静かな表情の奥には、「家のことは女が整えるもの」という古い価値観が染みついている。

人物紹介

久世家の義父。

怒鳴り散らすタイプではないが、久世家の歪みを放置している人物。

義母が澄乃に家のことを押しつけていること。

昌親が澄乃を軽んじていること。

澄乃が黙って耐えていること。

義父はそれを知らないわけではない。

知っていて、深く踏み込まない。

「まあまあ」

「うまくやってくれ」

「家のことだから」

そんな曖昧な言葉で問題を流し、最後には澄乃の我慢に押しつける。

この手の人間、本当に静かに厄介。怒鳴る悪役より見えにくいぶん、家の中に長く毒を残す。

義父は、澄乃に直接ひどい言葉を浴びせる人物ではない。

だが、澄乃を守ることもしない。

むしろ、澄乃の働きによって久世家の体裁が守られていることに甘えている。

澄乃がいる間、義父は家の空気が自然に整っていると思い込んでいる。

親族との関係が崩れないこと。

来客への対応が滞らないこと。

食卓が乱れないこと。

義母の機嫌が大きく荒れないこと。

昌親の不始末が表に出にくいこと。

それらは自然に存在しているのではない。

澄乃が日々、作り続けている。

澄乃がすべてを置いていくことで、義父もまた久世家の崩れ方を見ることになる。

けれど気づく時には、もう遅い。

義父は、澄乃にとって直接傷つけてくる相手ではない。

傷つけられている澄乃を見過ごし続ける相手である。

だからこそ、澄乃が久世家を離れる決意を固める理由のひとつになっていく。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 夫の不倫相手に「妻の座を譲れ」と言われたので、譲る代わりに全部置いていきます 〜   水篝館、満室の日②

     篠田が静かに微笑む。「澄乃さん、今日は皆で守りましょう。若旦那も含めて」「俺はいい」「若旦那もです」 篠田の声は穏やかだったが、引かなかった。 真帆が小さく笑う。「休憩表に若旦那の欄、ちゃんとありますから」 伊織は少し不満そうに台帳へ視線を戻した。 澄乃は、そのやり取りを見て、胸の奥が少し温かくなった。 自分だけが止められるのではない。 水篝館全体で、誰かひとりが倒れるまで抱え込まない仕組みを作っている。その中に、伊織も入れられている。本人がいちばん納得していなさそうなのが、少しだけ可笑しかった。 午前十時を過ぎると、最初の客が到着し始めた。 連休の渋滞を避けて早めに出てきた夫婦、荷物の多い家族連れ、久しぶりに水篝館へ戻ってきた常連客、季節膳の案内を見て予約したという女性二人組。玄関は一気に慌ただしくなった。 澄乃は帳場の前へ立ち、客を迎えた。「いらっしゃいませ。足元の悪い中、お越しいただきありがとうございます」 まだ雨は降っていないが、石畳は朝露で少し滑りやすい。澄乃は自然に客の靴元へ視線を向ける。高齢の客には椅子を勧め、子ども連れには先に荷物置き場を示し、記念日客には声を落として確認する。 水明の夫婦には、花の希望を最終確認した。「お部屋へ小さなお花をご用意しております。お食事時の声かけは控えめに、とのことでしたので、料理をお出しする際に一言だけ添えさせていただきます」 夫人がほっとしたように微笑む。「大げさなものは恥ずかしくて。でも、少しだけ覚えていてもらえると嬉しいと思っていたんです」「承知しております。水篝館での時間が、穏やかな記念になりますように」 澄乃がそう言うと、夫人の目元が柔らかくなった。 横で荷物を持っていた伊織が、何も言わずに部屋札を篠田へ渡す。重い鞄は彼が持ち、澄乃は客の言葉を受け取る。役割は自然に分かれていた。 次に来たのは、山吹の家族だった。 小学生の娘が、母親の後ろに少し隠れるように立っている。アレルギーのことを何度も伝えるのが申し訳ないと思っているのか、母親の表情は緊張していた。 澄乃は台帳を確認しながら、声を少し柔らかくした。「小麦の件、事前に詳しくお知らせいただきありがとうございます。料理場にも赤印で共有しております。お部屋のお茶菓子も、米粉のものへ変更しておりますのでご安心

