Share

第623話

Author: 夜月 アヤメ
若子は昨日の自分の態度を思い返していた。あの時、彼女は修を非難し、彼が何も悪くない素振りを見せたにも関わらず、信じようとはしなかった。修が嘘をついているに違いないと思い込んでいたのだ。

だって、西也が嘘をつくはずがない。西也は雅子のように狡猾で計算高い人間ではない―少なくともそう信じていた。

しかし今、西也が自ら口にした言葉は、彼女のその信念を覆すものだった。彼は、わざと転倒して修を陥れようとしたのだ。

若子の頭の中は混乱していた。西也に対する認識がぐらつき、衝撃を受けていた。

こんな行為、直接的な暴力以上に陰湿で卑怯だと感じた。暴力なら罰を受けることもあるが、陰謀による陥れは、被害者だけが苦しむ結果になる。

若子自身、かつてこうした陰湿な手段で傷つけられた経験がある。その時の感情がよみがえり、西也に対して知らず知らず距離を感じてしまっていた。

―失った記憶が、人柄までも変えてしまうの?

西也は、彼女が手を引いたのを感じ、胸にぽっかりと穴が開いたような虚しさに襲われた。慌てて言葉を重ねる。

「本当にごめん......自分が間違ってたのは分かってる。昨日の夜もずっと眠れなくて、このことばかり考えてた。でも......でもあの時、本当に頭にきてたんだ。藤沢が俺を挑発して、笑いものにして、挙句に『お前は弱い、無能だ』って言ったんだ。お前に守られてるだけだって―俺のプライドをズタズタにされた」

「彼が......そんなことを言ったの?」

若子は驚きを隠せなかった。もしそれが本当なら、修の挑発はあまりにも酷い。

西也は黙って頷いた。

「そうなんだ」

若子は唇を噛みしめ、ため息をついた。

「だったら、私に言えば良かったのよ。私が彼を叱りつけてやるわ。彼がどう傷つけたか、同じように返してやったっていい。でも、私に言わずに、そんな陰険なことをするなんて......西也、私は怒ってるのよ。ただ修を陥れたからじゃない。もっと......あなたに失望したから」

若子の声は穏やかだったが、その目には深い失望が浮かんでいた。それが西也には何よりも辛かった。

若子にとって、西也はこれまで誠実で堂々とした存在だった。彼の行動には常に正当性があり、何があっても正々堂々としていると思っていた。それなのに、彼がこんな卑劣な手段を取るなんて
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Related chapters

  • 夫の元カノが帰国!妊娠隠して離婚を決意した私   第624話

    若子は西也の行動について改めて考え直していた。人間というのは複雑な存在で、誰だって一時的に邪念に囚われることがある。きっと西也もその時は怒りに我を忘れてしまったのだろう。 それに、西也がもし本当に陰険で狡猾な人間なら、こんなにも早く自分の過ちを正直に告白するだろうか?彼が自ら認めたということは、自分の行動に後悔と罪悪感を抱いている証拠だ。 過ちそのものは恐れるべきことではない。恐れるべきは、過ちに気づいても改めないことだ。だが、西也は自分の非を認め、すぐに改めようとしている。それを考えると、若子の中にあった怒りは少しずつ和らいでいった。 若子は深い溜息をつき、静かに言った。 「分かったわ」 「じゃあ......俺のこと、許してくれたのか?」 西也は不安そうに尋ねる。 若子は少し考えてから答えた。 「完全に消化するには時間が必要ね。今までのあなたのイメージと全然違うから、混乱してるの」 「若子、俺を離れるつもりじゃないだろうな?」 それが彼の一番の恐怖だった。 「離れないわ。大丈夫、そんなことで態度を変えたりしないから。あなたがその時どれだけ腹が立っていたか、私は理解してるわ。それに、ちゃんと自分の間違いを認めたんだから、まだやり直せる。そもそも、あの状況は修が挑発したからでしょ?元は彼が仕掛けたことよ」 若子の言葉に、西也はようやく安心したように息を吐いた。 「若子、俺......藤沢に謝るよ」 「それは必要ないわ」若子はすぐに答えた。 「確かにあなたにも非はあるけど、修だって全く責任がないわけじゃない。どうせ彼が謝るわけもないし、この件は私が話をつけるわ。あなたが出ると、また彼に付け込まれるかもしれないから」 若子はこの問題の発端が自分にあることを理解していた。だから、自分が解決するべきだと思っていたのだ。 「若子、ありがとう。俺を分かってくれて本当に嬉しいよ。俺、もう二度とこんなことはしない。絶対に」 西也は、彼女が自分を理解してくれていると分かると、改めて深く感謝の念を抱いた。 若子は彼の肩に手を置いて、軽く叩きながら言った。 「いいのよ。大切なのは、過ちに気づいて改めること。誰だって失敗するんだから」 彼がまだ涙をこぼしているのを見て、若子はティッシュを取り出し、そっと彼の涙

