上流社会では、政略結婚の夫婦はお互いに好きに遊んで良いという不文律がある。 ただし、外で愛人に何かを買い与えた場合は、必ず家にいる相手にも同等のものを贈らなければならない。 江崎律(えざき りつ)は礼儀を重んじる人であったため、後に白野家が破産しても、そのルールを百倍にしてでも白野清子(しらの きよこ)に本来あるべき敬意を示し続けた。 愛人のカードに毎月百万円のお小遣いを振り込むなら、清子のカードには必ず一千万円を振り込む。 愛人に百万円の宝石を贈った直後には、オークションで競り上げて、清子には一億円のエメラルドのアンティークリングを贈るのだ。 男たちの奔放な遊びには慣れている名門の奥様たちでさえ、清子と律が街中を賑わせた恋愛劇には、ため息交じりに心を打たれたのだ。 それでも周囲からは、「満足することを知るべきよ」と諭す声が絶えない。 満足?清子はもちろん満足していた。 だからこそ、律が郊外の価値もないマンションを愛人に公然と贈ったあの時だけは、彼から岸辺一号の別荘の権利証を受け取ると、彼女は何気なくこう言ったのだ。 「なんだか急に飽きちゃった。離婚しない?」
View More拘留、証拠収集、判決……一連の手続きは予想通りに進められた。清子は律の顔から徐々に血の気が引いていくのをこの目で見届けた。かつてあれほど高慢だった菫が、今は髪を乱し、罵声をあげる無様な姿で連行されていく。その変わり果てた姿を、彼女は見ていた。七年もの間、自分を抑えつけてきた江崎家という巨大な存在が、自らの手によってあっけなく、そして劇的に崩れ落ちるのを、彼女は目の当たりにした。そして雪菜。彼女が医者を買収して清子の母親を死に追いやった証拠を雄太が集めたことで、雪菜も連行され、死刑の執行猶予付き判決を受けた。法廷での律は、まるで魂が抜けたかのように生気を失っていた。一晩で二十歳も老け込んだかのようだった。菫は江崎グループの業務に直接関与していなかったため、全財産を没収されるにとどまった。十日後、彼女は自らが優雅な生活を失い、最も軽蔑していた底辺の人間になったという現実を受け入れられずにいた。江崎グループのビルから飛び降り自殺した。その知らせが届いた時、律はちょうど懲役二十年の判決を受けたばかりで、その話を聞いた瞬間に錯乱状態に陥った。「ごめんなさい」、「後悔してる」といった言葉を繰り返し口にしていた。だが、狂った人間の言葉を気に留める者などいなかった。三年後、京西市。清子が自ら立ち上げたジュエリーブランドが正式に上場を果たした。その同じ日、律は精神の崩壊により、刑務所内で自ら命を絶った。その知らせを聞いた清子は、生まれて初めて泥酔し、バルコニーにもたれながら泣き笑いした。そうしている間、彼女はふと気づいた。律の顔がもう思い出せない。そして、かつて自分の心を引き裂いたあの感情が、今では記憶の流れの中で取るに足らない一場面へと変わりつつある。かつてあれほど激しく愛した人も、年月が経って思い返してみれば、ただ懐かしくて、どこかよそよそしい名前のひとつに過ぎない。あれほど心を引き裂かれるような思いをした七年間は、実のところ、本当に、何の価値もなかった。彼女はただひたすらに笑い続けた。翌朝、目を覚ますと、優しい朝日が部屋に差し込んでいた。玄関には、朝露に濡れた百合の花束が一輪。そよ風が通り過ぎ、彼女の忌まわしい過去の記憶を静かに消し去っていく。「さあ、そろそろ本当の意味で、新
