Se connecter今の正道が抱いているのは、彼女への深い憎しみだけだ。彼にとって彼女は、真実の愛を邪魔する悪人でしかない。この瞬間から、夜はようやく正道への思いを手放し始めた。彼女は、離婚に同意した。だが、そのことを知った正道の父――雲井老当主は、激しく反対した。正道は妻である夜をないがしろにできても、実の父である雲井老当主の意向まで無視することはできなかった。失踪の一件で、雲井老当主は大きな打撃を受けていた。この数年で身体は目に見えて衰え、雲井グループに問題が起きても、もはや陣頭指揮を執ることすらできない。医師の診断では、余命は半年ほど。雲井老当主の体調を考え、正道も離婚の話をひとまず先送りするしかなかった。ところが鈴は、どこから聞きつけたのか、雲井老当主の入院を知って病院へ見舞いに行った。そこで何を話したのかは分からない。だが、その夜のうちに雲井老当主は救命処置室へ運び込まれた。そして、助からなかった。病院の廊下で、夜は冷めた目でその光景を見ていた。鈴は目を真っ赤に泣き腫らし、正道の胸の中で嗚咽している。まるで、亡くなったのが自分の実の父親であるかのように、悲嘆と自責に暮れていた。そんな鈴を、正道はひどく優しく、根気よく慰めている。「鈴、この件はお前のせいじゃない。自分を責めるな」鈴はしゃくりあげながら言った。「正道さん、私、本当に雲井老当主にひどいことなんて言ってないわ……あの時、病室には老当主の補佐の方もいたもの……信じられないなら、その人に聞いてもいいの。私は本当に、何も……」正道の声は低かった。「分かってる。お前のせいじゃない」彼が辛抱強くなだめるうちに、鈴は少しずつ落ち着きを取り戻していった。もちろん夜も、鈴と雲井老当主が会った件は調べている。確かに、鈴はひどいことを口にしたわけではない。だが、雲井老当主にとって、鈴という存在そのものが原罪だった。鈴が正道をあれほど長く隠していなければ、雲井グループは危機に陥らず、破綻寸前にまで追い込まれることもなかった。雲井老夫人も、息子を失った悲しみで世を去らずに済んだ。彼自身の身体だって、あれほど急速に衰えることはなかっただろう。夜と子どもたちも、何年もの間、夫と父を失わずに済んだはずだ。鈴のあの、いかにも気弱で哀れ
「夜、もう約束しただろう。これから先、彼女とは会わない。いっさい関わりも持たない。でも、どうあっても子どもに罪はない。その子の身体には、俺の血も流れている。雲井家は、子どもひとり養えないほど落ちぶれてはいない。だから、その子を雲井家に引き取って育てたい」ぼんやりと目を開けたとき、夜は見知らぬようでいて、どこか見覚えのある人影を目にした。若く端正な男の顔が、視界に映る。男はなおも言う。「お前が鈴を嫌っているのは分かってる。でも、彼女は俺の命を救ってくれたんだ。この件が済んだら、もう二度と鈴とは会わないと約束する」あまりにも聞き覚えのある言葉だった。鈴が交通事故で死んだあの日。正道が、自分と鈴の間に子どもが生まれたことを告げた、そのときの言葉ではないか。でも、自分はもう死んだはずでは?どうして、また雲井家にいるの?目の前の正道も、まだ若い頃の姿のままだ。これまでのすべては、ただの夢だったのだろうか。けれど夢だというのなら、どうして今目の前にある光景は、あの夢とまったく同じなのか。夜が呆然と彼を見つめたまま黙っているのを見て、正道は少しだけ声を和らげた。「夜、このことをお前がずっと受け入れられないのは分かってる。でも保証する。記憶を取り戻してからは、俺はもう二度と鈴に触れていない」記憶が、ゆっくりと戻ってくる。思考も少しずつ落ち着いていく。20年も前のことだというのに、この時期の記憶は今も鮮明だった。そしてこの瞬間、夜はようやく確信した。――自分は、人生をやり直すために過去へ戻ってきたのだ。鈴が交通事故に遭った、その日に戻ってきたのだと。正道が記憶を取り戻したのは、一年前。記憶を取り戻す前、彼女と正道の夫婦関係は、離婚寸前まで冷え切っていた。正道は、彼女を助けたせいで落水し、記憶を失った。九死に一生を得て、生き延びたのだ。だから夜は、彼に対して大きな負い目と罪悪感を抱いていた。たとえ正道が戻ってきて権力を奪い、自分を追いやったとしても、彼女は文句を言わなかった。彼に命を救ってもらった借りがあると思っていたから。だが、正道が権力を取り戻したあと、最初に一掃したのは、彼女が雲井グループに築いていた側近たちだった。会社が危機に陥ったときも逃げず、最後まで雲井グ
