修は、大股で侑子の前へと歩み寄った。 「怪我はないか?」 侑子は涙をぼろぼろとこぼしながら、汗まみれの顔を拭う。 「......ううん、大丈夫。警察がすぐ来てくれたから......」 その言葉を聞いて、修は小さく息をつく。 とりあえず無事なら、それでいい。 彼は視線を横へ向けた。 警察に押さえつけられている男を見て、静かに尋ねる。 「こいつは誰だ?」 侑子は震える手で涙を拭いながら答えた。 「私の元カレ......ずっとつきまとわれてるの。何度も警察に通報したけど、すぐに釈放されて、また来るのよ......」 その言葉を聞いた瞬間、修は全てを理解した。 ―だから、彼女は警察に頼らなかったのか。 警察が捕まえても、大した罪にはならず、軽く注意されるだけでまた解放される。 そして、状況は悪化するばかり。 最初に侑子から電話を受けた時、「なぜ警察ではなく、自分に頼るのか」と疑問に思った。 一瞬、「わざとか?」とさえ考えた。 ―だが、違った。 侑子は本当に追い詰められていた。 修がここに来たのは、侑子に貸しを作るつもりはなく、ただ「借りを返す」ためだった。 ―しかし、今になって思う。 そんな考えを持ったこと自体が、間違いだったのではないかと。 震えながら涙を流す侑子を見て、修は確信した。 この男は、侑子に何かをしてきた。 一人の女性が、こういう執着質な男に狙われるというのは、どれほど恐ろしいことか。 時に、警察では解決できないこともある。 ならば、自分がここで手を打つしかない。 修は振り返り、警察官たちの前に立った。 「もう大丈夫だ。ここからは、俺が処理する」 幸い、通報した際に「すぐに連行せずに待機してくれ」と指示を出していたため、男はまだ拘束されている状態だった。 「藤沢さん、本当に連れて行かなくても?」 警察官の一人が尋ねる。 上からの特別な指示で動いているため、対応は慎重だった。 修は静かに首を振る。 「必要ない。これは個人的な問題だ」 「......わかりました。では、何かあればすぐに連絡を」 「そうする」 警察官たちは軽く会釈し、現場を後にする。 その瞬間― 男が突然、駆け出した。 しかし、修のボディガー
修の言葉は、明らかな脅しだった。 ―もし次に侑子をつけ回したら、足の一本くらい残ると思うなよ。 男は全身を震わせ、額から大粒の汗を流していた。 普段は威張り散らし、傲慢で周囲を見下していた男も、今目の前にいるのは「藤沢修」。 その事実だけで、恐怖に押しつぶされそうになり、今にも失禁しそうなほどだった。 男はすぐに態度を変え、必死に命乞いを始める。 「お、俺が悪かった!もう二度としません!藤沢さん、どうか許してください!この女も藤沢さんにやりますから!もう好きにしてください!」 ―バキッ! 次の瞬間、修の拳が男の顔面を捉えた。 男はその場に転がり、顔がみるみるうちに腫れ上がる。 「ぐっ......!いてぇ......!」 顔を押さえながらうめき声を上げる男を、修は冷たい目で見下ろしていた。 そして、何の躊躇もなく、無言のまま男の胸を踏みつける。 「がっ......!」 その瞬間、男の内臓が圧迫され、苦しそうに喘ぎ始めた。 必死に修の足を掴み、息も絶え絶えに懇願する。 「か......勘弁してくれ......!彼女は、お前のもんでいい......だから......!」 修の足元に込められた力は、どんどん強くなっていく。 地面に転がる男は、今にも血を吐きそうなほどだった。耐えきれるはずがない。 だが、修の胸に渦巻く怒りと鬱屈した感情は、それでもまだ発散しきれない。 ちょうどいい。目の前の男は、剣の峰に足を踏み外すように彼の怒りの餌食となったのだから。 「もう一回言ってみろよ......このクソ野郎が」 次に言葉を吐いたら、その口を引き裂いてやる―そんな殺気が修の目に宿る。 男は愚かだが、完全にバカではない。 自分の発言が修を怒らせたことに気づくと、すぐに命乞いを始めた。 「す、すみません、藤沢さん!俺が悪かった!どうかお許しを!もう二度と言いません!俺の口が悪かった、全部俺のせいです!」 自らの頬を何度も何度も叩きながら、必死に謝罪する男。 そのとき、侑子が修のそばへ歩み寄り、静かに声をかけた。 「藤沢さん、彼ももう十分に懲りったと思うよ。ここで解放してあげたらどう?このままじゃ大変なことになるかもしれない。もし何かあったら、藤沢さんも面倒なことに巻き込まれるか
