修がその言葉を口にしたとき、その声は驚くほど静かだった。 まるでそれが、彼の本能の一部であるかのように。 誰にも止められない。揺るぎようのない決意。 侑子は、その姿を呆然と見つめていた。 まるで雷に打たれたように、目の光がすうっと失われていく。 「じゃあ、私は?」 その声は、ひどくかすれていた。 「私たちの間に起きたこと......私にしたことは、全部......何だったの? 私の心も、体も......修にとっては、ただの何だったの?」 一言ひと言に、深い痛みがにじんでいた。 まるで心を火にかけられているような、じわじわと焼かれていくような苦しみ。 修は目を伏せた。 その瞳の奥に、一瞬だけ、後悔のような色が過ぎる。 「......お前にしたことは、本当にすまなかった」 彼はそっと手を伸ばし、侑子の涙を拭った。 「若子の代わりになってくれて、俺を支えてくれて......感謝してる」 ―若子の代わり。 その言葉を聞いた瞬間、侑子の心に絶望が広がった。 やっぱり、彼女はただの代用品。 最初から、彼女自身なんて、どこにも存在してなかった。 キスをされても、抱きしめられても、愛されていると錯覚した夜も。 全部、若子の顔を思い浮かべていた。 ―だから、いつも後ろから抱いてきたのか。私の顔を見なくて済むから。 湯船の中で後ろから抱きしめられ、耳元に熱を落とされたあの瞬間でさえ。 彼の瞳の中には、最初からずっと―若子がいた。 「感謝......なんて」 そう、彼は感謝すべきだった。 だって、全部自分で望んだことだから。 自分が「代わりになる」と言ったんだから。 今さら苦しいなんて―笑えるよね。 だけど、どうしても抑えきれなかった。 心に、あってはならない「期待」が芽生えてしまったから。 人は、一度でも期待を持ってしまえば― それが裏切られた瞬間、心が崩れていく。 理性が保てなくなって、感情の暴走が始まる。 そして気づけば、狂ったように傷つけたくなる。 ―まるで、狂犬みたいに。 「......侑子、部屋に戻ってくれ」 修の声が優しく響く。 「これからボディーガードをつける。若子を見つけたら、すぐに戻る」 修が背を向け、歩き出そ
修は侑子の手を掴み、そのまま強く引きはがした。 「帰って、ちゃんと休め。ぐっすり寝るんだ......もしかしたら、明日の朝には戻ってくるかもしれない」 そう言ったとき、彼の声にはどこか願いが込められていた。 ―明日の朝、戻ってこれたらいい。 けれど、それは侑子に会いたいからではなかった。 ただ、少しでも早く若子を見つけたい―それだけだった。 修はくるりと向き直り、侑子の華奢な肩に手を置いた。 涙を浮かべ、苦しそうな表情を浮かべる侑子を見て、彼はため息混じりに言った。 「侑子......俺にあまり感情を注がないでくれ。たぶん、俺にはお前に与えられるものが多くない」 それは彼自身もよくわかっていた。 最初に、きちんと伝えていたはずだった。 それでも、彼女はすべてを投げ打って、彼に尽くしてきた。 その姿に心を動かされたのは、間違いない。 だからこそ、彼は彼女を「若子の代わり」として受け入れた。 侑子の存在を通して、かつて若子と過ごした結婚生活の甘さを追憶するために。 けれど―彼の心の奥底には、やはり若子の姿が根強く残っていた。 彼はまだ過去に囚われていて、その沼から抜け出せずにいた。 罪悪感に駆られながら、修は侑子の頬を濡らす涙をそっと指で拭った。 そしてその額に、静かに唇を重ねた。 「早く寝ろよ」 その言葉を残し、修は背を向けて病室を後にする。 「修っ、修!」 侑子は涙声で彼を追いかける。 だが、彼はいくら呼ばれても振り返らない。 足取りはどんどん早まり、あえて彼女を置いていくかのように。 階段の前に着いたとき、修は扉を勢いよく開け、ためらいもなく出て行った。 「修っ!行かないで!お願いだからっ......!」 ドサッという音とともに、侑子はその場に倒れ込んだ。 「どうして、どうしてそんなことするの?私に...... 全部、全部あげたのに......私のすべてを、あなたにあげたのに......なんでこんな仕打ちするの......」 侑子はその場に座り込み、声を殺して泣き続けた。 そしてしばらくしてから、まるで魂が抜けたかのような表情で部屋へ戻る。 彼女はスマホを取り出し、従妹に電話をかけた。 頼れる人なんて他にいなかった。 彼女がいつも
