Share

第402話

Author: かおる
雅臣の瞳の奥に、かすかな動揺が浮かんだ。

清子はさらに言葉を重ねる。

「私は星野さんに仕返ししてほしいわけじゃないし、彼女を困らせてほしいわけでもない。

今の私が願っているのは、ただひとつ。

コンサートを無事に成功させて、思い残すことをなくすこと。

そして......」

彼女は静かに雅臣を見つめ、その瞳に言い尽くせぬ思いを宿した。

「あなたと勇が、これからも仲良くいてくれることよ」

午後八時。

星と奏は、予定通りワーナー先生の音楽交流会に姿を現した。

久しぶりに会った奏の顔には、晴れない陰が差していた。

「先輩......なにか悩んでいることがあるんじゃないの?」

星の声は穏やかだった。

奏が口を開こうとした瞬間、背の高い影がふいに星の前に立ちふさがる。

「星、君に話がある」

振り返るより早く、奏が一歩前に出て彼女を庇い、鋭い視線を雅臣に向けた。

「雅臣、何のつもりだ」

雅臣は彼を一瞥し、冷ややかに吐き捨てる。

「人のことに首を突っ込む前に、自分の身の回りを片づけたらどうだ」

奏の顔がこわばった。

星は眉を寄せて奏を見つめる。

「先輩、本当は何があったの?」

かすれた声が返る。

「......大したことじゃない」

さらに問いかけようとしたそのとき、澄んだ水音のような雅臣の声が割って入った。

「話したいのは、お前のスタジオと勇の件だ」

星の瞳がかすかに揺れる。

「先輩、ここで待っていて。

すぐ戻るから」

「でも......」

奏の目には不安が滲む。

星は小さく微笑んで安心させた。

「心配しないで。

彼が私に何かできるわけがないから」

星にとって奏は、幼い頃から兄のような存在だった。

母の臨終の際、彼は「必ず守る」と約束してくれた。

かつて何度も「妻に迎えたい」と言ったこともあったが、星は本気にはしなかった。

二人の間に男女の情はなかった。

奏もまた、彼女に対して同じだった。

ただ――彼はどうやら、「彼女を妻として迎え入れてこそ、本当に守ることができる」と考えていたようだった。

人目を避けるため、雅臣は星を休憩室へと連れていった。

テーブルの上には一通の書類が置かれている。

目に入った瞬間、星は悟った。

――清子のためか。

やっぱり、勇ではなく清子のほう。

女にかまけて友情を切り捨
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter
Comments (1)
goodnovel comment avatar
ワタナベ イネコ
星の所も被害うけたでしよ どうせ片付けるなら奪う前に 自分の所を片付けてレッスンしろよ 馬鹿だなぁ 金の使いどころを間違えてる!
VIEW ALL COMMENTS

Latest chapter

  • 夫も息子もあの女を選ぶんだから、離婚する!   第415話

    雅臣の漆黒の瞳が、測り知れぬ深さを帯びる。「本気か」「どうして、冗談で言ってると思うの?」「会場に果物ナイフがある。試してみればいい」星は笑みを浮かべたが、その目には一片の温もりもなかった。「私を挑発して衆人の前で手を上げさせ、牢にでも放り込むつもり?」雅臣は彼女の憎悪を隠さない眼差しを受け止め、静かに言う。「違う。復讐の機会を、お前に与えてやろうと思っただけだ」星は冷ややかに笑った。「刺し違えたところで、私が失ったものが取り戻せるとでも?そんなに都合のいい話がある?それこそあなたには安すぎる罰よ」彼女がワーナー先生の前で雅臣を平手打ちしなかったのは、噂の種を撒かないためだった。あの場で先に手を出せば、理非曲直を問わず、悪者にされるのは彼女の方だ。そんなろくでなしのために、自分の名誉を汚す価値はない。雅臣はしばらく黙り込み、やがて低く絞り出すように言った。「補償する」「補償?」星は嘲るように声を上げた。「笑わせないで。あなたの言う施しみたいな四億円で?」もはや彼女は、彼を見つめることすら嫌悪に堪えなかった。数歩身を引き、踵を返して去っていく。雅臣はその場に立ち尽くし、遠ざかる背を無言のまま見送った。オフィスの扉が軽く叩かれ、誠が入ってきた。「神谷社長、スターの居場所を特定しました。ご自身で行かれますか」彼は何日も追跡してきたが、ようやく手がかりを掴んだのだ。先日、スターの友人と連絡を取った直後、相手の番号は消されていた。調べると、まったく無関係の人物の身分証で登録されていた番号で、おそらく外部との連絡専用だったのだろう。自分の正体が突き止められたと悟った相手は、容赦なく番号を消した。そのせいで調査の方向を誤り、時間を浪費した。結局、彼はハッカーを雇い、技術的手段で相手の携帯を割り出したのだ。ちょうど暇を持て余していた雅臣は、うなずいて答えた。「案内しろ」スタジオでは、星と彩香が破壊された機材のリストをまとめていた。「練習室の楽器はほとんど全滅。全部買い替えね。床も塗料でめちゃくちゃだし、張り替えが必要。カーテンもガラスも壁も......」一度でも改装を経験した者なら分かるだろう。気力も体力も消耗す

