「それもそうね」 華は頷きながら微笑んだ。 「やっぱり二人の意思が大事よね。でも、私はきっとあの子たちは結婚すると思うのよ。お互いに好意を持っていることはわかるし、何しろ幼馴染なんだから」 そう言いながら、華の顔には期待の色が浮かんでいた。 けれど、ふと大きなあくびを漏らす。 曜はすぐに声をかけた。 「母さん、眠いのか?なら、横になって休んだほうがいいよ」 「そうね、少し寝ようかしら。年を取ると、どうにも疲れやすくなるわ」 華は自嘲するように笑う。 「そんなことないよ、母さんはまだ若い。きっとあと何十年も元気でいられるさ」 「ははは、何十年も生きられるかしらね。そんなに生きたら、妖怪になっちゃうわ」 軽口を叩きながらも、華はベッドに横たわった。 曜と光莉は彼女の様子を見守りながら、そっと病室を出る。 「修に電話するわ」 光莉はスマホを取り出しながら言った。 曜は少し眉を寄せる。 「修、電話に出るか?」 昨夜、光莉は曜にメッセージを送り、修が無事であることを伝えていた。 たとえ光莉が曜との離婚を望んでいても、修は二人の息子だ。 彼のことは、きちんと曜とも共有するつもりだった。 「出なくても、出させるわ」 光莉自身も、修が電話を取るかどうか確信がなかった。 しかし、しばらくコール音が続いた後、ようやく電話がつながった。 「......母さん、ちょっと一人で考えたいんだ。だから今は―」 「おばあさんが倒れたわ」 光莉は、修の言葉を遮った。 「......何だって?」 修の声が、一瞬で変わった。 「どういうこと?」 「認知症よ。色々なことを忘れてしまっているの。あなたと若子がまだ結婚していないと思っているくらいにね」 「今、おばあさんはどこの病院に?」 修の声が、焦りに満ちていた。 ......村上允は昼食を用意し、テーブルに並べていた。 しかし、修はすでに服を着替え、出かける準備をしていた。 「どこへ行くんだ?昼食ができたぞ」 「......おばあさんが倒れた。病院に行かないと」 そう言って数歩進んだ瞬間、修は胸を押さえ、ふらついた。 ここ数日の無理がたたり、怪我がまだ完全に癒えていなかったのだ。 允はすぐに彼の肩を支
修は母に手を止められ、顔を上げた。 「母さん、どうした?」 光莉は静かに彼を見つめる。 「あんた、ずっと若子を避けてたのに、どうして今になって連絡しようとするの?」 「......それは、今とは状況が違うからだ。おばあさんが倒れたんだ。彼女には知らせるべきだろ」 本当の理由を、彼は口にできなかった。 どれだけ彼女に拒絶されようと、どれだけ彼女が西也を選ぼうと、それでも彼は若子に会いたいと思ってしまう。 それが、どれほど愚かでも。 ―彼女のことを、忘れられるはずがない。 光莉には、それがわかっていた。 これは単なる口実だ。 修は、本当はただ若子に会いたいだけ。 けれど、若子は手術を終えたばかり。 そんな彼女が、おばあさんの病気を知ったら、きっとショックを受ける。 それは、彼女自身にとっても、お腹の子にとっても良くない。 しかし、修にそのことを言うわけにはいかない。 彼が若子の妊娠を知ったら― 彼女の手術のこと、自分がその間ずっと何も知らなかったことを知ったら― 彼はどれほどの後悔と苦しみに苛まれるだろうか。 それに、もし彼が若子の妊娠を知ったら、きっと彼は離れようとしない。 彼の子供。 彼女と西也、そして二人の子供。 そこに曜や高峯まで絡んで、状況はさらに複雑になるだろう。 ―もう十分、事態は混乱している。 「母さん?」 修が不審そうに光莉を見つめる。 「......何か言いたいことがある?」 「あるわ」 光莉ははっきりと言った。 「私から若子に連絡する。でも、あんたは彼女に連絡しないで」 「......なんで?」 そう言ったのは、修ではなく曜だった。 光莉は曜の問いには答えず、そのまま修に向き直った。 「あんた、本当に彼女とやり直せると思ってる?」 修は無言のまま、強くスマホを握る。 「......おばあさんのことに、それは関係ないだろ」 「関係あるわ」 光莉はきっぱりと否定した。 「あんたたちは、おばあさんを見舞いに来る。でも、認知症の彼女は時間の感覚が狂ってる。あんたと若子の関係だって、今みたいにこじれているとは思っていない。 そんな二人が顔を合わせたら?感情的になって言い争いになるかもしれない。何かしらのト
