LOGIN彩香は察しが早かった。すぐに席を外し、自然に二人きりになるよう場を空ける。星は、久しく仁志と一緒に仕事をしていなかった。商業について理解を深めるほどに、あらためて彼の実力を思い知らされる。自分が当主の座に就くまで、まだ道のりは長い。そして、たとえ今すぐその座に就いたとしても――それを維持できるとは限らない。学ぶべきことが、あまりにも多すぎる。星は真剣に話を聞いていた。そのせいで――自分との距離を、少しずつ詰めてきている男の存在に、まったく気づいていなかった。資料をめくりながら、彼女は言う。「このディラン家って、あまり表に出てこないよね。情報も少ないし……仁志、この一族のこと知ってる?」答えを求めて顔を向けた、その瞬間。彼女は思わず息をのんだ。――近い。あまりにも近かった。振り向いた拍子に、唇が不意に彼の頬をかすめる。星はもう、初心な少女ではない。それでも――心臓が大きく跳ねた。彼女は反射的に立ち上がり、距離を取ろうとする。だが焦りすぎたせいで、後ろの椅子にぶつかった。身体がわずかに揺れる。その瞬間。しなやかで力強い腕が、彼女の腰を引き寄せた。そのまま、胸元へ。「星、大丈夫か?」頭上から落ちてくる、落ち着いた声。星のまつげが細かく震える。「……大丈夫」ただ椅子に当たっただけだ。支えがなくても、倒れることはなかった。彼女は視線を逸らす。「仁志……もう離して」仁志の黒い瞳には、動揺した彼女の顔が映っていた。その静かな瞳の奥には、濃い影が宿っている。「本当に?」ゆっくりと顔を下ろし、距離を詰める。その動きは明らかに――踏み込んでいる。男の気配が、彼女の呼吸のすぐ近くまで満ちてくる。声は穏やかなままなのに、腰に回された腕だけが、じわじわと力を強めていく。星は気づいていた。――彼が、何をしようとしているのか。手を伸ばし、彼の胸に当てて押し返そうとする。だが――力が入らない。ただ呆然と、近づいてくる彼の顔を見つめることしかできなかった。……怜央は退院後、そのまま病院の向かいに滞在していた。手には双眼鏡。向かいの部屋で、今にも口づけを交わしそうな二人を見つめている。双眼鏡を握る手に、無意識に力がこもる。ぎし、と軋む音。今にも砕け
怜央は車椅子に座っていた。どうやらちょうど退院するところらしく、数人の秘書が荷物を抱え、彼を外へ押し出そうとしている。真正面から鉢合わせし、しかもまだ車椅子に乗っている姿を見て、星は思わず足を止めた。先に通してあげよう――そう思ったのだ。だが、その瞬間。怜央の深く沈んだ視線が、まっすぐ星に落ちた。その一瞥だけで、星の全身の産毛が逆立つ。本能が、濃密な危険を告げていた。――あの時より、強い。怜央に拉致された時よりも、むしろ。星はこれまで数えきれない修羅場をくぐってきた。だが、ここまで背筋が凍る感覚は、久しくなかった。ついこの前、D国の王宮にいた時ですら、ここまでではなかった。彩香も何かを察したのだろう。とっさに星の前へ出て、その視線を遮る。怜央は彩香を一瞥すると、何の感情も浮かべないまま視線を外した。そのまま秘書たちに押され、二人の横を通り過ぎていく。完全に姿が遠ざかってから、ようやく彩香が口を開いた。「星……今の怜央の目、ちょっと怖くなかった?」言葉を探すように眉を寄せる。「なんていうか……」少し考え、ようやく言葉を見つけた。「今にも食われそうな感じっていうか……。星、最近またあの人に何かした?」星は淡々と答える。「また私が明日香をいじめてるって思ってるのかもね。邪魔してるって」彩香は腕を組みながら言った。「でもさ、少し前に見た時はもっと落ち着いてたのよ。目つきのヤバさも、ちょっとは薄れてたし」星がパーティーや外食の場に出ると、時折怜央と顔を合わせることがあった。侑吾と拓海は常に警戒していたが、怜央はせいぜい数回皮肉を言った程度で、明確に危険な行動には出ていない。侑吾も何度か言っていた――怜央からは、そこまで明確な危険は感じない、と。彼が星の前に現れる頻度は、少なくはない。だが多すぎるわけでもない。意図的にも見えるし、ただの偶然にも見える。星は小さく息をついた。「……やっぱり気をつけたほうがいいね。最近、私たち雲井家にかなり損させてるし。あの人たちがこのまま引くとは思えない」「それはほんとにそう」病室に戻ると、美咲はすでに帰っていた。二人とも、彼女が仁志と何を話したのかは聞かなかった。明らかにプライベートな話だとわかっていたからだ。そんな空気の中、
