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第1180話

Penulis: かおる
星は、子どものころこそ大金持ちの家に生まれたわけではないが、欲しいものが手に入らなくて困った記憶は一度もなかった。当然、こんな安宿に泊まったことなんて、これまで一度もない。

仁志は、部屋の隅から隅まで視線を滑らせる。天井や出入口のあたりまで念入りに確認し、監視カメラがついていないと分かって、ようやく肩の力を少し抜いた。

ふと振り返ると、エアコンの前に立ち尽くしている星がいた。

「どうかしましたか?」

「暖房が、全然効かないみたい」

仁志は「失礼」と小さく言い、リモコンを受け取って何度かボタンを押してみる。だが表示が切り替わるだけで、肝心の暖房機能はうんともすんとも言わない。完全に壊れているようだった。

彼はエアコンの電源を切り、「まずお風呂に入ってください。女将に聞いてきます」と言った。

星は、さっきの女将の刺々しい態度を思い出し、思わず首を横に振った。

「やめとこ。もういいよ、ほんとに」

女将の言い分にも、一応の筋は通っている。IDも出せない身の上で、あれこれ要求できる立場ではない。ここは星付きホテルでもなければ、彼女たちも正規の手続きでチェックインしたわけじゃない
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    もしかしたら気のせいかもしれない。だが今回は、これまでのどの頭痛よりもひどい気がした。こうして意識ははっきりしているのに、痛みだけはまったく引いてくれない。反射的に頭に手をやると、指先に包帯の感触が触れた。その瞬間、記憶が波のように一気に押し寄せて来た。仁志は、何が起きたのかをすぐに思い出した。溝口家に代々受け継がれてきた持病は、骨の髄に刻まれた呪いのようなものだ。我を失っているあいだは、自分が何をしているのか分からない。だが正気に戻れば、そのとき自分が何をしたのか、すべて思い出してしまう。中には、暴走した拍子に、自分が一番大切にしている人を手にかけてしまう者もいる。そして正気に戻り、その記憶を取り戻した途端、完全に崩れ落ち、狂ってしまう。二度と元には戻らない。ある者は、自分が狂ってしまう前に、自分の手で人生に幕を下ろす道を選ぶ。それは、溝口家の歴代当主たちに課せられた宿命のようだった。頭が切れれば切れるほど、その分だけ壊れやすい。例外はない。仁志は、表情を引き締めて、本能的に周囲を見渡した。いつの間にか、外の雨は止んでいた。窓から差し込む陽の光が、部屋の空気に淡い色をつける。その柔らかな光の中に――彼女がいた。ベッドのすぐそば。肘をベッドの縁に乗せ、手の甲に頬を預けるようにして、星が座り込んでいる。こくり、こくりと頭が揺れ――次の瞬間には、完全に眠りに落ちていた。実際には、「落ちそう」なのではなく、とっくに限界を超えて眠ってしまっているのだろう。ふと視線を動かすと、彼女の目の下にはくっきりとしたクマができているのが見えた。眉間には疲労の色が濃く刻まれている。どう見ても、ろくに休めていない。仁志は、そばで眠りこけている星を、ただじっと見つめていた。どれくらい時間がたっただろうか。同じ姿勢を保ち続けていた星の腕が、とうとう限界を迎える。ぐらりと身体が傾き――仁志が思わず支えようと手を伸ばしかけた、そのとき。星は先に、ぱちりと目を開けた。目と目が合い、二人とも一瞬だけ固まる。先に我に返ったのは星だった。手近にあったスタンドライトを素早くつかみ、小さな声でたずねる。「仁志、具合はどう?」仁志は、その動きを目にして、条件反射のように自分の頭の傷に触れ、口元をひくりとさせた。もし少

