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第36話

Author: かおる
星は背もたれに身を預け、静かに言った。

「ぶつかってきたのは、彼女のほうよ」

「でも清子は、お前が突然飛び出してきて、自分に突っ込んできたって言ってる」

星は顔を上げ、彼の冷たく無表情な眼差しをじっと見つめた。

「じゃあ......あなたは、小林さんの言うことを信じるの?」

雅臣は数秒だけ沈黙し、口を開いた。

「清子には、お前にぶつかる理由がない」

「じゃあ、私には理由があるとでも?」

雅臣はじっと彼女を見つめたまま、視線を逸らさない。

その漆黒の瞳は、底の見えない深淵のように冷たく静かだった。

「......つまり、お前が故意に清子にぶつかったってことか?」

「違うわ」

病室には再び凍りついたような沈黙が訪れた。

どれほどの時間が過ぎただろうか。

ようやく、彼の澄んだ低い声が静寂を破った。

「まずはゆっくり休んで。この件は、俺がちゃんと調べる」

星は彼の背中が病室を出ていくのを見送ったが、何も言わなかった。

雅臣がそれ以上追及してこなかったのは、信じているからではない。

ただ、まず証拠を押さえるつもりなのだ。

もし彼が本当に自分を信じていたならあんな質問はしなかったはずだ。

雅臣が去って間もなく、星の携帯が鳴った。

発信者は奏だった。

「星、事故に遭ったって......大丈夫か?怪我してないか?」

眉間を少しだけ動かしながら、星は答える。

「先輩、どうして知ってるの?」

奏の声は低く沈んでいた。

「今朝にはもうネットの検索ランキングに上がってた。......無事か?」

「大丈夫よ。かすり傷程度だし、たぶん明日か明後日には退院できると思う。心配しないで」

「何か困ったことがあったら、すぐに連絡してくれ」

奏もこの件をネットから消したいと思った。

だが、いくら今人気が出ているとはいえ、彼は昔から孤高な性格で音楽一筋だ。

人脈を広げてこなかったせいで星のスキャンダルが拡散された後も手を打てなかった。

電話を切ったあと、星は目を閉じてベッドに横たわりこれからどう動くかを静かに考えていた。

清子があれだけ強気に出てこられるということは周到な準備があるはず。

目撃者すら最初から仕込んでいた可能性もある。

ネット上ではすでに騒動が広がり始めている。

彼女は完璧に仕掛けてきた。自ら表に出て、危険を冒してまで世論を操ろうとしている――

今回の件は、そう簡単に終わるものじゃない。

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森の魔女
ワオ―...あまりにも酷すぎて、泣ける。
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