「まあ、たいしたことない」仁志は軽く答えた。彩香は星から美咲の話を聞いていたが、実際に会うのはこれが初めてだった。興味深そうに、じっと彼女を観察する。その視線に気づいた美咲は、軽くうなずき、礼儀正しく挨拶した。星は、美咲が仁志に何か話したいことがあるのを察し、彩香に声をかける。「彩香、ちょっと一緒に買い物行かない?」「うん、いいよ」二人はそのまま病室を出た。廊下に出ると、彩香がぽつりと呟く。「さっきのランス家の当主、仁志とかなり親しそうだったね?」星は少し考えてから答えた。「たぶん、すごく仲のいい友達なんだと思う。そうじゃなきゃ、あんな大きな案件を私たちに任せたりしないでしょ」彩香は振り返り、小声で言う。「星、あの人――若いし、めちゃくちゃ綺麗」星は素直にうなずく。「うん。本当に優秀な人だよ」彩香は少しもどかしそうに言った。「ねえ星。仁志ってさ、身分も立場も頭の良さも顔も、全部トップクラスなんだよ?普通に考えて、ちゃんとつかまえておくべきでしょ。まさか今でもただの友達とか言わないよね?」星は黙ったままだった。幼い頃からの親友だからこそ、彩香にはわかる。星は、何かを迷っている。「星、仁志のこと嫌いなわけじゃないでしょ?しかも一緒にいても仕事の邪魔どころかプラスだし、権力争いにも影響ない。それなのに、どうしてちゃんと向き合わないの?もしかして……清子の件、まだ引っかかってる?」星は首を横に振った。「違う」「じゃあ何?」少し間を置いて、星は口を開いた。「……実はね。仁志、前に奥さんがいたんだって」その言葉に、彩香は一瞬固まる。「えっ……結婚してたの!?そんな話、聞いたことないけど……」言ったあとで、自分でも無神経だったと気づく。別に、他人に話す義務なんてないのだから。彩香は星の表情を見つめる。「星、それ……そんなに気になる?」星は静かに首を振った。「私にも過去はあるから。そこは気にしてない。ただ……」こめかみを軽く押さえながら続ける。「その元奥さんが、また戻ってくるんじゃないかって……少し不安で。雅臣の元カノだった清子には、ひどい目に遭ったし。この前だって、ノアの元恋人にあなた誘拐されたばかりでしょ」彩香はようやく納得した。「ああ……なるほど。元恋人問題をちゃんと処
彼女はやわらかな声で言った。「司馬さん。少しだけですが、自分でお料理を作ってきたんです。召し上がっていただけたら……すぐに帰りますから」怜央は淡々と答えた。「さっきもう食べた。今はあまり食欲もない。持って帰ってくれ。それと――これからは用事がないなら、見舞いに来なくていい。俺たちは、そこまで親しい関係じゃないだろ」その言葉に、明日香の顔から少しずつ笑みが消えていく。怜央は一切、容赦しなかった。ここで食い下がれば、さらにきつい言葉をぶつけられるかもしれない。――そうなれば、本当に取り返しがつかなくなる。明日香は静かに言った。「司馬さんがお休みになりたいのでしたら……これ以上はお邪魔しません」そう言うと、そのまま部屋を後にした。だが――自分で作ってきた料理だけは、持ち帰らなかった。それに気づいた怜央は、秘書に短く言い放つ。「明日香が持ってきたもの、お前が食え」秘書は彼の顔色をうかがいながら、逆らうこともできず、黙ってそれを持ち下がった。怜央は再び、窓の外へ視線を向ける。ただぼんやりと、何かを考えるでもなく――……彩香が仁志の見舞いに訪れたとき、はっきりと感じた。――星と仁志の間に流れる空気が、以前とはどこか違う。思わず、心の中で感心する。――仁志、やるじゃない仁志は、本当に頭の回転も速く、人の心を読む力も優れている。