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1話

last update Veröffentlichungsdatum: 03.08.2026 10:20:12

親指が、画面の上で止まっている。

もう10分も、こうしている。

画面には、打ち終えた文章がある。

【いまから夫が浮気をします。これまでの全部を、さらします】

指先が冷たい。心臓の音だけが、やけに大きい。

押した。

1秒の静寂。

それから、通知が雪崩れた。

【えっ、どういうこと!?】

【待ってた。ずっと待ってました】

【奥さん、ついにやるんですね】

【拡散します。みんな見て】

【証拠、全部あるんですよね。見届けます】

画面が、震え続けている。リプライの数字が2桁になり、3桁になり、見たこともない速さで回り始める。

3カ月前には、フォロワーが1人もいなかったアカウントだ。

いまは、私が次の一文を打つのを、何千人もの人が待っている。

画面の向こうにいる人たちは、夫の顔も、私の本名も知らない。それでも、この3カ月、私が見つけたものを一緒に数えてくれた。

パスポート。レシート。カード明細。そして、最後の写真。

ここまで来たら、もう戻れない。

どうして、こうなったのか。

話は、3カ月前に戻る。

……

「陽翔、ほら、靴」

「じぶんで!」

3歳の息子、結城陽翔(ゆうき はると)は、最近なんでも自分でやりたがる。左右逆の靴を履き直させて、幼稚園バスに手を振って、それで私の午前が始まる。

バスが角を曲がるまで、陽翔は窓へ顔を押しつけて手を振る。見えなくなってから家へ戻ると、玄関には脱ぎ散らかした小さな靴と、夫の結城崇(ゆうき たかし)が揃えて置いた革靴が並んでいた。

私は、その光景が好きだった。

大人と子どもの靴が同じ家に並ぶ。それだけで、自分が作りたかった家庭を持てた気がした。

結城美咲(ゆうき みさき)、29歳。育休中。

復職予定までは、あと半年。昼間は陽翔の衣替えをし、夕方には幼稚園へ迎えに行く。崇の帰宅が遅い日は、夕食をラップで包み、陽翔と2人で先に食べる。

忙しくても、不満はなかった。

崇が働き、私がいま家を守る。陽翔がもう少し大きくなったら、また2人で働く。そういう途中にいるだけだと思っていた。

夫の崇は大手商社の営業マンで、朝は7時に出て、夜は遅い。

その夜も、遅かった。

「ごめん、接待」

玄関で崇はそう言って、私の横をすり抜けた。

その瞬間、ふわりと香った。

甘い匂いだった。私のものではない。花のような匂い。

私は陽翔が生まれてから、香水を使わなくなった。抱きついた頬に残るのが嫌で、柔軟剤も香りの弱いものへ替えた。

だから、その匂いがうちのものではないことだけは、すぐにわかった。

崇のワイシャツの肩に近づくほど、甘さが濃くなる。

接待の店で、隣に座った女性の香りが移っただけ。

まだ聞かれてもいない言い訳を、私の頭が先に作った。

「……お風呂、沸いてるよ」

「ん、先に入る」

崇はまっすぐ浴室へ向かった。

前は違った。どんなに遅くても、先に陽翔の寝顔を見に行く人だった。いつからだろう。帰ってきて、まっすぐ風呂に直行するようになったのは。

食卓に、崇のスマホが置かれた。

画面を下にして。

それも、いつからだろう。前は無造作に、画面を上にして放ってあった。陽翔の写真が待ち受けで、通知が来るたび、その寝顔が光っていたのに。

裏返されたスマホは、黒い板みたいに黙っていた。

短く震えた。

画面は伏せられたままで、誰からの通知かは見えない。

浴室のドアが開く音がすると、崇は濡れた髪のまま食卓へ来て、スマホを手に取った。

「仕事?」

「まあね」

画面を確認した指が、すぐに通知を消す。前なら「また部長だよ」と、見せもしないのに相手の名前くらいは口にした。

私は、それ以上聞かなかった。

浴室から、シャワーの音がする。

私は、裏返ったスマホを見ていた。手は伸ばさなかった。

疲れてるだけ。

接待が続いてるだけ。香水は、お店の女の子の隣に座っただけ。お風呂は、汗をかいたから。スマホは、仕事の連絡が増えたから。

ぜんぶ、説明がつく。

説明をつけているのが自分だということには、気づかないふりをした。

「美咲、ビールある?」

風呂上がりの崇の声は、いつもどおりだった。

「あるよ」

私の声も、いつもどおりに出た。ちゃんと、出た。

グラスを出しながら、自分に言い聞かせる。この人は陽翔のパパで、私の夫で、うちは、普通の幸せな家族だ。

冷蔵庫には、陽翔が描いた3人の絵が貼ってある。長い足のパパ。髪の長いママ。2人の間で、両手をつないでいる陽翔。

崇はその絵を見て、「俺、こんなに足長い?」と笑った。

その絵を捨てずに貼っている人が、家族を裏切るはずがない。そう思えば、胸の奥のざらつきに名前をつけずに済んだ。

私はグラスへビールを注いだ。泡が縁まで上がるのを待ち、崇の前へ置く。崇は「ありがと」と言ったが、私ではなくスマホを見ていた。

また短く、画面が震えた。

崇は伏せたままのスマホへ手を重ねた。まるで、私に見られてはいけないものを押さえ込むように。

笑える人だ。だから、大丈夫。

そう思いたかった。

3カ月後の私が知ったら、笑うだろうか。それとも、泣くだろうか。

あの夜の私は、まだ何も知らなかった。

——通知が、鳴りやまない。

指先の向こうで、世界がざわめき始めている。

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