  • 夫の元カノが帰国!妊娠隠して離婚を決意した私   第625話

    若子は自分が昨夜ずっと報告を読んでいたことを話した瞬間に後悔した。 ―しまった、余計なことを言っちゃった。これじゃ、西也に昨夜ずっと起きていたことを知られちゃう。絶対にまた心配させるわ...... 案の定、西也の目が変わった。 「つまり......お前が今朝起きられなかったのは、昨夜一睡もしないで俺のために資料を調べてたからか?それも、お腹に赤ちゃんがいるのに......そんなに俺のことを考えてくれてたなんて」 西也の目には、また涙が浮かび始めていた。 若子は慌てて、彼をなだめようと言葉を続けた。 「西也、大丈夫だから。あなたも以前、私が辛いときに一晩中付き合ってくれたでしょう?あなたも私にたくさんしてくれたわ。それに、確かに昨夜遅くまで起きてたけど、今日は遅くまで寝てたし、睡眠はちゃんと取ったから、心配しないで」 しかし、西也は頭を垂れて、自分を責めるような口調で言った。 「でも、俺は今、何も覚えていない。藤沢が言ったことは本当だ。今の俺は情けない男で、お前に守られてばかりだ」 その言葉には、自分を責める感情がありながらも、修への憤りが見え隠れしていた。 若子はすぐに否定した。 「そんなこと言わないで。西也、こうしましょう。資料を見せるから、あなたも考えてみて」 西也は頷いた。 「分かった。まずは見てみるよ」 若子はテーブルに置いてあったノートパソコンを開き、自分のメールアカウントにログインして資料を表示した。 「これが全部だけど......英語、大丈夫かしら?」 画面を見た西也は少し考え、しっかりと頷いた。 「分かる。英語は覚えてる」 「それなら良かった」若子は微笑んで言った。 「それにしても、知識や技能を覚えてるって素晴らしいことよ。この施設では、そういう記憶さえ失った人たちも治療してるって書いてあったわ。それを考えると、あなたは彼らよりずっと状態がいいのよ」 西也はその言葉に少しほっとしたように微笑み、優しい声で返した。 「お前がそう言うなら、なんだか自信が湧いてきたよ。ありがとう。じゃあ、これをじっくり読んでみるから、お前は食事をして。朝ご飯を抜いたんだろ?」 若子は頷いて立ち上がった。 「分かった。何か食べてくる。でも赤ちゃんがいるから、食べないわけにはいかないも

  • 夫の元カノが帰国!妊娠隠して離婚を決意した私   第626話

    若子の頭の中では、動画の映像が何度も何度も再生されていた。彼女は目を閉じると、頭が痛み始め、心臓が早鐘のように鼓動するのを感じた。 何も言わずにいる彼女に焦れた修が、電話越しに不安そうな声で言った。 「若子、どうした?俺の話、聞いてるか?」 若子はゆっくりと目を開け、冷静な口調で答えた。 「聞いてるわ」 「若子、もういい加減に遠藤を離れろ。どこに行くかはお前の自由だけど、とにかくあいつとはもう一緒にいるな。お前がどんな理由で結婚したのか知らないけど、すぐに離婚するべきだ。あいつみたいな......」 「修」若子は彼の言葉を遮った。 「私と西也のことは、私が決めるわ。あなたが口を挟むことじゃない。それじゃ、もう切るわね」 修は彼女の返答に驚き、信じられないような口調で言った。 「お前、本当に事の重大さが分かってるのか?動画をちゃんと見たのか?」 「見たわ」若子は冷静に言った。 「西也が何をしたのか、全部分かってる」 「分かってるなら、あいつから離れるべきだろう!あいつが俺を陥れたんだぞ。お前が一緒にいるべき人間じゃない。それに......俺、お前に叩かれて、顔が赤く腫れたんだぞ。全く後悔してないのか?」 若子は淡々と返した。 「叩いたのは、私が悪かったと思ってるわ。私も誤解してた。それは謝る。でもね、あなたにも非があるわ。あれはあなたが彼を怒らせたから起きたことでしょう?」 「俺が怒らせたからって、あいつが俺を陰湿に陥れるのが正しいってことか?」 「彼を刺激して怒らせたからと言って、彼があなたと殴り合うのが正しいわけじゃないでしょ?それに、あなたも知ってるはずよね?彼の今の状態を。西也は今、あなたと争えるような状態じゃない。それを分かっていながら、わざと彼を怒らせた。以前、私に約束したじゃない。彼をいじめないって」 修は憤然と返した。 「俺がいついじめたって言うんだ?俺が言ったのはただの事実だ!」 「事実って、何を言ったの?」若子は声を荒げて尋ねた。 「彼が弱いとか、私に守られてるとか、そんなこと?」 修は言い返す間もなく、少し躊躇った後で言った。 「そうか......お前、もう全部聞いてるのか」 若子は修の言葉を聞き、深く息を吸った。 「やっぱり、そう言ったのね」 そ