  • 夫の不倫相手に「妻の座を譲れ」と言われたので、譲る代わりに全部置いていきます 〜   水篝館、満室の日①

     水篝館の朝は、いつもより早く動き出していた。 夜明けの川はまだ薄青く、山の端には白い靄がかかっている。川面を渡る風は少し冷たく、玄関先の石畳には夜露が淡く光っていた。普段なら、宿全体がゆっくり息を整えるような時間だった。厨房の火が入り、帳場の灯りがつき、廊下を拭く音が少しずつ宿の中へ広がっていく。 けれど、その朝は違った。 水篝館は満室だった。 連休の初日。季節膳と記念日プランの案内が少しずつ評判になり、灯籠まつりの案内札をきっかけに温泉街の小さな催しを楽しみにする客も増えた。大きな広告を打ったわけではない。派手な宣伝文句を並べたわけでもない。ただ、泊まった客が帰り際に「案内が丁寧だった」「食事の一言が嬉しかった」「足元の不安まで見てもらえた」と話し、町の人がそれを拾い、片桐が観光組合で少し大げさに話した。 そうして、気づけば連休の予約表はすべて埋まっていた。 帳場の台帳には、部屋名がきれいに並んでいる。 水明、山吹、薄氷、秋灯、花筏、夕霧、千鳥、青葉。 それぞれの横に、到着予定時刻、食事時間、アレルギーの有無、記念日対応、送迎希望、足元への配慮、客室への希望が書き込まれている。赤い印は食物アレルギー、青い印は足元や体調に関する注意、薄い黄色の印は記念日対応。最初は澄乃が作った仮の印だったが、今では帳場の誰もが使える形に整えられていた。 澄乃はその台帳を前に、深く息を吸った。 墨と紙の匂い。古い木の匂い。朝の冷えた空気。厨房から上がり始めた出汁の香り。 忙しくなる。 それは分かっていた。 けれど、胸にあったのは恐怖だけではなかった。いい緊張感がある。宿が動く。人が来る。準備してきたものが、実際の客の時間へ触れる。その重さと喜びが、同時に澄乃の背筋を伸ばしていた。 帳場の横では、篠田が客室係への連絡表を確認している。「水明のお客様は、ご結婚三十年の記念日。お花は小さく、お食事時の声かけは控えめに。写真はご希望なし」「はい」 真帆が書き留める。「山吹のお客様は、小麦のアレルギーがあります。料理場へ赤印で伝達済み。お部屋のお茶菓子も変更済みです」「確認しました」 澄乃は、台帳の赤印に指を添えた。「秋灯の桂木様は、今回はお連れ様がいらっしゃいます。足元への配慮をお願いします。椅子と膝掛けは、いつもの場所に」「分かりました」 

  • 夫の不倫相手に「妻の座を譲れ」と言われたので、譲る代わりに全部置いていきます 〜   崩れる社内評価④

     派手な失敗なら、挽回の場もある。 大きな謝罪をし、対応を見せればいい。 だが、今起きているのは小さなずれだった。 受付花。 見舞い品。 会食先。 慶弔対応。 夫人同士の関係。 それらが少しずつずれる。相手は怒鳴らない。ただ次から、少し慎重になる。誘いを一度断る。別の会社へ先に声をかける。夫人同士の集まりで、久世家の名が少し軽く扱われる。 見えないところで、信用が削れる。 その怖さを、昌親は初めて現実として感じた。「どうすればいいんですか」 口から出た声は、思ったよりも弱かった。 隆成はしばらく昌親を見ていた。「まず、知ったふりをやめろ」 昌親は顔を上げた。「知らないことは知らないと認める。総務と秘書室に頭を下げて、教わる。夫人同士の関係は佳枝にも確認する。ただし、佳枝も澄乃さんに頼っていた部分が大きい。全部は分からないだろう」「澄乃に」 言いかけた瞬間、隆成の目が厳しくなった。「それは許さない」 昌親は口を閉じた。「澄乃さんは、もう久世家の人間ではない。会社の無償補助者でもない。離婚成立の書面にも、直接接触は控えることが記されている。お前が連絡を取れば、会社としても問題になる」 昌親は、唇を噛んだ。「では、残った記録を使うしかない」「そうだ」「足りない部分は」「自分たちで積み直せ」 隆成は言った。「それが本来、会社がすべきことだった」 昌親は、机の上のファイルを見つめた。 澄乃の字。 整った文字。 見やすく分類された項目。 そこには、彼が軽んじていたものが、会社の信用の裏側として残っていた。 彼は、以前その文字を何度も見たことがある。 朝、食卓の隅に置かれたメモ。 会食前、ネクタイの横に置かれた小さな紙。 車に乗る前、鞄へ入れられていた先方の好みの控え。 昌親は、それをほとんど読まなかった。 必要な時だけ見た。 そして、うまくいけば、自分の調整がよかったのだと思っていた。 背中に、冷たい汗が滲んだ。 夕方、昌親は総務課を訪れた。 大戸は少し驚いた顔をしたが、すぐに立ち上がった。「何かご確認ですか」 昌親は、一瞬だけ言葉を探した。 これまでなら、当然のように指示しただろう。 この件を確認しておいてくれ。 先方へ花を出しておけ。 会食先を取っておけ。 そう言えば、誰か