華が目を覚ますと、修はすぐに病室へ入った。 彼の憔悴した顔を見て、華はすぐに尋ねる。 「修、どうしたの?病気じゃないでしょうね?」 修は胸の傷がまだ痛むのを感じながらも、笑顔を作った。 「おばあさん、ちょっと疲れているだけです。最近よく眠れていなくて......でも、大丈夫です」 華はため息をついた。 「おばあさんは、今まであんたに厳しくしすぎたね......あんたはこんなに頑張ってきたのに、いつも怒ってばかりで、本当に申し訳なかったよ。でも、あんたは本当に良い子だ」 華の声は、どこか柔らかくなっていた。 もしかすると、自分の病気を理解し始めているのかもしれない。 「おばあさん、気にしないでください。厳しくしてくれたおかげで、俺はダメな人間にならずに済んだんです」 「そんなことはないよ」華は首を振った。「修、あんたはもともと立派な子だよ。おばあさんが厳しくしなくても、あんたはちゃんとした大人になった。小さい頃から努力家で、誰よりも早く大人にならなければならなかった。でも、本当は辛かったろう?」 修は何も言えなかった。 それは、まるで幼い頃の自分の心を覗かれたようだった。 華はふと寂しげに微笑む。 「修......もし、おばあさんがある日、あんたのことを忘れて忘れてしまっても......どうか恨まないでね。今のうちに謝っておくわ」 華がこう口にしたのは、自分がいつか認知症になり、すべてを忘れてしまうかもしれないからだ。 修にしてきたことも、過去の過ちも、すべて記憶から消えたら―もう謝ることさえできなくなる。 それが何よりも怖かった。 もしも、昔の自分に戻ってしまったら? そうなる前に、せめて今のうちに謝っておきたかった。 「おばあさん......謝らないでください。俺は、おばあさんを恨んだことなんて一度もありません。むしろ、もっと早く顔を見せに来るべきでした......」 もし、自分がもっと早く異変に気づいていたら? もっと頻繁に会いに来ていたら? そうすれば、おばあさんに何かできることがあったのではないか。 そんな後悔ばかりが募る。 「おばあさんは、あんたがここにいてくれるだけで嬉しいよ」 そう言いながら、ふと表情が固まる。 視線の先にいる孫を見つめながら、胸
光莉は、ただ華を安心させるためだけにこの嘘をついた。 それがわかっていながらも、曜の胸にはわずかな期待が芽生えてしまう。 彼はそっと光莉の手を握った。 その手のひらから、ほんの少しでも温もりを感じたくて。 ―たとえ、ほんの一瞬でも。 この女性が少しでも自分を受け入れてくれるなら、それだけで幸せで、何日も眠れなくなるほどだった。 「本当に?」 華は驚き、そして心から嬉しそうな表情を浮かべた。 「光莉、ようやく曜を許してくれたのね!」 光莉は静かに華のそばに寄り、優しく微笑む。 「はい、お義母さん。私は彼を許しました」 しかし、華はすぐに表情を曇らせる。 「でもね、光莉......本当に無理していない?もし、ただ私を安心させるためなら、そんなことしなくていいのよ。曜がどれだけ酷いことをしてきたか、ちゃんとわかってる。だから、もしあんたが本当に彼と一緒にいたくないなら、私はちゃんとあんたの味方をするわよ」 「違うんです。これは、私が自分で決めたことです。 彼は間違いを認めて、ずっと償おうとしてきました。私も、もう過去を責め続けたくはありません。だから、これからは一緒に生きていこうと思います」 曜の目がじわりと熱くなる。 もし、これが現実なら、どんなに幸せだっただろう。 だが、これはただの嘘。 彼女は、ただ華を安心させるために、そう言っただけなのだ。 「......光莉、あんたが幸せなら、それでいいのよ」 華はそっと彼女の手を握った。 「どんな決断をしても、あんたはずっと家族よ」 そう言って、華は曜に向き直る。 「曜」 曜はすぐに彼女のそばへ行く。 「もし、また光莉を傷つけたら、その時はもう私を母だなんて思わないで。私もあんたを息子とは思わないわ」 曜は喉の奥が詰まり、かすれた声で答えた。 「......わかった。二度と光莉を傷つけない。彼女に怒られても、罵られても、何も言い返さない。絶対に、彼女のそばで償い続けるよ」 華は満足そうに微笑む。 「そう、それでいいのよ。大の男が泣くなんて情けないわね。息子もいるのだから、ちゃんと見本になりなさいよ。修が将来、あんたみたいな男になったらどうするの?」 その言葉に、光莉の視線が自然と修へと向かう。 「
