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第1080話

Author: 夜月 アヤメ
西也にはもう、どうしようもないってわかってた。たとえサインを拒んでも、若子が黙って済ませてくれるわけがない。

少しでも時間を稼げたら―そう思っていたのに、返ってきたのは、若子のより強い決意だった。

最後には、西也がペンを手に取った。

「......サインする。でもその前に、一つだけ聞かせてくれ」

「なに?」

「さっき言ってたよな。サインすれば、離婚しても、友達でいられるって。あれ......本当なんだよな?」

若子は短く頷いた。

「ええ」

「じゃあ......それってつまり、これからも会えるし、あの子にも会えるってことか?」

「あなたが私を困らせたり、しつこくしなければ......普通に友達としてなら、子どもに会うのを止めたりはしないわ」

子どもに向けた西也の気持ちも、世話をしてくれた日々も、若子はちゃんと見ていた。そこまで冷たくはなれなかった。

「じゃあ、昔みたいな......結婚する前の、友達に戻れるってことだよな?」

若子はまた「うん」と頷いた。

今の彼女が望んでいるのは、ただ離婚すること。それさえ叶えば、他のことはどうでもよかった。

しばらく迷った末に、西也はついにサインした。

若子は小さく息をついて、離婚届を手元に引き寄せた。そこには、しっかりと西也の署名があった。

「ありがとう、西也」

彼がサインを渋ると思っていた。けれど、こんなにもあっさり応じるとは、想定外だった。

「若子......俺たちは友達だって言ったから、俺はサインした。裏切らないでくれ」

「うん、嘘なんてつかないよ」

離婚届に両方のサインがそろったあと、ふたりはすぐに役所へ向かい、離婚手続きを終えた。それで、正式に夫婦じゃなくなった。

市役所の入口で、若子は手の中にある、離婚届受理証明書を見つめながら、思った。

―あっという間だったな。

西也も、離婚届受理証明書をじっと見つめたまま、しばらく動かなかった。

そんな彼に、若子が口を開く。

「西也......これで、あなたは自由よ」

「若子、お前だってそうだ......で、藤沢と......また―」

「もう彼の話はしないで」

若子が食い気味に遮る。

「修とは無理。たとえあなたと別れても、彼と復縁するつもりはないわ。私は......彼
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