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第1176話

Auteur: かおる
その場にいた誰ひとりとして、反応する暇すらなかった。

星でさえ、呆然と立ち尽くすしかない。止めに入る余裕など、かけらもなかった。

ここはD国だ。M国ではない。

いや、もしM国だったとしても、ノール家の後継者をこんなふうに始末していいはずがない。ノール家は、決して「取るに足らない小さな家」などではなかった。

星の胸が、きゅっと強く締めつけられる。

最初に仁志が現れたとき、彼女はあえて止めなかった。

ノールソンに、一度思い切り痛い目を見せてやりたい気持ちもあったからだ。こんな男、死んだって誰も惜しまない――そう思っていたのも事実だ。

だが、まさか本当に命を奪うとは思っていなかった。再起不能にするだけでなく、完全に。

やがて、騒ぎを聞きつけた足音が、廊下のほうから近づいてくる。

ここまで来てしまえば、何を言ってももう手遅れだ。

――この場に長く留まってはおけない。

そう悟った星は、仁志のもとへ歩み寄り、低い声で言った。

「仁志、まずはここを出よう」

仁志は黙ったまま、小さくうなずいた。

ノールソンの放蕩ぶりは、とうの昔にD国中に知れ渡っていた。だがノール家の権勢と
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