修は病室で華ともう少し一緒に過ごした後、光莉に呼ばれた。 「修、今日はもう帰って休みなさい」 「母さん、大丈夫だ。もう少しおばあさんと一緒にいたい」 「あんたあんたの気持ちは分かる。でも、自分の体も大事にしなきゃ。見てごらんなさい、すっかり痩せてしまって......おばあさんも心配しているのよ。だから今日は帰って、ちゃんと休んで」 修は確かにやつれていた。 体調が万全とは言えない状態なのは、一目で分かる。 曜も口を挟む。 「修、彼女の言う通りだ。しっかり休め。お前、ひどい怪我をしたばかりなんだぞ。おばあさんを安心させるためにも、まずは自分の体を労れ」 「そうよ」光莉も続ける。 「あんたが帰ったら、私が若子に連絡して来てもらうわ」 その言葉に、修は微かに苦笑する。 「母さんは、本当に俺と若子を会わせたくないんだね?」 光莉はそっとため息をつき、彼の肩を軽く叩いた。 「修......若子はずっと苦しんでいたの。今はあんたも苦しんでいる。だけど、二人が会ったところで、どうなるの? あんたは、本当に復縁できると思ってる?もし、復縁できないのなら、また傷つくだけよ」 修の目の前が、ぼんやりと歪んで見えた。 彼は理解していた。 誰も、彼と若子が元に戻れるとは思っていない。 母でさえ、彼を励ますことはなく、ただ現実を突きつけるだけだった。 ―誰も、俺の味方をしてくれないんだな。 彼はふと、友人たちの顔を思い浮かべた。 彼らもきっと、こう思っているのだろう。 「自業自得だ」と。 ......その通りだ。 自分が、すべてを壊したのだから。 修は、静かに目を閉じた。 そして、深く息を吐き出しながら言う。 「......分かった。帰りるよ」 重たい足取りで、彼は病院を後にした。 光莉はその背中を見送りながら、寂しそうにため息をつく。 曜がそっと彼女の肩に手を置いた。 「光莉......どうして、修と若子を会わせたくないんだ?本当に、二人を別れさせたいのか?」 曜は、ずっと疑問に思っていた。 けれど、光莉が強く反対した以上、自分が口を挟む立場ではないと思い、黙っていた。 しかし、修が去った今、彼はようやく口を開いたのだった。 光莉は、目元の涙を指で拭い
若子は十日間の入院を経て、ようやく退院した。 お腹の子はすでに五カ月目。 彼女のお腹は大きくなり、動くのもひと苦労だった。 少し歩くだけで疲れてしまい、ほとんどの時間をベッドで過ごすしかない。 しかし、西也はそんな彼女を細やかに気遣い、食事も飲み物も全て自分で運び、まるで彼女に何一つさせまいとするかのようだった。 果てには、風呂まで手伝おうとする始末。 だが、さすがにそれは若子が拒否し、できる限り自分で入ることにした。 どうしても無理なときは、メイドを頼ることにしている。 西也も、そこは無理強いしなかった。 夕食を終え、若子はベッドに腰掛けながら、ふと祖母に電話をかけたくなった。 考えてみれば、しばらく連絡を取っていなかった。 修と離婚した後も、藤沢家の人たちは「離婚しても、藤沢家の人間だ」と言ってくれた。 だが、現実には彼女は自然と藤沢家と距離を置くようになった。 それは意図したものではなく、気づけばそうなっていたのだった。 電話をかけると、出たのは光莉だった。 「もしもし」 「お母さん?」若子はすぐに彼女の声を聞き分けた。 「どうして母さんが出るんですか?」 「若子、どうかしたの?」 「おばあさんと話したいんですけど......どうして母さんお母さんが携帯を持っているんですか?」 「ああ、今おばあさんのところにいるの。でも、ちょっと都合が悪くてね」 「おばあさん、具合が悪いんですか?」 「......少しね。あんたも退院したことだし、そろそろ話しておくわ」 光莉は、華の病状を伝えた。 若子は、言葉を失った。 心がぎゅっと締めつけられる。 そんな彼女の様子を見て、西也がすぐに駆け寄った。 「若子、どうした?」 「おばあさんが......病気になったの......会いに行かないと」 「病気って......何の?」 「認知症」 若子は涙を拭いながら答えた。 「すぐに行かなきゃ......」 そう言って、彼女は布団をはねのけて立ち上がろうとする。 「若子、落ち着いて」 西也はすぐに彼女の腰を支えた。 「止めないで。私は行かなきゃ」 「止めてるわけじゃない」 西也は静かに言う。 「車を出すから、一緒に行こう」 彼が
西也は車を走らせ、若子を華のもとへ連れて行こうとしていた。 だが、道中で光莉から連絡が入り、目的地が変更された。 若子は、指定された住所へと向かう。 そこは、レストランだった。 個室に入ると、すでに光莉と華が待っていた。 若子は大きなお腹を抱えながら、足早に駆け寄る。 「おばあさん!」 だが、次の瞬間、華がきょとんとした顔で、彼女を見つめた。 「......あなた、今なんて?」 その問いに、若子の胸がぎゅっと締めつけられる。 電話で聞いたときは、まるで夢のように思えた。 現実とは思えず、ただの悪い夢だと願った。 しかし― いざ、こうして目の前で確かめると、あまりにも現実的だった。 光莉が立ち上がり、二人を席へと促す。 「座りましょう」 若子は、西也に支えられながら椅子に腰を下ろした。 その間も、華の視線は不思議そうに彼女を見つめている。 西也はそんな華を見ながら、ふと光莉にも目を向ける。 彼女は、自分をじっと見つめていた。 ―その目は、以前と違っていた。 そこには、敵意も拒絶もなかった。 むしろ、どこか親しげな、懐かしむような色さえ感じる。 なぜ急に、態度が変わったのか? 西也は、それが妙に気に食わなかった。 高峯が絡んでいるのか? いや、それだけではない気がする。 彼女は強い女性だ。 簡単に誰かに屈するようなタイプではない。 ―ならば、いったい何があった? 彼は複雑な表情を浮かべながらも、若子を気遣い、椅子へと座らせる。 「おばあさん......私です、若子ですよ。分かりませんか?」 すると、華は穏やかに笑いながら言った。 「若子?何を言っているの?」 彼女は首を傾げ、若子のお腹を見つめる。 「うちの若子は、まだ中学生だよ?なのに、あなたはこんなに大きくなって......それに、お腹の子はもう何カ月目?」 若子は、電話で光莉が言っていた言葉を思い出した。 「おばあさんを刺激しないで。忘れてしまったことは無理に思い出させないで。もし記憶を呼び戻そうとすると、頭痛を起こす可能性があるの。絶対に、自分が認知症だと気づかせちゃダメよ」 そう言われていた。 彼女は涙を必死にこらえ、笑顔を作った。 「......気づか
四人はそのまま、和やかに会話を続けた。 若子は心の痛みを抑えながら、華と楽しそうに話す。 華の記憶は少し混乱していたが、何度も口にするのは、若子と修のことだった。 二人の関係がどれほど良かったか、どれほどお似合いだったか―そんな昔話ばかりを繰り返す。 その言葉を聞きながら、若子の胸にはさまざまな思いが込み上げてきた。 彼女と修にも、確かに美しい時間があった。 けれど― 今はこんなにも壊れてしまった。 そして、おばあさんもこんなふうになってしまった。 だが、これでよかったのかもしれない。 華の記憶には、幸せな時だけが残り、あとの苦しみや悲しみはすっぽり抜け落ちている。 ―それだけでも、救いだった。 ただ、残念なのは― 華が、もうすぐ生まれてくる曾孫のことを忘れてしまっていることだった。 そんな中、西也は終始、微笑みを浮かべながら会話を聞いていた。 穏やかに、温かく―誰が見ても、優しそうな男に見えただろう。 しかし、彼の心の内はまるで違った。 彼は、自分の胸の奥が何かに強く押しつぶされそうなほど、嫉妬に狂いそうになっていた。 ―あいつは、ただ運が良かっただけだ。 若子と十年間も一緒にいられたのも、幼馴染として過ごせたのも、すべては偶然の産物に過ぎない。 あんな男が、そんな幸運を手に入れる価値があったのか? だが、今はもう違う。 ―神様は、ようやくあいつからすべてを奪った。 そして、若子は今、彼の隣にいる。 しかし、ひとつだけ気がかりなことがあった。 修は、若子の妊娠を知っているのか? もし知っているのなら、なぜ何の反応もない? もし知らないのなら― それはつまり、修の母親である光莉も、祖母も、彼に何も伝えていないということになる。 華はもう認知症が進み、何も覚えていない。 では、光莉はどうだ? 彼女は修に、若子の妊娠を伝えるつもりはないのか? 西也は、疑わしげな視線を光莉へと向けた。 そして、今日のことを思い返す。 若子を華のもとへ送る前、彼はずっと不安だった。 ―もし藤沢家の人間と会ったらどうする? 若子の大きくなったお腹を見れば、すぐに分かる。 修がそれを知ったら、何が起こるか分からない。 だからこそ、彼は出発前にあ
若子はその場を追いかけたくてたまらなかった。けれど、足はまるで鉛を詰められたように重くて、動くことができなかった。 ―ダメだ。私はもう、修を追いかけちゃいけない。 彼との関係は、もう終わったんだから。 彼には山田さんがいる。もう自分とは終わっている。だったら、いっそ嫌われて、憎まれたままでもいい。 その方が、きっと彼のためになる。 そんな思いで立ち尽くしていた若子の背後から、ふわりと誰かが彼女を抱きしめた。 「若子......信じてくれてありがとう。俺を信じてくれて、本当に......ありがとう」 西也の声だった。 最終的に、若子は彼の言葉を選んだ。それだけで彼の中に、確かな勝利の実感が湧いてきた。 その口元には、ふっと得意げな笑みが浮かんでいた。 ―藤沢、お前は俺に勝てない。 俺は若子を傷つけたりしなかった。ずっと彼女のそばにいて、支えてきたんだ。暗闇の中で手を差し伸べてきたのは、この俺だ。 それに比べて、お前はずっと彼女を泣かせてきたじゃないか。 だが― 若子はその腕を、ギュッと掴んで無理やりほどいた。 「西也......本当に......本当にボディーガードを連れて、銃まで持って修のところに行ったの?本当に......傷つけるつもりだったの?正直に話して」 さっき、修にあんなふうに言ったのも、完全に信じてなかったわけじゃない。 