  • 夫の不倫相手に「妻の座を譲れ」と言われたので、譲る代わりに全部置いていきます 〜   崩れる社内評価③

     会議で話す数字なら分かる。 契約条件なら分かる。 だが、夫人が椅子へ座る前に鞄を置く台が必要かどうか、足元が冷えないか、香りの強い花が苦手か、食事の量が重すぎないか。そういうものを、昌親は見てこなかった。 澄乃が見ていた。 その事実が、応接室の静かな空気の中で、昌親の喉を締めつけた。 昼過ぎ、三倉夫妻が帰ったあと、社内には疲れた空気が残った。 大きな失敗は避けられた。 だが、それは隆成と秘書室、総務が慌てて穴を塞いだからだった。すでに空いた穴を、急場で隠しただけ。相手が気づかなかったはずはない。 総務課では、大戸が見舞い品の一覧を前に頭を抱えていた。「これ、誰が最終確認するんですか」 若い社員が尋ねる。「私が見るしかないでしょう」「でも、夫人関係の好みまでは」「そこが問題なのよ」 大戸は、澄乃の残したファイルの写しを見た。 久世家から総務へ正式に共有されたものではない。以前、確認のために澄乃から一部だけメールで送られていた資料を、大戸が保存していた。今となっては、それが貴重な控えになっている。 ただ、全てではない。 澄乃の頭の中にあったものまでは残っていない。 相手夫人同士の微妙な関係。 どの話題を避けるか。 誰が誰と昔揉めたか。 祝い事の時に何を送れば、相手が気を遣いすぎないか。 そういうものは、澄乃がその場で調整していた。 大戸は深く息を吐いた。「今まで、奥様に頼りすぎていたんですね」 若い社員が小さく言う。「でも、奥様って、社員じゃないですよね」「そうよ」「じゃあ……それ、まずくないですか」 誰もすぐには答えなかった。 まずい。 その一言では足りない。 会社が社員ではない女性の記憶と気遣いに、対外信用の一部を乗せていた。本人に正式な役割も報酬も与えず、家庭内の延長のように扱っていた。その上で、彼女がいなくなった途端、社内評価の歪みが露わになっている。 大戸は、机の上のファイルを閉じた。「まずは、社内で持てる形にしましょう。属人的すぎました」「誰の業務にするんですか」「総務と秘書室。それから、昌親さんにも覚えていただかないと」 若い社員は、少しだけ表情を曇らせた。 昌親が覚える。 それが一番難しいのではないかと、口には出さなかった。 午後三時、昌親は社長室へ呼ばれた。 隆成は窓