雅臣なんかとは比べものにならない。今の様子を見る限り――美人を手に入れるのも、もう時間の問題だろう。仁志の傷は深かったが、幸い骨には達していなかった。ようやく皆、レイル家の話をする余裕も出てきた。彩香が口を開く。「D国の王宮で起きたあの火事、どうやら怜央の仕業らしいわ。レイル国王、今は明日香を相当恨んでるみたいで……とんでもない額の懸賞金までかけて、捕まえようとしてるらしい」星はここ最近ずっと病院に付き添っていて、外の状況にまで気を回す余裕はなかった。その話を聞き、少し驚いた様子で言う。「レイル国王が狙ってるのって、明日香なの?てっきり私と仁志だと思ってた」彩香も首をかしげる。「そうなのよ。狙われてるのは明日香」一度言葉を区切り、続けた。「聞いた話だとね、もうすでにレイル側は明日香を捕まえるために人を送り込んでたらしいの。でも明日香って、運がいいのよね。空港でちょ
秘書は言葉を失った。……また星を見に行くんですか。朝、目を開けば星。夜、目を閉じても星。いったいあの星の何が、そこまで人を惹きつけるのだろう。心の中ではそう思いながらも、秘書は車椅子を用意し、怜央を仁志の病室の前まで押していった。窓越しに、怜央は見た。星が、仁志に食事を食べさせている。星が仁志を見る眼差しには、はっきりとした痛ましさといたわりがにじんでいた。対する仁志の唇には、淡い笑みが浮かんでいる。その表情は、この上なく満たされているように見えた。食事を終えると、星はティッシュを一枚取り、気遣うように仁志の口元をそっと拭ってやる。二人の仕草に、露骨な甘さはない。けれど、誰の目にもわかるほど、二人の距離はまた一段と近づいていた。それどころか、前に仁志が怪我で入院した時よりも、さらに親密になっているようにさえ見えた。怜央の右手に力がこもる。鈍い痛みが、胸の奥からじわじわと広がっていった。彼は呆けたようにその光景を見つめながら、胸の奥に、名づけようのない渇望が湧き上がるのを感じていた。車椅子の肘掛けを強く握りしめる。全身の力を振り絞って、ようやく衝動を抑え込んでいた。病室へ飛び込み、仁志を放り出して、自分がその場所に取って代わる――そんな衝動を。怜央の目つきがどんどん危うくなっていくのを見て、秘書は思わず唾を飲み込んだ。小声で言う。「司馬様、もう戻りましょう。このままいたら、仁志に気づかれてしまいます」仁志も怪我をしているとはいえ、あの男の腕はあまりにも恐ろしい。今の怜央では太刀打ちできない。しかも怜央は、脚まで負傷していて自由に動けない。仁志がその気になれば、怜央を殺すことなど何の苦労もないだろう。怜央は黙ったまま、まるで秘書の言葉が耳に入っていないかのようだった。このままでは何か起きる――。そう直感した秘書は、返事を待つことなく、そのまま怜央を押してその場を離れた。怜央も、止めはしなかった。ただ、病室へ戻るまでの道のり、彼はずっと異様なほど無言だった。まぶたを伏せたままで、その瞳にどんな感情があるのか、誰にも分からない。病室に戻ってまもなく、明日香がやって来た。今回は、自分で作ったお粥と小鉢を持って、怜央の見舞いに来たのだ。「司馬さん、お加減はいかがですか?」
「司馬さん。お父様と兄を呼んで、必ず応援に向かわせます」明日香はそう真剣に言い残すと、車のドアを開け、足早に立ち去っていった。怜央は、遠ざかっていく明日香の背中を見つめながら、なぜか少し呆然としていた。脳裏に浮かんだのは、星だった。もしここにいたのが星なら――彼女は絶対に離れたりしない。飛行機の中で、怜央は星と仁志が王宮から逃げ出す時の監視カメラ映像を見ていた。今の自分の状況は、あの時の仁志と星に、あまりにもよく似ている。それでも星は、仁志を置いて一人で逃げたりはしなかった。いや――星は最初から一度だって、仁志を見捨てたことなどなかった。その瞬間、怜央はふいに理解した。仁志にはもっと多くの選択肢があったはずなのに、それでもなお星だけをひたむきに想い続けた理由を。仁志は、自分が求めていた答えを手に入れたのだ。