  • 夫の元カノが帰国!妊娠隠して離婚を決意した私   第627話

    「じゃあ、私があなたの味方をすると思ってるの?」若子は静かに言った。 「修、あなたも分かってるはずよ。それはあり得ないわ」 「つまり、あいつが何をやっても許すってことか?もしあいつが俺を殺したらどうする?それでも許すのか?」 「彼はあなたを殺したりしない」若子は淡々と返した。 「そんな大げさなことを言わないで」 「若子、お前って本当に偏ってるよな」修は怒りをあらわにした。 「遠藤が俺を卑怯にも陥れたっていうのに、こんなにも冷静で、しかもあいつの肩を持つなんて......俺、本当にお前にはがっかりだよ!遠藤なんて陰険で小賢しい小人物だ!お前だって真実を知ったはずなのに、それでもあいつをかばうのか!」 「彼を小人物呼ばわりしないで!」若子は鋭い声で修の言葉を遮った。 「確かに西也は間違ったことをした。でもね、あなたが私に動画を送る前に、西也は自分から私に全部話してくれたの!だから、私は動画を見て気づいたんじゃない。彼自身が事実を認めてくれたのよ」 「何だって?」修は驚きのあまり声を張り上げた。 「あいつが自分で認めたっていうのか?」 「そうよ」若子ははっきりと答えた。 「西也は自分の間違いを認めたし、私は確かに怒ったわ。でも冷静に考えれば、これだってあなたにだって責任があることよ」 電話の向こうで修は長い沈黙を続けた。どうしても信じられなかった。 「あいつがそんなことを認めたなんて......」 真っ先に頭をよぎったのは、若子が自分を騙そうとしているのではないかという疑念だった。西也を庇うための口実じゃないのか?しかし、若子の性格を知っている修は、彼女がそんな風に嘘をつく人間ではないことも分かっていた。 ―じゃあ、本当に遠藤の奴が先に告白したってことなのか? だが、なぜわざわざ若子が動画を見る前に打ち明けたのか。修の頭の中で疑問が渦巻いていた。 ―あいつ、もしかしてレストランに監視カメラがあるのを思い出して、先に手を打ったんじゃないか? 真相はどうであれ、修には一つの事実だけがはっきりしていた。 ―遠藤はうまく立ち回った。 「修、この件はこれで終わりにしましょう」若子は淡々と言った。 「誰が正しいか間違っているかはもういいわ。これ以上この話題でお互いを責め合うのは無意味よ。それじゃ、

  • 夫の元カノが帰国!妊娠隠して離婚を決意した私   第628話

    「男なら正直に教えて」光莉は鋭い視線で言い放った。 「若子が修と離婚してから遠藤西也と結婚するまでの速さ、不自然にも程があるわ。それに西也の父親があなただなんて、ますます普通じゃない」 光莉がここに来た理由には、修の存在がある。昨日、修が彼女のもとを訪ね、いくつかの話をしていった。その内容を受けて、光莉は若子と直接話すことをせず、まずこの問題の根本にいると感じた高峯に会いに来たのだ。 高峯は軽く頷いた。 「その通りだ。昔からお前は頭が良い、物事の本質をすぐに見抜く。それにしても、どうしてお前が藤沢曜なんかと結婚したのか、不思議で仕方がないよ。いや、分かったぞ。きっと俺に傷つけられて人生に絶望したんだろう?」 光莉の目が細められ、その冷たい視線には容赦がなかった。 「私が一生の中で最も後悔してるのは、曜と結婚したことなんかじゃないわ」 言葉を少し切って、鋭い口調で続けた。 「30年前に、金の匂いしかしない冷血で無情な男についていったこと。今思い出しても吐き気がするわ。若かったせいで何も分からなかった、愚かだったとしか言いようがないわね。でも、その経験には感謝してるわよ。人生の教訓を得たもの」 高峯は膝に置いていた手をゆっくりと握りしめた。光莉の皮肉めいた視線を受けながらも、かすかに鼻で笑うと、こう返した。 「その『豊富な経験』、藤沢には話したのか?もし知ったら......」 「知ったらどうだっていうの?」光莉は高峯の言葉を遮り、冷ややかに言い放った。 「私が気にすると思う?だったらどうぞ、彼に教えてあげたら?私が結婚する前にお前と関係があったって」 高峯はその言葉に一瞬沈黙した。 光莉はテーブルの上の水を一口飲み、音を立ててカップを置くと、高峯を睨みつけた。 「遠藤高峯、そんなことで私を脅せると思うなんて、本当に私を甘く見てるわね。私、そんなこと全然気にしてないわよ」 高峯はその言葉に少し肩をすくめ、穏やかな笑みを浮かべながら言った。 「でも結局、こうしてお前は俺に会いに来たじゃないか。前の嫁のために」 「私が簡単に扱える人間だと思わないで」光莉の声には冷たい鋭さがあった。 「私の人脈は広いのよ、知ってるでしょう?雲天グループが最近手掛けた大きなプロジェクト、資金調達が必要らしいじゃない。それ

  • 夫の元カノが帰国!妊娠隠して離婚を決意した私   第629話

    顔についた水滴を丁寧に拭き取り終えると、高峯はナプキンをテーブルの端に置き、落ち着いた声で言った。 「やっぱりお前が怒った顔を見ると、昔のことを思い出すな。お前が機嫌を損ねていた時のことを懐かしく思うよ。最近は誰も俺にそんな態度を取らないからな」 光莉は冷たく笑い、皮肉を込めて言った。 「本当にどうしようもない卑劣な男ね。奥さんはこんな話を知ってるのかしら?」 高峯は気にした様子もなく肩をすくめた。 「俺たち今、離婚の手続きを進めてるところだ。財産分割で少し時間がかかってるが、そのうち片付くだろう」 光莉は一言一言、間を取って言い放った。 「遠藤高峯、あなたの息子に若子と離婚させなさい」 「いいだろう」高峯はあまりにもあっさりと承諾した。 光莉は少し驚いた。彼がこんなに簡単に同意するとは思っていなかったが、当然警戒を緩めることはなかった。 「条件は何?」 高峯は椅子に体を預け、ゆっくりと答えた。 「条件は簡単だ。藤沢曜と離婚して、俺が紀子との離婚を終えた後、俺と一緒になること。そして、俺が一つの秘密を教えてやる」 光莉は冷笑した。 「ふざけないで。たとえ私が曜と離婚しても、あなたにだけは絶対にならない。遠藤さん、私はこれまでたくさんの卑劣な人間を見てきたわ。陰険で狡猾な小者だって珍しくない。でも、あなたほど嫌悪感を抱かせる人間は他にいないわ」 彼女は鋭い視線を向けながら続けた。 「あなたの息子、西也もきっとあなたと同じね。あなたと二人で若子を罠に嵌めたんでしょう?父親が卑劣なら、息子は陰険に育つってことね」 高峯の表情が僅かに引きつったが、すぐに冷静を保とうとした。 「光莉、お前が俺を罵るのはいいが、言葉には気をつけろ。後悔することになるぞ」 「後悔?」光莉は笑いを含んだ声で言った。 「あなたの息子を罵ったことを後悔しろって言うの?私が間違ったことを言った?」 冷笑しながら彼女は続けた。 「あなたたち父子は本当に厚顔無恥ね。でも、私は知ってるわよ。あなたの息子はあなたよりも狡猾で卑怯だってね」 高峯は腕を組んで彼女をじっと見つめたが、何も言い返さなかった。 光莉はバッグを掴むと立ち上がり、そのまま背を向けて歩き出した。 「光莉」高峯は背中越しに声をかけた。 「当時

