「本当かい?それなら、すぐに電話しておくれ」 華は嬉しそうに言った。 しかし、光莉は眉をひそめ、すぐに口を挟む。 「修、今すぐ若子に電話するつもり?今は忙しいかもしれないわ」 まるで、修が若子に電話をかけたら、この世の終わりでも来るかのような顔をしている。 修は何も言わず、そっと華の手を離すと、ポケットからスマホを取り出した。 そして、皆の前から離れ、別荘の玄関へ向かう。 光莉は慌てて追いかけた。 修はすでに連絡先を探していた。 「......本当に若子に電話するの?」 彼女は息を呑む。 ここまできて、もし修が突然連絡を取れば、すべてが水の泡になる。 過去と同じ繰り返し、終わりのない泥沼へ逆戻りするだけ。 「俺が若子に連絡するの、そんなに怖い?」 修の声には、どこか棘があった。 「違うの。そんなつもりじゃないわ、ただ......」光莉は言葉を選びながら続ける。「ただ、あんたがまた傷つくんじゃないかって、それが心配なだけよ」 「心配無用だ」 修は冷たく言い放つ。 「傷つこうがどうしようが、それは俺の問題だ。俺はもう子供じゃないんだから、母さんに守ってもらう必要はない」 光莉は申し訳なさそうに俯く。 「......修、ただ、またあの関係に戻ってしまうのが怖いのよ」 その言葉に、修の中で怒りがふつふつと湧き上がった。 だが、それを抑え込むように、無言のまま電話をかけ、スマホを耳に当てた。 光莉は息を詰まらせる。 彼が何を話すつもりなのか、気が気でなかった。 奪い取ってでも止めたい―でも、それはさすがにやりすぎだ。 もし彼と若子がまた関われば、修、若子、そして西也の関係はますますこじれる。 その混乱は、以前よりも酷いものになるだろう。 そんな不安の中、電話が繋がり、修が口を開いた。 「......もしもし、山田さんか」 「......!」 光莉は驚いて顔を上げる。 ―「山田さん」? 「ちょっと頼みがあるんだ」 相手の返事を聞き、修は続ける。 「俺のおばあさんが、元妻に会いたがってる。でも、彼女は今ここにいない。お前は少し似ているから、代わりに会いに来てくれないか?」 数秒の沈黙の後、修は言った。 「じゃあ、車を手配する。今どこに
侑子が部屋に入ると、全員の視線が彼女に集中した。 光莉は、その顔を見た瞬間、目を見開いた。 ―似てる...... 曜もまた、驚きを隠せない様子だった。 だが、彼らは分かっている。この女性はあくまで「似ている」だけで、若子本人ではないことを。 華はソファに座ったまま、うとうとしていた。 修が彼女に近づき、そっと身を屈める。 「おばあさん、若子が来ましたよ」 その言葉を聞いた途端、華はぱっと目を開いた。 視線を向けると、そこには見覚えのある顔。 しばらくの間、呆然と見つめる。 けれど、何か違和感を覚えたのか、眉をひそめた。 部屋は静まり返った。 ―まさか、ここにきて正気に戻ったりしないだろうか。 「おばあさん、若子に会いたいって言ってたでしょう?ほら、来てくれましたよ」 修はもう一度、優しく言った。 「......あぁ、若子、大きくなったねぇ」 華は手を伸ばす。 「こっちへおいで、おばあさんに顔を見せておくれ」 侑子は少し緊張しながら、修の方を見た。 修は静かに頷き、安心させるような視線を送る。 侑子は勇気を出して華の隣に座り、微笑んだ。 「おばあさん、会いに来ましたよ」 「まぁ、なんていい子なんだろうねぇ......」 華はそっと侑子の頬に触れる。 「しばらく見ない間に、また大きくなって......おばあさん、もうあんたの顔を見分けられなくなっちゃうよ」 侑子は笑みを浮かべながら、静かに答えた。 「最近、食べすぎちゃったのかもしれませんね。ごめんなさい、おばあさん、なかなか会いに来れなくて......」 「いいのさ、みんな忙しいんだからな」 華は微笑みながら、ふっと息を吐いた。 「でも、こうして元気な姿を見られただけで、おばあさんは安心したよ......そうだ、あんた、今は大学生だろう?」 侑子は頷く。 「はい、大学に通っています」 「うん、えらいえらい」 華は満足げに頷いた。 すると、彼女は修を手招きする。 「修、あんたもこっちへ来なさい」 修は少し戸惑いながら、彼女のそばに近づく。 「おばあさん、どうしましたか?」 「立っていないで、若子の隣に座りなさい」 修は口元を引きつらせるが、ここで逆らうわけにはいか
