LOGIN「来週から韓国。1週間」
夕食の席で、崇は目を合わせずに言った。
箸が、一瞬止まった。
「韓国? 急だね」
「ああ。先方の工場でトラブル。うちの部署から誰か出せって」
崇の部署は国内営業だ。海外案件は別のフロアの仕事のはず。
海外出張なら、いつも総務から日程表が来る。航空券の時間、現地の連絡先、泊まるホテル。
新婚旅行のあとに一度だけ台湾へ出張したとき、崇は印刷した予定表を冷蔵庫へ貼っていた。
今回は、何もない。
「飛行機、何時?」
「まだ最終調整中。会社で取るから」
「泊まる場所は?」
「先方が用意する。決まったら送るよ」
答えは返ってくる。でも、確認できるものはひとつも返ってこなかった。
でも、私が「そうなの?」と聞き返すより早く、崇は続けた。
「香織に手伝い頼んどいたから。美咲、ワンオペきついだろ」
「……香織に? もう?」
「昨日、たまたま連絡来たからさ」
たまたま。
香織。妹の遠野香織(とおの かおり)のことだ。
夫が出張を知った翌日に、妹から連絡が来る。
そこだけを切り取れば、偶然で説明できる。
けれど、私がまだ知らなかった予定を、香織はもう知っていた。
その言葉を、私はそのまま飲み込んだ。妹が兄夫婦を気にかけてくれる。ありがたい話のはずだった。
……
香織は次の日の夕方、大きなエコバッグを提げてやってきた。
「お姉ちゃん、はい、これ陽翔くんの好きなゼリー。あと崇さんが好きなやつ、お惣菜のとこの唐揚げ」
「え、覚えてたの? あの唐揚げ」
「前に食べておいしいって言ってたじゃん」
香織はフリーランスのデザイナーで、時間の融通が利く。垢抜けていて、気が利いて、陽翔にも懐かれている。
「1週間ずっと来てもらうのは悪いよ」
「泊まらないよ。火曜と木曜は幼稚園バスのお迎えに間に合うから、そのまま夕飯とお風呂まで手伝う。土曜は陽翔くんを公園へ連れていく。それなら、お姉ちゃんも買い物できるでしょ」
具体的な曜日まで、もう決めていた。
助かる予定だった。
陽翔の迎え、夕飯、入浴。その3つが2日分減るだけで、1週間の重さはかなり違う。
「ありがとう。本当に助かる」
「姉妹なんだから、当たり前」
香織は、私がいちばん欲しかった言葉を、いつも迷わずくれた。
両親が遠方へ引っ越してから、何かあれば真っ先に駆けつけてくれるのは香織だった。陽翔の発熱で私が一晩眠れなかった翌朝も、連絡ひとつで来てくれた。
だから今回も、崇が先に頼んだことより、助けてもらえる安心のほうを選んだ。
台所に立つと、香織は迷いなく引き出しを開けた。菜箸の場所も、ラップの場所も、聞かずに手が伸びる。
「香織、うちの台所、私より詳しくない?」
「何回も来てるもん」
たしかに、何回も来ている。
陽翔が生まれた直後は、週に3回来てくれた。私が熱を出したときは、冷蔵庫へ3日分のおかずを並べて帰った。
崇が残業の日も、香織がいれば夕食の席は明るかった。
信じない理由なんて、ひとつもなかった。
笑い合った。そのときは、本当にただ、笑い合った。
……
夜、陽翔を寝かしつけたあと、私はスマホで新しいアカウントを作った。
理由は、たいしたことじゃない。ママ友には愚痴れないことを、どこか遠くに吐き出したかっただけ。名前も顔も出さない、匿名の場所。
プロフィールには、年齢も住んでいる場所も書かなかった。
【育休中。3歳児の母。夫の帰りは遅め】
それだけ。
崇の名前も、会社も、陽翔の写真も載せない。誰にも見つからない場所を作れば、少しくらい本音を出してもいい気がした。
初めての投稿は、30秒で書けた。
【夫が急に海外出張だそうです。育休中、ワンオペ確定】
フォロワー、0人。
誰も見ていない画面を少し眺めて、私はスマホを伏せた。
このアカウントが3カ月後にどうなっているか、そのときの私は知らない。
……
出発の前夜、香織はまた来てくれた。
リビングに崇のスーツケースが開いていて、香織がその横に膝をついていた。
「香織?」
「あ、お姉ちゃん。荷造り手伝ってた。崇さん、こういうの雑だから」
畳んだシャツが、角をそろえて収まっていく。下着の位置、充電器の位置、迷いのない手つき。
「崇さん、胃薬は外側のポケットでいいよね」
「うん。あと、充電器は黒いほう」