修は、アメリカ現地の組織に協力を仰いでいた。 ここで若子を探すには、どうしても彼らの力が必要だった。 現地に詳しく、豊富なリソースや地下のコネクションを持ち、広範な情報網を使って様々な情報を集めることができる。 SKグループもアメリカで大規模なビジネスを展開しており、各地の勢力と取引があった。 その関係を通じて、ニューヨーク中の監視映像を調べあげた。 たしかに若子が運転していた車は確認できた。だが― その車がどこに向かったのか、最終的な目的地までは追えなかった。 ニューヨークのカメラ網は完全じゃない。 商業エリア、政府機関、重要施設や交通の要所などにはカメラが設置されているが、住宅街や人口の少ない郊外では設置率が極端に低く、場合によっては全くない場所もある。 映像を頼りに可能性のある経路を一つずつ洗い出し、あらゆる手を尽くしていた。 確実に言えることは―若子は失踪した、という事実だった。 電話も繋がらない。 彼女が乗っていた車も消えていた。 異国の地で、ひとりの女性が忽然と姿を消す。 それがどれほど恐ろしいことか。 どんな目に遭っているか、想像すらしたくない。 修は、眠ることもなく、ただひたすらに若子を探し続けていた。 アメリカには、人の気配がまったくない土地が無数にある。 広大な砂漠も。 誰かに殺され、砂漠に埋められれば―きっと、誰にも見つけられない。 ......そんなこと、あってたまるか。 若子がいなくなったら、自分も生きていけない。 今、彼らは人の気配がほとんどない砂漠地帯の一角で捜索を行っていた。 若子の走行ルートから推測すれば、彼女がこのあたりに来ている可能性は高い。 ただし、それも確実ではない。 ここはあくまで「候補のひとつ」にすぎない。 だが、それでも―ひとつずつ、確かめていくしかなかった。 捜索隊は特殊な機器を使い、砂漠の地表を調べていた。 地中に何か不審なものが埋まっていないか、細かく確認していく。 修は、その広大な砂漠の中をさまよっていた。 まるで魂の抜けた亡霊のように、苦しげな眼差しをさまよわせながら― やせ細った体は風化した岩のように荒れ、乾燥しきった肌は枯れ葉のようにひび割れていた。 唇には血がにじみ、よろよろと
突然、乾いた空気を切り裂くように、誰かの叫び声が響いた。 「砂の下に、人がいるぞ!」 その言葉を聞いた瞬間、修は狂ったように駆け出した。 途中、何度も転びながらも、必死に立ち上がる。 まるで全身をすり減らしながら、呼吸も忘れて走った。 そして、ようやく指差された場所へたどり着いた。 ―衣服の一部が、砂の下から覗いていた。 修の心臓が、まるで見えない手でぎゅっと握り潰されるように締めつけられる。 その目は恐怖と茫然に染まり、絶望と痛みが怒涛のように押し寄せ、魂を押し流していく。 彼は崩れるように両膝を地面に突き立て、震える手で砂に手をついた。 そして― そのまま、発狂したように手で砂を掻き始めた。 焦燥と恐怖が胸を支配し、心が張り裂けそうになる。 ひと掻き、またひと掻きと砂を除けるたび、時間が無限に引き延ばされていくような錯覚に陥る。 ―その一粒一粒が、心を千切り裂く刃だった。 「藤沢さん、やめてください!」 数人の男が駆け寄り、彼を止めようとする。 けれど、修の手はすでに血まみれだった。 指先は裂け、爪は剥がれ、手は真っ赤に染まっていた。 「離せ、離せって言ってるだろ!」 修は、もう何も見えていなかった。 体力も尽き果てていたはずなのに、どこからか底知れぬ力が湧き上がって、二人の男を振りほどき、再び地面に這いつくばった。 膝をつき、砂に指を滑らせながら、ただひたすらに希望を探していた。 「藤沢さん、俺たちが掘るよ。道具もあるし、少しだけ下がってください」 「ダメだ!」 修は怒声を張り上げる。 「お前らじゃダメだ!傷つけちまうだろ!どけ、全部俺がやる!」 もはや、常軌を逸していた。 目は血走り、今にも血の涙がこぼれそうだった。 誰も何も言えなかった。 埋められた人間が無事なわけがない。 仮に掘り起こしたとして、それは「生きている」とは呼べないものだ。 だからこそ、「傷つけるかどうか」なんて、もはや意味のないことだった。 そんな冷静な意見を、誰も口にできなかった。 狂気に満ちた修の姿を見て、何人かは無言で手袋をはめ、自ら手で掘り始めた。 しばらくして、砂の下から、ようやく一つの人影が姿を現す。 それは、腐敗が進んだ遺体だった。