「泣くな」 修は歩み寄り、ポケットから取り出した清潔なハンカチを侑子に差し出した。 「そんな男のために涙を流す価値はない」 侑子はハンカチを受け取った。かすかに清潔な香りがして、心地よい匂いがした。 彼女はそれを涙で汚したくなくて、ただ手のひらに握りしめる。 「藤沢さん......私、あの人のために泣いてるんじゃないの。ただ、すごく嬉しくて......今日、助けに来てくれて、本当にありがとう。電話した後、自分でもすごく動揺して、どうすればいいかわからなかった。ごめん、迷惑かけちゃった」 「謝る必要はない」修は静かに言う。「むしろ俺のほうこそ悪かった。最初、お前がなんで警察を呼ばなかったのか、わからなくて......わざとだとでも思った。怒ってたんだ、悪かったな」 彼の言葉は優しげだったが、侑子の胸にはチクリと刺さった。 ―最初に思ったことが、それだったんだ。 この人は、どうしてこんなに冷たいんだろう。 侑子の肩が震える。彼女の表情は、深い悲しみに染まっていた。 修は小さく息をついた。 「泣くな。こんなことで泣く意味はない」 彼女が泣いているのを見て、少しだけ苛立ちを覚えた。 その空気を察したのか、侑子はすぐに涙を拭った。 「......うん、もう泣かない。ごめん」 「だから、謝るな。こっちがうんざりするんだけど」 少し苛立ちが混じった声に、侑子は驚き、修を見上げた。 修は、少し言いすぎたことに気づき、トーンを落とす。 「......悪い。別に怒ってるわけじゃない。ただ、最近色々あってな」 そう言ってから、修はふと気づく。 ―ああ、そうか。 彼はかつて何度も若子に謝った。 そのとき、彼女はどんな気持ちだったのだろう。 もしかして、彼女もこんなふうに、謝られることに疲れていたんだろうか。 侑子は小さく微笑んだ。 「気にしないで......最近、大丈夫?」 「別に」修は淡々と答えた。「毎日をただ過ごしてるだけだ」 侑子は苦笑し、わずかに唇を引き結ぶ。 修は携帯を取り出し、時間を確認すると、すぐに立ち上がった。 「遅くなった。そろそろ帰る」 「えっ、もう?」侑子は思わず追いかけた。 修は振り向き、冷静な声で言う。 「何か?」 「いや....
物音を聞きつけ、修はすぐさま振り返った。 そこには、床に倒れ込み、胸を押さえながら苦しそうに息をする侑子の姿があった。 「おい!」 彼は顔色を変え、すぐに駆け寄ると彼女を抱き起こした。 「どうした?」 「......息が......できない......」 侑子の胸は大きく上下し、顔は真っ青だった。 修は迷うことなく、彼女のシャツの胸元のボタンを数個外し、呼吸を楽にさせると、そのまま抱きかかえて部屋を飛び出した― 数時間後。 深夜の静寂の中、侑子はゆっくりと目を覚ました。 目を開けると、すぐそばに修がいることに気づき、ふっと安堵の息を漏らす。 「目が覚めたか」 修はじっと彼女を見つめた。 「気分はどうだ?」 侑子は外の夜空を見上げ、時間の感覚がなくなっていることに気づく。 「藤沢さん......今、何時?」 修は手首の時計を確認した。 「午前四時三十八分」 「そんなに......」 侑子はベッドから身を起こそうとする。 修はすぐに手を伸ばし、彼女の肩を支え、布団を整えて、枕を背中にあてがった。 「こんな時間まで、ずっとここにいたの?」 「お前を病院に運んだ後、目を覚ますまで待ってただけだ」 修の視線が鋭くなる。 「それより、なんで心臓の持病があることを俺に言わなかった?」 その言葉に、侑子は一瞬戸惑い、申し訳なさそうに視線を落とした。 ―謝らなきゃ。 でも、さっき彼が「謝るな」と言っていたことを思い出し、喉元まで出かかった「ごめん」を飲み込む。 「......自分の病気のことを、そんなにあちこち言うものじゃないし......まさか発作が起こるなんて、思ってなかった」 侑子は小さく笑い、静かに言った。 「迷惑かけて、ごめん......じゃなくて、ありがとう。病院まで運んでくれて」 修は短く「気にするな」とだけ答える。 ―通りすがりの人間でも、助けることはある。 そういうことだ。 「お前、一人で大丈夫か?家族は?誰か看病できるやつがいるなら、連絡しておく」 「......家族とは、ずっと連絡を取ってないの」 そう言って、侑子は修をまっすぐ見つめた。 「藤沢さん、こんな時間まで本当にありがとう。でも、もう大丈夫だから、帰って休ん