侑子は立ち上がり、修に向かって微笑んだ。 「藤沢さん、おばあさまは休んだね。じゃあ、私もそろそろ行くから」 修は彼女の前に立ち、静かに言った。 「今日は本当に助かった。お前の時間を取らせてしまったな」 侑子は口元をわずかに緩める。 「大した用事はなかったし、むしろお手伝いできて嬉しいわ」 修は軽く頷く。 「送るよ」 侑子は遠慮しようとしたが、少しでも彼と一緒にいたい気持ちが勝り、頷いた。 「......じゃあ、お言葉に甘えて。ありがとう」 二人がちょうど玄関を出ようとしたとき、不意に声がかかった。 「二人とも」 光莉がこちらへ歩いてきた。 修は足を止め、ゆっくりと振り返る。 光莉は二人の前で立ち止まり、穏やかに微笑んだ。 その視線が、侑子に向けられる。 「山田さん、初めましてね」 侑子は丁寧に会釈し、明るく言った。 「こんにちは。お母さまは本当にお綺麗で、お若いですね」 それは侑子の心からの感想だった。 光莉を初めて見た瞬間、思わず息を呑んだほどだ。 三十代前半にしか見えない端正な顔立ち、美しく整えられた姿勢、そして気品に溢れた雰囲気。 自分もまだ二十代だというのに、彼女の前ではまるで幼い子供のように感じる。 ―こんなに美しい女性が、藤沢さんの母親なのか。 そして、彼の父親もまた整った顔立ちをしている。 ―やっぱり、美男美女の子供は違うんだな...... 光莉は微笑みながら、柔らかく言った。 「若い子には敵わないわよ」 「そんなことないです!お母さまのような品格や知性は、私たちにはとても真似できません。私はただの未熟者ですから」 「まあ、お世辞が上手ね」 光莉は小さく笑った。 世辞が上手い人間は世の中に多い。 侑子も、特に珍しいわけではない。 だが、悪い気はしなかった。 「修、こんな素敵な友人がいたのね。どうして今まで教えてくれなかったの?もっと早く紹介してくれれば、食事でもご一緒できたのに」 修は軽く肩をすくめる。 「今、知ったならそれでいいだろ」 彼の声には特に感情はなく、どこか淡々としていた。 けれど、その微妙な距離感が、光莉の表情を一瞬固くする。 「......ええ、そうね。知れたからいいわ」 侑子は
黒いセダンが静かに道路を走っていた。 修は運転席に座り、両手でハンドルを握りながら、じっと前方を見つめている。 助手席の侑子はシートベルトを締めながら、そのベルトを無意識に握りしめていた。 心臓が、ドキドキとうるさいくらいに鳴っている。 ―藤沢さんと二人きりの車内。 それだけで、緊張で息が詰まりそうだった。 好きな人といると、どうしても挙動不審になってしまう。 ちょっとした仕草も、変に思われないかと気になってしまう。 静寂が続き、少し気まずく感じた侑子は、思い切って話しかけることにした。 「......お母さん、本当に綺麗な人ね。お父さんもすごく格好良かったし。お二人とも、お似合いだったわ」 修は無表情に答える。 「見た目だけは、な」 その言葉に、侑子は一瞬、戸惑う。 ―もしかして、ご両親の仲は良くない......? なんとなく、家族の雰囲気がぎこちないとは思っていたけれど...... 侑子が聞こうとしたそのとき、修が先に口を開いた。 「......さっきは悪かったな」 「え?」 「病院で突然いなくなったこと。それに、この前も、お前に酷いことを言った」 修の声は静かだったが、どこか申し訳なさそうだった。 「それなのに、お前は俺を責めずに手を貸してくれた......感謝してる」 侑子は少し驚いた。 ―藤沢さんが、私に謝ってる......? 胸の奥が、ふわっと温かくなる。 「......気にしてないわ。あのときの言葉だって、私を傷つけようとして言ったんじゃないって分かってたし。むしろ、ちゃんと本音を言ってくれたほうが、曖昧に誤魔化されるよりずっとマシよ」 修はハンドルを握りしめたまま、小さく息を吐く。 「俺はそんな立派な人間じゃない......だから、前妻も俺を捨てていった」 それは、痛みを麻痺させるような独白だった。 侑子はそっと修の横顔を見つめる。 「でも、藤沢さんは自分の過ちを分かってるんでしょう?だったら、そんなに自分を責めなくてもいいんじゃない?」 「......そうかもな」 修は薄く笑った。 その表情には、どこか諦めの色が滲んでいた。 「母さんが、お前に食事をご馳走しろって言ってた。何が食べたい?礼をしたいんだ。もしかしたら、ま