修は、うつろな意識の中で空に手を伸ばした。 人差し指が―あの幻の彼女と、触れ合った気がした。 見上げる蒼穹をじっと見つめながら、その瞳は疲れ果てながらもどこまでも優しかった。 その眼差しには、果てしない想いと探し求める心が込められていた。 「......若子」 ぽたり、と彼の手が地面に落ちた。 目を閉じ、そのまま意識を失う。 「藤沢さん!藤沢さん!」 慌てた数人がすぐに駆け寄り、倒れた修を抱き上げ、車へと運んでいった。 ― 午後。 別荘は明るい陽光に包まれていた。 空は宝石のように澄んだ蒼で、白い雲が羽のようにゆっくりと舞っている。 周囲の緑豊かな木々と色とりどりの花が織りなす風景は、美しく香り高い。 だが、別荘の内部はまったく別の世界だった。 鋭くぶつかる音、物が叩きつけられる音が絶えず響き渡り、その空間に暴力的な不安が充満していた。 まるで、外の穏やかさとは真逆の―混沌と怒りの世界。 部屋の中では子どもがわんわん泣いていた。 慌てた使用人たちは、泣き声がリビングに届かぬよう、遠くの部屋へ連れて行くしかなかった。 彼らはこんな西也を見たことがなかった。 若子がいた頃の彼は、いつも穏やかで優しく、誰にでも微笑みを向けていた。 だが、今の彼は違う。 まるで怒りに支配された獣。 顔にはまだ傷跡が残り、その表情は荒れ果てていた。 目には凶暴な炎が宿り、眉間には険しい皺が刻まれ、唇はきつく結ばれている。 その怒気は空気を震わせるほど濃く、雷鳴のような苛立ちが周囲を飲み込んでいた。 その端正な顔立ちは、今や憤怒に歪み、まるで嵐に削られた岩のようだった。 「クソッ、藤沢......!絶対に許さない......!」 手にしたグラスの中で、赤いワインが揺れていた。 それはまるで、血のように―復讐と怒りに燃える色だった。 西也はワインを一口飲む。 その酸味が舌に広がる。 目の奥には危険な光が灯り、まるで狩りの前の獣― 残忍で、冷酷。 アルコールが怒りに火を注ぎ、彼はますます抑えがきかなくなる。 まるで檻に閉じ込められた猛獣のように、暴れ出す寸前だった。 イライラとした手つきで、シャツのボタンをいくつか外す。 露わになった胸は呼吸に合わせて
ちょうどその時、部下の一人が慌ただしく駆け込んできた。 部屋の中は荒れ放題で、床にはガラスの破片が散らばっていた。 部下はその破片を慎重に避けながら、西也の前に立つ。 「遠藤様、藤沢さんが......砂漠へ向かったそうです」 西也はすぐに彼の腕を掴んだ。 「見つかったのか?」 部下はかぶりを振る。 「いえ......まだ、見つかっていません」 西也もまた、若子の行方を追っていた。 だが、手がかりはどこにもなかった。 携帯も繋がらず、完全に行方不明。 だからこそ、彼は修の動きを追うよう命じていた。 修がどんな手を使って探しているのかを、すべて把握するために。 ―最初は、修には若子が一度無事を知らせてきたことを、あえて知らせなかった。 若子が無事でいて、ただ一人になりたくて姿を消しただけなら、修が彼女を追い回すほど、かえって嫌われると思ったから。 そしてそのタイミングで自分が現れれば―若子を連れて帰ることができる。 もし本当に何か起きていたなら、その時は修も一緒に捜索する戦力として使えばいい。 どちらに転んでも、自分にとって損はない。 ......だが、西也は心の底から、前者であることを願っていた。 若子が無事で、ただ一人で静かにしたかっただけ。 なのに修が無神経に探し回って、彼女を怒らせてくれれば、むしろ好都合― そんなふうに思っていた。 だけど、今の状況を見る限り― 若子は本当に、危険な目に遭っているのかもしれない。 怒り、憎しみ、不安、焦燥。 いろんな感情が西也の胸でぐちゃぐちゃに絡まり合い、今にも暴れ出しそうだった。 まるで心の中に一頭の獣が棲みついて、荒れ狂っているようだった。 その時だった。 遠くから、かすかな赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。 「......泣いてる?」 西也は床のガラスを踏みつけながら、外へ駆け出した。 庭の角を曲がると、ひとりの使用人が赤ちゃんを抱いてあやしていた。 「よしよし、泣かないで......お願いだから、もう泣かないで......」 「何してる!」 怒鳴り声が響いた。 使用人はビクッとして顔を上げる。 「え、遠藤様......」 その声に、子どもはさらに激しく泣き出した。 西也はそ
もしかすると―驚かせてしまったのかもしれない。 暁は、さらに激しく泣き始めた。 口を大きく開けて、嗚咽のように大声で泣いている。 「泣かないでくれよ、な?暁、パパが抱っこしてるじゃないか。 いつもはママが抱っこすると泣くくせに、パパが抱いたら泣き止んでたじゃないか。これまでずっとパパが面倒見てたんだぞ?そんなに悪かったか?なんで泣くんだよ...... ......まさか、藤沢のこと考えてるのか?」 その瞬間、西也の目が、獣のように鋭くなった。 「教えてくれ、そうなのか?あいつのことを想ってるのか?奴が......おまえの本当の父親だから? 違う......違うんだ、暁。俺が、おまえの父親だ。ずっと、ずっとおまえとママのそばにいたのは、この俺なんだ。あいつは、おまえの存在すら知らなかったくせに......女たちと好き勝手してたんだ。 暁、おまえが大きくなったら、絶対に俺だけを父親だと思うよな? 