侑子はまだ拒否しようとした。 けれど、修の冷たい視線を見た瞬間、なぜか言葉を飲み込んでしまう。 何も言わせないように、修は先に口を開いた。 「決まりだ」 これでも十分譲歩した。 ならば、あとは折衷案で収めるしかない。 侑子も、それ以上は言い返せなかった。 小さく頷き、「......わかった。ありがとう」と静かに答える。 「もし藤沢さんが何か困ったことがあったら、私も......」 そう言いかけたところで、ふっと自嘲気味に笑ってしまう。 「......なんてね。私にできることなんて、何もないのに」 修は淡々とした表情のまま、静かに言う。 「そんなことはない。とにかく、まだ夜が明けてない。もう少し休め」 侑子の胸に、また申し訳なさが込み上げる。 「こんなに長い時間、付き合わせてしまって......本当にごめんね。疲れたでしょう?」 修は気にも留めず、あっさりと答えた。 「別に。そんなに疲れてない」 実際、今夜ここにいなかったとしても、家のベッドで寝付けるわけではなかった。 どうせ眠れずに、結局は睡眠薬を口にするだけだ。 むしろ今は、まったく眠気を感じていない。 「それでも、ちゃんと寝ないと」 侑子は小さく微笑んで言った。 「少しでも寝たほうがいいよ」 「おまえこそ、もっと寝ておけ」 そう言い残し、修は立ち上がった。 「じゃあ、俺はそろそろ行く」 彼は十分やるべきことを果たしたと思っていた。 病院へ連れてきて、目を覚ますまで待った。 それ以上、付き添う義理はない。 そもそも、そんな気もない。 修が背を向けた瞬間、侑子は思わず声をかけてしまう。 「藤沢さん......また会える?」 ―このまま、もう二度と会えなくなるんじゃないか。 そんな不安が、ふと胸をよぎる。 電話番号は知っている。 でも、彼に何か理由もなく連絡を取ることなんてできない。 迷惑に思われるだけだ。 修は足を止める。 数秒の沈黙の後、ゆっくりと振り返った。 「医者が数日間の入院が必要だと言っていた。時間があれば、様子を見に来る」 ―じゃあ、時間がなかったら? そう聞きたかったけれど、侑子は飲み込んだ。 「......うん、わかった」 彼が去
矢野は静かにコップに水を注ぎ、それをデスクの上に置いた。 「藤沢総裁」 修は視線を上げる。 「今日、一日中何も食べていませんし、水分も取っていません。少しでも飲んでください」 矢野はコーヒーではなく、水を差し出した。 もう夜も遅い。カフェインを摂れば、ますます眠れなくなるだろうと考えたのだ。 修は時計をちらりと見やる。 「......おまえ、まだ帰ってなかったのか」 「総裁が帰らないのに、僕だけ帰るわけにはいきません」 「気にしなくていい。もう上がれ」 「はい......そういえば」 矢野はふと思い出し、口を開いた。 「先ほど、総裁のお母様からお電話がありました。最近のご様子について尋ねられました」 修の眉がわずかに寄る。 「......それで、おまえはなんと?」 「『特に問題はない』とだけお伝えしました」 「......そうか。もしまた聞かれたら、同じように答えればいい。余計なことは言うな」 「わかりました」 修は上着を手に取り、オフィスを後にした。 車を走らせながら、彼はふと気づく。 ―どこへ行けばいいんだ? 家に帰ったところで、何の意味がある? 空っぽのベッド。何もない部屋。 ただ広いだけの空間に、自分一人が取り残されるだけだ。 窓の外には、煌びやかな街の景色が流れていく。 こんなにも広い街なのに、自分が落ち着ける場所は、どこにもない。 そんなことを考えているうちに、いつの間にか病院の前に辿り着いていた。 ―ここは、侑子が入院している病院だ。 無意識のうちに、車を走らせてしまったのか。 侑子の仕草、言葉の節々、ふとした表情― 若子に、似ている。 もちろん、彼女は若子ではない。 それは、わかっている。 でも、こうしてここに来てしまったのは― ......きっと、若子を思い出してしまったからだろう。 まあいい。どうせ来たのなら、ついでに様子を見ていくか。 病室に入ると、ちょうど侑子が夕食を終えたところだった。 修の姿を見つけると、侑子の顔がぱっと明るくなる。 「藤沢さん、来てくれたんだね!」 彼女はもう会えないかもしれないと思っていた。 でも、こうして来てくれた。 彼の「時間があれば来る」という言葉は、
「......まあな」 修は淡々と返した。 彼はもうとっくに慣れていた。 こんな大きな会社を管理していて、プレッシャーがないわけがない。 人間である以上、ミスをすることもあるし、疲れることもある。 けれど― 昔はこんな疲労を感じたことはなかった。 若子がそばにいた頃は、どれだけ忙しくても、どれだけ疲れていても、家に帰れば彼女がいた。 その存在だけで、すべてが癒された。 でも今は違う。 家に帰っても、そこには誰もいない。 どれだけ働いても、何も変わらない。 ......もう、心の疲れのほうが、体の疲れよりも重くなってしまった。 「藤沢さんは責任感が強い人なんだろうけど、無理しすぎるのも良くないよ」 侑子が静かに言う。 「ちゃんと休まないと、身体を壊しちゃう」 「わかってる」 修は短く答えた。 ベッドの上で、侑子が少し体を動かし、僅かに顔をしかめる。 「......どうした?」 「ずっと寝てたから、体がちょっと固まってるんだよね。