あっという間に、若子と千景の結婚式当日がやってきた。二人は静かな場所を見つけて、人を雇い、屋外のセッティングを準備してもらった。緑あふれる木の枝と色とりどりの花で作られた長いアーチがトンネルのように続き、足元には真っ赤なバージンロード。花茎に結ばれたリボンが風に揺れ、まるで夢のようなロマンチックな空間になっている。今日のこの式は、若子と千景―二人だけのためのもの。お互い以外、何も見えない。メイクアップアーティストが若子のヘアメイクを仕上げて、「松本さん、本当に綺麗ですね。このメイク、すごくお似合いです」と褒めてくれた。そのタイミングで、千景が部屋に入ってくる。若子はそっと彼を振り返り、優しく微笑んでから、メイクさんに言った。「もう大丈夫です。他のこと、お願いします。ちょっと未来の旦那さんとお話したいので」「わかりました。ただし話しすぎ注意ですよ、吉時を忘れずに」とメイクさんは笑いながら道具を片付けて部屋を出ていった。千景はそのまま若子の背後から優しく抱きしめる。化粧台の鏡には、幸せそうな二人が映っていた。千景は若子の顎をそっと持ち上げ、頬にキスをする。「若子、すごく綺麗だ」「また褒めてばっかり」若子はちょっと意地悪く言う。「私が年取っても、そうやって褒めてくれるの?」「じゃあ、こう言うよ」千景はわざと渋い顔。「若子、今日の君はちょっとブサイクかも」「ちょっと!私をからかってるでしょ!」二人はいつもの調子で、こんなふうにふざけ合っている。「だって、君が褒めるなって言うからさ。いつも年を取ったらどうなるか心配してるけど、それなら最初からブサイク扱いでいいでしょ?」「もう知らない」若子はぷいっと横を向く。「でもさ、もうすぐ俺と結婚するんだよ?今から無視されたら、バージンロード歩く新婦がいなくなっちゃうな。そしたら適当に誰かきれいな人を連れてきて、代わりに結婚しちゃうかも」「ふざけるのもいい加減にして!」若子は彼のネクタイをぎゅっと引っ張る。「そんなことしたら―」拳をぎゅっと握って見せる。その瞬間、千景はバタッと両膝をついて、「ごめんなさい、若子」とわざとらしく謝る。「ちょっと、男は簡単にひざまずいちゃだめでしょ?しかも両膝で!?普通は片膝だけで十分だよ。もう、少しは男のプライド見せてよ
若子の胸はドキドキが止まらない。思わずシーツをぎゅっと握りしめて、潤んだ瞳で千景を見つめる。唇を噛みしめ、恥ずかしさとときめきでいっぱいだ。千景は普段スーツを着てなくても十分カッコいいのに、今日はスーツ姿で本当に反則級。逞しい体、鍛え抜かれた筋肉、整った顔立ち―全身が眩しくて、目が離せない。「若子」千景はおもむろに若子の上掛けをバサッとめくった。「な、なにするの?」びっくりした若子は胸元を抱えて、まるで怖がっているかのようにベッドの端へ逃げる。どこか怯えたような、儚げな表情がまた可愛い。千景は、なるほど―そういう「お芝居」がしたいんだとすぐに気付く。「強引な俺様」と「弱いお姫様」。なら、今日は思いっきり付き合ってやろう。ぐいっと若子の体を引き寄せる。「きゃっ!」抵抗する間もなく、あっさりとベッドに押し倒されてしまった。「やめて、離して!」千景は彼女の上に覆いかぶさり、低い声で囁く。「どこに逃げるつもりだ?お前が俺の手から逃げられると思ってるのか?」その声は妙に色っぽくて、若子の心臓はますます高鳴る。「や、やめて......お願い、許して......」泣きそうな顔で見上げる若子。千景の強引さに、ドキドキが止まらない。けど、それがたまらなく好き。「かわい子ちゃん、もっとお願いしてみな?」千景は若子の耳たぶに軽く噛みつく。「きゃっ......痛い......」「本当に痛い?」「うん......お願い、離して......」「分かった、離してあげる」千景はそっと体を離し、ベッドの端で腕を組んで若子をじっと見つめる。若子は不思議そうに体を起こす。「どうしたの?」どうして止めてしまったんだろう?と首を傾げる。「若子、俺がスーツまで着てきたんだから......君もドレス着る番じゃない?」イタズラっぽい千景の目。若子は視線を婚礼ドレスの袋へ。この先どうなるか想像するだけで、息苦しくなりそう。「ほんとに......着るの?」千景は丁寧にドレスを袋から出して、ベッドに広げる。「俺が着せてやろうか?」その声に逆らうことなんてできるはずがなく、若子はおとなしくうなずいた。千景の大きな手が、鎖骨をなぞりながらパジャマを脱がせてくれる。そっと、ウェディングドレスを身
