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第287話

Author: かおる
雅臣と勇は、すっかり清子の演奏に酔いしれていた。

ただ一人、航平の顔には穏やかな笑みが浮かんでいるだけで、澄んだ眼差しはどこか遠くを見ていた。

演奏が終わったあと、勇は得意げに尋ねる。

「航平、清子のヴァイオリンはどうだった?」

航平は温和に微笑み、「とても美しかった」とだけ答える。

幼なじみの勇には、その言葉の裏がわかる。

「......でも、なんだか心には響いてない反応だな?」

航平の笑みには、どこか淡い翳りが差した。

「もしかすると――もっと美しい風景を、見てしまったからかもしれない」

「もっと美しい風景?」

勇はすぐさま食いつく。

「それってどういう意味だ?

なぁ航平、お前さ、好きな女がいるんだろ?」

航平は隠すことなく、静かに頷いた。

「そうだ」

「誰だよ!どんな女なんだ?

見せてくれよ。

あの航平に好きと言わせる女なんて、よほどの逸材に違いない!」

勇の目は好奇心で輝いていた。

雅臣と同じく、航平も幼い頃からエリート教育を受けてきた。

だが家庭環境の温かさゆえか、彼は雅臣よりも柔らかく、穏やかな気質を持っている。

冷ややかで人を寄せつけない雅臣とは対照的に、誰にでも優しく接する人物だった。

航平は微笑んだ。

「彼女はね、私がこれまでに出会った誰よりも、優れている女性だ」

彼の言葉に、普段は噂話に関心を示さない雅臣までが、興味を抱いた。

「......どこの令嬢だ?」

「いや、彼女はただの一般人。

特別な家柄でもない」

「なら、なおさらアタックすればいい。

家柄なんて問題じゃない」

雅臣は淡々と告げた。

清子だって大した背景はない――そう思えば、確かに背景など取るに足らない、と。

航平は苦笑を浮かべ、溜息をつく。

「アタックすることはできない。

彼女はもう結婚していて、子どもまでいるんだ」

「......えっ?」

勇は目を丸くした。

「既婚者?しかも子持ち?

お前、そういう趣味かよ?」

雅臣の瞳が航平に注がれる。

「......子どもは男か、女か?」

航平はその視線を正面から受け止め、落ち着いた声で答えた。

「男の子だ。

今年で五歳になる」

勇は深い意味を感じ取らず、笑い混じりに肩をすくめる。

「へえ、奇遇だな。

雅臣の子どもも五歳だぜ。

まさか――お前の好きな相
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