「夢から覚めれば、私はまた雲井家のお嬢様なんだから!」明日香はぶつぶつと呟いた。「もうここにいたらだめ。早く目を覚まさなきゃ。自分を痛めつければ目が覚めるっていうじゃない?」彼女は包丁を取り出し、自分の手を思いきり深く切りつけた。鋭い痛みが走り、血が噴き出す。だが、夢はまだ覚めなかった。「どうして……どうして目が覚めないの?」彼女は呆然と呟く。「やり方が違うの?夢の中で死ねば、目が覚めるのかしら?」明日香は死ぬのが怖かった。けれど、この生き地獄のような暮らしから抜け出して目を覚ませるのなら、もうなりふり構っていられなかった。彼女は勢いよく、黴の生えた壁に頭からぶつかった。これだけ強くぶつかれば、痛みで目を覚ますか、死んで夢から覚められるはずだ。壁にぶつかった瞬間、頭の中で何かが弾けたような激痛が走った。視界が真っ黒になり、明日香はそのまま意識を失った。再び目を開けたとき、目に飛び込んできたのは、豪奢な雲井家の屋敷ではなく、見慣れた村の診療所だった。明日香は一気に身を起こした。まだ目が覚めていない?やっぱり、目覚め方が間違っているのか?村医者は、彼女が目を覚ましたのを見て言った。「頭の傷はもう手当てしておいたよ。ただ、脳震盪がかなりひどくて……」最後まで聞く前に、明日香は突然ベッドから飛び降り、狂ったように外へ走り出した。村医者は一瞬呆気に取られ、慌てて追いかける。だが、漁港まで追いついたときには、明日香はそのまま海へ飛び込んでいた。村医者は唖然として叫んだ。「気が狂ってる!あの女、とうとう気が触れたぞ!」それから先、明日香があまりのショックで狂ったのか、それとも頭を打っておかしくなったのかは分からない。ただ、彼女は完全に正気を失った。会う人ごとに、自分は本物の名家の令嬢だと言い張る。昔はどれほど華やかで、どれほど多くの男に言い寄られ、毎日どれだけ贅沢な暮らしをしていたか。父がどれだけすごい人物だったか。そんな話ばかりを繰り返した。村人たちはただ面白がって聞くだけで、誰ひとり信じはしなかった。やがて時間が経つと、皆、明日香が語る上流階級の暮らしなど、聞く気にもならなくなった。狂ってからの彼女は、もう漁にも出なくなった。腹が減れば、村のゴミ箱を漁る。
明日香は、そんな言葉が陽奈の口から出たことが信じられなかった。彼女は怒りに震えながら言った。「私はあなたの実の母親なのよ!それなのに、よくもそんなことが言えるわね!」陽奈は彼女を上から下まで眺め、目にあからさまな軽蔑を浮かべた。「実の母親?今のあんたみたいな醜い女が、私の母親にふさわしいわけ?はっきり言っておくけど、たとえ私が雲井家で居場所を手に入れたとしても、あんたみたいな恥さらしを連れ戻す気なんてないから。昔のあんたのろくでもない話くらい、私だって知ってる。外で男と遊び回ったせいで、家を追い出されたんでしょ?そのだらしなさのせいで、私まで巻き添えになったのよ。本当なら私は、生まれた時から何不自由ない暮らしをしてるはずだった。こんな僻地の漁村で苦労する人生じゃなかったのに!」陽奈は言えば言うほど感情を高ぶらせ、怒りを募らせていった。明日香に向けるその目は、母親を見る目ではない。まるで仇でも見るようだった。その視線を受けて、明日香はよろめきながら数歩後ずさる。彼女にも野心はあった。だが、正道に対して不敬な態度を取ったことは一度もない。母のことが露見したあとでさえ、母を恨みはしなかった。幼い頃から彼女は、親を敬うよう教育されてきたからだ。だが、目の前の陽奈は違う。目上を敬う気などまるでない。実の母親に対してすら、欠片ほどの敬意も持っていなかった。目先のことしか見えていない。腹の内はすべて顔に出る。こんな娘では、自分の夢や望みを実現する助けにはならない。認めたくなかった。それでも、認めるしかなかった。自分の最後の切り札も、とうとう使い物にならなくなったのだ。陽奈が自分の形勢を逆転させてくれることなど、絶対にない。この先ずっと、自分はこの漁村で、生き地獄のような日々を送るしかないのか?そう思った瞬間、明日香の胸の中で、悔しさと憎しみが激しく渦巻いた。ここまで絶望し、無力感に押し潰されたことはなかった。残りの人生を思うだけで、世界のすべてが灰色に見えた。しかも、自分に情けをかけ、家へ連れ戻してくれる可能性が最も高かった正道も、もう死んでいる。もはや、逆転の望みはどこにもない。その瞬間、明日香はもう、体面も品位も保てなかった。怒りが一気に爆発する。彼女は手を振り