彼のその一言はまさに衝撃的で、その場にいた全員が、一瞬にして凍りついた。特に雪菜の親友たちは、ほとんど反射的に彼女を支えていた手を離し、音もなくそっと後ずさりしようとした。菫も呆然として言った。「そんなはずないわ!雪菜の妊婦健診の結果は全部私が確認したのよ、江崎家の……」「雪菜は産婦人科の医者を買収していた。すでに突き止めた」律の声は重く、アシスタントが今届けたばかりのファイルを取り出した。「雪菜は妊娠を偽っただけではなく、清子が私を助けてくれた恩すら横取りし、外ではずっと江崎家の名をかたって勝手な振る舞いを続けていた。ここに、そのすべてを証明する証拠がある」雪菜の青ざめた顔色を無視して、菫は素早くファイルを奪い取った。するとすぐに、何枚もの書類が雪菜に向かって勢いよく投げつけられた。鋭い紙の縁が雪菜の頬に細長い傷をつけた。しかし彼女は血を拭うこともできず、慌てて書類に目を通すと、その場にひざまずき、必死に許しを乞うた。「おばさま、申し訳ありません。ただ律さんのことが好きすぎただけで、騙すつもりはなかったんです。律さん、お願いです、何か言ってください。私のことが一番好きだったじゃないですか?」律は目を閉じ、さらに一束の写真を取り出した。彼が何も言わずとも、菫はすぐさまそれを奪い取った。写真を一目見ただけで、菫は気を失いそうになった。そしてすぐに、両手で交互に雪菜の頬を十数回も平手打ちにした。「このあばずれが!」写真の中で、雪菜はセクシーなミニスカートを身に着け、さまざまな男の胸に身を寄せていた。そこには五十を過ぎた富豪や、悪名高い放蕩息子の姿もあった。中でも特に目を引いたのは、彼女がつま先立ちで既婚の大物実業家の頬にキスしている写真だった。その瞳には計算高い光がにじんでいた。「あんたは少しばかりずる賢いだけで、身体だけは清らかだと思っていた。まさか、裏でここまで乱れているとはな!ふん、下劣な女め!誰か!こいつの服を全て脱がせろ。江崎家の物を着る資格などない!」ボディーガードたちはすぐさま命令に従い、手際よく雪菜のドレスをすべて脱がせた。彼女は恥ずかしそうに地面に身を縮め、必死に自分の体を隠そうとした。彼女の親友たちに対しても、菫は容赦せず、同じように縛り上げて、ボディーガードに外
雪菜の親友たちはすぐに駆け寄り、青ざめた顔で叫んだ。「誰か来て!清子が雪菜ちゃんを東屋から突き落としたの!」菫と招待客たちはすぐに駆けつけた。またしても、似たような光景だった。菫の姿を見ると、雪菜はすぐに目を潤ませ、お腹を押さえながらか弱い声で訴えた。「おばさん、私はただ清子さんに、身の程をわきまえて、律さんを怒らせるために自分を傷つけたり、素性の怪しい人と付き合ったりしないようにって忠告したかっただけなんです。でも、まさかあんなに怒るなんて……それに、もう律さんのことなんてとっくに好きじゃないって言って、私を東屋から突き落として、江崎家の血筋を絶やしてやるなんて……おばさん、私、本当に怖かったんです、ううう……」雪菜の親友たちも泣いているふりをしていた。「そうなんですよ、おばさん、私たちみんな自分の目で見たんです。雪菜ちゃんはあんなに優しい子なのに、白野さんにひどく罵られていました」「白野さん、雪菜さんのお腹の子について、不幸を招く子だ、生まれてきても社会の負担になるだけだから、中絶させるべきだって言ってたんです!」「おばさん、雪菜ちゃんが本当に可哀そうで……あの加害者を絶対に許さないでください」周囲の招待客たちも次々と首を振っていた。「この人、本当にひどすぎる。前回は江崎社長の赤ちゃんを傷つけかけたのに、今回はそれ以上だなんて」「そりゃあ江崎社長が離婚したくなるのも当然だよ。こんな悪意に満ちた女を妻にしたら、不幸が何代にもわたって続くよ」「まったくだよ。前回の罰じゃ甘すぎた。もっと厳しく罰を与えないと」「でも彼女も可哀想よ。愛人が子供を身ごもったんだって」「可哀想な人にはそれなりの理由があるのよ。