もう修を信じるか信じないかは、正直どうでもよくなっていた。彼には侑子がいて、子どもまでいる。今さら自分が何を言ったところで、どうにもならない。 西也の呼吸が乱れた。肩がわずかに震え、若子の肩を強く掴む。 「若子、俺のこと信じてないのか?......まさか、あいつの方を信じてるのか?」 さっきまで自分を選んでくれたと思っていたのに、まるで手のひらを返されたような気がして、胸の奥がずきりと痛んだ。 「西也......お願いだから、本当のことを言って。本当に銃を持って行ったの?」 二人のうち、どちらかが嘘をついている。でも、どっちなのか、若子にはもうわからなかった。考えれば考えるほど、混乱するだけだった。 「......銃は、持って行った。けど、それは俺のボディーガードが持ってたやつで、護身用なんだ。アメリカじゃ銃の携帯は普通だし、もし危険な目に遭った
若子はしばらく黙って考え込んだ。そして、ゆっくり顔を上げて修を見つめた。 「でも......あのとき、あなたは本気で西也が死ねばいいって思ってた。私に、西也の心臓を桜井さんにあげるようにって、同意を求めたよね」 西也の口元がぐいっと吊り上がる。得意げな笑みを浮かべて、ほっと息をついた。 ―若子は俺のことを信じてくれたんだ。 藤沢修、お前なんかに勝ち目あると思った? 前には桜井雅子、今度は山田侑子。お前がこれまでやってきたこと、どれを取っても正当化できないし、言い逃れもできない。 その一方で、俺は若子にとっての理想の男だ。お前が俺に勝てる要素、どこにある? 若子の言葉は、修の胸を鋭く突き刺した。 「若子......それは......昔のことだ。もう何年も前の話だよ。それと今は別だ。あれはあれ、これはこれなんだ」 「でも、あなたは確かにそうした。確かに―あのとき、あなたは西也に死んでほしいと思ってた。これは事実でしょ?」 修は口をつぐむ。否定できるはずもなかった。あの頃、西也のことを心の底から憎んでいた。そして、雅子が心臓移植を必要としていたタイミングで、西也が倒れた。 これは「チャンス」だと思ってしまった。雅子を助けるには、西也の心臓を......その考えが頭をよぎったことを、否定なんてできない。 ―自分の中の醜い部分。もし誰もがそれを晒されたら、きっと誰も「人間らしく」なんて言えなくなる。 「若子......あれは、あのときの話だ。彼の命が消えかけてたから、俺は......ああ言った。けど、俺は手を下してない。殺してもないし、傷つけてもない。常識的に、そうするのが正しいと思っただけなんだ」 「常識、ね......」 若子はその言葉を聞いて、吐き気がしそうになった。 「修......あなたにとって、西也の治療を諦めることが『常識』なの? だったらもう、これ以上言わなくていいよ。きっと、あなたの心のどこかが後ろめたかったんでしょ?だから西也があなたの元を訪ねてきたとき、勝手に『殺しに来た』って思ったんじゃない?」 「......」 修はふらりと数歩、後ろに下がった。 何もかもが空っぽになったようだった。胸の中から、心臓ごと引き抜かれたかのように。 若子からの言葉。何度も、何度も突き刺さっ
若子のその言葉は、どちらにも肩入れしない「中立」なものだった。 誰が正しいのか、彼女にはわからなかった。だって、その場にいなかったから。修の言い分も、西也の言い分も、どちらも聞いてみれば筋が通っているように思える。 ただ、どちらも誤解していただけだったら―そう願わずにはいられなかった。 西也は修のことを誤解していて、修も西也の護衛が武器を持っていたことで、逆に西也を疑った。ふたりの関係はもともと悪くて、敵意に満ちていた。だから、極端な判断をしてしまったとしても不思議じゃない。 「こいつは本当にやったんだ。侑子まで捕まえて、あと少しで殺されるところだったんだぞ」 修の声には怒りと悔しさが滲んでいた。 だけど、若子の中でその言葉は、ただの「誤解」に聞こえてしまった。 彼女にとっては、現場にいなかった以上、どちらかを一方的に信じることはできなかった。 それでも―自分の命をかけてくれた修の言葉を、疑ってしまっている自分に、彼はきっと傷ついている。 離婚してしまった今、彼女はもう修の味方ではない。 かつてなら、迷わず彼を信じていたはずなのに。 「濡れ衣だ!」西也が激しく声を上げた。「若子、こいつの言うこと信じるな!こいつは嘘をついてる!それに、もし俺が本当に殺すつもりだったら、こいつなんて今こうして立ってられないだろ?あの時、屋敷に彼は一人だった。俺が殺そうと思えば、簡単にできた。でも、やらなかった!」 「それは、お前が油断してたからだ。俺が隙を見て銃を奪い返して、逆転したから助かっただけだ。