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    星の体がびくりと固まり、全身の産毛が一気に逆立つ。本能が、言葉にならない危険信号を鳴らしていた。それは、彼女が生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされたときだけ、湧き上がる感覚だ。足がぴたりと止まり、その場に釘で打ちつけられたみたいに動けなくなる。入ってきた相手が誰なのか分かったのか、仁志の視線がわずかに揺れた。「……星野さんですか」星は、はっと我に返る。ぐっと息を飲み込み、そのまま仁志のそばへ歩み寄った。「仁志、少しでも食べない?このままだと本当に倒れちゃうよ」仁志は、無意識に眉間を指で押さえた。「頭が痛いです。食べません」星は、少し語気を強めった。「食べないと、余計に頭痛くなるよ。体だって回復しないし。ちょっとでもいいから口に入れたほうがよくない?」男の瞳孔が、ふらふらと揺れた。この瞬間、彼の世界は血の色の膜に覆われているようで、何一つはっきり見えない。ただ、その視界の中でひときわ鮮明だったのは――目の前の女の、不安に揺れる瞳だけだった。その瞳を見つめるうちに、仁志の理性が、ほんの少しだけ戻ってくる。彼は伏し目がちになり、「……分かりました」とかすれた声で答えた。星は、ゆっくりと彼の体を起こした。男の手は、まるで冷え切った翡翠のように冷たかった。両手は固く握りしめられ、手の甲には青い血管が浮き上がっている。何かを必死に押さえ込んでいるのが分かる。呼吸もどこか荒い。星はただ事ではないと感じ、思わず彼を見上げた。その瞳の奥で、猩々緋の光がちらりと瞬く。一瞬だけ、裸の殺気が浮かんでは消えた。異様にかすれた声が、男の喉から漏れた。「……星野さん、早く行ってください」男の喉仏が、大きく上下に動いた。その顔つきは一段と険しく、歪んで見える。ただ自分を暴走させまいとするだけで、彼の力はすでに限界まで削られていた。頭の中に残った最後の理性は、張りつめた一本の糸のようだ。少しでも触れれば、すぐにぷつりと切れてしまう。そうなれば彼は、自分を抑えられない狂人と化し、近づく者すべてに、見境なく手をかけてしまうだろう。星の顔色が、わずかに変わった。「仁志……」その名を呼んだ次の瞬間、彼女の首がぐいっと掴まれた。男の冷たい指先が首筋に触れ、星の背筋にぞくりと寒気が走る。仁志は、冷ややかに

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    「このしばらくは……」雅人は少し迷ったあと、それでも念を押すように言った。「星野さんは、できるだけ彼に近づかないでください。ケガでもされたら困りますから」今の仁志の頭の中は、ほとんどいつも霧がかかったみたいにぼんやりしている。ときには、自分が何をしているのか、まったく分からなくなることさえある。人が人間であって獣ではないのは――礼儀や恥を知っていて、自分を制御できるからだ。だが今の仁志は、その理性を失った獣に近い。近づく者は、誰であっても危険だった。星は、そんな仁志にとって特別な存在だ。だからこそ、雅人も星の安全を賭けに出るような真似はできない。もし仁志が正気に戻ったあと、星を傷つけたことを思い出してしまったら――そのとき、彼はいったいどうなってしまうのか。雅人は少し考え込んでから、続けた。「彼を部屋に閉じ込めて、鍵をかけておいてください。食べ物は置かなくて構いません。水だけ用意しておけばいいです。安心してください。仁志は、あなたを責めたりはしません」食べ物がなければ、当然、体力は落ちる。そうなれば、仁志の危険度も、かなり下がるはずだ。以前、あの人も同じやり方を使っていた。話を聞きながら、星は思わず眉をひそめた。本当にこれが、普通の人間に対する扱いなのだろうか。たとえ安全だと言われても、三日間も部屋に閉じ込めて、水だけで食事は一切なし――そんなことをされたら、誰だって飢えで頭がおかしくなる。ふと、星は仁志の言葉を思い出す。自分には友達がいない、と笑っていたこと。雅人とも、たいして腹を割って話す仲じゃない、とこぼしていたこと。――そうなるのも、無理ない気がするんだけど。この雅人、本当に頼りになるのだろうか。どう考えても、あまり信用していいタイプには見えない。そう思いはしたが、口に出すことはしなかった。「分かった。ありがとう」雅人は、星が納得してくれたのだと受け取ったようだ。「星野さん、そちらで何か必要なものがあれば、いつでも僕に電話してください」「はい」電話を切っても、星の眉間のしわは消えなかった。ヴァイオリンを弾く、という案は、やはり現実的ではない。仮に無理やり一曲だけ弾けたとしても、それで効果があるかどうか分からないうえに、確実に周りの注意を引いてしまう。そのときノール