修が車を降りると、若い男が地面に倒れ込んでいた。 カバンが傍らに転がり、男は足を押さえながら痛みに呻いている。 修はすぐに駆け寄り、声をかけた。 「大丈夫か?起き上がれるか?」 倒れていた男が顔を上げる。 その顔を見た瞬間、修の胸がざわついた。 ―見覚えがある。 若子の知り合いのひとり、桜井ノラだ。 以前、病院で会ったことがあった。 あのときは西也が事故に遭い、若子がずっと付き添っていた。 ―こいつが、どうしてここに? ノラも修を認めたようで、驚いた表情を浮かべた。 「......あれ?藤沢さん?」 顔をしかめながら、痛そうに呻く。 「うぅ......痛い......体中が痛くて、骨が折れたかもしれません......」 修は思わぬ再会に驚きながらも、目の前の怪我人を優先する。 「立てそうか?病院に連れて行く」 そのとき、助手席に座っていた侑子が、フロントガラス越しに修が男を支え起こすのを見ていた。 彼女は急いでシートベルトを外し、車を降りて駆け寄る。 「藤沢さん、その人......大丈夫?怪我、ひどいの?」 修が事故を起こしたのではないかと不安になったのだろう。 ノラは顔色が悪く、額には汗がにじんでいた。 彼は侑子を見て、首をかしげる。 「......この人は?」 「お前には関係ない。とにかく車に乗れ。病院へ行くぞ」 誰の責任かはともかく、彼は確かにノラにぶつかった。 ―こいつは怪我をしたようだし、ここに放っておくわけにもいかない。とにかく病院へ連れて行くしかない。 修はそう考えながら、ノラを後部座席へと押し込む。 後部座席のドアを閉めると、修は侑子の前に立ち、軽く頭を下げた。 「悪いな、山田さん」 そう言って、財布から紙幣を数枚取り出し、彼女に差し出した。 「タクシーで帰ってくれ」 侑子の表情が曇る。 「......そう。じゃあ、そうするわ」 だが、彼女は修の手を払いのけた。 「でも、お金はいらない。私、自分で帰れるから」 彼女の強い意志を感じた修は、それ以上押しつけることなく、紙幣をしまう。 「早く彼を病院に連れて行って。私は先に帰るわ」 そう言いながら、侑子は背を向け、歩き出した。 だが、数歩進んだところで
修の「若子」という言葉に、ノラは眉をひそめた。 「僕も気になりますよ、なんでこんなところで藤沢さんと会うんでしょうね。それに、まさか轢かれるとは......運転、ちゃんとしてました?」 「横断歩道でもないところを飛び出して、よくそんなことが言えるな?」修は冷たく返す。「ドライブレコーダーの映像を確認するか?赤信号を無視したのはどっちか、はっきりするぞ」 「僕、急いでたんです!」ノラは不満そうに唇を尖らせる。「それに、歩行者を優先するのが普通でしょ?運転するなら気をつけてくださいよ」 修はため息をつき、これ以上の言い争いは無意味だと判断した。 「とりあえず病院には連れていく。治療費も払う。それ以上は自分でなんとかしろ」 ノラが突然飛び出してきたせいで、修も反応が遅れた。 責任があるとすれば、どちらも半々だろう。 病院に連れていき、治療費を出すだけでも十分なはずだ。 「......本当に冷たいですね。だからお姉さんに捨てられて、別の男と結婚されたんですよ。自業自得じゃないですか?」 修の手がハンドルを強く握りしめる。 「......今、何て言った?」 ノラは痛みをこらえながら、薄く笑った。 「怒りました?でも、僕、嘘なんて言ってませんよね?前に病院で会ったときも、すごく怖かったですし。殴られましたし。そんな人と一緒にいて、姉さんが幸せになれるはずないじゃないですか」 「―!」 助手席にいた侑子は驚き、思わず振り返った。 「藤沢さん、この人と知り合いだったの?それに......殴ったってどういうこと?」 修はエンジンをかけながら、あっさりと言い放った。 「あぁ、殴った。殴られるようなことを言ったからな」 「......っ」 修の平然とした態度に、侑子はますます混乱する。 「え、ちょっと待って。二人とも知り合いで、しかもそんな過去があるの?」 偶然にしてはできすぎている。 ノラは肩をすくめながら、まだ痛みで顔を歪めている。 「一度会ったことがあるだけですよ。お姉さんの旦那さんが事故に遭ったとき、こいつが怪しかったんです」侑子は聞けば聞くほど混乱してきた。口を開きかけたその瞬間、修が言った。 「もういい。黙れ」彼は車内でこの話をする気にはなれなかった。怒りを抑えきれなく
ノラはびくっと肩を震わせた。 「......もう言いませんよ。そんな怖い顔しなくてもいいじゃないですか?お姉さんだって、藤沢さんに怯えて逃げたんですよ。だから、海外に行っちゃったんじゃないですか?」 突然、修の眉がぴくりと動いた。 「お前......彼女が海外に行ったことを知っているのか?」 ノラはあっさりと頷く。 「もちろん知ってますよ。それどころか、どこにいるのかもね。僕、お姉さんとよく連絡を取ってますから」 修の拳がぎゅっと握られる。 ―こいつと、よく連絡を? 胸の奥が押しつぶされるような感覚に襲われる。 それでも修は何も言わず、踵を返した。 しかし、足が動かない。まるで鉛のように重くなり、一歩も踏み出せない。 そんな修の様子を見て、ノラはニヤリと笑う。 「行かないんですか?それとも、僕が恋しくなりました?まさか謝りたくなったとか?」 修は振り返り、低く問いかける。 「......お前と彼女、そんなに仲が良かったのか?」 