だが、彼は違う。彼には何もない。何ひとつ、ない。彼が得たものは、ほんのわずかな、滑稽な施しだけだった。怜央は車内にもたれたまま、明日香の後ろ姿が視界から少しずつ消えていくのを見つめていた。彼の傷は浅くなかった。脚はほとんど感覚を失っていて、自力で車から降りることすらできない。明日香がもう少し注意深く見ていれば、彼が負傷していることに気づけたはずだった。だが、彼女は気づかなかった。怜央は視線を引き戻し、頭上の空を見上げる。けれど、その胸には何の波も立たなかった。悪事を重ねれば、いずれ報いを受ける。だが彼は、その報いそのものを恐れたことは一度もない。むしろ、その報いがなければ、彼は今日まで生き延びることすらできなかった。因果応報。これまで幾人もの人間が彼の手で死んでいったように、いつか必ず、自分も同じように誰かの手で死ぬ日が来る。……怜央が目を覚ました時、自分が死んでいないことに気づいた。それどころか、彼は病院のベッドに横たわっていた。秘書は、彼が目を覚ましたのを見ると、ほっと息をついた。「よかった……司馬様、ようやくお目覚めになりました」怜央の傷はすでに手当てされ、包帯も巻かれていた。命に関わる傷ではなかったらしい。秘書は続けた。「すでに調べはついております。司馬様と明日香様を襲った者たちは、レイル国王が差し向けた人間です」ここはM国であり、しかも
まさか、輝が、まだ彼女を狙ってくるとは。しかも、今度は命まで奪おうとして。航平の表情が一瞬こわばった。「......輝、君に何か言ってこなかったのか?」「何も。そもそも顔を出すわけないわ。それに、あいつは今S市にいないはずよ」航平は伏し目がちにコーヒーを見つめた。苦い香りがふわりと立ち、彼の目の奥に潜む複雑な表情を隠すようだった。ふいに、航平が問いかけた。「星......少し前に、輝が裸にされて晒された事件、知ってるか?」「少しだけ聞いたわ」だが、特に気に留めなかった。あの性格だ。恨まれる相手も多い。多少の報復を受けたところで、驚くよ
「......詳しいことは分からないわ。ただの人違いか、ありがちな誤解かもしれない。でも、そんなことはどうでもいいの。狙いを持って動く者は、いずれ自分から尻尾を出す。――どちらが先に焦れるか、それだけの話。結局、待てた方が勝つのよ」明日香の言葉は静かだったが、底には冷たい光が宿っていた。そのころ、清子が会場に戻ると、仁志と翔太が並んで馬に乗り、的に向かって矢を放っていた。仁志の馬上の姿勢は、まるで絵画のように端正で美しい。騎射の腕前は、かつてその技巧で名を馳せた優芽利をも凌いでいた。翔太の瞳は、純粋な憧れで輝いている。目を離せない――まるで、憧れの英
星は落ち着き払って、静かに言葉を継いだ。「もし本当に私にお金も、権力も、強い後ろ盾もあるのだとしたら......大会は何らかの事故で中断した、そう皆さんが聞かされるだけでしょうね。その原因が私だなんて、絶対誰にも知られないはずよ。ネットでも、私の名前なんて一切出てこない。まして、こんなふうに好き勝手に罵倒できる人なんて、誰一人いないわ」彼女の視線が、ゆっくりと観客席を撫でる。「それに......報復ですって?」星は淡々と笑みを浮かべた。「退場しろと言っていたときは、誰もそんな心配してなかったのに......どうして急に恐れだしたのかしら?本当は報復が
翌日。雅臣は再び、星のマンション前に立っていた。昨夜、翔太から聞き出した情報によれば、今日は星が翔太を連れてスポーツクラブで射撃の練習をする予定――同行者は怜ではなく、星と翔太の二人だけ。再婚の糸口を探していた雅臣にとって、これほどの好機はなかった。彼は夜通しで仕事を片づけ、朝早くから玄関前で待機していた。翔太には一言も知らせていない。まだ幼い翔太がうっかり口を滑らせ、星の予定が変わってしまうのを恐れたのだ。やがて、マンションのドアが開き、二人の姿が現れた。雅臣はほっと息をつき、声をかけようと一歩踏み出した。だが、その瞬間――もう一つの長身の影が、二