藤沢なんて、父親の資格ないんだ......そんなやつが、おまえの父親であってたまるか。 父親は俺だ!俺しかいないんだ! 暁、目を開けて、よく見ろ......この俺が、おまえの父親なんだよ! 泣くなよ......な?頼むから、泣かないで」 けれど、どれだけあやしても―暁の涙は止まらなかった。 「やめろって言ってんだろ!!」 西也はついに怒鳴りつけた。 「これ以上泣いたら......おまえを、生き埋めにしてやるからな!」 狂気をはらんだ眼差しで睨みつけた。 その瞬間― 暁の泣き声が、ぴたりと止まった。 黒く潤んだ瞳が、大きく見開かれたまま、まるで魂が抜けたように無表情になる。 動かない。 光が消えたようなその瞳を見て、西也ははっとした。 「......暁、どうした?パパだよ、わかる?」 西也はその小さな頬に手を添え、そっと撫でた。 「ごめんな、怖がらせたよな。パパ、怒ってたんじゃないんだ。ちょっと......ほんの少し、気が立ってただけなんだ」 西也は涙混じりに頬へ口づける。 「ごめん、本当にごめん。パパ、もう怒らないから。だから、お願いだから......怒らせるようなこと、しないでくれよな?」 子どもは、もう泣いていなかった。 ぐずりもせず、ただ黙っていた。
西也の心は―まるでとろけるようだった。 「暁、今の......パパに笑ったのか?もう一回、笑ってくれるか?」 声が震えていた。 嬉しくて、感動して、涙が出そうだった。 暁が笑ったのは、これが初めてだった。 しかも、それが自分に向けられた笑顔。 初めて、「父親としての喜び」を、はっきりと実感した瞬間だった。 これまでどれだけこの子を大切にしてきたとしても― 心のどこかで、わずかに隔たりがあったのは事実だった。 この子は、自分の子ではない。 修の血を引いている子だ。 若子への愛ゆえに、この子にも愛情を注いできた。 そうすれば、彼女にもっと愛されると思っていた。 けれど、今― 暁のその笑顔を見た瞬間、彼は心から思った。 ―愛してる。 たとえ血の繋がりがなくても。 たとえこの子が修の子でも。 そんなことは、どうでもよくなった。 ただ、この子が笑ってくれれば―それだけで十分だった。 暁は再び笑った。 その澄みきった瞳が、きらきらと輝いていた。 笑顔はまるで小さな花が咲くようで、甘く香って心を満たしてくれる。 その笑い声は鈴のように澄んでいて、胸の奥まで響いた。 その無垢な笑顔は、生きることの美しさと希望を映し出していて、誰もが幸福に満たされるような魔法を持っていた。 「暁......俺の可愛い息子」 西也はそっと指先を伸ばし、彼のほっぺたを撫でる。 まるで壊れてしまいそうなほど繊細な肌に、細心の注意を払いながら。 「おまえは本当にいい子だ。パパの気持ち、ちゃんとわかってくれるんだよな...... ママは、わかってくれなかった......あんなに尽くしたのに」 暁は小さな腕をぱたぱたと動かし、雪のように白い手が宙を舞う。 まるで幸せのリズムを刻むように。 「......パパの顔、触りたいのか?」 西也は優しく微笑んで、顔を近づけた。 暁の小さな手が、ふわりと西也の頬に触れる。 その目には喜びと好奇心に満ちていて、純粋な視線でじっと彼を見つめていた。 まるで、この広い世界を初めて覗き込んでいるかのように。 恐れも、警戒もなく、ただまっすぐな瞳で西也を見つめる。 その瞳は、一点の曇りもない。あるのはただ、「知りたい」という気持ちだけ
若子はその場を追いかけたくてたまらなかった。けれど、足はまるで鉛を詰められたように重くて、動くことができなかった。 ―ダメだ。私はもう、修を追いかけちゃいけない。 彼との関係は、もう終わったんだから。 彼には山田さんがいる。もう自分とは終わっている。だったら、いっそ嫌われて、憎まれたままでもいい。 その方が、きっと彼のためになる。 そんな思いで立ち尽くしていた若子の背後から、ふわりと誰かが彼女を抱きしめた。 「若子......信じてくれてありがとう。俺を信じてくれて、本当に......ありがとう」 西也の声だった。 最終的に、若子は彼の言葉を選んだ。それだけで彼の中に、確かな勝利の実感が湧いてきた。 その口元には、ふっと得意げな笑みが浮かんでいた。 ―藤沢、お前は俺に勝てない。 俺は若子を傷つけたりしなかった。ずっと彼女のそばにいて、支えてきたんだ。暗闇の中で手を差し伸べてきたのは、この俺だ。 それに比べて、お前はずっと彼女を泣かせてきたじゃないか。 だが― 若子はその腕を、ギュッと掴んで無理やりほどいた。 「西也......本当に......本当にボディーガードを連れて、銃まで持って修のところに行ったの?本当に......傷つけるつもりだったの?