「もちろんです!僕はお姉さんのこと、本当の姉みたいに思ってますから。お姉さんも僕のことを弟みたいに思ってくれてます。距離は離れても、心は繋がってるんですよ」 ノラは悪びれもせず、笑顔で続けた。 「......もしかして、嫉妬してるんですか?」 修の瞳が鋭くなる。 「自業自得ですよ。お姉さんが藤沢さんを無視するのは当然です。だって、あんたはお姉さんの旦那さんを傷つけたんだから。それが証拠不十分で捕まらなかっただけで、本当なら牢屋行きですよね?」 修の手がノラの襟首を掴んだ。 「俺じゃないっつってんだろう!その話をもう一度言ってみろ。今度は、本当に殴るぞ」 「藤沢さん!」 侑子が慌てて駆け寄り、修の腕を掴んだ。 「彼、怪我してるのよ!今ここで殴ったら、大変なことになるから。落ち着いて!」 修は忌々しげに鼻を鳴らすと、乱暴にノラの襟を放した。 ノラは怯えたように肩をすくめる。 「......もう言いませんよ。でも、お姉さんもきっと怖がってましたよね?だから、今は幸せそうで何よりです」 ノラはニコリと笑う。 「西也お兄さんと一緒にいると、お姉さんはすごく幸せそうですよ。二人はラブラブで、見てる僕まで微笑ましくなります」 ―西也お兄さ
「愛してる~本当に愛してる!」病室に響くのは、あまりにも感傷的な歌声だった。「お願いだから僕を置いていかないで!僕は本当に君を愛してるのに、どうして彼の腕に飛び込んだんだ?ああ~」 ―ドン! 突然、病室のドアが勢いよく蹴り開けられた。 修が冷たい表情のまま、中へと踏み込む。 ノラはベッドの上でイヤホンをつけ、目を閉じながら完全に音楽の世界に浸っていた。 誰かが入ってきたことにも気づかず、さらに熱唱する。 「君はついに他の男のものになった!僕は君を、完全に失ったんだ!」 ―なんなんだ、このタイミングでこの歌は。 修の眉間に深い皺が刻まれる。 こんな状況でこの歌を聞かされるとは、まるで火に油を注がれるようなものだった。 修は容赦なくノラのイヤホンを引きちぎるように外した。 「わっ!」 ノラは飛び上がるほど驚き、思わず叫びそうになるが、目の前の修を見て言葉を詰まらせる。 「......っ!ふ、藤沢さん!?なんで戻ってきたんです?もう帰ったんじゃ......?」 「お前、さっき若子と頻繁に連絡を取ってるって言ってたな―何を話してる?」 修自身、なぜこんなにも気になってしまうのか、理解できなかった。 だが、考えれば考えるほど、胸の奥がざわついて、どうにも落ち着かない。 若子は離婚してから、多くの人と関わるようになった。 新しい夫、友人、弟。 ―そして、自分だけが、彼女の世界から完全に切り捨てられた。 なぜだ? なぜ若子にとって、誰もが自分よりも大切なのか? たとえ道端で適当に拾った「弟」のような存在であっても― 十年の時を共に過ごしたはずなのに、たった一度の過ちで見捨てられ、憎まれる存在になったのか? ノラは修の険しい表情に怯え、言葉を詰まらせる。 「そ、それがどうしたんです?僕たちが何を話そうが、藤沢さんには関係ないでしょ?だって、もう姉さんと離婚したじゃないですか!」 「......っ!」 修の目が一気に鋭くなり、ノラの肩を乱暴に掴むと、そのままベッドに押し倒した。 「何を話してる?......言え」 声は低く、しかし怒りを抑えきれないものだった。 「言わないなら、力づくで吐かせるぞ」 修は決して権力で人を押さえつけるタイプではなかった。
修にとって、若子が西也を責める姿を見るのは、これが初めてだった。 彼は腕を組みながら二人を見つめ、目の奥に一瞬だけ安堵の色を浮かべた。 ―もしこれが昔だったら、若子は絶対に真っ先に西也をかばってた。 でも、今は違う。彼女は西也を守らなかった。 それだけで、少しだけ救われた気がした。 だけど同時に、不安の方が大きかった。 若子が西也をかばわなかったのは、ヴィンセントの存在があったからだ。 11年も一緒に過ごしてきた自分との関係すら壊して、西也をかばった若子が―たった数日で、ヴィンセントのために西也すら突き放すようになった。 それが、何より恐ろしかった。 ヴィンセントはまるで強引に入り込んでくる侵略者のように、既存の人間関係を簡単に壊してしまう。 「若子、お前......俺のこと、責めてるのか?」 西也の声は震え、目を見開いて彼女を見た。 「責めてるかって?ええ、そうよ。責めてるわ」 若子は疲れた表情で言った。ほんとは、こんなこと言いたくなかった。 でも、どうしても感情を抑えきれなかった。 物事がここまでぐちゃぐちゃになって、それでも「全部お前のためだ」なんて顔して、どんどん余計なことをして、混乱ばかりで、結局一番迷惑を被るのは若子だった。 「若子、あのときはお前が危ないって思って......