突然、正道の死の報せを聞かされ、翔は完全に混乱した。翔もまた、星が結婚して三年後、釣り合いの取れた名家の令嬢と政略結婚していた。今では、息子と娘がひとりずついた。陽奈が突然戻ってきたことは、彼らの子どもたちにも少なからず影響を与えていた。補佐はどもりながら言った。「療養施設からの報告では……その……」翔は、煮え切らない口調に眉をひそめた。「何だ。はっきり言え」補佐は深く息を吸い、ようやく衝撃的な事実を口にした。「陽奈様が誤って、正道様を死なせた可能性があると……」翔は低い声で尋ねた。「どういうことだ?」補佐は説明した。「翔様は以前、正道様が正気でないときに、また無分別な行動を取らないよう、正道様と陽奈様を厳重に見張るよう命じられました。陽奈様は療養施設から出られず、ずっと癇癪を起こしていました。正道様に手を上げようとしたこともありますが、警護と介護スタッフが止めています。その後、陽奈様は騒ぎを起こし、混乱に乗じて施設から逃げようとしました。そのため、正道様を上の階から突き落としたのです。まさか、正道様がそのまま亡くなるとは……」正道が陽奈の手で死ぬとは、にわかには信じがたい話だった。翔はさらに尋ねた。「陽奈は今どこにいる?」補佐が答える。「騒ぎを起こした直後に逃げました。自分がこれほど大きなことをしでかしたとは、まだ分かっていないのだと思われます。翔様、この件は……どう処理されますか?」認知症になってからの正道は、以前よりさらに厄介だった。完全に何も分からないのなら、まだよかった。だが中途半端に理性だけが残り、かつて当主として握っていた力まで利用して、何度も彼らに面倒を持ち込んだ。正道の死を聞いても、翔の心は少しも揺れなかった。彼は淡々と言った。「先に葬儀の準備をしろ。陽奈については……星と相談する」……漁村。陽奈が雲井家へ迎え入れられたと知り、明日香は狂喜した。陽奈こそ本当の令嬢だと知ったとき、明日香の世界は崩れ落ちそうだった。自分の希望も計画も、すべて水泡に帰したのだ。星と仁志がいる以上、子どもを頼りに漁村を出る道は、もはや難しいと分かっていた。それでも明日香は諦めなかった。彼女は密かに陽奈と接触し、その出生の秘密を教えた。そして、自分の権利を
半ば認知症となった正道は、自分に都合のいいことだけを覚えていた。そのとき彼は車椅子に座ったまま、忠と翔を睨みつけた。「お前たちの腹の中くらい、分かっている!俺を監禁して、当主の座を譲らせるつもりだろう!靖と明日香を追い出したあと、雲井家の権力を奪うつもりだ!いいか、俺が生きている限り、お前たちには何ひとつ奪わせない!」認知症を患った正道の記憶は、ひどく混乱していた。とっくに権力を手放し、もう雲井家の当主ではないことすら覚えていない。雲井家の日常の雑事は、基本的に翔が処理している。星は関わらない。この件を知っても、星は戻ってこなかった。以前、正道は星を見るたびに夜と呼び、冷酷だ、度量がない、子どもひとりも受け入れられないのかと責め続けた。どこかで聞いたような身勝手な言葉ばかりで、星もうんざりしていた。だが、認知症の父親を相手に本気で腹を立てることもできない。だから、帰らないことにしていた。まさか正道が、本当の令嬢をひそかに探し出して連れ戻すとは思わなかった。正道は、正気だった頃から雲井家にろくなことをもたらさなかった。正気を失ってからも、あちこちで騒ぎや厄介ごとを起こしていた。本当の令嬢は、すでに十五歳だった。雲井家へ迎え入れられたあと、雲井陽奈(くもい ひな)と名づけられた。幼い頃から漁村で育った彼女は、満足な教育を受けていない。振る舞いは粗野で、汚い言葉ばかり口にする。生活習慣にも悪い癖が多かった。値の張りそうな宝飾品を見つければ、こっそり隠すことさえある。かつて靖たち兄弟には非常に厳しかった正道だが、頭がはっきりしなくなった今は、陽奈をひどく甘やかしていた。彼女の悪い癖を見て見ぬふりし、翔が注意しようとすれば、ことごとく邪魔をした。翔も、もはや面倒を見るのをやめた。その代わり、偽の令嬢である知佳を呼び戻し、ふたりをぶつけ合わせることにした。たちまち雲井家は、ふたりによってひどく荒れた。知佳は幼い頃から高度な教育を受けてきた。言葉遣いも立ち居振る舞いも、人柄も教養も、陽奈よりはるかに上だった。それが陽奈の嫉妬を呼んだ。陽奈はついに、知佳を階段から突き落とした。だが陽奈が起こした問題は、それだけではない。雲井家に迎え入れられ、使いきれないほどの小遣いを