彼女が本当にいい人だったら、江崎社長が浮気なんてするはずないでしょ?」……皆が口々に話し、全員が雪菜の味方だった。菫は怒りをあらわにし、手を挙げて殴ろうとした。「やめて!」「母さん、手を出しちゃダメだ!」人混みの外から、二人の男の緊迫した声が同時に響いた。だが、それよりも早く動いたのは清子だった。彼女は菫の手をつかみ、力強く押し返した。「私と律はもう離婚しました。おばさん、あなたに私を叩く資格はありません」皆が清子は正気を失ったと思った。相手は律の母親、京西でも名
世界がこの瞬間、止まったかのようだ。律は何かを言おうと口を開いたが、突然血を吐いた。「お義母さんが……なくなった?そ、そんなわけないだろ?清子、冗談はやめて。全然笑えないよ。お義母さんが亡くなるなんて、ありえない……絶対に亡くなるはずがない、そんなことあるわけない」律は必死に首を振った。だが脳裏には、彼が初めて清子の母に会ったときの光景が自然と浮かんできた。彼は菫の束縛に耐えきれず、家を飛び出した。その日、京西市には激しい雨が降っており、17歳の彼は泣きながら雨の中を走っていた。そんな彼に最初に気づいたのが清子の母親で、彼を家に連れて帰ってくれた。彼は今でも覚えている。清子の母親は温かいミルクを差し出し、彼の髪を拭いてくれて、優しくこう言った。「怖がらなくていいわ。ゆっくり休みなさい」それは、彼が初めて家族の温もりを感じた瞬間だった。だから後に、白野家が破産し、清子の母親と清子が行き場を失ったと聞いたとき。彼は家族と激しく衝突してまで、清子を探しに行くと決めた。清子と結婚したあの日のことを思い出した。彼は清子の手を握りしめ、心からこう呼んだ。「お義母さん」あんなにも優しく、あんなにも温もりのある清子の母親を、自分の手で……死なせてしまったのか?律の目は血のように真っ赤に染まり、心臓が押し潰されそうなほど痛んだ。彼はようやく理解した。清子がなぜ離婚を望んだのか。なぜ、彼女がもう自分に会おうとしないのか。彼はわかった。自分と清子が、もう二度と元に戻ることはないと。彼はまさに、自分の手で清子を失ってしまったのだった。「ぷっ!」律は再び血を吐き、地面に倒れ込んだ。清子はその様子を静かに見つめ、静かに口を開いた。「律さん、もし人生をやり直せるなら、あなたとは出会わないように願うわ」そう言い残し、彼女は背を向けてその場を去った。まるでこれまで律が幾度となく彼女に見せてきた背中そのもののように。庭を出ると、雄太がすでに長く待っていた。「ちゃんと話せた?」雄太は手を伸ばし、彼女の目尻に残る涙をそっと拭った。清子は鼻をすんとすすり、軽やかに笑った。「うん、ちゃんと話した。もう律も、私にしつこく絡む顔はないはずよ。ありがとう、雄太さん。調査チームの人たちは
星野家の車が入り口に停まったとき、律はほとんど駆け下りるように階段を降りて行った。「頭、気をつけて」雄太は優しく車のドアを開け、清子が降りるのをそっと手助けした。彼女は今日は特に着飾っておらず、軽くメイクを施しただけで、ドレスもシンプルな白だった。それでも、長年の恵まれた暮らしが自然と身についているため、清子はやはりパーティーでひときわ目を引く存在だ。「清子、き、来てくれたんだね」思い焦がれていた人が目の前に現れ、律は思わず言葉に詰まった。それとは対照的に、清子は落ち着いて堂々としていた。「うん、おめでとう」その一言に、律は指先に持っていたタバコの火で思わず手を火傷しそうになった。「清子、誤解しないでくれ、この誕生日は実は俺が……」「律さん!」雪菜が彼の言葉を遮り、小鳥のように軽やかに駆け寄ってきた。まるで自分の存在を誇示するかのように、律の腕にしっかりとしがみついた。