電話で問い詰めるわけにはいかないだろ?もしそばに誰かいたらって思ったら......だから俺は、こっそり探しに行っただけで......俺だって、お前が心配だったんだ。理解してくれよ......それに、お前が夜に出かけたとき、俺には行き先がわからなかった。考えられるのは藤沢だけだった。そして実際、お前は彼に会ってた。お前の失踪は直接彼のせいじゃないかもしれないけど、彼と会ってなければ、そんなことにはならなかったんだ!」 「あなたが心配してくれてたのはわかってる。でも、自分のミスを正当化しないでよ!」 若子の声が一段と強くなった。 「西也......あなたといると、ほんと疲れる」 「......っ」 その一言が、西也の胸に深く突き刺さった。 「ミス」とか「疲れる」なんて―若子の口から、そんな言葉が自分に向けて出てくるなんて、思ってもいなかった。 彼は信じられないような表情で、ただ彼女を見つめるしか
若子の眉がピクリと動く。 「......彼が殴ったの?」 彼女はゆっくりと修に視線を向けた。 「またやったのね?」 「また」―その一言が、なんとも言えない絶妙な皮肉だった。 正直、ふたりの喧嘩なんて何度目か分からない。もう若子自身も慣れてしまっていた。修が西也を殴って顔を腫らしたとしても、正直、そんなに驚きはなかった。 修は、黙って若子の目を見つめ返す。彼女が自分を責めるつもりだと、わかっていた。 「......ああ、殴ったよ。でも、理由がある」 「理由?」 と、割り込むように西也が口を開いた。 「若子、俺はただ......お前が心配だったんだ。電話はもらってたけど、どうしても不安で......それで、こいつが何かしたんじゃないかって疑って、会いに行った。そしたら、いきなり殴られたんだ」 彼は言葉巧みに語る―が、もちろん真相は違う。 武装した連中を引き連れて、銃を突きつけながら修の家に押し入ったのは、まぎれもなく西也の方だった。 だが、それを言うはずもない。 たとえ修が暴露したところで、「証拠は?」としらを切れば済む話だ。 修は黙ってその顔を見ていた。黒を白と言いくるめるその口ぶりに、内心では呆れていた。 若子は黙ってそのやり取りを聞いていたが、眉間に深いしわを刻みながら、口を開いた。 「......西也。私、電話で『無事だから』ってちゃんと言ったわよね?どうして修のところに行ったの?」 西也の胸に、ひやりと冷たいものが走った。 ......若子、どうしたんだ? これはおかしい。こんなの、彼女らしくない。 本来なら、修に殴られたと聞いて真っ先に怒るはずだ。 「なんでそんなことするのよ!」って修に怒鳴って、もしかしたらビンタの一つも飛ばしてたかもしれない。 なのに―どうして、こんなにも冷静に俺を問い詰める? 修もまた、想定外の反応に言葉を失っていた。 まさか、若子の第一声がそれだなんて、思ってもみなかったのだ。 若子はじっと西也を見つめながら、続けた。 「電話で、ちゃんと伝えたよね?一週間後には帰るって。はっきりそう言ったはずなのに、口では『わかった』って言っておいて、その足で修に連絡して、修まで私が何かあったって思い込んで......それでふたりしてヴィンセン
「若子......もし、もし俺が言いたいことが―」 「若子!」 そのとき、西也が風のように走ってきた。まるで矢のような勢いで。 「若子、大丈夫か!?怪我は!?無事か!?」 修はぐっと息を飲み込み、握りしめた拳に力が入った。 また―またか。なぜこいつは、どこにでも現れるんだ。まるで悪夢のように。 「私は平気よ、心配しないで」 若子はそう言うと、ふたりの男を順番に見つめた。 「ちょうどよかった。ふたりとも揃ったところで、はっきり言っておくわ。ヴィンセントさんは、私の命の恩人よ。だから、どちらも彼を傷つけることは絶対に許さない。もし彼に何かしたら、私は......絶対に許さない」 その声には、これまでにないほどの強さが宿っていた。 ふたりの男は、一瞬言葉を失った。 今までは、何をしても若子は怒らなかった。なのに、いま彼女は、明確に「NO」を突きつけてきた。それも、他の男のために― 修と西也がいがみ合っている間に、彼女の心には、冴島千景という新たな存在が入り込んでいた。 こんなこと―あり得るのか? だが、西也はすぐに切り替えた。彼は、こういうとき、反射的に「正解」を選べる男だ。 「わかった、若子。俺はもう絶対に彼を傷つけたりしない。彼がお前の命を救ってくれたなら、それは俺の恩人でもある。だってお前は、俺の妻であり、俺の子の母親なんだから」 その言葉を聞いて、若子の視線が修の方へと移る。 修は静かに息を吐いて言った。 「......もし俺が彼を殺したかったなら、あの手術は成功してなかったさ。