  • 夫も息子もあの女を選ぶんだから、離婚する!   第414話

    しかし、手が彼の顔に届く前に、その手首はぎゅっと掴まれた。暗がりの中で、彼の整った横顔が明滅する。「もう何度も殴られてやっただろう。いい加減にしろ」雅臣はしっかりと彼女の手首を押さえ、逃れられないように縛り上げるようにしていた。星は顔を上げ、これまでにないほどの激しい嫌悪と憎悪を瞳に宿して雅臣を見据えた。「あなたは、私のものだったはずの機会を、勝手に清子に与えたのね?もし私の見当が外れていなければ、あなたはワーナー先生の招きを断り、代わりに清子を連れて行ったんでしょ?そうして彼女はずっと努力してきた、病を抱えながらも諦めないって言って、私の代わりにそのチャンスを渡したんじゃない?私のためにあるべきものを、どうして人の勝手で決められるのよ。私の結婚も、私のネックレスも、今度は私のチャンスまで」声は問いかけの形をとっているが、その口調には確固たる確信があった。何を疑えばいいのか、もはや明白だった。彼女の結婚、贈られたネックレス、そして今また奪われた機会。すべてが、同じ図式で進んでいる。「雅臣、どうして私のものを何でも平気で清子に差し出せるの?私が彼女の家族を皆殺しにしたとか、先祖の墓を掘り返したとか、前世で彼女に借りがあったの?誰の権限で、私の人生の選択を代わりに決められるっていうの?」しばしの沈黙の後、雅臣は低く嗄れた声で答えた。「清子の病は、治るとは限らない。彼女は、お前よりも......この機会を必要としている」その言葉を受け、星の抑えられた手の一本が、雅臣の頬を強く打ちつけた。怒りの震えは激しく、指先はぶるぶると震えたが、それでも掌の痛みは二の次だった。彼女が打ったその一撃は、むしろ彼女自身の怒りの証だった。「で、次は何よ」彼女は冷笑を浮かべながら雅臣の目を見据えた。「スタジオを渡せって?バイオリンを差し出せって?ああ、そうね、考えてみるわ。まだ何があるかしら、彼女にあげられるもの」彼女の唇がひらき、不気味に笑う。「そうね、最後には私の命もよこせって言うのかしら?だって彼女は不治の病に冒されている、命は長くないっていうのに、私はピンピンしてるもんね。だから今、私が油断しているうちにさっさと殺して、私の命を奪って行けばいいのよね?