「清子さん、お久しぶり。この方、あなたの彼氏なの?」スーツをきっちり着こなし、律よりもはるかに気品にあふれた雄太を目にして、雪菜の目に明らかな嫉妬の色が浮かび上がった。彼女はわざと声を張り上げて言った。「清子さん、親友として言わせてもらうけど、あなたと律さんが離婚して、まだ半月も経ってないのに、もう次の相手がいるなんて早すぎない?知らない人が聞いたら、結婚前から関係があったって思っちゃうかもね……」そこで言葉を切り、自分の発言がまずかったことに気づいたように、しおらしい表情で雄太を見つめた。「ごめんね、このお兄さん。私、口べただから……私のせいで、あなたと清子さんの関係にひびが入ったりしたら大変なので」雄太は眉をひそめ、顔色が青ざめたり白くなったりしている律を一瞥すると、薄く唇を開いた。「こういうのが好みか?」その言葉が落ちると、律と雪菜の表情は一瞬凍りついた。清子は思わず吹き出し、雄太の腕を引いてホールへと入っていった。本番は、まだこれからだ。彼女が入ってくると、場にいた全員の表情が一変した。きっと誰も予想していなかったのだろう。本来なら捨てられた女として、毎日涙に暮れているはずの清子が、今日こんなにも晴れやかに江崎家に姿を現すなんて。しかもその隣には、律よりもさらに優秀な星野家の御曹司が付き
「清子がいつまでも江崎夫人の座にしがみついてるのが悪いのよ。私がちょっと刺激を与えなきゃ、自分から諦めて出ていくわけないでしょ?それに、律の母さんったら、もうほんとにぼけちゃってさ。私がわざと罪を着せて、ちょっとお腹が痛いって言っただけなのに、あの老いぼれ、我先にって私の味方しようとするんだから。マジで笑えるよね」その一言一言が、まるで鋭い刃のように、律の記憶の中にある優しくて健気な純真な少女の姿を、無残に切り裂いていく。ボディーガードがおずおずと尋ねた。「社長、私たち、まだ中に入りますか?」律はそっと目を閉じ、背を向けて立ち去った。「彼女には、俺が来たことを伝えるな」本家で、律は酒を次々とあおっていた。彼の脳裏には、先ほどの雪菜の言葉がよみがえっていた。彼女は清子の命の恩人を装い、ひたすら名門に嫁ぐことだけを願っていた。妊娠中の清子を道端に置き去りにし、彼女から母になる機会を奪った。さらに妊娠を偽って清子に罪を着せ、彼女を江崎家から追い出した。酔いが回る中、律の脳裏に浮かんだのは、本家での集まりの夜だった。皆から非難を浴びていた清子の、かすかに震える体。いつも美しかった彼女の瞳が、あの時は失望に満ちていた。この数年、彼女がこんなにも多くの苦しみを背負っていたとは。酒が喉を通るたびに、ただ苦味だけが残った。律は衝動的に携帯を取り出し、清子に電話をかけようとした。たとえ罵られてもいい、彼女の声が聞きたかった。しかし、アンロックした瞬間、雪菜から電話がかかってきた。「もしもし?律さん、明日は私の誕生日だよ。どんなプレゼントをくれるの?」電話の向こうで、雪菜はいつも通り無邪気で愛らしい声をしていた。律の目が冷たく鋭く輝いた。彼女の偽りの笑顔の奥に潜む憎悪を暴きたてようとした。すると、雪菜がさらに続けた。「さっきおばさんから電話があってね、私が江崎家の初孫を妊娠したって。だから特別に大切にしなきゃいけないって言ってたの。それで、明日の夜に本家で誕生日パーティーを開きたいんだって。律さん、清子さんを招待してもいい?」律は手にしていたグラスを置くのをふと止めた。「清子?」「うん、清子さんと律さんは離婚したけど、彼女は私にとっても先輩だし、きっと来てくれると思うの」雪菜
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