あのままじゃ、俺も侑子も、確実に殺されてた。お前が死体を処理してしまえば、誰にもバレなかったはずだ」 「お前、よくもそんなでたらめ言いやがって!」 西也は怒りを抑えきれず、若子に向き直った。「若子、お願いだ、信じてくれ。俺がどんな人間か、お前ならわかってるだろ?こいつこそ、俺を殺そうとした張本人だ!」 「お前、忘れたのか?前に俺が事故に遭った時、こいつも含めて全員が、お前に俺の臓器を提供しろって迫ったんだぞ?こいつなんて、俺に早く死ねって言ってたようなもんじゃないか!」 西也は、思い出という武器で切り込んできた。 彼の言葉は、若子の心に鋭く突き刺さる。 あの時―病院で、全員が彼女に迫っていた。西也の命を見捨てて、誰か
修の声は驚くほど冷静だった。西也のように感情をむき出しにすることもなく、彼の言葉には一分の隙もなかった。 どこか、堂々として見えた。 その落ち着いた姿を見て、若子はふと、疲れを覚えた。 修と西也の喧嘩なんて、これが初めてじゃない。もう何度もあった。前なんて、レストランで暴れて警察沙汰になったことすらある。 どちらの肩を持とうと、結局ふたりの間の確執は終わらない。今回の乱闘だって、どうせこれが最後にはならない。 「修、西也、あなたたちもう大人でしょ?自分の行動には自分で責任持ちなよ」 若子の声には、明らかに苛立ちが混じっていた。 「また喧嘩して、これで何回目?私はもう知らない。どっちが先に手を出したとか、正直もうどうでもいい。やりたきゃ好きに殴り合えば?先に殴った方が、もう一発食らう。それでチャラにしなよ。私はあなたたちの母親じゃないの。毎回毎回、警察に駆けつけて後始末して......そんなの、もうごめんだから!」 西也は口を開けかけたが、若子の鋭い一言でぐっと黙り込んだ。 なにか言いたそうな顔をしていたけれど、その勢いはすっかり削がれてしまった。 彼の視線は自然と修に向き、そこに溜まった怒りの矛先をぶつけるように、じろりとにらみつけた。 ―でも、今回、若子は西也をかばわなかった。 修はそれを見逃さなかった。彼にとっては、これが逃せないチャンスだった。 「若子」 修が一歩前に出て、静かに言った。 「なんで俺の話は聞かない?どうして俺が西也を殴ったのか、その理由を考えてくれたことある?」 「藤沢、また話を捏造するつもりか?」 西也がすかさず口を挟んだ。 「捏造?お前、ビビってるのか?若子に話されるのが、そんなに怖いか?」 修は口元だけで笑って、続けた。 「お前、若子には言わないつもりだったんだろ?......あの夜、お前がどんな風に俺の家に乗り込んできたか。銃を持った連中を引き連れて、俺のこめかみに銃口突きつけたよな」 「な―」 若子が目を見開いた。 「西也......それ、本当なの?」 西也は眉をひそめて、必死に否定する。 「若子、違う!誤解だ、そんなことするわけない。確かに何人か連れて行ったけど、それは俺のボディーガードだよ。あくまで護衛で、武力を使うつもりなんてなか
修にとって、若子が西也を責める姿を見るのは、これが初めてだった。 彼は腕を組みながら二人を見つめ、目の奥に一瞬だけ安堵の色を浮かべた。 ―もしこれが昔だったら、若子は絶対に真っ先に西也をかばってた。 でも、今は違う。彼女は西也を守らなかった。 それだけで、少しだけ救われた気がした。 だけど同時に、不安の方が大きかった。 若子が西也をかばわなかったのは、ヴィンセントの存在があったからだ。 11年も一緒に過ごしてきた自分との関係すら壊して、西也をかばった若子が―たった数日で、ヴィンセントのために西也すら突き放すようになった。 それが、何より恐ろしかった。 ヴィンセントはまるで強引に入り込んでくる侵略者のように、既存の人間関係を簡単に壊してしまう。 「若子、お前......俺のこと、責めてるのか?」 西也の声は震え、目を見開いて彼女を見た。 「責めてるかって?ええ、そうよ。責めてるわ」 若子は疲れた表情で言った。ほんとは、こんなこと言いたくなかった。 でも、どうしても感情を抑えきれなかった。 物事がここまでぐちゃぐちゃになって、それでも「全部お前のためだ」なんて顔して、どんどん余計なことをして、混乱ばかりで、結局一番迷惑を被るのは若子だった。 「若子、あのときはお前が危ないって思って......電話で問い詰めるわけにはいかないだろ?もしそばに誰かいたらって思ったら......だから俺は、こっそり探しに行っただけで......俺だって、お前が心配だったんだ。理解してくれよ......それに、お前が夜に出かけたとき、俺には行き先がわからなかった。考えられるのは藤沢だけだった。そして実際、お前は彼に会ってた。お前の失踪は直接彼のせいじゃないかもしれないけど、彼と会ってなければ、そんなことにはならなかったんだ!」 「あなたが心配してくれてたのはわかってる。でも、自分のミスを正当化しないでよ!」 若子の声が一段と強くなった。 「西也......あなたといると、ほんと疲れる」 「......っ」 その一言が、西也の胸に深く突き刺さった。 「ミス」とか「疲れる」なんて―若子の口から、そんな言葉が自分に向けて出てくるなんて、思ってもいなかった。 彼は信じられないような表情で、ただ彼女を見つめるしか