  • 夫の元カノが帰国!妊娠隠して離婚を決意した私   第630話

    光莉は足早に若子の家へと向かい、家の門をくぐるとすぐに若子が迎えに出てきた。光莉の怒りを含んだ雰囲気に気づき、若子は少し緊張した様子で尋ねた。 「お母さん、どうされたんですか?」 光莉は冷たい表情のまま若子の横をすり抜けるように通り過ぎた。 「旦那さんはどこにいるの?」 若子の頭にふと浮かんだのは「これはただ事じゃない」という直感だった。慌てて光莉の後を追いかけた。 「何かあったんですか?」 光莉は立ち止まり、振り返ると平静を装いながら言った。 「別に何もないわ。様子を見に来ただけよ。そんなに焦らなくていいの」 「いえ、お母さんの顔色が良くなかったので、心配になって......」 光莉は微かに笑いながら肩をすくめた。 「少し仕事でごたごたがあってね、気分が良くないだけ。悪いわね、そんな顔で来ちゃって。さ、家の中に入って話しましょう」 光莉が中に入ったちょうどその時、階下から西也の声が聞こえてきた。 「若子、その資料全部見終わったよ」 階段を降りてきた西也は、思いがけず光莉と目が合った。その瞬間少し驚いたような表情を見せ、すぐに柔らかい笑みを浮かべて挨拶した。 「こんにちは、伊藤さん」 若子から聞いていた光莉の話を思い出しつつ、西也は微かに緊張した。 光莉は西也を上から下までじっくりと観察した後、軽く頷いた。 「聞いてるわ。事故にあったって話だけど、思ったより元気そうね。大丈夫みたいで何より」 彼女は数歩近づいて西也を見上げるようにして言った。 「これが初対面ね。でも、私は若子だけじゃなく、あなたのお父さんとも随分前から知り合いよ。彼とは昔からの仲だから」 西也は穏やかに微笑み、軽く頭を下げた。 「そうだったんですね。父さんからも聞いているかもしれませんが、僕、記憶を失っていて......正直あまり思い出せないんです。でも、できるだけ思い出せるよう努力してます」 光莉は頷き、少し冷たい笑みを浮かべて返した。 「それは大事なことよ。ちゃんと思い出して、何が自分のもので何が違うのか、見極めなきゃいけないわね」 彼女の少し皮肉の混じった口調に若子は不安を覚え、場の空気を和らげようと話題を変えた。 「お母さん、最近どうしてました?しばらく会ってなかったですよね。何か変わったこと

  • 夫の元カノが帰国!妊娠隠して離婚を決意した私   第631話

    若子は口元を引きつらせながら、控えめに笑った。「大丈夫です、別に悪い話というわけでもありませんから」 「そう?いやあ、私って思ったことをすぐ口にしちゃうタイプだけど、悪気は全然ないのよ。あなたたちが気にしないって言ってくれるなら、もう本当に嬉しいわ」 光莉は昼食を美味しそうに楽しんでいたが、若子と西也はどこか静かだった。そのせいで、まるで光莉が場の空気を微妙にしているような雰囲気になっていた。 食べている途中で、若子がふと立ち上がった。「ちょっとお手洗いに行ってきます。先に食べていてください」 彼女が席を外すと、西也はホストとしての役割を果たそうと、丁寧に話しかけた。「伊藤さん、若子のことを大事に思ってくださっているのはわかります。安心してください。僕は彼女を幸せにします」 光莉は冷たい視線を送りながら返した。「でも、あなたは記憶をなくしたんでしょう?過去のことを全部忘れているのに、どうやって彼女を幸せにするつもりなの?」 西也の表情が一瞬こわばったが、不機嫌な様子は見せなかった。ただ、その目にはどこか影があった。「彼女は僕の妻です。たとえ記憶を失っても、彼女を大切にすることは忘れません。僕たちは新しい記憶を作っていくつもりです」 「新しい記憶?」光莉は薄く笑った。「例えば昨日、レストランで私の息子を陥れて、若子に心配させたこと?確かに忘れられない記憶ね」 その瞬間、西也の顔は冷たくなった。光莉がここまで直接的に言うのなら、彼も飾るつもりはなかった。彼は箸を置き、冷静な声で問いかける。「伊藤さん、つまり今回は、僕を責めるために来たんですか?」 怒りを抑えつつも「伊藤さん」と呼び続けたのは、ただ若子のためだった。 「責めに来たわけじゃないわ。ただ、あなたのことを感心してるだけよ。遠藤高峯の息子だけあって、本当にすごいわ。少なくとも修には及ばないと思ってたけど、彼が直接的なやり方で相手を傷つけるとしたら、あなたは見えないところでやるのね。修にも見習わせたいわ。どうやったらそんな風に柔らかい刃を使えるのか」 西也は薄く笑った。「伊藤さん、そこまで褒めてくれるなら正直に言いますけど、息子さんには学ぶべきことがたくさんありますよ。例えば、自分の妻をどう大切にするか、とかね」 「妻の扱いなんて、あなたが心配することじゃないわ」光莉