外に出て歩けたら、少しは楽になるのにな」 修は軽く頷いた。 「じゃあ、介護の人を呼んで付き添ってもらえ」 「いや、大丈夫」 侑子は手を振った。 「もう帰らせたよ。明日の朝まで来ないし、たまにプライベートの時間も必要でしょ」 「そうか」 修は少し考え、静かに言った。 「なら、俺が付き添う。少し外を歩くか?」 「......本当に?」 侑子の目が、ぱっと輝いた。 「冗談を言うタイプに見えるか?」 「見えない!」 彼女は嬉しそうに笑う。 ―一緒に散歩なんて、願ってもない機会だ。 「ちょっと待ってて、車椅子を取ってくる」 修が病室を出ようとした瞬間、侑子が慌てて言った。 「いや、車椅子は要らないよ。私は足に問題があるわけじゃないし、自分で歩くほうが体にもいいって、医者も言ってた」 修は一瞬迷うような表情を見せる。 「......本当に大丈夫か?」 侑子は布団をめくってベッドから立ち上がると、その場で何歩か歩いて見せた。 「ほら、平気。むしろ少し動いたほうが調子いいくらい」 「わかった」 修は軽く頷くと、ふと病室の温度を確かめるように視線を向けた。 「......上着を持て。外は少
心から愛した女。修の言葉に、侑子の心臓が大きく跳ねた。 ―愛している?彼は、まだ元妻のことを? だって、離婚したんじゃなかったの? 戸惑いの色を浮かべる侑子に、修は静かに続ける。 「......俺は、今も彼女を愛してる」 「......じゃあ、なんで離婚したの?」 「俺がクズでバカだったからだ」 修は、まるで自分を嘲笑うように薄く笑う。 「手に入れていたときは、大切にできなかった。失ってから、どれだけ大事だったのか気づいた」 彼の表情には、深い後悔と痛みが滲んでいた。 ―この人、本当にその人のことを愛してるんだ。 侑子にも、それが痛いほど伝わってくる。 「......じゃあ、取り戻そうとした?」 「何度も試した」 修は淡々と答える。 「何度も、何度もな」 「......それで?」 「それで......」 修はふっと短く笑う。 「彼女は、もう別の男と結婚した」 ―その瞬間。 侑子の心に、密かに小さな安堵が生まれた。 元妻は、もう他の人と一緒にいる。 つまり、もう彼のもとには戻らない。 「じゃあ、今は......」 「今も、俺は彼女を愛してる」 修は静かに夜空を見上げる。 「もし、彼女が戻ってきてくれるなら、俺は何だってする。どんなことだって......でも、もう無理なんだ。彼女は、俺を愛していない」 ―ズキン。 安堵したはずなのに、侑子の心はなぜか痛んだ。 ―彼は、今でも彼女だけを想っている。 「......時間が経てば、少しずつ忘れられるよ」 彼を慰めようと、そう言葉をかけた。 しかし、修は微かにかぶりを振る。 「それはない」 その声は、乾いていて、どこかかすれていた。 「お前には、わからない」 ―その言葉に、侑子の胸が締めつけられる。 「......わからない、か」 そりゃそうだ。 彼の想いの深さなんて、自分に理解できるはずがない。 でも、それをこんなに冷たく突き放さなくてもいいじゃない。 「......俺は、彼女以外の女を愛することはない」 修はポケットに手を突っ込んだまま、冷たい風に目を閉じる。 「一生、若子だけを愛する」 侑子は、わずかに眉をひそめた。 ―どうして、こんな話をす
「正直......ね」 修はその言葉に、自嘲するような笑みを浮かべた。 「俺は、お前が思ってるほど正直じゃない。昔......妻に嘘をついたことがある。別の女と会うために、『出張だ』なんて言って......それでも、まだ俺は『いい男』か?」 侑子は、かぶりを振った。 「修......それでも、私は信じてる。きっと事情があったんだよ。男には男の都合があるもん」 「侑子、お前......俺を美化しすぎてる。事情なんて関係ない。ただのクズだったんだ、俺は」 「違う。私にとって、修はいつだって『正しい人』なの。たとえ浮気しても、別の女のところに行っても、それはきっと理由がある。私は、どんなときでもあんたを許す。だって私は、あんたの物語のヒロインになりたいから。 ......どんなに卑怯でも、どんなに残酷でも、私は修を肯定する。修が望むなら、私は『都合のいい女』でいられる」 ―男が他の女と関係を持つのは、よくある話。 修ほどの男ならなおさら。金もあって、見た目もよくて、若い。女が群がってくるのは当然。 だからきっと、悪いのはあの女だ。 修が離婚したのは、あの女のせい。彼女がちゃんとしていなかったから。忠実に、女らしくしていなかったから。 いや、それどころか、彼女は最初から不誠実だった。遠藤とくっついて、子どもまで作っておいて、また修を誘惑するなんて― 最低。 そんな女に、修を取られてたまるか。 