  • 夫も息子もあの女を選ぶんだから、離婚する!   第413話

    ワーナー先生は意味深げにノアを見やった。「おまえが他人のために、これほどまで口を利くとはな」ノアの蒼い瞳は、海のように深く穏やかだった。「彼女には、その価値があります」その言葉に、ワーナー先生だけでなく、星自身の胸にも小さな動揺が広がった。ワーナー先生はノアをじっと見つめ、低く告げた。「ノア、おまえはまだ若い。感情に流されるな」ノアは微笑んだ。「いいえ、ワーナー先生。私は感情ではなく事実を申し上げているだけです。もしあなたが星野さんを深く知れば、とても放ってはおけないとお思いになるはず。どうか――私がひとつ、人情を欠いたと思ってお許し願えませんか」ワーナー先生は苦笑し、首を振った。「まったく......おまえというやつは」星はノアに向き直り、静かに言った。「ノア、助けてくれようとした気持ち、本当にありがとう。でも......もう結構よ」その声は柔らかだったが、どこか決然としていた。「ワーナー先生がおっしゃった通り、この世には道はいくらでもあるわ。ワーナー先生に見出されるのもひとつの道。けれど、自分で新たな道を探し歩むのも、またひとつの道。どちらを選んでも、歩みを誤らなければ、行き着く先は同じよ」その言葉に、ワーナー先生は思わず彼女を見直した。――彼女は学歴が高くないと聞いていたが、まさかこんな言葉を口にするとは。たしかに非凡な才能を持ちながらも、それを活かす先を誤り、どう嫁ぐかばかりに心を砕いてきた女。しかも手管も見事で、ノアまでもがその優しい罠に囚われている。人情を理由にノアが頼み込むのなら、自分も強くは拒めまい。弟子にせよと言っているのではなく、時折指導してやれというだけなのだから。だが――星が自ら辞退したことは、ワーナー先生の胸中で彼女への印象を、わずかに持ち直させるものだった。最初から、ワーナー先生が彼女に好意的でないのは見て取れていた。不公平を嫌い、彼女を嘲った者たちに謝罪させたのも、あくまで公正を貫いただけ。それ以上でも以下でもない。星は、そんな彼がいくらか心を動かしてくれただけで十分だった。――この場でノアが自分のために声を上げてくれたことも、決して忘れない。だが、もはや結果を覆す意味はないのだ。ワーナー先生と

  • 夫も息子もあの女を選ぶんだから、離婚する!   第412話

    ワーナー先生の言葉は、星の胸を鋭く突き刺し、彼女は居たたまれなくなった。反論の余地など、どこにもない。「おっしゃるとおりです......それは確かに、私の過ちでした」星は誠実な声で答えた。「いったん音楽を捨てたからこそ、私は二度と軽々しく手放してはいけないと悟りました。どうか、もう一度だけ機会をいただけませんか」しかしワーナー先生は淡々と首を振った。「星野さん、私はすでにあなたに機会を与えた。それをつかみ損ねたのは、あなた自身だ。都合がいい時だけ遊びに来るような場所ではないからな」「......私に機会を?」星の瞳がわずかに揺れる。「それは、いつのことですか?」ワーナー先生は深く彼女を見据え、ゆっくりと答えた。「つい先日だ。君の才能に目を留めて、直接会いたいと招いた。だが現れたのは君ではなく――君のご主人だった」ワーナー先生の視線が横に流れ、雅臣をとらえた。「彼は家庭を優先しなければならないと言って、君の代わりに私の誘いを断ったのだ」「......あなたが、私の代わりに?」星は信じられないものを見るように雅臣を見つめた。雅臣の目がかすかに揺らぎ、無意識に視線を逸らした。その態度だけで、すべてが事実であることを悟るには十分だった。星の胸に、怒りと失望が込み上げる。だが、いま問い詰めている場合ではない。彼女は息を整え、再びワーナー先生に向き直った。「申し訳ありません、ワーナー先生。私は本当にそのことを知らなかったのです。ですから――」だがワーナー先生は、手を軽く上げて彼女の言葉を制した。「私はもう老いた。残された力もそう長くはない。だからずっと前から、これが最後の弟子だと決めていた」そしてワーナー先生は穏やかに微笑み、清子へと目を向ける。「小林さん、君が私の最後の弟子になる」清子は優雅に一礼し、口元に笑みを浮かべた。「ワーナー先生」ワーナー先生も満足げにうなずく。「彼女は天賦の才では君に及ばないかもしれない。だが音楽への情熱は君よりも強く、努力も惜しまない。病を抱えながらも、決して演奏を手放さなかった。これこそが私の求める資質だ。私はこれまで才能ある者ばかりを選んできた。だが、どれほどの天才も、努力を