夜になって、若子はシャワーを終えてベッドの上に寄りかかっていた。手元のスマホで、修とビデオ通話中だ。千景は今、バスルームでシャワー中。画面の中で暁の顔が映ると、若子は手を振って呼びかける。「暁、ママだよ、見えてる?」「ママ、ママ!」暁はカメラに向かって手を伸ばすけれど、当然何も触れられない。修が優しく息子の手を握る。「暁、ママはもうすぐ会いに来てくれるよ」「そうよ、暁。ママ、すぐに会いに行くからね。いつでも暁が一番大事な宝物だよ」若子は本当は、今すぐ画面の中に飛び込んで暁をぎゅっと抱きしめたかった。子どもと一緒にいられないのは、本当に辛い。でも、そばに千景がいてくれるから、なんとか平気でいられる。その時、千景がシャワーから戻ってきた。上半身裸のまま、ベッドの端に腰掛ける。その姿がそのまま画面に映り込んだ。修はその様子を見て、眉をひそめる。心の中では分かっている。若子が千景と同じベッドで眠っていることなんて当然だ。二人は今、恋人同士なのだから。だけど、こうして画面越しに、千景が半裸で若子の隣にいるのを見ると、どうしようもない痛みが胸を刺した。千景も、自分が画面に映ったことに気付き、少しだけ離れて座り直す。「若子、もう遅いから、暁と寝るよ。お前も早く休んで」「分かった、修。じゃあおやすみ」若子は画面越しに暁に手を振る。「暁、いい子で寝るのよ。また来週、ママが会いに行くから」画面越しにそっとキスを送って、修が通話を切った。若子は小さく息をつき、スマホを脇に置いた。やっぱり自分の子どもだ、気にかからないはずがない。母乳があまり出なくて、暁が生まれてからは、ほとんど粉ミルクで育ててきた。自分で授乳したのは、ほんの数回だけだった。「また子どものこと、考えてた?」千景が肩を抱いてくる。若子はうなずく。「うん。静かになると、どうしても暁のことを考えちゃう。そばにいないと、胸がぽっかり空いた感じがして......」そして、どうしようもなく寂しくなる。千景は若子をそっと引き寄せ、唇に軽くキスを落とす。「君は、暇になるとダメみたいだな。じゃあ、俺が忙しくしてあげないと」唇を重ねて、そっと若子のパジャマに手を伸ばす。「ちょ、ちょっと待って」顔が真っ赤になった若子は、慌てて千景の手を掴
家に戻ると、二人はそのままソファに並んで腰を下ろした。若子は千景の胸元にもたれかかる。「あと少しで、私たち結婚するんだよ」顔を上げて、千景の顎から見上げる。「少しは緊張してる?」千景はこくりと頷いた。「ちょっとだけ。君は?」「私もちょっと緊張してる。いや、ちょっとどころじゃなくて、かなり」腕を伸ばして千景の首に絡める。「ねぇ、私たち結婚したら絶対ケンカするよね?」夫婦として一緒に生きていくのに、ケンカしないなんて無理だ。ロボットじゃあるまいし。若子がまだ気にしているのを見て、千景は優しく頭を撫でた。「若子、一つ聞きたいことがある」「なに?」「前の結婚のとき、藤沢とケンカしたことはあった?」若子は眉をひそめる。「どうしてそんなこと聞くの?」「だって、君がすごく心配してるみたいだから、ちゃんと話しておきたいと思って」せっかく不安があるなら、結婚前にきちんと話し合っておいた方がいい。問題を持ち越すのはよくない。千景は若子の手をしっかり握る。「教えてくれない?藤沢との結婚生活で、ケンカや言い争いはあった?不幸だと思ったことは?」「私と修の関係は少し特別だったの」若子は静かに話し始める。「私は子どもの頃から藤沢家で暮らしていて、おばあさんが私を育ててくれた。修とは幼なじみで、ずっと好きだったし、ずっと片想いしていた。結婚したときも、自分だけが一方的に好きなんだと思ってた」「じゃあ、結婚してからは幸せだったんだね?」若子はうなずいた。「うん、彼に離婚を切り出されるまでは、ずっと幸せだった。彼は優しかったし、責任感もあったし、私たちケンカもしたことなかった。たぶん、結婚期間が短かったからかな。全部で一年ちょっとくらい」「一度もケンカしなかった?」千景が聞く。「離婚の話が出てからは、関係が変わった。そこからはいろいろ揉めたよ。全部、ほかの女性のこととか、いろんなゴタゴタが原因だったけど、もとをたどれば彼が離婚を切り出したからだと思う」「ほら、問題の根っこはそこにある」千景は言う。「彼とケンカしたのも、何かが起きたからでしょ。彼が他の人のために離婚を切り出したから、君は辛かった。けど、それまでは何もなかった。もし離婚がなければ、今も仲良しだったはずだよ」「じゃあ、何が言いたいの?」若子は聞き返す。千景