ふざけないでよ。 そんな節操のない女が、修に相応しいわけないでしょ。 あの女、汚れてる。 男に非なんかない。悪いのは、いつだって女。 男が女を傷つける?それも当然。なのに戻ってきてやるなら、それは女に「恩赦」を与えるようなもんよ。 なのに、拒むなんて......バカじゃないの? 修には、侑子の様子がどこかおかしく見えた。 こんな支離滅裂なことを口にするなんて―正直、理性を失ってるとしか思えなかった。 ......そんなこと、本気で思ってるのか? 彼女は本当に俺のことを「愛してる」からこうなってるのか? それとも、ただ感情に呑まれてるだけなのか。 修は手を伸ばして、侑子の額にそっと触れた。 熱はなかった。体温は平常通り。 たぶん― それだけ、彼女は傷ついて、絶望して、心が限
「ごめん......全部俺が悪かった。こんなふうに泣かせて、本当に......」 修はそう言って、侑子を見つめた。けれど、侑子は首を横に振る。 「病院なんて、もういいの。行きたくないの......今は......ただ、修にそばにいてほしいだけ。 修......お願い......私を抱きしめて。ずっと待ってたの、修が帰ってくるのを......毎日毎日......でも、来なくて......ずっと怖かった......」 ぽろぽろと涙をこぼしながら、侑子は息も絶え絶えに言葉を紡ぐ。 修は胸が締め付けられる思いで、そっと彼女を引き寄せた。そしてベッドに横たわり、彼女の頭を胸元に抱き寄せた。 「ごめんな、侑子......」 その声には深い後悔がにじんでいた。 彼の体からは、強いアルコールの匂いがした。かなり酒を飲んでいたらしい。 「ねえ、修......さっき心臓が痛くて、薬を飲もうとしたんだけど......飲みたくなくて、もう......このまま死んじゃってもいいかなって......そう思っちゃったの......」 「そんなこと、二度と言うな......!」 修はすぐに言葉を返した。 「そんなふうに思うなんて......それは俺の心を抉るようなもんだ。絶対に生きてほしい。お前の手術のために、ちゃんと適合する心臓を探してみせるから。そしたら、健康になれる」 「......修」 侑子はまた涙をこぼしながら、彼を見つめた。 「私も、生きたいよ......ちゃんと。だから......薬、飲んだの。死んだら、修が悲しむから。迷惑かけたくないから......私は、修を愛してるから。だから......負担にはなりたくないの。 修......安心して。私は、ずっと修の味方だから。何があっても、私の中で一番大事なのは、いつだって修だよ......」 修は深く息を吐いた。 「......侑子、俺はお前にどうしたらいい? たとえば......もし、俺が一生、お前を愛せなかったら?」 「それでもいいの」 侑子は微笑みながら言った。 「私が愛してる。それだけで十分だよ。いらないって言っても、私は愛を少しずつ分けるから。修が苦しいとき、そばにいてあげるだけでいい。それが私の幸せなの」 「私、修のこと、大好き....
―だめだ、絶対に死んじゃいけない。 震える手で薬をかき集めた侑子は、床に落ちた錠剤をそのまま手に取り、汚れなんて気にもせず、口の中に放り込んだ。ごくん、と無理やり飲み下す。 少しずつ、薬が効いてきた。 呼吸が落ち着き、心臓の痛みも引いていく。ベッドに戻った彼女は、天井をぼんやりと見つめながら呟いた。 「私は、絶対に死なない......何があっても生きてやる。修......私は、生きてあんたを手に入れるの。あの女なんかに渡してたまるもんか。 夫もいて、子どももいるのに、まだ修を誘惑するなんて......あの女、ほんとに最低。 修を危険に晒して、さらにまた奪おうとするなんて、どこまで浅ましいのよ。 どうせ母親も同じような女だったんでしょ。ろくでもない母親に育てられて、男と乱れて......下品でだらしない血を引いてるんだわ」 そのとき― 廊下から声が聞こえた。 「藤沢様、お帰りなさいませ」 侑子の目がパッと見開かれた。足音が、こちらへ近づいてくる。 彼女はすぐに反応した。肩紐をぐいと引きちぎるように外し、白く滑らかな肩と谷間を露わにする。 乱れた服のままベッドに横たわり、まるで酷く傷ついた花のように、儚く、美しく、哀しさを帯びた姿を演出する。 修が部屋に入ってきたとき、目に飛び込んできたのは、床一面に転がった薬、そしてベッドに横たわる侑子の姿だった。 「......!」 修の顔が一気に青ざめた。 彼はすぐにベッドへ駆け寄り、侑子を力強く抱きしめる。必死に肩を揺らしながら、名前を呼びかけた。 「侑子!おい、しっかりしてくれ! 侑子っ!」 その目には、深い不安と焦りが浮かんでいた。今すぐ病院に運ばなければ、と口を開きかけたそのとき― 侑子がゆっくりと目を開けた。 「修......やっと、帰ってきてくれたのね。待ってたのよ、どれだけ待ったか......」 彼女のその姿は、まるで何年も帰ってこなかった恋人を待ち続けた人のようだった。 「......ああ、帰ってきたよ、侑子。ごめん、どうしたんだ?具合、悪いのか?」 修の視線が薬へと移った。これはまさか― 「薬、ちゃんと飲んだか?」 「うん......飲んだよ。でも、手が滑って、薬を落としちゃって......全部撒いちゃった
