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2話

Author: Amy
last update publish date: 2026-08-03 10:20:18

「来週から韓国。1週間」

夕食の席で、崇は目を合わせずに言った。

箸が、一瞬止まった。

「韓国? 急だね」

「ああ。先方の工場でトラブル。うちの部署から誰か出せって」

崇の部署は国内営業だ。海外案件は別のフロアの仕事のはず。

海外出張なら、いつも総務から日程表が来る。航空券の時間、現地の連絡先、泊まるホテル。

新婚旅行のあとに一度だけ台湾へ出張したとき、崇は印刷した予定表を冷蔵庫へ貼っていた。

今回は、何もない。

「飛行機、何時?」

「まだ最終調整中。会社で取るから」

「泊まる場所は?」

「先方が用意する。決まったら送るよ」

答えは返ってくる。でも、確認できるものはひとつも返ってこなかった。

でも、私が「そうなの?」と聞き返すより早く、崇は続けた。

「香織に手伝い頼んどいたから。美咲、ワンオペきついだろ」

「……香織に? もう?」

「昨日、たまたま連絡来たからさ」

たまたま。

香織。妹の遠野香織(とおの かおり)のことだ。

夫が出張を知った翌日に、妹から連絡が来る。

そこだけを切り取れば、偶然で説明できる。

けれど、私がまだ知らなかった予定を、香織はもう知っていた。

その言葉を、私はそのまま飲み込んだ。妹が兄夫婦を気にかけてくれる。ありがたい話のはずだった。

……

香織は次の日の夕方、大きなエコバッグを提げてやってきた。

「お姉ちゃん、はい、これ陽翔くんの好きなゼリー。あと崇さんが好きなやつ、お惣菜のとこの唐揚げ」

「え、覚えてたの? あの唐揚げ」

「前に食べておいしいって言ってたじゃん」

香織はフリーランスのデザイナーで、時間の融通が利く。垢抜けていて、気が利いて、陽翔にも懐かれている。

「1週間ずっと来てもらうのは悪いよ」

「泊まらないよ。火曜と木曜は幼稚園バスのお迎えに間に合うから、そのまま夕飯とお風呂まで手伝う。土曜は陽翔くんを公園へ連れていく。それなら、お姉ちゃんも買い物できるでしょ」

具体的な曜日まで、もう決めていた。

助かる予定だった。

陽翔の迎え、夕飯、入浴。その3つが2日分減るだけで、1週間の重さはかなり違う。

「ありがとう。本当に助かる」

「姉妹なんだから、当たり前」

香織は、私がいちばん欲しかった言葉を、いつも迷わずくれた。

両親が遠方へ引っ越してから、何かあれば真っ先に駆けつけてくれるのは香織だった。陽翔の発熱で私が一晩眠れなかった翌朝も、連絡ひとつで来てくれた。

だから今回も、崇が先に頼んだことより、助けてもらえる安心のほうを選んだ。

台所に立つと、香織は迷いなく引き出しを開けた。菜箸の場所も、ラップの場所も、聞かずに手が伸びる。

「香織、うちの台所、私より詳しくない?」

「何回も来てるもん」

たしかに、何回も来ている。

陽翔が生まれた直後は、週に3回来てくれた。私が熱を出したときは、冷蔵庫へ3日分のおかずを並べて帰った。

崇が残業の日も、香織がいれば夕食の席は明るかった。

信じない理由なんて、ひとつもなかった。

笑い合った。そのときは、本当にただ、笑い合った。

……

夜、陽翔を寝かしつけたあと、私はスマホで新しいアカウントを作った。

理由は、たいしたことじゃない。ママ友には愚痴れないことを、どこか遠くに吐き出したかっただけ。名前も顔も出さない、匿名の場所。

プロフィールには、年齢も住んでいる場所も書かなかった。

【育休中。3歳児の母。夫の帰りは遅め】

それだけ。

崇の名前も、会社も、陽翔の写真も載せない。誰にも見つからない場所を作れば、少しくらい本音を出してもいい気がした。

初めての投稿は、30秒で書けた。

【夫が急に海外出張だそうです。育休中、ワンオペ確定】

フォロワー、0人。

誰も見ていない画面を少し眺めて、私はスマホを伏せた。

このアカウントが3カ月後にどうなっているか、そのときの私は知らない。

……

出発の前夜、香織はまた来てくれた。

リビングに崇のスーツケースが開いていて、香織がその横に膝をついていた。

「香織?」

「あ、お姉ちゃん。荷造り手伝ってた。崇さん、こういうの雑だから」

畳んだシャツが、角をそろえて収まっていく。下着の位置、充電器の位置、迷いのない手つき。

「崇さん、胃薬は外側のポケットでいいよね」

「うん。あと、充電器は黒いほう」

2人の会話に、私の知らない確認が混じる。

「胃薬なんて飲んでたの?」

「最近、接待のあと胃が重いって言ってたから」

香織が答えた。

夫の体調を、妻ではなく妹から教えられた。

胸に小さな引っかかりができた。でも、心配してくれているだけだと、自分で丸く削った。

「お姉ちゃん、崇さんのネクタイどれ持ってく?」

そう聞きながら、香織の手はもう、紺のストライプを選んでいた。

崇が海外に行くときに締める、お気に入りの1本。

私はそれを、結婚してから知った。妹は、いつ知ったんだろう。

——そんなことを考えた自分に驚いて、私は慌てて打ち消した。

考えすぎだ。妹だもん。何回もうちに来てるんだもん。

「それでいいと思う」

私はそう言って、笑った。

香織も笑った。

荷造りを手伝う妹は、崇のスーツケースの中身を、なぜか私より知っていた。

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