Latest chapter

  • 夫の元カノが帰国!妊娠隠して離婚を決意した私   第975話

    若子はその場を追いかけたくてたまらなかった。けれど、足はまるで鉛を詰められたように重くて、動くことができなかった。 ―ダメだ。私はもう、修を追いかけちゃいけない。 彼との関係は、もう終わったんだから。 彼には山田さんがいる。もう自分とは終わっている。だったら、いっそ嫌われて、憎まれたままでもいい。 その方が、きっと彼のためになる。 そんな思いで立ち尽くしていた若子の背後から、ふわりと誰かが彼女を抱きしめた。 「若子......信じてくれてありがとう。俺を信じてくれて、本当に......ありがとう」 西也の声だった。 最終的に、若子は彼の言葉を選んだ。それだけで彼の中に、確かな勝利の実感が湧いてきた。 その口元には、ふっと得意げな笑みが浮かんでいた。 ―藤沢、お前は俺に勝てない。 俺は若子を傷つけたりしなかった。ずっと彼女のそばにいて、支えてきたんだ。暗闇の中で手を差し伸べてきたのは、この俺だ。 それに比べて、お前はずっと彼女を泣かせてきたじゃないか。 だが― 若子はその腕を、ギュッと掴んで無理やりほどいた。 「西也......本当に......本当にボディーガードを連れて、銃まで持って修のところに行ったの?本当に......傷つけるつもりだったの?正直に話して」 さっき、修にあんなふうに言ったのも、完全に信じてなかったわけじゃない。 もう修を信じるか信じないかは、正直どうでもよくなっていた。彼には侑子がいて、子どもまでいる。今さら自分が何を言ったところで、どうにもならない。 西也の呼吸が乱れた。肩がわずかに震え、若子の肩を強く掴む。 「若子、俺のこと信じてないのか?......まさか、あいつの方を信じてるのか?」 さっきまで自分を選んでくれたと思っていたのに、まるで手のひらを返されたような気がして、胸の奥がずきりと痛んだ。 「西也......お願いだから、本当のことを言って。本当に銃を持って行ったの?」 二人のうち、どちらかが嘘をついている。でも、どっちなのか、若子にはもうわからなかった。考えれば考えるほど、混乱するだけだった。 「......銃は、持って行った。けど、それは俺のボディーガードが持ってたやつで、護身用なんだ。アメリカじゃ銃の携帯は普通だし、もし危険な目に遭った

  • 夫の元カノが帰国!妊娠隠して離婚を決意した私   第974話

    若子はしばらく黙って考え込んだ。そして、ゆっくり顔を上げて修を見つめた。 「でも......あのとき、あなたは本気で西也が死ねばいいって思ってた。私に、西也の心臓を桜井さんにあげるようにって、同意を求めたよね」 西也の口元がぐいっと吊り上がる。得意げな笑みを浮かべて、ほっと息をついた。 ―若子は俺のことを信じてくれたんだ。 藤沢修、お前なんかに勝ち目あると思った? 前には桜井雅子、今度は山田侑子。お前がこれまでやってきたこと、どれを取っても正当化できないし、言い逃れもできない。 その一方で、俺は若子にとっての理想の男だ。お前が俺に勝てる要素、どこにある? 若子の言葉は、修の胸を鋭く突き刺した。 「若子......それは......昔のことだ。もう何年も前の話だよ。それと今は別だ。あれはあれ、これはこれなんだ」 「でも、あなたは確かにそうした。確かに―あのとき、あなたは西也に死んでほしいと思ってた。これは事実でしょ?」 修は口をつぐむ。否定できるはずもなかった。あの頃、西也のことを心の底から憎んでいた。そして、雅子が心臓移植を必要としていたタイミングで、西也が倒れた。 これは「チャンス」だと思ってしまった。雅子を助けるには、西也の心臓を......その考えが頭をよぎったことを、否定なんてできない。 ―自分の中の醜い部分。もし誰もがそれを晒されたら、きっと誰も「人間らしく」なんて言えなくなる。 「若子......あれは、あのときの話だ。彼の命が消えかけてたから、俺は......ああ言った。けど、俺は手を下してない。殺してもないし、傷つけてもない。常識的に、そうするのが正しいと思っただけなんだ」 「常識、ね......」 若子はその言葉を聞いて、吐き気がしそうになった。 「修......あなたにとって、西也の治療を諦めることが『常識』なの? だったらもう、これ以上言わなくていいよ。きっと、あなたの心のどこかが後ろめたかったんでしょ?だから西也があなたの元を訪ねてきたとき、勝手に『殺しに来た』って思ったんじゃない?」 「......」 修はふらりと数歩、後ろに下がった。 何もかもが空っぽになったようだった。胸の中から、心臓ごと引き抜かれたかのように。 若子からの言葉。何度も、何度も突き刺さっ