  • 夫の不倫相手に「妻の座を譲れ」と言われたので、譲る代わりに全部置いていきます 〜   崩れる社内評価②

     その翌朝、別の取引先夫人から、久世家の母である佳枝へ連絡が入った。 柔らかな口調だった。 しかし、要するに「最近、少し行き違いが多いようですね」という探りだった。 夫人同士の関係は、会社の会議室では見えない。 だが、見えないから軽いわけではない。 隆成は、それを知っていた。社長として、表の交渉だけで会社が動かないことを嫌というほど知っている。会議で交わす契約書の裏には、食事、花、見舞い、弔意、家族への配慮、夫人同士の空気がある。それらがすぐ金になるわけではない。けれど、信用の底を支えている。 その底が、今、細かく崩れ始めていた。「家が乱れるというのは、食卓が荒れることだけではない」 隆成は言った。 昌親が顔を上げる。「こういうところに出るんだ」 社長室の空気が重くなった。「受付花ひとつ、見舞い品ひとつ、会食先の段差ひとつ、弔事の名義ひとつ。そんなもの、とお前は思っているのだろう」「そんなものとは」「思っているから、こうなる」 隆成の声に、怒鳴るような強さはなかった。 それがかえって重かった。「澄乃さんは、そういう細い糸を見ていた。お前は、その糸の上を歩いていた。自分の足場だと思ってな」 昌親の手が、わずかに握られた。「澄乃は、妻としてやっていただけです」「妻として、だと?」 隆成の目が冷えた。「会社の受付花の手配まで、妻として当然か」 昌親は言い返せなかった。「取引先夫人の体調を覚えておくことも。会食先の段差を避けることも。見舞い品を相手の病状に合わせることも。祝い花の札の肩書を直すことも。社員の慶弔に、こちらの出方を整えることも。全部、妻として当然か」 昌親の喉が動く。「……頼んでいたわけでは」「頼んでいなければ、受け取っていなかったことになるのか」 隆成は、静かに問うた。 その言葉は、社長室の木の壁に低く響いた。 昌親は視線を逸らした。 頼んでいない。 それは、澄乃に対して何度も心の中で使ってきた言葉だった。勝手にやっていた。細かすぎただけだ。そこまで求めていない。そう思えば、澄乃がいなくなった後の不便も、彼女の過剰さのせいにできた。 だが、会社はもうその言い訳を許してくれなかった。 頼んでいなくても、受け取っていた。 支えられていた。 失って困っている。 それが事実だった。 社長室

  • 夫の不倫相手に「妻の座を譲れ」と言われたので、譲る代わりに全部置いていきます 〜   崩れる社内評価①

     久世商事の本社受付には、朝から妙な沈黙が落ちていた。 大理石の床はいつも通り磨かれている。受付台の上には、季節の花が飾られていた。空調はほどよく効き、硝子張りの正面玄関から差し込む光も悪くない。けれど、その場を通る社員たちは皆、どこかで足を緩め、受付の花へ視線を向けてから、何も言わずに目を逸らしていった。 花は立派だった。 淡い桃色の百合に、白い蘭、薄紫のトルコ桔梗。花器も大きく、見栄えはする。だが、その組み合わせは、今日の来客には合っていなかった。 午前十時、久世商事には、長年取引のある三倉機工の相談役夫妻が来社する予定だった。社長の隆成が直接迎える相手であり、昌親も同席する。三倉相談役は正式には経営の第一線を退いているが、今も業界内で強い顔を持つ。彼の妻は、久世家の茶会にも来ていた三倉夫人だった。 そして三倉夫人は、強い花の香りが苦手だった。 澄乃がいた頃、受付花は必ず香りを抑えたものにしていた。見栄えよりも、来客が受付で最初に呼吸する空気を整えること。花の大きさより、相手の体調や記憶に触れないこと。澄乃はそのために、花屋へ細かな指示を出していた。表に出る名義は久世商事でも、実際に電話を入れ、前日の変更まで確認していたのは澄乃だった。 その澄乃はいない。 受付の若い社員は、花器の前で困ったように立っていた。「これ、替えた方がいいですよね」 隣の先輩社員が眉を寄せる。「今からじゃ間に合わないわ。花屋に頼んでも、到着は昼前になる」「でも、三倉様、香りが苦手なんですよね」「それを知っている人が、今ここにいないのよ」 小さな声だった。 けれど、その言葉は、受付の奥にいた総務課の社員にも届いた。 以前なら、こういう時、誰かが澄乃へ連絡していた。会社の正式な社員ではなかったのに、なぜか彼女は取引先夫人の好み、退任後の肩書、祝い花の札の書き方、会食先の禁句を知っていた。社員たちは深く考えず、「奥様に確認しておきます」と言って済ませてきた。 それが、どれほど不自然なことだったか。 今になって、廊下のあちこちで気づき始めていた。 総務課長の大戸は、受付花の写真を撮り、昌親へ確認を入れようとして、手を止めた。 確認しても、返事が来るとは限らない。 返事が来たとしても、役に立つとは限らない。 ここ数日で、それを嫌というほど思い知っていた