正直に話して」 さっき、修にあんなふうに言ったのも、完全に信じてなかったわけじゃない。 もう修を信じるか信じないかは、正直どうでもよくなっていた。彼には侑子がいて、子どもまでいる。今さら自分が何を言ったところで、どうにもならない。 西也の呼吸が乱れた。肩がわずかに震え、若子の肩を強く掴む。 「若子、俺のこと信じてないのか?......まさか、あいつの方を信じてるのか?」 さっきまで自分を選んでくれたと思っていたのに、まるで手のひらを返されたような気がして、胸の奥がずきりと痛んだ。 「西也......お願いだから、本当のことを言って。本当に銃を持って行ったの?」 二人のうち、どちらかが嘘をついている。でも、どっちなのか、若子にはもうわからなかった。考えれば考えるほど、混乱するだけだった。 「......銃は、持って行った。けど、それは俺のボディーガードが持ってたやつで、護身用なんだ。アメリカじゃ銃の携帯は普通だし、もし危険な目に遭った
若子はしばらく黙って考え込んだ。そして、ゆっくり顔を上げて修を見つめた。 「でも......あのとき、あなたは本気で西也が死ねばいいって思ってた。私に、西也の心臓を桜井さんにあげるようにって、同意を求めたよね」 西也の口元がぐいっと吊り上がる。得意げな笑みを浮かべて、ほっと息をついた。 ―若子は俺のことを信じてくれたんだ。 藤沢修、お前なんかに勝ち目あると思った? 前には桜井雅子、今度は山田侑子。お前がこれまでやってきたこと、どれを取っても正当化できないし、言い逃れもできない。 その一方で、俺は若子にとっての理想の男だ。お前が俺に勝てる要素、どこにある? 若子の言葉は、修の胸を鋭く突き刺した。 「若子......それは......昔のことだ。もう何年も前の話だよ。それと今は別だ。あれはあれ、これはこれなんだ」 「でも、あなたは確かにそうした。確かに―あのとき、あなたは西也に死んでほしいと思ってた。これは事実でしょ?」 修は口をつぐむ。否定できるはずもなかった。あの頃、西也のことを心の底から憎んでいた。そして、雅子が心臓移植を必要としていたタイミングで、西也が倒れた。 これは「チャンス」だと思ってしまった。雅子を助けるには、西也の心臓を......その考えが頭をよぎったことを、否定なんてできない。 ―自分の中の醜い部分。もし誰もがそれを晒されたら、きっと誰も「人間らしく」なんて言えなくなる。 「若子......あれは、あのときの話だ。彼の命が消えかけてたから、俺は......ああ言った。けど、俺は手を下してない。殺してもないし、傷つけてもない。常識的に、そうするのが正しいと思っただけなんだ」 「常識、ね......」 若子はその言葉を聞いて、吐き気がしそうになった。 「修......あなたにとって、西也の治療を諦めることが『常識』なの? だったらもう、これ以上言わなくていいよ。きっと、あなたの心のどこかが後ろめたかったんでしょ?だから西也があなたの元を訪ねてきたとき、勝手に『殺しに来た』って思ったんじゃない?」 「......」 修はふらりと数歩、後ろに下がった。 何もかもが空っぽになったようだった。胸の中から、心臓ごと引き抜かれたかのように。 若子からの言葉。何度も、何度も突き刺さっ
若子のその言葉は、どちらにも肩入れしない「中立」なものだった。 誰が正しいのか、彼女にはわからなかった。だって、その場にいなかったから。修の言い分も、西也の言い分も、どちらも聞いてみれば筋が通っているように思える。 ただ、どちらも誤解していただけだったら―そう願わずにはいられなかった。 西也は修のことを誤解していて、修も西也の護衛が武器を持っていたことで、逆に西也を疑った。ふたりの関係はもともと悪くて、敵意に満ちていた。だから、極端な判断をしてしまったとしても不思議じゃない。 「こいつは本当にやったんだ。侑子まで捕まえて、あと少しで殺されるところだったんだぞ」 修の声には怒りと悔しさが滲んでいた。 だけど、若子の中でその言葉は、ただの「誤解」に聞こえてしまった。 彼女にとっては、現場にいなかった以上、どちらかを一方的に信じることはできなかった。 それでも―自分の命をかけてくれた修の言葉を、疑ってしまっている自分に、彼はきっと傷ついている。 離婚してしまった今、彼女はもう修の味方ではない。 かつてなら、迷わず彼を信じていたはずなのに。 「濡れ衣だ!」西也が激しく声を上げた。「若子、こいつの言うこと信じるな!こいつは嘘をついてる!それに、もし俺が本当に殺すつもりだったら、こいつなんて今こうして立ってられないだろ?あの時、屋敷に彼は一人だった。俺が殺そうと思えば、簡単にできた。でも、やらなかった!」 「それは、お前が油断してたからだ。俺が隙を見て銃を奪い返して、逆転したから助かっただけだ。