  • 夫の元カノが帰国!妊娠隠して離婚を決意した私   第973話

    若子のその言葉は、どちらにも肩入れしない「中立」なものだった。 誰が正しいのか、彼女にはわからなかった。だって、その場にいなかったから。修の言い分も、西也の言い分も、どちらも聞いてみれば筋が通っているように思える。 ただ、どちらも誤解していただけだったら―そう願わずにはいられなかった。 西也は修のことを誤解していて、修も西也の護衛が武器を持っていたことで、逆に西也を疑った。ふたりの関係はもともと悪くて、敵意に満ちていた。だから、極端な判断をしてしまったとしても不思議じゃない。 「こいつは本当にやったんだ。侑子まで捕まえて、あと少しで殺されるところだったんだぞ」 修の声には怒りと悔しさが滲んでいた。 だけど、若子の中でその言葉は、ただの「誤解」に聞こえてしまった。 彼女にとっては、現場にいなかった以上、どちらかを一方的に信じることはできなかった。 それでも―自分の命をかけてくれた修の言葉を、疑ってしまっている自分に、彼はきっと傷ついている。 離婚してしまった今、彼女はもう修の味方ではない。 かつてなら、迷わず彼を信じていたはずなのに。 「濡れ衣だ!」西也が激しく声を上げた。「若子、こいつの言うこと信じるな!こいつは嘘をついてる!それに、もし俺が本当に殺すつもりだったら、こいつなんて今こうして立ってられないだろ?あの時、屋敷に彼は一人だった。俺が殺そうと思えば、簡単にできた。でも、やらなかった!」 「それは、お前が油断してたからだ。俺が隙を見て銃を奪い返して、逆転したから助かっただけだ。あのままじゃ、俺も侑子も、確実に殺されてた。お前が死体を処理してしまえば、誰にもバレなかったはずだ」 「お前、よくもそんなでたらめ言いやがって!」 西也は怒りを抑えきれず、若子に向き直った。「若子、お願いだ、信じてくれ。俺がどんな人間か、お前ならわかってるだろ?こいつこそ、俺を殺そうとした張本人だ!」 「お前、忘れたのか?前に俺が事故に遭った時、こいつも含めて全員が、お前に俺の臓器を提供しろって迫ったんだぞ?こいつなんて、俺に早く死ねって言ってたようなもんじゃないか!」 西也は、思い出という武器で切り込んできた。 彼の言葉は、若子の心に鋭く突き刺さる。 あの時―病院で、全員が彼女に迫っていた。西也の命を見捨てて、誰か

  • 夫の元カノが帰国!妊娠隠して離婚を決意した私   第972話

    修の声は驚くほど冷静だった。西也のように感情をむき出しにすることもなく、彼の言葉には一分の隙もなかった。 どこか、堂々として見えた。 その落ち着いた姿を見て、若子はふと、疲れを覚えた。 修と西也の喧嘩なんて、これが初めてじゃない。もう何度もあった。前なんて、レストランで暴れて警察沙汰になったことすらある。 どちらの肩を持とうと、結局ふたりの間の確執は終わらない。今回の乱闘だって、どうせこれが最後にはならない。 「修、西也、あなたたちもう大人でしょ?自分の行動には自分で責任持ちなよ」 若子の声には、明らかに苛立ちが混じっていた。 「また喧嘩して、これで何回目?私はもう知らない。どっちが先に手を出したとか、正直もうどうでもいい。やりたきゃ好きに殴り合えば?先に殴った方が、もう一発食らう。それでチャラにしなよ。私はあなたたちの母親じゃないの。毎回毎回、警察に駆けつけて後始末して......そんなの、もうごめんだから!」 西也は口を開けかけたが、若子の鋭い一言でぐっと黙り込んだ。 なにか言いたそうな顔をしていたけれど、その勢いはすっかり削がれてしまった。 彼の視線は自然と修に向き、そこに溜まった怒りの矛先をぶつけるように、じろりとにらみつけた。 ―でも、今回、若子は西也をかばわなかった。 修はそれを見逃さなかった。彼にとっては、これが逃せないチャンスだった。 「若子」 修が一歩前に出て、静かに言った。 「なんで俺の話は聞かない?どうして俺が西也を殴ったのか、その理由を考えてくれたことある?」 「藤沢、また話を捏造するつもりか?」 西也がすかさず口を挟んだ。 「捏造?お前、ビビってるのか?若子に話されるのが、そんなに怖いか?」 修は口元だけで笑って、続けた。 「お前、若子には言わないつもりだったんだろ?......あの夜、お前がどんな風に俺の家に乗り込んできたか。銃を持った連中を引き連れて、俺のこめかみに銃口突きつけたよな」 「な―」 若子が目を見開いた。 「西也......それ、本当なの?」 西也は眉をひそめて、必死に否定する。 「若子、違う!誤解だ、そんなことするわけない。確かに何人か連れて行ったけど、それは俺のボディーガードだよ。あくまで護衛で、武力を使うつもりなんてなか