そこは信じてくれ」 ふたりの男が、揃って約束を口にする。 その場に、不思議な静寂が流れた。 若子は修と西也の顔を順に見つめた。 ......昨夜のあの怒りが、ふと胸に蘇る。 このふたりには、本当に怒り狂いそうだった。彼らが無理やりに踏み込んできて、ヴィンセントに銃を向けたあの瞬間を思い出すだけで、胸がギュッと締めつけられる。 あのときは―文句のひとつやふたつじゃ済まさないって、本気で思った。 手術が終わったら、きっちり叱り飛ばしてやろうと。 ......でも。 今こうして、目の前にいるふたりの男は、どちらも申し訳なさそうに頭を垂れていた。 昨夜のことが嘘のように、静かに彼女の前で
若子は、ついにうんざりしたようにため息をついた。 修は視線を落とし、どこか寂しげに呟く。 「......わかった。じゃあ、言ってみて。お前の言葉、ちゃんと聞くよ」 あいつがまともな男だとは思えない。でも、若子がそこまで言うなら―せめて聞いてみたくなった。 「彼は......一週間だけ一緒にいてほしいって言ったの。ただ、ご飯を作ったり、掃除をしたり......それだけ。それ以上のことは何もなかったの。彼は私に何もしてない。傷つけたりなんて、絶対に......ただ、すごく寂しかっただけ。誰かに、そばにいてほしかったんだと思う」 若子はゆっくりとガラスの向こう―病室の冴島千景に目を向けて、静かに続けた。 「彼、昔......妹さんがいたの。でも、その子を亡くしてしまって......だから私を、妹のように見てた。それだけ。あなたが考えてるようなことじゃないの」 その言葉を聞いた修は、ようやく少し肩の力を抜いた。 ―少なくとも、若子が傷つけられたわけじゃない。それだけで、少しだけ安心できた。 「......じゃあ、あいつが目を覚ましたら?お前はどうするつもりなんだ」 「当然、看病するわ。命を救ってくれた人だもん。絶対に回復させてあげたい。どんな形であれ、私は......彼に恩を返したい」 その言葉に、修の胸にチクリとした痛みが走る。 「彼をそんなに心配して......じゃあ俺はどうなんだよ、若子」 思わず、彼女の腕を掴む。 「この前、お前が誘拐されたとき、俺だって命懸けで助けに行った。死にかけたんだ。それなのに、お前は遠藤を選んだ。あの時、俺がどんな思いで―!」 「......あなたが私に、その選択の余地を与えたの?」 若子の声が鋭く割り込む。 「確かに、私は西也を選んだ。でもそれは、選ばなければ誰も助からなかったから。あの時、どっちかを選べって言われたの。選ばなきゃ、ふたりとも死ぬって言われたのよ。 私は、何度も言ったよ。どっちを選んでも苦しかったって。本当は、私が死ねればよかった。でもそれは許されなかった。だから、あなたを傷つけたこと......謝りたかった。だから、あなたを探して、何度も会おうとした。 だけど、あなた......絶対に会おうとしなかったじゃない。私がどれだけ探しても、避け続けた。
若子は慌てて自分の体を見下ろした。 服は―ちゃんと着ていた。乱れもなく、整っている。修の方も、ちゃんと服を着ていた。 「......昨日の夜、私に......何かあった?」 「倒れたからさ、ここで休ませたんだ。すごくぐっすり眠ってたよ」 修は、彼女が不安がらないように、穏やかに説明した。 若子は自分の服を見つめた。どこもおかしくない。きちんとしてる。 「この服......着替えさせたの、あなた?」 修の表情が一瞬止まる。昨夜、自分がしてしまいかけたことが脳裏に浮かび、胸がきしんだ。あの時のことを思い出すだけで、後悔と罪悪感に押しつぶされそうになる。 彼は若子の目をまっすぐに見られず、少し目をそらして答えた。 「......女の看護師に頼んだ」 若子はほっと息をついた。 やっぱり昨夜感じたあの感覚―誰かがキスしてきたような、全身が包まれたような、あれは......夢だったのかもしれない。 「......昨日の夜、ずっと一緒にいたの?」 「うん。お前の様子が心配だったから、ここにいた」 修の返事は短く、でもどこか優しかった。 若子は少し不思議そうな顔をした。何か聞こうとした瞬間、ふと思い出す。 「―そうだ、ヴィンセントさん!彼は無事なの?!」 「......一命は取り留めた。今はICUにいる」 その言葉を聞いた瞬間、若子は深く息を吐き、すぐにベッドから降りようとシーツをめくった。 「会いに行く。今すぐ」 彼女が部屋を出ようとすると、修もすぐに追いかけてきて、手を伸ばす。 「若子!」 彼女の腕を掴んだ。 振り向いた若子が問う。 「......なに?」 「今の状態じゃ、会えるわけない」 「外から見るだけでもいいの」 そのまま修の手を振りほどき、若子は病室を出ていった。 ICUに着いた若子は、硝子越しに千景の姿を見つけた。 彼はベッドに横たわり、身体中に医療機器が繋がれていた。心電図のモニターが、規則正しく音を立てている。 若子はそっと硝子に手を当て、ため息を漏らした。 「......ごめんね。私のせいで、こんなひどいケガをさせちゃって。ちゃんと治ってね......まだ、1万ドル返してないんだから......」 その呟きに反応したのか、後ろから修の声