あのままじゃ、俺も侑子も、確実に殺されてた。お前が死体を処理してしまえば、誰にもバレなかったはずだ」 「お前、よくもそんなでたらめ言いやがって!」 西也は怒りを抑えきれず、若子に向き直った。「若子、お願いだ、信じてくれ。俺がどんな人間か、お前ならわかってるだろ?こいつこそ、俺を殺そうとした張本人だ!」 「お前、忘れたのか?前に俺が事故に遭った時、こいつも含めて全員が、お前に俺の臓器を提供しろって迫ったんだぞ?こいつなんて、俺に早く死ねって言ってたようなもんじゃないか!」 西也は、思い出という武器で切り込んできた。 彼の言葉は、若子の心に鋭く突き刺さる。 あの時―病院で、全員が彼女に迫っていた。西也の命を見捨てて、誰か
修の声は驚くほど冷静だった。西也のように感情をむき出しにすることもなく、彼の言葉には一分の隙もなかった。 どこか、堂々として見えた。 その落ち着いた姿を見て、若子はふと、疲れを覚えた。 修と西也の喧嘩なんて、これが初めてじゃない。もう何度もあった。前なんて、レストランで暴れて警察沙汰になったことすらある。 どちらの肩を持とうと、結局ふたりの間の確執は終わらない。今回の乱闘だって、どうせこれが最後にはならない。 「修、西也、あなたたちもう大人でしょ?自分の行動には自分で責任持ちなよ」 若子の声には、明らかに苛立ちが混じっていた。 「また喧嘩して、これで何回目?私はもう知らない。どっちが先に手を出したとか、正直もうどうでもいい。やりたきゃ好きに殴り合えば?先に殴った方が、もう一発食らう。それでチャラにしなよ。私はあなたたちの母親じゃないの。毎回毎回、警察に駆けつけて後始末して......そんなの、もうごめんだから!」 西也は口を開けかけたが、若子の鋭い一言でぐっと黙り込んだ。 なにか言いたそうな顔をしていたけれど、その勢いはすっかり削がれてしまった。 彼の視線は自然と修に向き、そこに溜まった怒りの矛先をぶつけるように、じろりとにらみつけた。 ―でも、今回、若子は西也をかばわなかった。 修はそれを見逃さなかった。彼にとっては、これが逃せないチャンスだった。 「若子」 修が一歩前に出て、静かに言った。 「なんで俺の話は聞かない?どうして俺が西也を殴ったのか、その理由を考えてくれたことある?」 「藤沢、また話を捏造するつもりか?」 西也がすかさず口を挟んだ。 「捏造?お前、ビビってるのか?若子に話されるのが、そんなに怖いか?」 修は口元だけで笑って、続けた。 「お前、若子には言わないつもりだったんだろ?......あの夜、お前がどんな風に俺の家に乗り込んできたか。銃を持った連中を引き連れて、俺のこめかみに銃口突きつけたよな」 「な―」 若子が目を見開いた。 「西也......それ、本当なの?」 西也は眉をひそめて、必死に否定する。 「若子、違う!誤解だ、そんなことするわけない。確かに何人か連れて行ったけど、それは俺のボディーガードだよ。あくまで護衛で、武力を使うつもりなんてなか
修にとって、若子が西也を責める姿を見るのは、これが初めてだった。 彼は腕を組みながら二人を見つめ、目の奥に一瞬だけ安堵の色を浮かべた。 ―もしこれが昔だったら、若子は絶対に真っ先に西也をかばってた。 でも、今は違う。彼女は西也を守らなかった。 それだけで、少しだけ救われた気がした。 だけど同時に、不安の方が大きかった。 若子が西也をかばわなかったのは、ヴィンセントの存在があったからだ。 11年も一緒に過ごしてきた自分との関係すら壊して、西也をかばった若子が―たった数日で、ヴィンセントのために西也すら突き放すようになった。 それが、何より恐ろしかった。 ヴィンセントはまるで強引に入り込んでくる侵略者のように、既存の人間関係を簡単に壊してしまう。 「若子、お前......俺のこと、責めてるのか?」 西也の声は震え、目を見開いて彼女を見た。 「責めてるかって?ええ、そうよ。責めてるわ」 若子は疲れた表情で言った。ほんとは、こんなこと言いたくなかった。 でも、どうしても感情を抑えきれなかった。 物事がここまでぐちゃぐちゃになって、それでも「全部お前のためだ」なんて顔して、どんどん余計なことをして、混乱ばかりで、結局一番迷惑を被るのは若子だった。 「若子、あのときはお前が危ないって思って......電話で問い詰めるわけにはいかないだろ?もしそばに誰かいたらって思ったら......だから俺は、こっそり探しに行っただけで......俺だって、お前が心配だったんだ。理解してくれよ......それに、お前が夜に出かけたとき、俺には行き先がわからなかった。考えられるのは藤沢だけだった。そして実際、お前は彼に会ってた。お前の失踪は直接彼のせいじゃないかもしれないけど、彼と会ってなければ、そんなことにはならなかったんだ!」 「あなたが心配してくれてたのはわかってる。でも、自分のミスを正当化しないでよ!」 若子の声が一段と強くなった。 「西也......あなたといると、ほんと疲れる」 「......っ」 その一言が、西也の胸に深く突き刺さった。 「ミス」とか「疲れる」なんて―若子の口から、そんな言葉が自分に向けて出てくるなんて、思ってもいなかった。 彼は信じられないような表情で、ただ彼女を見つめるしか