  • 夫の元カノが帰国!妊娠隠して離婚を決意した私   第971話

    修にとって、若子が西也を責める姿を見るのは、これが初めてだった。 彼は腕を組みながら二人を見つめ、目の奥に一瞬だけ安堵の色を浮かべた。 ―もしこれが昔だったら、若子は絶対に真っ先に西也をかばってた。 でも、今は違う。彼女は西也を守らなかった。 それだけで、少しだけ救われた気がした。 だけど同時に、不安の方が大きかった。 若子が西也をかばわなかったのは、ヴィンセントの存在があったからだ。 11年も一緒に過ごしてきた自分との関係すら壊して、西也をかばった若子が―たった数日で、ヴィンセントのために西也すら突き放すようになった。 それが、何より恐ろしかった。 ヴィンセントはまるで強引に入り込んでくる侵略者のように、既存の人間関係を簡単に壊してしまう。 「若子、お前......俺のこと、責めてるのか?」 西也の声は震え、目を見開いて彼女を見た。 「責めてるかって?ええ、そうよ。責めてるわ」 若子は疲れた表情で言った。ほんとは、こんなこと言いたくなかった。 でも、どうしても感情を抑えきれなかった。 物事がここまでぐちゃぐちゃになって、それでも「全部お前のためだ」なんて顔して、どんどん余計なことをして、混乱ばかりで、結局一番迷惑を被るのは若子だった。 「若子、あのときはお前が危ないって思って......電話で問い詰めるわけにはいかないだろ?もしそばに誰かいたらって思ったら......だから俺は、こっそり探しに行っただけで......俺だって、お前が心配だったんだ。理解してくれよ......それに、お前が夜に出かけたとき、俺には行き先がわからなかった。考えられるのは藤沢だけだった。そして実際、お前は彼に会ってた。お前の失踪は直接彼のせいじゃないかもしれないけど、彼と会ってなければ、そんなことにはならなかったんだ!」 「あなたが心配してくれてたのはわかってる。でも、自分のミスを正当化しないでよ!」 若子の声が一段と強くなった。 「西也......あなたといると、ほんと疲れる」 「......っ」 その一言が、西也の胸に深く突き刺さった。 「ミス」とか「疲れる」なんて―若子の口から、そんな言葉が自分に向けて出てくるなんて、思ってもいなかった。 彼は信じられないような表情で、ただ彼女を見つめるしか

  • 夫の元カノが帰国!妊娠隠して離婚を決意した私   第970話

    若子の眉がピクリと動く。 「......彼が殴ったの?」 彼女はゆっくりと修に視線を向けた。 「またやったのね?」 「また」―その一言が、なんとも言えない絶妙な皮肉だった。 正直、ふたりの喧嘩なんて何度目か分からない。もう若子自身も慣れてしまっていた。修が西也を殴って顔を腫らしたとしても、正直、そんなに驚きはなかった。 修は、黙って若子の目を見つめ返す。彼女が自分を責めるつもりだと、わかっていた。 「......ああ、殴ったよ。でも、理由がある」 「理由?」 と、割り込むように西也が口を開いた。 「若子、俺はただ......お前が心配だったんだ。電話はもらってたけど、どうしても不安で......それで、こいつが何かしたんじゃないかって疑って、会いに行った。そしたら、いきなり殴られたんだ」 彼は言葉巧みに語る―が、もちろん真相は違う。 武装した連中を引き連れて、銃を突きつけながら修の家に押し入ったのは、まぎれもなく西也の方だった。 だが、それを言うはずもない。 たとえ修が暴露したところで、「証拠は?」としらを切れば済む話だ。 修は黙ってその顔を見ていた。黒を白と言いくるめるその口ぶりに、内心では呆れていた。 若子は黙ってそのやり取りを聞いていたが、眉間に深いしわを刻みながら、口を開いた。 「......西也。私、電話で『無事だから』ってちゃんと言ったわよね?どうして修のところに行ったの?」 西也の胸に、ひやりと冷たいものが走った。 ......若子、どうしたんだ? これはおかしい。こんなの、彼女らしくない。 本来なら、修に殴られたと聞いて真っ先に怒るはずだ。 「なんでそんなことするのよ!」って修に怒鳴って、もしかしたらビンタの一つも飛ばしてたかもしれない。 なのに―どうして、こんなにも冷静に俺を問い詰める? 修もまた、想定外の反応に言葉を失っていた。 まさか、若子の第一声がそれだなんて、思ってもみなかったのだ。 若子はじっと西也を見つめながら、続けた。 「電話で、ちゃんと伝えたよね?一週間後には帰るって。はっきりそう言ったはずなのに、口では『わかった』って言っておいて、その足で修に連絡して、修まで私が何かあったって思い込んで......それでふたりしてヴィンセン

  • 夫の元カノが帰国!妊娠隠して離婚を決意した私   第969話

    「若子......もし、もし俺が言いたいことが―」 「若子!」 そのとき、西也が風のように走ってきた。まるで矢のような勢いで。 「若子、大丈夫か!?怪我は!?無事か!?」 修はぐっと息を飲み込み、握りしめた拳に力が入った。 また―またか。なぜこいつは、どこにでも現れるんだ。まるで悪夢のように。 「私は平気よ、心配しないで」 若子はそう言うと、ふたりの男を順番に見つめた。 「ちょうどよかった。ふたりとも揃ったところで、はっきり言っておくわ。ヴィンセントさんは、私の命の恩人よ。だから、どちらも彼を傷つけることは絶対に許さない。もし彼に何かしたら、私は......絶対に許さない」 その声には、これまでにないほどの強さが宿っていた。 ふたりの男は、一瞬言葉を失った。 今までは、何をしても若子は怒らなかった。なのに、いま彼女は、明確に「NO」を突きつけてきた。それも、他の男のために― 修と西也がいがみ合っている間に、彼女の心には、冴島千景という新たな存在が入り込んでいた。 こんなこと―あり得るのか? だが、西也はすぐに切り替えた。彼は、こういうとき、反射的に「正解」を選べる男だ。 「わかった、若子。俺はもう絶対に彼を傷つけたりしない。彼がお前の命を救ってくれたなら、それは俺の恩人でもある。だってお前は、俺の妻であり、俺の子の母親なんだから」 その言葉を聞いて、若子の視線が修の方へと移る。 修は静かに息を吐いて言った。 「......もし俺が彼を殺したかったなら、あの手術は成功してなかったさ。そこは信じてくれ」 ふたりの男が、揃って約束を口にする。 その場に、不思議な静寂が流れた。 若子は修と西也の顔を順に見つめた。 ......昨夜のあの怒りが、ふと胸に蘇る。 このふたりには、本当に怒り狂いそうだった。彼らが無理やりに踏み込んできて、ヴィンセントに銃を向けたあの瞬間を思い出すだけで、胸がギュッと締めつけられる。 あのときは―文句のひとつやふたつじゃ済まさないって、本気で思った。 手術が終わったら、きっちり叱り飛ばしてやろうと。 ......でも。 今こうして、目の前にいるふたりの男は、どちらも申し訳なさそうに頭を垂れていた。 昨夜のことが嘘のように、静かに彼女の前で