夜の闇が別荘を包み込み、部屋の中には重く沈んだ空気が漂っていた。 侑子はベッドの上で身体を丸め、震えていた。涙は糸の切れた真珠のように頬をつたって流れ、すすり泣きの声が部屋の隅々まで響きわたる。空気さえも、彼女の悲しみに染まっていくかのようだった。 その顔は、かつての輝きを完全に失っていた。まるで枯れかけた花のように、白く、弱々しく、力を失っている。赤く腫れた目元は、血に染まった宝石のように痛々しく、深い怒りと絶望を滲ませていた。 乱れた黒髪が頬の両側にかかり、生気をなくした滝のように見えた。 「なんで......修、なんでまだ帰ってこないの......? 私が代わりでもいい......せめて、少しでも優しくしてくれたら......それだけでよかったのに...... 松本さんに会って、それで戻ってこなくなったの......?まさか......彼女と......?」 心の奥で燃え上がる怒りが、侑子の顔を歪ませる。 裏切られた痛み。置いていかれた悲しみ。それらが一気に押し寄せてきて、彼女の心を粉々に打ち砕いていく。 胸に湧き上がる憎しみは、もうどうしようもなかった。 「なんで......なんで彼女なのよ......あの女、もう別の男と結婚して、子どもまで産んでるのに! 修......そんな女のどこがいいの!?あんな体、汚れてるだけじゃない!」 彼女の痛みと怒りは、やがて真っ黒な闇となり、侑子をその中心へと引きずり込んでいく。 部屋の中の空気はまるで墓場のように重く、息をすることさえ苦しくなる。 「なんでよ......どうして私を選ばなかったの......なんで私が、あんたみたいな男を、好きになっちゃったのよ」 愛してる男の心に、浮かんでいるのはただ一人―松本若子。 その名を思い浮かべるたび、胸が引き裂かれるように痛んだ。 今の彼女の目には、修は裏切り者でしかなく、彼女の心を何度も何度も殺す「加害者」だった。 そして、若子は......下劣で、汚らわしくて、恥を知らない女。 そんな思いに囚われて、彼女の心はもう、まともでいられなかった。 過去にも何度か恋はしてきた。彼氏だっていた。 けれど、どれもこんなふうに心をかき乱されるような恋じゃなかった。 ―今までの恋なんて、全部偽物だったんだ
若子はその場を追いかけたくてたまらなかった。けれど、足はまるで鉛を詰められたように重くて、動くことができなかった。 ―ダメだ。私はもう、修を追いかけちゃいけない。 彼との関係は、もう終わったんだから。 彼には山田さんがいる。もう自分とは終わっている。だったら、いっそ嫌われて、憎まれたままでもいい。 その方が、きっと彼のためになる。 そんな思いで立ち尽くしていた若子の背後から、ふわりと誰かが彼女を抱きしめた。 「若子......信じてくれてありがとう。俺を信じてくれて、本当に......ありがとう」 西也の声だった。 最終的に、若子は彼の言葉を選んだ。それだけで彼の中に、確かな勝利の実感が湧いてきた。 その口元には、ふっと得意げな笑みが浮かんでいた。 ―藤沢、お前は俺に勝てない。 俺は若子を傷つけたりしなかった。ずっと彼女のそばにいて、支えてきたんだ。暗闇の中で手を差し伸べてきたのは、この俺だ。 それに比べて、お前はずっと彼女を泣かせてきたじゃないか。 だが― 若子はその腕を、ギュッと掴んで無理やりほどいた。 「西也......本当に......本当にボディーガードを連れて、銃まで持って修のところに行ったの?本当に......傷つけるつもりだったの?正直に話して」 さっき、修にあんなふうに言ったのも、完全に信じてなかったわけじゃない。 もう修を信じるか信じないかは、正直どうでもよくなっていた。彼には侑子がいて、子どもまでいる。今さら自分が何を言ったところで、どうにもならない。 西也の呼吸が乱れた。肩がわずかに震え、若子の肩を強く掴む。 「若子、俺のこと信じてないのか?......まさか、あいつの方を信じてるのか?」 さっきまで自分を選んでくれたと思っていたのに、まるで手のひらを返されたような気がして、胸の奥がずきりと痛んだ。 「西也......お願いだから、本当のことを言って。本当に銃を持って行ったの?」 二人のうち、どちらかが嘘をついている。でも、どっちなのか、若子にはもうわからなかった。考えれば考えるほど、混乱するだけだった。 「......銃は、持って行った。けど、それは俺のボディーガードが持ってたやつで、護身用なんだ。アメリカじゃ銃の携帯は普通だし、もし危険な目に遭った