若子の眉がピクリと動く。 「......彼が殴ったの?」 彼女はゆっくりと修に視線を向けた。 「またやったのね?」 「また」―その一言が、なんとも言えない絶妙な皮肉だった。 正直、ふたりの喧嘩なんて何度目か分からない。もう若子自身も慣れてしまっていた。修が西也を殴って顔を腫らしたとしても、正直、そんなに驚きはなかった。 修は、黙って若子の目を見つめ返す。彼女が自分を責めるつもりだと、わかっていた。 「......ああ、殴ったよ。でも、理由がある」 「理由?」 と、割り込むように西也が口を開いた。 「若子、俺はただ......お前が心配だったんだ。電話はもらってたけど、どうしても不安で......それで、こいつが何かしたんじゃないかって疑って、会いに行った。そしたら、いきなり殴られたんだ」 彼は言葉巧みに語る―が、もちろん真相は違う。 武装した連中を引き連れて、銃を突きつけながら修の家に押し入ったのは、まぎれもなく西也の方だった。 だが、それを言うはずもない。 たとえ修が暴露したところで、「証拠は?」としらを切れば済む話だ。 修は黙ってその顔を見ていた。黒を白と言いくるめるその口ぶりに、内心では呆れていた。 若子は黙ってそのやり取りを聞いていたが、眉間に深いしわを刻みながら、口を開いた。 「......西也。私、電話で『無事だから』ってちゃんと言ったわよね?どうして修のところに行ったの?」 西也の胸に、ひやりと冷たいものが走った。 ......若子、どうしたんだ? これはおかしい。こんなの、彼女らしくない。 本来なら、修に殴られたと聞いて真っ先に怒るはずだ。 「なんでそんなことするのよ!」って修に怒鳴って、もしかしたらビンタの一つも飛ばしてたかもしれない。 なのに―どうして、こんなにも冷静に俺を問い詰める? 修もまた、想定外の反応に言葉を失っていた。 まさか、若子の第一声がそれだなんて、思ってもみなかったのだ。 若子はじっと西也を見つめながら、続けた。 「電話で、ちゃんと伝えたよね?一週間後には帰るって。はっきりそう言ったはずなのに、口では『わかった』って言っておいて、その足で修に連絡して、修まで私が何かあったって思い込んで......それでふたりしてヴィンセン
「若子......もし、もし俺が言いたいことが―」 「若子!」 そのとき、西也が風のように走ってきた。まるで矢のような勢いで。 「若子、大丈夫か!?怪我は!?無事か!?」 修はぐっと息を飲み込み、握りしめた拳に力が入った。 また―またか。なぜこいつは、どこにでも現れるんだ。まるで悪夢のように。 「私は平気よ、心配しないで」 若子はそう言うと、ふたりの男を順番に見つめた。 「ちょうどよかった。ふたりとも揃ったところで、はっきり言っておくわ。ヴィンセントさんは、私の命の恩人よ。だから、どちらも彼を傷つけることは絶対に許さない。もし彼に何かしたら、私は......絶対に許さない」 その声には、これまでにないほどの強さが宿っていた。 ふたりの男は、一瞬言葉を失った。 今までは、何をしても若子は怒らなかった。なのに、いま彼女は、明確に「NO」を突きつけてきた。それも、他の男のために― 修と西也がいがみ合っている間に、彼女の心には、冴島千景という新たな存在が入り込んでいた。 こんなこと―あり得るのか? だが、西也はすぐに切り替えた。彼は、こういうとき、反射的に「正解」を選べる男だ。 「わかった、若子。俺はもう絶対に彼を傷つけたりしない。彼がお前の命を救ってくれたなら、それは俺の恩人でもある。だってお前は、俺の妻であり、俺の子の母親なんだから」 その言葉を聞いて、若子の視線が修の方へと移る。 修は静かに息を吐いて言った。 「......もし俺が彼を殺したかったなら、あの手術は成功してなかったさ。そこは信じてくれ」 ふたりの男が、揃って約束を口にする。 その場に、不思議な静寂が流れた。 若子は修と西也の顔を順に見つめた。 ......昨夜のあの怒りが、ふと胸に蘇る。 このふたりには、本当に怒り狂いそうだった。彼らが無理やりに踏み込んできて、ヴィンセントに銃を向けたあの瞬間を思い出すだけで、胸がギュッと締めつけられる。 あのときは―文句のひとつやふたつじゃ済まさないって、本気で思った。 手術が終わったら、きっちり叱り飛ばしてやろうと。 ......でも。 今こうして、目の前にいるふたりの男は、どちらも申し訳なさそうに頭を垂れていた。 昨夜のことが嘘のように、静かに彼女の前で