若子の赤い唇がほんの少し開き、震えるような吐息が漏れる。 修の顔は彼女の首元にうずめられていて、その呼吸はどんどん熱を帯びていった。 そのとき、ふいに、耳元から微かに女の声が聞こえた。 「修......ヴィンセントさんの手術、終わったの......?」 修の体がピタリと止まる。情熱の最中に―別の男の名前を、若子の口から聞いた。 胸の奥が、ズキンと痛んだ。 彼は無意識に、彼女の目を覗き込む。若子はまだ目を閉じたまま、目覚めてはいない。夢の中か、半分眠ったままか―今、彼女は何もわかっていない。 それなのに、彼女の意識はあの男に向いていた。 眠っていても、彼のことを気にしている。 修は、自分がとんでもない男に思えた。 どうしてこんなときに、彼女の隙をつくような真似をしてしまったんだ? もう十分、若子は傷ついているのに。 それでも― 目の前で、何も身につけていない愛する人が横たわっている。どうして、どうして自分を抑えきれなかったのか。 修は苦しげに目を閉じる。熱い一滴が、頬を伝って、若子の肌に落ちた。 最後に、深く息を吐いて、彼はそっとシーツを引き上げた。ふたりの身体を隠すように、ゆっくりと。 そして、彼女を胸に抱きしめ、頬にキスを落とし、耳元で優しく囁いた。 「まだだよ......手術は終わってない。だから今は、安心して眠って。終わったらちゃんと教えるから」 若子の身体は限界だった。恐怖と疲労で、もう目を開ける力も残っていない。今の距離の近さにも、彼女は何も気づいていない。 修は彼女を抱いたまま、じっと見つめ続けた。 その夜、修が何度キスをしたか、自分でも覚えていない。 夜明けが近づく頃、彼は小さくため息をついて、彼女の耳元で呟いた。 「若子......もし時間を巻き戻せるなら、どれだけよかったか。 俺に雅子がいなくて、お前に遠藤がいなくて、ただふたりきりだったなら、それだけでよかったのに」 ...... 朝の光が、病室の窓から差し込んできた。柔らかな陽光が、若子の上に優しく降り注ぐ。 その光は空気の中で舞うように踊り、淡い花びらのように彼女の肌に触れる。 黒くなめらかな髪は白い枕に流れ落ち、眉は月のように穏やかに弧を描き、整った顔立ちをふんわりと引き立てていた。
修の服はすっかり濡れてしまっていた。 けれど彼はもう気にすることなく、自分の服もすべて脱ぎ捨て、若子と一緒にシャワーを浴びた。ふたりの身体は湯気の中で寄り添い、ただ静かに時間が流れていく。 洗い終えたあと、修はタオルで若子の髪と体を丁寧に拭き、そっと抱き上げて病室のベッドへ運んだ。柔らかなシーツをかけると、彼女を優しく包み込むように寝かせる。 ベッドに横たわる若子。夜の街灯が窓から差し込み、彼女の体を淡く照らしていた。まるで彫刻のように整った顔立ち。透き通るような肌は、まるで宝石のような光を放っていて、一本一本際立った睫毛、そしてほんのり上向いた赤い唇― あまりにも美しくて、息を呑んだ。 部屋は静かで、ほんのり暖かい光に包まれていた。まるで幻想の中にいるようだった。 修の目には、愛しさと切なさが溢れていた。まるで星のように輝くその瞳は、彼女だけを映していた。 その眼差しは、心と心をつなぐ橋だった。 ―どれだけ、彼女に会いたかったか。 どれだけ、彼女を想い、苦しんできたか。 修の目は、彼女から一瞬たりとも離せなかった。呼吸ひとつさえ、彼女の存在を感じるためにあるような気がしていた。 こんな風に、ただ見つめ合うことが―どれだけ久しぶりだっただろう。 彼女のすべてが愛おしい。顔も、身体も、心も。たとえ、どれだけ傷つけられたとしても、それでも彼女を愛してしまう。 眠る彼女の顔を見ていると、胸の奥からこみ上げてくるものがあった。あたたかくて、幸せで、でも同時に―絶望的な痛みも伴っていた。 自分の想いは、もう届かないのかもしれない。 彼女の世界に、自分はもう居場所がないのかもしれない。 若子は―もう俺を、必要としていない。 その現実に、修はただ静かに彼女を見つめ続けた。 それでも。たとえ彼女に拒まれたとしても。 彼女の幸せを守れるなら、命だって惜しくない。 「若子......俺に、守らせてくれないか?お前の人生の中に、俺をいさせてくれないか?夫じゃなくてもいいんだ」 ―その瞳に、狂気のような光が宿っていく。 修は立ち上がり、病室の扉へ向かうと、鍵をガチリと閉めた。 再びベッドに戻ると、彼女を包んでいたシーツを、ゆっくりと、まるで宝物を扱うようにめくっていく。 その瞬間、彼女の姿がすべ