「よし、俺が決めるよ」千景は三着並んだドレスの前に立つと、最後に若子が選んだ三着目を手に取った。最初に千景が若子に選んだドレスではなく、若子が自分で選んだ一着。順番で言えば最後に試着したものだった。そのドレスを彼女の前に差し出し、「これが一番いいと思うよ」と微笑んだ。若子は少し不思議そうな顔をして、もう一度一着目を見つめる。「どうして最初に選んでくれたドレスじゃないの?」千景は優しく笑って答える。「もし本当に最初のが気に入ってたら、他のドレスで迷わないはずだよ。二着目が一番だったら三着目まで着なかっただろうし。結局、最後まで悩むってことは、この三着目が本当は一番好きなんだよ」「冴島さん......」言葉にならない幸せがこみ上げてきた。この人がいてくれて、本当に良かった。若子はドレスを抱きしめて、「じゃあ、このドレスにしよう。次は、あなたのスーツを選びに行こうね」とにっこり微笑む。このドレスは、彼女が心から好きだと思えるもの。新婦になる日を想像すると、胸が高鳴って仕方なかった。千景は、うっとりしている若子を見つめながら店員に声をかけた。「このドレスでお願いします」そう言って、さらりとブラックカードを差し出す。......ドレス選びが終わると、二人は手をつないだまま、高級なメンズスーツ店へ移動した。千景は、どんなスーツも見事に着こなしてしまう。店員も「本当に素敵です、モデルさんみたいです」と感心するばかり。若子はソファに座り、スーツ姿の千景をうっとり見つめていた。―こんなにカッコよかったら、他の女の人が放っておかないかも......ちょっとだけそんなことを思いながらも、やっぱり自慢の人だった。いくつかの色やデザインのスーツを試着し終えたあと、「若子、このスーツどうかな?」と千景が声をかけてくる。若子はうっとりと頷いた。「すごく似合ってる。どれを着てもカッコいいよ」正直、千景はスーツを着ていなくてもカッコいいけど、そのスタイルは本当にずるい。「じゃあ、これにしようか」と千景が言うと、店員が今まで試着したスーツをいくつか持ってきた。「若子、選んでほしい。君のセンスを信じてるから」若子は立ち上がって、千景の手をぎゅっと握る。「この黒いスーツが一番好き。クラシックで飽きな
でも、こんな口喧嘩は本気の喧嘩じゃなくて、愛情たっぷりのじゃれ合い。若子はちょっと目を吊り上げて、「じゃあね、もし本当に浮気したら、私だって若いイケメンとデートしてやるから!そのまま目の前でイチャイチャして、冴島さんをイライラさせてやる!」と笑いながら言った。その言葉を聞くだけで千景はもう耐えられなくて、すぐに彼女の肩をぎゅっと抱きしめる。「そんなの絶対許さない。もしそんな男が現れたら、俺がぶっ飛ばすからな」「じゃあ、あなたも浮気はなしよ?なんであなたはよくて、私はダメなの?ずるい!」「ごめんごめん、俺が悪かった。俺も浮気しないし、君も絶対しちゃダメだよ」千景はそう言って、若子を思いきり自分の腕の中に引き寄せた。二人とも冗談だとわかってるけど、やっぱり千景は本気で不安になる。若子もそれに気づいて、そっと彼を押し返した。「大丈夫だよ、冗談だってば。お互いに絶対そんなことしないよね」「うん、しない」そう言いながら、千景はちょっと真剣な顔になって、「じゃあ、指切りしよう。君は浮気禁止、俺も浮気禁止」大の大人なのに、まるで子どものように小指を差し出してくる姿に、若子はくすくすと笑いながらも、小指を重ねた。「指切りげんまん、嘘ついたら一生許さないからね!」そばで見ていた店員まで、思わずニコニコ顔になってしまうほどの仲の良さ。こんなにラブラブなカップルは、なかなかいない―でも当の二人は、それにまったく気づかず、心から楽しい気持ちでいっぱいだった。恋に落ちると、みんな子どもみたいになる。「そろそろ真面目に選ばなきゃ。こんなにイチャイチャしてる場合じゃないし......なんかちょっと恥ずかしくなってきた」若子は顔を真っ赤にして小さく呟く。「うん、真面目に選ぶよ。でも、悪いことは帰ってからね?」千景はふざけながらそう囁く。二人はようやくお互いを離し、婚纱選びに集中することに。「お客様、このドレスでご満足いただけましたか?」店員が優しく声をかけてくれる。若子はうなずきながらも、「うん、すごく気に入ったけど、もう少しだけ他のも試してみたいです」「もちろん、いくらでもご試着ください!」それから若子はさらにいくつかのドレスを試してみた。どれもこれも本当に素敵で、選ぶのに苦労する。