  • 夫の元カノが帰国!妊娠隠して離婚を決意した私   第968話

    若子は、ついにうんざりしたようにため息をついた。 修は視線を落とし、どこか寂しげに呟く。 「......わかった。じゃあ、言ってみて。お前の言葉、ちゃんと聞くよ」 あいつがまともな男だとは思えない。でも、若子がそこまで言うなら―せめて聞いてみたくなった。 「彼は......一週間だけ一緒にいてほしいって言ったの。ただ、ご飯を作ったり、掃除をしたり......それだけ。それ以上のことは何もなかったの。彼は私に何もしてない。傷つけたりなんて、絶対に......ただ、すごく寂しかっただけ。誰かに、そばにいてほしかったんだと思う」 若子はゆっくりとガラスの向こう―病室の冴島千景に目を向けて、静かに続けた。 「彼、昔......妹さんがいたの。でも、その子を亡くしてしまって......だから私を、妹のように見てた。それだけ。あなたが考えてるようなことじゃないの」 その言葉を聞いた修は、ようやく少し肩の力を抜いた。 ―少なくとも、若子が傷つけられたわけじゃない。それだけで、少しだけ安心できた。 「......じゃあ、あいつが目を覚ましたら?お前はどうするつもりなんだ」 「当然、看病するわ。命を救ってくれた人だもん。絶対に回復させてあげたい。どんな形であれ、私は......彼に恩を返したい」 その言葉に、修の胸にチクリとした痛みが走る。 「彼をそんなに心配して......じゃあ俺はどうなんだよ、若子」 思わず、彼女の腕を掴む。 「この前、お前が誘拐されたとき、俺だって命懸けで助けに行った。死にかけたんだ。それなのに、お前は遠藤を選んだ。あの時、俺がどんな思いで―!」 「......あなたが私に、その選択の余地を与えたの?」 若子の声が鋭く割り込む。 「確かに、私は西也を選んだ。でもそれは、選ばなければ誰も助からなかったから。あの時、どっちかを選べって言われたの。選ばなきゃ、ふたりとも死ぬって言われたのよ。 私は、何度も言ったよ。どっちを選んでも苦しかったって。本当は、私が死ねればよかった。でもそれは許されなかった。だから、あなたを傷つけたこと......謝りたかった。だから、あなたを探して、何度も会おうとした。 だけど、あなた......絶対に会おうとしなかったじゃない。私がどれだけ探しても、避け続けた。

  • 夫の元カノが帰国!妊娠隠して離婚を決意した私   第967話

    若子は慌てて自分の体を見下ろした。 服は―ちゃんと着ていた。乱れもなく、整っている。修の方も、ちゃんと服を着ていた。 「......昨日の夜、私に......何かあった?」 「倒れたからさ、ここで休ませたんだ。すごくぐっすり眠ってたよ」 修は、彼女が不安がらないように、穏やかに説明した。 若子は自分の服を見つめた。どこもおかしくない。きちんとしてる。 「この服......着替えさせたの、あなた?」 修の表情が一瞬止まる。昨夜、自分がしてしまいかけたことが脳裏に浮かび、胸がきしんだ。あの時のことを思い出すだけで、後悔と罪悪感に押しつぶされそうになる。 彼は若子の目をまっすぐに見られず、少し目をそらして答えた。 「......女の看護師に頼んだ」 若子はほっと息をついた。 やっぱり昨夜感じたあの感覚―誰かがキスしてきたような、全身が包まれたような、あれは......夢だったのかもしれない。 「......昨日の夜、ずっと一緒にいたの?」 「うん。お前の様子が心配だったから、ここにいた」 修の返事は短く、でもどこか優しかった。 若子は少し不思議そうな顔をした。何か聞こうとした瞬間、ふと思い出す。 「―そうだ、ヴィンセントさん!彼は無事なの?!」 「......一命は取り留めた。今はICUにいる」 その言葉を聞いた瞬間、若子は深く息を吐き、すぐにベッドから降りようとシーツをめくった。 「会いに行く。今すぐ」 彼女が部屋を出ようとすると、修もすぐに追いかけてきて、手を伸ばす。 「若子!」 彼女の腕を掴んだ。 振り向いた若子が問う。 「......なに?」 「今の状態じゃ、会えるわけない」 「外から見るだけでもいいの」 そのまま修の手を振りほどき、若子は病室を出ていった。 ICUに着いた若子は、硝子越しに千景の姿を見つけた。 彼はベッドに横たわり、身体中に医療機器が繋がれていた。心電図のモニターが、規則正しく音を立てている。 若子はそっと硝子に手を当て、ため息を漏らした。 「......ごめんね。私のせいで、こんなひどいケガをさせちゃって。ちゃんと治ってね......まだ、1万ドル返してないんだから......」 その呟きに反応したのか、後ろから修の声

Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status