「修......頭がクラクラする......眠い......」 若子の声はかすれ、まるで力が抜けるようだった。 修の瞳に、やるせない悲しみが浮かぶ。彼女の疲労は、身体だけじゃない。心のほうが、もっと限界だった。 「大丈夫。眠っていいよ。あとは、俺に任せて」 修はそっと若子の頬を撫で、囁いた。 「修......彼を、死なせないで、お願い、彼は私の命の恩人なの......彼がいなかったら、私はもう......あの男たちに捕まって、ひどいことされて......彼は危険を顧みずに私を助けてくれて......銃まで......だから、お願い、お願い、生かして」 若子の目に涙が浮かび、その声は今にも消え入りそうだった。 「わかった、約束する。俺が必ず、彼を救ってみせる」 修は彼女をぎゅっと抱きしめ、その耳元で誓うように囁いた。 若子は少しだけ安心したように目を閉じる。 修は小さく息をつき、彼女の額に優しくキスを落とした。 「若子......お前をどうすればいいんだ」 他の男のことで傷ついて、泣いて、苦しんでいる彼女。それを慰めて、守ることを約束しなきゃいけないなんて― 修は自分にその資格がないことなんて、とうにわかっていた。離婚を言い出したのは、他でもない自分だ。彼女を傷つけたのも自分。 だから、若子が別の男の胸に飛び込んだって、文句なんて言える立場じゃない。それでも、胸が張り裂けそうだった。 彼女は、間違いなくあの頃のままの若子で、今、修の腕の中にいる。 そんな彼女を―どうして手放せるだろうか。 修の親指が、彼女のやわらかな口元をそっとなぞる。そして、思わず顔を近づけ、その唇にキスを落とした。 ......どれだけ、このキスを待ち望んでいたか。 キスをするとき、愛する相手がいるなら、目を閉じるものだという。けれど今の修は、目を閉じられなかった。 だって、見ていたかった。もっと、ずっと―彼女を。 ほんの一瞬でも目を閉じてしまったら、次に開けたとき、彼女がもうどこにもいない気がして、怖かった。 何度も唇を重ね、名残惜しそうに離れられずにいた。 この時間がずっと続けばいいのに。 以前、侑子にキスしたときは、目を閉じて若子の面影を思い描いていた。でも、違った。あの人は若子じゃない。 ―
若子の姿は血まみれだった。 自分の血じゃない、それでも―あまりにも生々しくて、見ているだけで胸がえぐられそうだった。 修はすぐに若子をひょいと抱き上げた。 「ちょっ......なにしてるの!?私はここにいる、彼を待たなきゃ」 「若子、手術はまだまだかかる。だから、まず体を洗って、着替えて、きれいになって......それから待とう。もし彼が無事に目を覚ましたとき、君が血まみれのままだったら、きっと心配するよ?」 若子は唇を噛みしめて、小さく頷いた。 「......うん」 修は若子をVIP病室へと連れて行った。ちょうど空いていた部屋で、すぐに清潔な服を持ってこさせた。まだ届いていなかったけれど― 若子はずっと泣き続けていた。 修は洗面台の前で、そっと後ろから若子を抱きしめるように支え、水を出しながらタオルを濡らして、彼女の手や顔を丁寧に拭っていく。 「いい子だから、じっとしてて。血、すぐ落ちるから」 「修......あんなに血が......彼の血、全部流れちゃったんじゃないの......?」 まるで迷子の子どものように、若子は震えていた。 「医者が輸血するさ。絶対に助けてくれる。若子、手を広げて、もうちょっと拭くから」 彼女の体からは生々しい血の匂いが漂っていて、魂まで抜けたように虚ろだった。 修はタオルで彼女の手、腕、顔を優しく拭い、そしてふと、手を伸ばして彼女のシャツのボタンに指をかけた―その瞬間、 「なにしてるの!?」 若子が慌ててその手を掴んだ。目には警戒と不安の色。 修は一瞬、固まった。そして......思い出した。 ―自分たちは、もう夫婦じゃない。 ただの錯覚だった。かつての関係に、心が勝手に戻ってしまっていた。 もう彼女に触れる資格なんて、ないのに。 それでも、腰にまわした腕は......なかなか離せなかった。 しばらく見つめ合ったあと、若子は静かにタオルを取り、赤く染まったそれを見つめた。 「......自分でやるから。もう出て行って」 修は小さく息を吐き、名残惜しそうに腕を離した。 「......わかった。外で待ってる。何かあったら呼んで」 若子はこくんと頷く。 修は浴室を出て、ドアをそっと閉めた。 鏡の前で水を浴びた若子は、腫れ上がった