若子の眉がピクリと動く。 「......彼が殴ったの?」 彼女はゆっくりと修に視線を向けた。 「またやったのね?」 「また」―その一言が、なんとも言えない絶妙な皮肉だった。 正直、ふたりの喧嘩なんて何度目か分からない。もう若子自身も慣れてしまっていた。修が西也を殴って顔を腫らしたとしても、正直、そんなに驚きはなかった。 修は、黙って若子の目を見つめ返す。彼女が自分を責めるつもりだと、わかっていた。 「......ああ、殴ったよ。でも、理由がある」 「理由?」 と、割り込むように西也が口を開いた。 「若子、俺はただ......お前が心配だったんだ。電話はもらってたけど、どうしても不安で......それで、こいつが何かしたんじゃないかって疑って、会いに行った。そしたら、いきなり殴られたんだ」 彼は言葉巧みに語る―が、もちろん真相は違う。 武装した連中を引き連れて、銃を突きつけながら修の家に押し入ったのは、まぎれもなく西也の方だった。 だが、それを言うはずもない。 たとえ修が暴露したところで、「証拠は?」としらを切れば済む話だ。 修は黙ってその顔を見ていた。黒を白と言いくるめるその口ぶりに、内心では呆れていた。 若子は黙ってそのやり取りを聞いていたが、眉間に深いしわを刻みながら、口を開いた。 「......西也。私、電話で『無事だから』ってちゃんと言ったわよね?どうして修のところに行ったの?」 西也の胸に、ひやりと冷たいものが走った。 ......若子、どうしたんだ? これはおかしい。こんなの、彼女らしくない。 本来なら、修に殴られたと聞いて真っ先に怒るはずだ。 「なんでそんなことするのよ!」って修に怒鳴って、もしかしたらビンタの一つも飛ばしてたかもしれない。 なのに―どうして、こんなにも冷静に俺を問い詰める? 修もまた、想定外の反応に言葉を失っていた。 まさか、若子の第一声がそれだなんて、思ってもみなかったのだ。 若子はじっと西也を見つめながら、続けた。 「電話で、ちゃんと伝えたよね?一週間後には帰るって。はっきりそう言ったはずなのに、口では『わかった』って言っておいて、その足で修に連絡して、修まで私が何かあったって思い込んで......それでふたりしてヴィンセン
「若子......もし、もし俺が言いたいことが―」 「若子!」 そのとき、西也が風のように走ってきた。まるで矢のような勢いで。 「若子、大丈夫か!?怪我は!?無事か!?」 修はぐっと息を飲み込み、握りしめた拳に力が入った。 また―またか。なぜこいつは、どこにでも現れるんだ。まるで悪夢のように。 「私は平気よ、心配しないで」 若子はそう言うと、ふたりの男を順番に見つめた。 「ちょうどよかった。ふたりとも揃ったところで、はっきり言っておくわ。ヴィンセントさんは、私の命の恩人よ。だから、どちらも彼を傷つけることは絶対に許さない。もし彼に何かしたら、私は......絶対に許さない」 その声には、これまでにないほどの強さが宿っていた。 ふたりの男は、一瞬言葉を失った。 今までは、何をしても若子は怒らなかった。なのに、いま彼女は、明確に「NO」を突きつけてきた。それも、他の男のために― 修と西也がいがみ合っている間に、彼女の心には、冴島千景という新たな存在が入り込んでいた。 こんなこと―あり得るのか? だが、西也はすぐに切り替えた。彼は、こういうとき、反射的に「正解」を選べる男だ。 「わかった、若子。俺はもう絶対に彼を傷つけたりしない。彼がお前の命を救ってくれたなら、それは俺の恩人でもある。だってお前は、俺の妻であり、俺の子の母親なんだから」 その言葉を聞いて、若子の視線が修の方へと移る。 修は静かに息を吐いて言った。 「......もし俺が彼を殺したかったなら、あの手術は成功してなかったさ。そこは信じてくれ」 ふたりの男が、揃って約束を口にする。 その場に、不思議な静寂が流れた。 若子は修と西也の顔を順に見つめた。 ......昨夜のあの怒りが、ふと胸に蘇る。 このふたりには、本当に怒り狂いそうだった。彼らが無理やりに踏み込んできて、ヴィンセントに銃を向けたあの瞬間を思い出すだけで、胸がギュッと締めつけられる。 あのときは―文句のひとつやふたつじゃ済まさないって、本気で思った。 手術が終わったら、きっちり叱り飛ばしてやろうと。 ......でも。 今こうして、目の前にいるふたりの男は、どちらも申し訳なさそうに頭を垂れていた。 昨夜のことが嘘のように、静かに彼女の前で