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    雅人は少し考え込んでから、口を開いた。「えっとですね……丈夫なロープを一本用意して、仁志を先に縛っておく、っていう手もあります。それでも不安なら、手錠と足かせも一緒に使うといいですよ。そうすれば、そう簡単には暴れられませんから」あまりに物騒な提案に、星は思わず固まった。雅人に電話をかけたのは、仁志がふだん飲んでいる薬を知りたかったからだ。なのに返ってきた答えが、「まず縛れ」だなんて。「雅人、本気で言ってる?」本当は、冗談どころか大真面目だ――そう言いたかった。けれど星は、まだ仁志の「本当の状態」も、発作のときの恐ろしさも知らない。雅人は、小さくため息をつき、言い方を少し柔らかくした。「その……仁志の頭の病気って、もう長年の持病なんです。発作が出ると、すごく怒りっぽくなって、感情が極端に不安定になります。下手をすると……身内だろうが誰だろうが、区別がつかなくなる」そこで一拍置き、言葉を選ぶように続けた。「そのときは、ほとんど理性が残ってないんです。今のところ、そういう状態を薬で押さえ込む決定打もなくて。医者にも何十人と診てもらいましたけど、これといった効果は出ていません」「どうして、そんな病気になったの?」「原因はいろいろ絡み合ってて、簡単には説明できません。不眠も一つですし、心のほうの問題も大きい。とにかく、治りにくいタイプですね。お医者さんの話では、この病気を本気でどうにかするには、まずメンタル面からアプローチしないといけないそうです」言い換えれば――この病は、かなりの部分を心の問題に左右されているということだ。もともと、仁志は「いい人」などとは程遠い。だが発作が出ているあいだは、その危うさが何倍にも増幅される。溝口家には、代々引き継がれてきたやっかいなものがある。生まれつき、遺伝子に組み込まれた欠陥のようなものだ。どれだけ腕のいい医者を連れてきても、根本から完全に消し去ることはできない。――人間、誰だってどこかしら欠点を背負って生まれてくる。溝口家の人間は皆、容姿端麗で頭も切れる。天才と呼ばれる人間が、ごろごろしている一族だ。その代わり、精神面にどこかしら問題を抱えていることが多い。正直に言えば、ここしばらく仁志は発作を起こしていなかった。以前なら、一から二か月に一度は必ず症状が出ていた

