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第343話

Author: かおる
星がヴァイオリンに長けていると知ってからというもの、怜は毎日音楽室に足を運び、少しの時間でも練習するようになっていた。

その日、ふいに小さな影が彼の前に立ちはだかった。

「悪ガキ、昨日わざと僕のカップを壊したんだろ」

音楽室には他に誰もいない。

怜も、もはや取り繕うことはしなかった。

彼はあっさりとうなずく。

「そうだよ、わざとだ」

翔太は鋭い眼差しを向ける。

「そんなに芝居がうまくて、よく取り繕えること、ママは知ってるのか?

ママが信じてる素直で賢い子が、ぜんぶおまえの演技だって知ったら、まだ好きでいられると思うのか」

怜はヴァイオリンを置き、翔太を真っすぐに見据える。

「なら、星野おばさんには一生知られなければいい」

翔太の整った顔に冷笑が浮かんだ。

「先生が教えてくれたんだ。

人に知られたくなければ、自分がやらないことだって。

おまえがやった悪事は、いずれ全部ばれる」

怜はすっと立ち上がり、翔太の瞳を見返した。

「悪事?

僕は誰も傷つけたことなんてない。

何を根拠に悪事だって言うんだ」

翔太は怜を指差し、怒鳴る。

「ママにあげるために一生懸命作った誕生日プレゼントを壊したんだぞ。

それでも悪事じゃないのか!

僕がどれだけ時間をかけたか知ってるのか!

ママがどれだけ楽しみにしてたか知ってるのか!」

怜は落ち着いた声で返す。

「誕生日プレゼント?

星野おばさんの誕生日はもう過ぎてる。

渡すべきに渡さなかったものを、今さら渡しても意味はない」

翔太は顔を真っ赤にして叫ぶ。

「意味があるかないか、おまえに決められることじゃない!」

怜の澄んだ瞳に、年齢に似つかわしくない冷ややかさが宿る。

「翔太くん、君はちょっと頭を下げれば、星野おばさんは無条件で許してくれると思ってるんじゃないのか。

でも星野おばさんが本当に欲しいのは、物じゃなくて、気持ちなんだよ。

もし君が本当に星野おばさんを思ってるなら、ボタンひとつでも喜んで大切にしてくれたはずだ。

なのに、誕生日に渡すはずだったカップを小林おばさんにあげた。

それが意味するのは――小林おばさんのほうが、ママより大事だってことだ」

怜は一拍置き、さらに言葉を続ける。

「それに、星野おばさんは気づいてるよ。

僕がわざと壊したって。

でも何も言わなかっ
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