若子はしばらく黙って考え込んだ。そして、ゆっくり顔を上げて修を見つめた。 「でも......あのとき、あなたは本気で西也が死ねばいいって思ってた。私に、西也の心臓を桜井さんにあげるようにって、同意を求めたよね」 西也の口元がぐいっと吊り上がる。得意げな笑みを浮かべて、ほっと息をついた。 ―若子は俺のことを信じてくれたんだ。 藤沢修、お前なんかに勝ち目あると思った? 前には桜井雅子、今度は山田侑子。お前がこれまでやってきたこと、どれを取っても正当化できないし、言い逃れもできない。 その一方で、俺は若子にとっての理想の男だ。お前が俺に勝てる要素、どこにある? 若子の言葉は、修の胸を鋭く突き刺した。 「若子......それは......昔のことだ。もう何年も前の話だよ。それと今は別だ。あれはあれ、これはこれなんだ」 「でも、あなたは確かにそうした。確かに―あのとき、あなたは西也に死んでほしいと思ってた。これは事実でしょ?」 修は口をつぐむ。否定できるはずもなかった。あの頃、西也のことを心の底から憎んでいた。そして、雅子が心臓移植を必要としていたタイミングで、西也が倒れた。 これは「チャンス」だと思ってしまった。雅子を助けるには、西也の心臓を......その考えが頭をよぎったことを、否定なんてできない。 ―自分の中の醜い部分。もし誰もがそれを晒されたら、きっと誰も「人間らしく」なんて言えなくなる。 「若子......あれは、あのときの話だ。彼の命が消えかけてたから、俺は......ああ言った。けど、俺は手を下してない。殺してもないし、傷つけてもない。常識的に、そうするのが正しいと思っただけなんだ」 「常識、ね......」 若子はその言葉を聞いて、吐き気がしそうになった。 「修......あなたにとって、西也の治療を諦めることが『常識』なの? だったらもう、これ以上言わなくていいよ。きっと、あなたの心のどこかが後ろめたかったんでしょ?だから西也があなたの元を訪ねてきたとき、勝手に『殺しに来た』って思ったんじゃない?」 「......」 修はふらりと数歩、後ろに下がった。 何もかもが空っぽになったようだった。胸の中から、心臓ごと引き抜かれたかのように。 若子からの言葉。何度も、何度も突き刺さっ
若子のその言葉は、どちらにも肩入れしない「中立」なものだった。 誰が正しいのか、彼女にはわからなかった。だって、その場にいなかったから。修の言い分も、西也の言い分も、どちらも聞いてみれば筋が通っているように思える。 ただ、どちらも誤解していただけだったら―そう願わずにはいられなかった。 西也は修のことを誤解していて、修も西也の護衛が武器を持っていたことで、逆に西也を疑った。ふたりの関係はもともと悪くて、敵意に満ちていた。だから、極端な判断をしてしまったとしても不思議じゃない。 「こいつは本当にやったんだ。侑子まで捕まえて、あと少しで殺されるところだったんだぞ」 修の声には怒りと悔しさが滲んでいた。 だけど、若子の中でその言葉は、ただの「誤解」に聞こえてしまった。 彼女にとっては、現場にいなかった以上、どちらかを一方的に信じることはできなかった。 それでも―自分の命をかけてくれた修の言葉を、疑ってしまっている自分に、彼はきっと傷ついている。 離婚してしまった今、彼女はもう修の味方ではない。 かつてなら、迷わず彼を信じていたはずなのに。 「濡れ衣だ!」西也が激しく声を上げた。「若子、こいつの言うこと信じるな!こいつは嘘をついてる!それに、もし俺が本当に殺すつもりだったら、こいつなんて今こうして立ってられないだろ?あの時、屋敷に彼は一人だった。俺が殺そうと思えば、簡単にできた。でも、やらなかった!」 「それは、お前が油断してたからだ。俺が隙を見て銃を奪い返して、逆転したから助かっただけだ。あのままじゃ、俺も侑子も、確実に殺されてた。お前が死体を処理してしまえば、誰にもバレなかったはずだ」 「お前、よくもそんなでたらめ言いやがって!」 西也は怒りを抑えきれず、若子に向き直った。「若子、お願いだ、信じてくれ。俺がどんな人間か、お前ならわかってるだろ?こいつこそ、俺を殺そうとした張本人だ!」 「お前、忘れたのか?前に俺が事故に遭った時、こいつも含めて全員が、お前に俺の臓器を提供しろって迫ったんだぞ?こいつなんて、俺に早く死ねって言ってたようなもんじゃないか!」 西也は、思い出という武器で切り込んできた。 彼の言葉は、若子の心に鋭く突き刺さる。 あの時―病院で、全員が彼女に迫っていた。西也の命を見捨てて、誰か