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    星は、そっと男の額に手を当てた。体温は少し高い気がしたが、熱があると断言できるほどではない。ほんの少しだけ、胸のつかえが下りる。同時に、じわりと自責の念がわき上がってきた。D国はもともと湿気が多いうえに、昨夜は一晩中雨が降り続いていた。空気はぐっと冷え込み、床からも容赦なく冷気が這い上がってくる。そんな環境で、自分は仁志を床で寝かせた。彼でなくても、星自身がここで一晩横になれば、風邪のひとつやふたつひいてもおかしくない。この大事な局面で仁志の体調に問題が出れば、D国を出るどころか、追っ手から逃げ隠れすることすら難しくなる。星はそっと目を閉じ、深く息を吸い込んだ。しばらくしてから、もう一度目を開く。ベッドの布団をざっと整え直し、もう一度床で眠る仁志のそばへ戻った。何はともあれ、まずは彼をベッドへ移して、これ以上身体を冷やさせないことが先だ。とはいえ、仁志は背も高く、体格もしっかりしている。身長は雅臣とほとんど変わらない。最近ずっと体を鍛えているとはいえ、成人男性を抱き起こすのは簡単な仕事ではなかった。星は何度も体勢を変えながら、汗だくになってようやく彼の身体を引き起こす。そのときになって、ようやく仁志が目を覚ました。ゆっくりとまぶたが持ち上がり、かすれた声が漏れた。「……どうしたんですか?」その声はひどくかすれていて、いつもの澄んだ声音とはまるで違っていた。彼が目を開けたのを見て、星はぱっと表情を明るくする。「仁志、今どんな感じ?起きられる?とりあえず、ベッドで少し休もう?」彼の視線が、じっと星の顔に落ちる。その目の色は、どこかおかしかった。いつもの澄みきった光は消え、外のどんよりした空みたいに陰っていて、底には氷のような冷たさが沈んでいる。彼は低い声で答えた。「……そうですね」星は彼の腕をとって支え、ベッドへと移動させる。「仁志、まだ頭、すごく痛い?」彼は少し間を置いてから、ゆっくりとうなずいた。「ええ……」「薬、持ってきてない?いつも頭が痛くなったときに飲んでる薬とか、ないの?」しばらく沈黙が続いたあと、ようやく彼は口を開いた。「持病です。薬は効きません」「そうなんだ……じゃあ、とにかくゆっくり休んでて。あとで朝ごはん買ってくるけど、何か食べたいものある

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    星は、子どものころこそ大金持ちの家に生まれたわけではないが、欲しいものが手に入らなくて困った記憶は一度もなかった。当然、こんな安宿に泊まったことなんて、これまで一度もない。仁志は、部屋の隅から隅まで視線を滑らせる。天井や出入口のあたりまで念入りに確認し、監視カメラがついていないと分かって、ようやく肩の力を少し抜いた。ふと振り返ると、エアコンの前に立ち尽くしている星がいた。「どうかしましたか?」「暖房が、全然効かないみたい」仁志は「失礼」と小さく言い、リモコンを受け取って何度かボタンを押してみる。だが表示が切り替わるだけで、肝心の暖房機能はうんともすんとも言わない。完全に壊れているようだった。彼はエアコンの電源を切り、「まずお風呂に入ってください。女将に聞いてきます」と言った。星は、さっきの女将の刺々しい態度を思い出し、思わず首を横に振った。「やめとこ。もういいよ、ほんとに」女将の言い分にも、一応の筋は通っている。IDも出せない身の上で、あれこれ要求できる立場ではない。ここは星付きホテルでもなければ、彼女たちも正規の手続きでチェックインしたわけじゃないのだ。「大丈夫です。少し聞いてくるだけですから」仁志が穏やかな声でそう言い、引かないので、星もそれ以上は止めなかった。ほどなくして、彼は戻ってきた。ちょうどそのとき、星はシャワーを浴び終えたところだった。ドアが開き、顔を上げた瞬間――星は、仁志の表情だけで、大体どうなったか察した。やっぱり、何もしてくれなかったんだ……下手したら文句まで言われたかも。「仁志も、お風呂入ってきて。そのあいだに、私が布団敷いておくから」「……ありがとうございます」星はクローゼットを開け、予備の布団一式を引きずり出す。まずは床をもう一度、念入りに拭き上げてから、その上に布団を敷いた。二人が通された部屋は、ダブルベッドの部屋だった。名前のとおり、ベッドは一つだけ。ツインルームなら、まだましだった。同じ部屋で過ごす気まずさはあっても、せめて寝床は分けられた。いくら考え方が自由だといっても、見知らぬ土地で、夫でもない男と一つのベッドで横になる――さすがに、そこまで割り切ることは星にもできない。仁志が「床で寝ます」と自分から言ってくれたのだから、そこは遠慮なく甘えること

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