  • 夫の不倫相手に「妻の座を譲れ」と言われたので、譲る代わりに全部置いていきます 〜   妻の座を譲れと言われました③

     朝五時半に起きて、義父の血圧と前日の食事量に合わせて味噌汁の塩分を調整すること。義母が機嫌を損ねる前に電話を入れ、通院の車を手配し、薬の残数を確認すること。昌親の会食相手の苦手な食材を覚え、手土産の格を相手ごとに変えること。親族の席順を間違えれば、十年前の不和まで掘り返されること。贈答の花を一つ間違えるだけで、会社の信用に薄い傷がつくこと。 そうしたものを「家のこと」と呼ぶ。 呼ばれてしまえば、誰でもできる雑用に見える。 澄乃も、そう思おうとしてきた。 妻なのだから当然だと。嫁なのだから当たり前だと。昌親が外で働けるように、自分が見えない部分を整えるのは役目なのだと。 けれど、その

  • 夫の不倫相手に「妻の座を譲れ」と言われたので、譲る代わりに全部置いていきます 〜   妻の座を譲れと言われました②

     それを責めたいわけではない。ただ、こういう小さなことの上に、この部屋の静けさは成り立っている。それを彼女は、まだ知らない。 澄乃は視線を上げた。 瑠璃花の目はきらきらしていた。緊張と興奮と、自分が選ばれたのだという酔いに満ちている。澄乃が泣くのを少し期待している目でもあった。怒鳴られれば怯えるだろう。けれど、泣かれれば、彼女は自分の勝利を確かめられる。 昌親は、まだ黙っていた。 澄乃は夫へ視線を移した。 昌親はその視線を受けて、ようやく顔を上げた。だが、目が合ったのはほんの短い間だった。すぐに彼は視線を畳へ落とし、指先で膝の上を軽く叩いた。 落ち着かない時の癖だった。 澄乃はそ

  • 夫の不倫相手に「妻の座を譲れ」と言われたので、譲る代わりに全部置いていきます 〜   妻の座を譲れと言われました①

     久世家の応接間には、雨上がりの庭の匂いが薄く入り込んでいた。 障子は半分だけ開けられ、濡れた庭石の上に夕方の光が鈍く残っている。庭木の葉先から落ちる雫が、時折、ぽたりと低い音を立てた。その音は妙に大きく聞こえた。室内にいる誰もが声を潜めているわけではないのに、この部屋だけが息を殺しているようだった。 澄乃は、座卓の向こうに座る若い女を静かに見ていた。 汐見瑠璃花。 夫である久世昌親の隣に、ごく自然な顔をして座っている女だった。 薄桃色のワンピースは、昼間の喫茶店や洒落た店先なら可愛らしく映えただろう。けれど、年季の入った黒檀の座卓、落ち着いた絹張りの座布団、壁に掛けられた古い山水画

  • 夫の不倫相手に「妻の座を譲れ」と言われたので、譲る代わりに全部置いていきます 〜   妻の座を譲れと言われました⑤

    「私は、器ではありません」 澄乃は言った。 瑠璃花の瞳が揺れる。「何でも入れておけるものではありません」 その声は、少しだけ低かった。 昌親が目を見開く。 澄乃自身も、自分の声の温度に気づいていた。怒鳴ってはいない。だが、今まで久世家の中で出したことのない硬さがあった。 瑠璃花は唇を噛みかけ、すぐにやめた。爪を傷つけるのを恐れたのかもしれない。彼女は両手を膝の上で握った。「でも、澄乃さんは大人ですよね。私たちのこと、ちゃんと分かってくださるって、昌親さんも」「瑠璃花」 昌親が初めて彼女の名を強く呼んだ。 瑠璃花は肩を震わせた。 その声には、澄乃を庇う響きはなかった。ただ

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status