  • 夫も息子もあの女を選ぶんだから、離婚する!   第411話

    星は突然、彼の言葉をさえぎった。「山田さんの謝罪なんて必要ないわ。たとえ口先だけの謝罪をしたところで、あなたがしてきたことは消えないもの」勇は鼻で笑い、口をとがらせる。「自分でそう言ったんだぞ。後で後悔するなよ」「安心して。後悔なんてしないわ」星は笑みを浮かべた。「ただ......残念ね」勇は眉をひそめた。「何が残念だって?」星は淡々と告げる。「もしもう少し早く自首していれば、情状酌量もあったかもしれない。でも、もう遅いわ。あなたにはもうその機会すら残されていない」勇は鼻で笑い、彼女の言葉を嘲った。だが次の瞬間、星の視線がふいに入口へと向けられる。そこには制服姿の警察官たちが現れ、彼の前に立ちふさがった。「山田さん、通報を受けて来ました。あなたは住居侵入および器物損壊の容疑がかかっています。署までご同行願います」勇は思わず声を荒げた。「俺じゃない!誤解だろ、何かの間違いだ!」しかし警察官たちは一歩も退かない。「ご協力いただけないのなら、強制的に連行することになりますよ」その言葉に勇は口をつぐんだ。これ以上抵抗すれば、力ずくで連れ出されるのは目に見えている。そうなれば面子は丸潰れだ。犯人を通報したのが誰かなど、考えるまでもない。勇は星をぎろりと睨みつけ、低く吐き捨てた。「覚えてろよ!今日いくら威張れたって、すぐに地に落ちるんだからな!」そうして彼は警察に連れられていった。小さな騒ぎは起きたが、勇は音楽界の人間ではない。交流会の空気はすぐに平静を取り戻す。清子は蒼ざめて声を上げた。「雅臣、勇が警察に連れて行かれたわ。助けてあげましょうよ!」だが雅臣は一瞥しただけで、冷淡に視線を逸らした。「自業自得だ」「でも......」清子の言葉を、雅臣は意味深な眼差しで遮った。「勇はあまりにも増長しすぎた。少し痛い目を見るべきだ」その冷酷な一言に、清子は息を詰まらせた。勇が星のスタジオを壊したことなら、雅臣も大目に見たかもしれない。あれは彼女のために仕返ししたと言い張れたからだ。だが、つい先ほどの勇の言葉は――雅臣の逆鱗に触れた。いくら元妻でも、翔太の母親でもある星を、あの場であれほど辱

  • 夫も息子もあの女を選ぶんだから、離婚する!   第410話

    もし星がF語を話せるのが、翔太の家庭教師を雇ったり、日頃彼の勉強につきあったおかげだと言えるのなら──では、彼女がG語まで流暢に話せる理由は何なのか。翔太が学んでいるのは、英語とF語、そしてS語の三つだけ。その中にG語は含まれていない。なのに彼女は、文法も発音も一分の隙もなく、まるで長年外国人と直接交流してきた人間のように自然に口にする。いくら認めたくなくても、否応なくそう結論づけるしかなかった。雅臣はじっと星を見つめた。だが彼女は一度も視線を返さず、録音を淡々と流し続ける。清子が口を開いたときになって、ようやく彼は目を向けた。深い井戸の底のような漆黒の瞳が、無言のまま彼女をかすめる。清子の顔は引きつり、胸の奥がざわついた。星が録ったのは、勇と自分の会話だけのはずではなかったのか。どうして自分の声まで入っているの......録音が終わると、空気がまるで死んだように凍りついた。人々の顔はそれぞれに複雑に歪んでいる。大半は決まりが悪そうに眉をひそめていた。先ほどまでは図々しくも「星が執念深い」と嘯けた彼らだが、証拠を突きつけられてはもう言い訳の余地はない。ワーナー先生がゆっくりと人々を見渡し、冷ややかに言った。「先ほど星野さんを侮辱した者は、今すぐ謝罪しなさい。さもなくば、私の交流会には二度と招かない」つまり、今後ワーナー先生主催の国際的な舞台に立つ機会を失うということだ。その一言で、誰も強がり続けることができなくなった。星にまとわりついていた二人の外国人も、形勢を悟るとすぐに口を開いた。「星野さん、本当に申し訳ない。先ほどはあまりに美しかったので、連絡先を聞こうとしただけなんです」「その後は......周りに流され、軽率な真似をしました。どうか無礼をお許しください」星は冷ややかな眼差しを投げるだけで、返事はしなかった。男たちの下卑た視線は、彼女には見慣れたものだ。相手にすれば、ますますつけあがるだけ。二人が頭を下げると、それに倣うように他の者たちも次々と謝罪の列に加わった。星は静かにその場に立ち、ただ淡々と謝罪を受け止めた。「もう結構です」と大人ぶるつもりはなかった。ここで彼らに示しておきたかった。──自分は誰にでも好き勝手にされる存

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status