2人の会話に、私の知らない確認が混じる。
「胃薬なんて飲んでたの?」
「最近、接待のあと胃が重いって言ってたから」
香織が答えた。
夫の体調を、妻ではなく妹から教えられた。
胸に小さな引っかかりができた。でも、心配してくれているだけだと、自分で丸く削った。
「お姉ちゃん、崇さんのネクタイどれ持ってく?」
そう聞きながら、香織の手はもう、紺のストライプを選んでいた。
崇が海外に行くときに締める、お気に入りの1本。
私はそれを、結婚してから知った。妹は、いつ知ったんだろう。
——そんなことを考えた自分に驚いて、私は慌てて打ち消した。
考えすぎだ。妹だもん。何回もうちに来てるんだもん。
「それでいいと思う」
私はそう言って、笑った。
香織も笑った。
荷造りを手伝う妹は、崇のスーツケースの中身を、なぜか私より知っていた。
神崎が代表を務める会社との、初めての打ち合わせは思ったより、ずっと事務的だった。画面越しに現れたのは担当者だという若い女性で、代表者本人は最後まで出てこなかった。匿名性の配慮、登壇の形式、謝礼の金額。淡々と条件が並んでいく。「代表はいつもこういった実務はほとんど現場に任せていまして」「そうなんですね」「ただ、美咲さんの発信については代表自身が以前から注目していたと聞いています」その一言に少しだけ、引っかかった。以前から。どれくらい前から、という質問はなんとなく、口に出せなかった。
翌朝、昨夜の返信を読み返すと、「今度、書きますね」という自分の言葉が、小さな約束として残っていた。まる子さんへの返信を送ってから、数日が経った。その「いいこと」の答えを私は思いがけない形で、少しずつ、受け取ることになった。1つではなく、いくつもの小さな出来事が重なるようにして。……それからの3カ月、私は事務の試用期間を終え、寄稿の締切を守りながら、陽翔との生活を崩さない働き方をひとつずつ覚えた。大きな逆転は起きなかった。ただ、その積み重ねで、仕事は私たちの生活の土台になり始めていた。「結城さん、そろそろ、契約社員への切り替え、検討してもらえませんか」
崇が地方の実家へ戻ったことは、養育費の連絡先変更として、弁護士経由で知らされた。新しい住所と振込元口座。それだけが書かれた、短い事務連絡だった。見送りの言葉も労いの感傷も何もなかった。崇という人が私の人生の画面から、静かにフェードアウトしていく。かつて、あれほど大きく私の世界を占めていた人がいまは事務連絡の1行に収まっている。香織については、代理人を通じて私と陽翔、勤務先へ接触しないと回答があったあと、誰からも情報は入ってこなかった。行き先を告げずに独りで街を出た。それだけが私の知る最後の事実だ。寂しさがまったくないと言えば、嘘になる。姉妹として過ごした時間は確かに存在した。でもその寂しさはもう、私の日常を揺らす強さを持っていない。ただ、静かに心の奥のほうにしまっておける種類の感情だった。
翌朝、その投稿はすでに、崇のアカウントの外まで広がっていた。前夜に保存した文面は変わっていない。プロフィール写真には、少し痩せた崇の殊勝な顔が使われていた。短い投稿なのに、拡散だけが先に走った。コメント欄にはすでに何百件もの反応がついていた。【元夫、ちゃんと反省してるじゃん】【珍しいね、こういう素直な謝罪】【美咲さんとのこともしかして仲直りできるのかな】その最後の一文に私は静かに画面を閉じた。仲直り、という言葉の軽さに少しだけ、めまいがした。
画面に写っていたのは、2本の線が出た妊娠検査薬と、白いタオルだけだった。撮影日も、持ち主の名前もない。【これで崇さんに責任を取らせられるよね】私の返事を待たず、香織は続けた。【お姉ちゃんからも、逃げるなって言って】子どもができたかもしれない。その可能性まで、崇をつなぎ止める札として使っている。腹の底に、冷たい怒りがたまった。私は画像を保存し、念のため画像検索にかけた。数秒
崇が会社を辞めたと知ったのは、本人からのメッセージだった。【今日、退職届を出した】【全部、なくなった】添付も説明もなかった。会社が受理したのか、退職日がいつなのか、私には確認できない。それでも、崇が自分で「辞める」と書いた事実は残る。離婚届と同じだ。紙へ名前を書いた事実だけが、戻れない形で残る。