若子は、ついにうんざりしたようにため息をついた。 修は視線を落とし、どこか寂しげに呟く。 「......わかった。じゃあ、言ってみて。お前の言葉、ちゃんと聞くよ」 あいつがまともな男だとは思えない。でも、若子がそこまで言うなら―せめて聞いてみたくなった。 「彼は......一週間だけ一緒にいてほしいって言ったの。ただ、ご飯を作ったり、掃除をしたり......それだけ。それ以上のことは何もなかったの。彼は私に何もしてない。傷つけたりなんて、絶対に......ただ、すごく寂しかっただけ。誰かに、そばにいてほしかったんだと思う」 若子はゆっくりとガラスの向こう―病室の冴島千景に目を向けて、静かに続けた。 「彼、昔......妹さんがいたの。でも、その子を亡くしてしまって......だから私を、妹のように見てた。それだけ。あなたが考えてるようなことじゃないの」 その言葉を聞いた修は、ようやく少し肩の力を抜いた。 ―少なくとも、若子が傷つけられたわけじゃない。それだけで、少しだけ安心できた。 「......じゃあ、あいつが目を覚ましたら?お前はどうするつもりなんだ」 「当然、看病するわ。命を救ってくれた人だもん。絶対に回復させてあげたい。どんな形であれ、私は......彼に恩を返したい」 その言葉に、修の胸にチクリとした痛みが走る。 「彼をそんなに心配して......じゃあ俺はどうなんだよ、若子」 思わず、彼女の腕を掴む。 「この前、お前が誘拐されたとき、俺だって命懸けで助けに行った。死にかけたんだ。それなのに、お前は遠藤を選んだ。あの時、俺がどんな思いで―!」 「......あなたが私に、その選択の余地を与えたの?」 若子の声が鋭く割り込む。 「確かに、私は西也を選んだ。でもそれは、選ばなければ誰も助からなかったから。あの時、どっちかを選べって言われたの。選ばなきゃ、ふたりとも死ぬって言われたのよ。 私は、何度も言ったよ。どっちを選んでも苦しかったって。本当は、私が死ねればよかった。でもそれは許されなかった。だから、あなたを傷つけたこと......謝りたかった。だから、あなたを探して、何度も会おうとした。 だけど、あなた......絶対に会おうとしなかったじゃない。私がどれだけ探しても、避け続けた。
若子は慌てて自分の体を見下ろした。 服は―ちゃんと着ていた。乱れもなく、整っている。修の方も、ちゃんと服を着ていた。 「......昨日の夜、私に......何かあった?」 「倒れたからさ、ここで休ませたんだ。すごくぐっすり眠ってたよ」 修は、彼女が不安がらないように、穏やかに説明した。 若子は自分の服を見つめた。どこもおかしくない。きちんとしてる。 「この服......着替えさせたの、あなた?」 修の表情が一瞬止まる。昨夜、自分がしてしまいかけたことが脳裏に浮かび、胸がきしんだ。あの時のことを思い出すだけで、後悔と罪悪感に押しつぶされそうになる。 彼は若子の目をまっすぐに見られず、少し目をそらして答えた。 「......女の看護師に頼んだ」 若子はほっと息をついた。 やっぱり昨夜感じたあの感覚―誰かがキスしてきたような、全身が包まれたような、あれは......夢だったのかもしれない。 「......昨日の夜、ずっと一緒にいたの?」 「うん。お前の様子が心配だったから、ここにいた」 修の返事は短く、でもどこか優しかった。 若子は少し不思議そうな顔をした。何か聞こうとした瞬間、ふと思い出す。 「―そうだ、ヴィンセントさん!彼は無事なの?!」 「......一命は取り留めた。今はICUにいる」 その言葉を聞いた瞬間、若子は深く息を吐き、すぐにベッドから降りようとシーツをめくった。 「会いに行く。今すぐ」 彼女が部屋を出ようとすると、修もすぐに追いかけてきて、手を伸ばす。 「若子!」 彼女の腕を掴んだ。 振り向いた若子が問う。 「......なに?」 「今の状態じゃ、会えるわけない」 「外から見るだけでもいいの」 そのまま修の手を振りほどき、若子は病室を出ていった。 ICUに着いた若子は、硝子越しに千景の姿を見つけた。 彼はベッドに横たわり、身体中に医療機器が繋がれていた。心電図のモニターが、規則正しく音を立てている。 若子はそっと硝子に手を当て、ため息を漏らした。 「......ごめんね。私のせいで、こんなひどいケガをさせちゃって。ちゃんと治ってね......まだ、1万ドル返してないんだから......」 その呟きに反応したのか、後ろから修の声