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第933話

Author: 夜月 アヤメ
修は、うつろな意識の中で空に手を伸ばした。

人差し指が―あの幻の彼女と、触れ合った気がした。

見上げる蒼穹をじっと見つめながら、その瞳は疲れ果てながらもどこまでも優しかった。

その眼差しには、果てしない想いと探し求める心が込められていた。

「......若子」

ぽたり、と彼の手が地面に落ちた。

目を閉じ、そのまま意識を失う。

「藤沢さん!藤沢さん!」

慌てた数人がすぐに駆け寄り、倒れた修を抱き上げ、車へと運んでいった。

午後。

別荘は明るい陽光に包まれていた。

空は宝石のように澄んだ蒼で、白い雲が羽のようにゆっくりと舞っている。

周囲の緑豊かな木々と色とりどりの花が織りなす風景は、美しく香り高い。

だが、別荘の内部はまったく別の世界だった。

鋭くぶつかる音、物が叩きつけられる音が絶えず響き渡り、その空間に暴力的な不安が充満していた。

まるで、外の穏やかさとは真逆の―混沌と怒りの世界。

部屋の中では子どもがわんわん泣いていた。

慌てた使用人たちは、泣き声がリビングに届かぬよう、遠くの部屋へ連れて行くしかなかった。

彼らはこんな西也を見たことがなかった。

若子がいた頃の彼は、いつも穏やかで優しく、誰にでも微笑みを向けていた。

だが、今の彼は違う。

まるで怒りに支配された獣。

顔にはまだ傷跡が残り、その表情は荒れ果てていた。

目には凶暴な炎が宿り、眉間には険しい皺が刻まれ、唇はきつく結ばれている。

その怒気は空気を震わせるほど濃く、雷鳴のような苛立ちが周囲を飲み込んでいた。

その端正な顔立ちは、今や憤怒に歪み、まるで嵐に削られた岩のようだった。

「クソッ、藤沢......!絶対に許さない......!」

手にしたグラスの中で、赤いワインが揺れていた。

それはまるで、血のように―復讐と怒りに燃える色だった。

西也はワインを一口飲む。

その酸味が舌に広がる。

目の奥には危険な光が灯り、まるで狩りの前の獣―

残忍で、冷酷。

アルコールが怒りに火を注ぎ、彼はますます抑えがきかなくなる。

まるで檻に閉じ込められた猛獣のように、暴れ出す寸前だった。

イライラとした手つきで、シャツのボタンをいくつか外す。

露わになった胸は呼吸に合わせて
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