修の声は驚くほど冷静だった。西也のように感情をむき出しにすることもなく、彼の言葉には一分の隙もなかった。 どこか、堂々として見えた。 その落ち着いた姿を見て、若子はふと、疲れを覚えた。 修と西也の喧嘩なんて、これが初めてじゃない。もう何度もあった。前なんて、レストランで暴れて警察沙汰になったことすらある。 どちらの肩を持とうと、結局ふたりの間の確執は終わらない。今回の乱闘だって、どうせこれが最後にはならない。 「修、西也、あなたたちもう大人でしょ?自分の行動には自分で責任持ちなよ」 若子の声には、明らかに苛立ちが混じっていた。 「また喧嘩して、これで何回目?私はもう知らない。どっちが先に手を出したとか、正直もうどうでもいい。やりたきゃ好きに殴り合えば?先に殴った方が、もう一発食らう。それでチャラにしなよ。私はあなたたちの母親じゃないの。毎回毎回、警察に駆けつけて後始末して......そんなの、もうごめんだから!」 西也は口を開けかけたが、若子の鋭い一言でぐっと黙り込んだ。 なにか言いたそうな顔をしていたけれど、その勢いはすっかり削がれてしまった。 彼の視線は自然と修に向き、そこに溜まった怒りの矛先をぶつけるように、じろりとにらみつけた。 ―でも、今回、若子は西也をかばわなかった。 修はそれを見逃さなかった。彼にとっては、これが逃せないチャンスだった。 「若子」 修が一歩前に出て、静かに言った。 「なんで俺の話は聞かない?どうして俺が西也を殴ったのか、その理由を考えてくれたことある?」 「藤沢、また話を捏造するつもりか?」 西也がすかさず口を挟んだ。 「捏造?お前、ビビってるのか?若子に話されるのが、そんなに怖いか?」 修は口元だけで笑って、続けた。 「お前、若子には言わないつもりだったんだろ?......あの夜、お前がどんな風に俺の家に乗り込んできたか。銃を持った連中を引き連れて、俺のこめかみに銃口突きつけたよな」 「な―」 若子が目を見開いた。 「西也......それ、本当なの?」 西也は眉をひそめて、必死に否定する。 「若子、違う!誤解だ、そんなことするわけない。確かに何人か連れて行ったけど、それは俺のボディーガードだよ。あくまで護衛で、武力を使うつもりなんてなか
修にとって、若子が西也を責める姿を見るのは、これが初めてだった。 彼は腕を組みながら二人を見つめ、目の奥に一瞬だけ安堵の色を浮かべた。 ―もしこれが昔だったら、若子は絶対に真っ先に西也をかばってた。 でも、今は違う。彼女は西也を守らなかった。 それだけで、少しだけ救われた気がした。 だけど同時に、不安の方が大きかった。 若子が西也をかばわなかったのは、ヴィンセントの存在があったからだ。 11年も一緒に過ごしてきた自分との関係すら壊して、西也をかばった若子が―たった数日で、ヴィンセントのために西也すら突き放すようになった。 それが、何より恐ろしかった。 ヴィンセントはまるで強引に入り込んでくる侵略者のように、既存の人間関係を簡単に壊してしまう。 「若子、お前......俺のこと、責めてるのか?」 西也の声は震え、目を見開いて彼女を見た。 「責めてるかって?ええ、そうよ。責めてるわ」 若子は疲れた表情で言った。ほんとは、こんなこと言いたくなかった。 でも、どうしても感情を抑えきれなかった。 物事がここまでぐちゃぐちゃになって、それでも「全部お前のためだ」なんて顔して、どんどん余計なことをして、混乱ばかりで、結局一番迷惑を被るのは若子だった。 「若子、あのときはお前が危ないって思って......電話で問い詰めるわけにはいかないだろ?もしそばに誰かいたらって思ったら......だから俺は、こっそり探しに行っただけで......俺だって、お前が心配だったんだ。理解してくれよ......それに、お前が夜に出かけたとき、俺には行き先がわからなかった。考えられるのは藤沢だけだった。そして実際、お前は彼に会ってた。お前の失踪は直接彼のせいじゃないかもしれないけど、彼と会ってなければ、そんなことにはならなかったんだ!」 「あなたが心配してくれてたのはわかってる。でも、自分のミスを正当化しないでよ!」 若子の声が一段と強くなった。 「西也......あなたといると、ほんと疲れる」 「......っ」 その一言が、西也の胸に深く突き刺さった。 「ミス」とか「疲れる」なんて―若子の口から、そんな言葉が自分に向けて出てくるなんて、思ってもいなかった。 彼は信じられないような表情で、ただ彼女を見つめるしか