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第4話

Author: ロータス
匠馬の視線は通知書に釘付けになっていた。

【死亡時刻:2025年10月10日、午前4時23分】

無意識に報告書を握りしめる手が震える。

「死んだ……?」声はひどくかすれ、自分でも気づかないほどの震えが混じっていた。「……本当に死んだのか?」

柳じいがうなだれ、低い声で答える。

「ええ、旦那様。病院でも間違いなく確認されました。石川夫人は……安らかとは言えぬ最後でございました」

匠馬の脳裏に、昨日見た死んだように空っぽなあの瞳がよぎった。そこには絶望はなく、すべてから解き放たれたような静かな諦めが浮かんでいた。

遅れて胸を押し潰すような鈍痛がじわじわ広がる。

だが、次の瞬間、紗希の母親のあの計算高い笑み、自分が目を覚ました時の体の熱と、下に横たわっていた女の怯えと混乱に歪んだ視線……そのすべてが「薬を盛られた」屈辱と怒りとなって一気に蘇る。

報告書をぐしゃりと握り潰し、床へ叩きつけた。

「死んでよかった!」声を張り上げ、誰にともなく吐き捨てる。そうすれば心の荒れが掻き消えるとでも言うように。「これ以上、金を無駄にせずに済む!母娘そろって、薬を盛って寝床に潜り込むやつと、病気を装って金を吸うやつ。とっくに死ぬべきだった!」

苛立ち紛れにネクタイを引きちぎるように緩めるが、胸の奥の重さはどうしても消えなかった。

「いなくなったなら、それでいい」虚ろなリビングに向かって怒鳴る。誰に聞かせるでもなく。「紗希……お前がいなくなったからって、俺が気にすると思うか?笑わせるな!」

深夜。

匠馬は浅い眠りの中で、突然胃に馴染みのある締めつけるような痛みが炸裂した。まるで今夜飲んだ氷入りのウイスキーへの報復のようだった。

一瞬で痛みに叩き起こされ、冷や汗が寝間着を濡らす。身体を丸め、本能のようにかすれた声を漏らす。

「紗希……薬……」

応えるのは、窓の外で風に揺れる木の葉のざわめきだけ。

痛みは波のように強まり、まるで誰かの手が胃を狂ったように引き裂いているかのようだった。匠馬は胃を押さえ、冷や汗がこめかみをつたい落ちる。

これまでも胃が痛むたび、どんなに遅くても彼女は必ず駆けつけてくれた。薬と、行き届いた気遣いを携えて。

「ギィ」と音を立てて、扉がそっと押し開けられた。

闇の中、真っ白なシルクのネグリジェを着た細い影が入って
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