若子は、ついにうんざりしたようにため息をついた。 修は視線を落とし、どこか寂しげに呟く。 「......わかった。じゃあ、言ってみて。お前の言葉、ちゃんと聞くよ」 あいつがまともな男だとは思えない。でも、若子がそこまで言うなら―せめて聞いてみたくなった。 「彼は......一週間だけ一緒にいてほしいって言ったの。ただ、ご飯を作ったり、掃除をしたり......それだけ。それ以上のことは何もなかったの。彼は私に何もしてない。傷つけたりなんて、絶対に......ただ、すごく寂しかっただけ。誰かに、そばにいてほしかったんだと思う」 若子はゆっくりとガラスの向こう―病室の冴島千景に目を向けて、静かに続けた。 「彼、昔......妹さんがいたの。でも、その子を亡くしてしまって......だから私を、妹のように見てた。それだけ。あなたが考えてるようなことじゃないの」 その言葉を聞いた修は、ようやく少し肩の力を抜いた。 ―少なくとも、若子が傷つけられたわけじゃない。それだけで、少しだけ安心できた。 「......じゃあ、あいつが目を覚ましたら?お前はどうするつもりなんだ」 「当然、看病するわ。命を救ってくれた人だもん。絶対に回復させてあげたい。どんな形であれ、私は......彼に恩を返したい」 その言葉に、修の胸にチクリとした痛みが走る。 「彼をそんなに心配して......じゃあ俺はどうなんだよ、若子」 思わず、彼女の腕を掴む。 「この前、お前が誘拐されたとき、俺だって命懸けで助けに行った。死にかけたんだ。それなのに、お前は遠藤を選んだ。あの時、俺がどんな思いで―!」 「......あなたが私に、その選択の余地を与えたの?」 若子の声が鋭く割り込む。 「確かに、私は西也を選んだ。でもそれは、選ばなければ誰も助からなかったから。あの時、どっちかを選べって言われたの。選ばなきゃ、ふたりとも死ぬって言われたのよ。 私は、何度も言ったよ。どっちを選んでも苦しかったって。本当は、私が死ねればよかった。でもそれは許されなかった。だから、あなたを傷つけたこと......謝りたかった。だから、あなたを探して、何度も会おうとした。 だけど、あなた......絶対に会おうとしなかったじゃない。私がどれだけ探しても、避け続けた。
若子は慌てて自分の体を見下ろした。 服は―ちゃんと着ていた。乱れもなく、整っている。修の方も、ちゃんと服を着ていた。 「......昨日の夜、私に......何かあった?」 「倒れたからさ、ここで休ませたんだ。すごくぐっすり眠ってたよ」 修は、彼女が不安がらないように、穏やかに説明した。 若子は自分の服を見つめた。どこもおかしくない。きちんとしてる。 「この服......着替えさせたの、あなた?」 修の表情が一瞬止まる。昨夜、自分がしてしまいかけたことが脳裏に浮かび、胸がきしんだ。あの時のことを思い出すだけで、後悔と罪悪感に押しつぶされそうになる。 彼は若子の目をまっすぐに見られず、少し目をそらして答えた。 「......女の看護師に頼んだ」 若子はほっと息をついた。 やっぱり昨夜感じたあの感覚―誰かがキスしてきたような、全身が包まれたような、あれは......夢だったのかもしれない。 「......昨日の夜、ずっと一緒にいたの?」 「うん。お前の様子が心配だったから、ここにいた」 修の返事は短く、でもどこか優しかった。 若子は少し不思議そうな顔をした。何か聞こうとした瞬間、ふと思い出す。 「―そうだ、ヴィンセントさん!彼は無事なの?!」 「......一命は取り留めた。今はICUにいる」 その言葉を聞いた瞬間、若子は深く息を吐き、すぐにベッドから降りようとシーツをめくった。 「会いに行く。今すぐ」 彼女が部屋を出ようとすると、修もすぐに追いかけてきて、手を伸ばす。 「若子!」 彼女の腕を掴んだ。 振り向いた若子が問う。 「......なに?」 「今の状態じゃ、会えるわけない」 「外から見るだけでもいいの」 そのまま修の手を振りほどき、若子は病室を出ていった。 ICUに着いた若子は、硝子越しに千景の姿を見つけた。 彼はベッドに横たわり、身体中に医療機器が繋がれていた。心電図のモニターが、規則正しく音を立てている。 若子はそっと硝子に手を当て、ため息を漏らした。 「......ごめんね。私のせいで、こんなひどいケガをさせちゃって。ちゃんと治ってね......まだ、1万ドル返してないんだから......」 その呟きに反応したのか、後ろから修の声