Masuk「そうです。ただ、神谷さんから先ほど、こちらを回収するよう指示されました」彼は一度言葉を切り、続けた。「それから、アトリエも。二時間以内にアトリエの物を搬出してください。もし運び出せない場合は、こちらで片づけるしかありません」清子の顔は歪んだ。「別荘とアトリエは雅臣が私にくれたものよ!一度あげたものを取り返すなんて、そんな理屈ある?いつからあの人、こんなケチになったのよ!」誠は落ち着いた声で言った。「アトリエと別荘は、もともと星野さんに贈る予定のものでした。あなたが重い病気で余命わずかだったため、先に使わせていただけです。もう病気でない以上......これらは回収されるべきでしょう」彼は微笑みながら清子を見つめた。穏やかな態度とは裏腹に、目に宿る軽蔑は隠そうともしなかった。「小林さん、ご存じでしょう。あなたの特権はすべて不治の病という理由で得たものです。その病がなければ、神谷さんがあなたの願いを優先するはずがないです。まさかご自身が、奥様やご子息様より大事だとでも思いますか?」清子は唇を震わせ、言葉を失った。誠は微笑んだまま告げた。「小林さん。荷物をまとめる時間は、あと二十五分です」二十分後、清子はスーツケースを引きながら出ていった。彼女は陰険な目つきで誠をにらみつけた。偽装を脱ぎ捨てたその姿は、まるで毒を帯びた蛇のようだった。「高橋、あんたたち、絶対に後悔させてやるわ!」そんな言葉、誠は聞き慣れている。揺らぐ様子もない。「小林さん、アトリエのほうも忘れずに。二時間後にまたお会いしましょう」清子はスーツケースを引き、ひとまずホテルに身を寄せた。ネットでは彼女に関する検索ワードが荒れに荒れていた。誰も炎上を抑えないため、トレンドは上がる一方。多くのスポンサーが、契約解除の声明を公表した。つい最近、清子が参加していたコンテストも、配信でのデータ水増しや数々の不祥事が明るみに出て、彼女は即座に失格処分となった。多くのファンは反論材料すら見つけられず、次々と離れていった。わずか数時間で、清子は数百万のフォロワーを失った。ネットのコメントを眺め、彼女は恐怖に胸をざわつかせた。だが、完全に取り乱すことはなかった。雅臣
「ドンッ!」清子はスマホを持ち損ね、床に落としてしまった。頭の中に浮かんだのは、ただひとつの念。――終わった。完全に、終わった。すべてが暴かれてしまったのだ。清子は取り乱しながらスマホを拾い上げた。「雅臣、聞いて......私は、わざと騙したんじゃないの!わ、私は......あなたを愛しすぎただけで怒らないで、お願い......」「愛しすぎた?」雅臣の冷笑が、無情に言葉を断ち切った。「俺達を離婚させて、息子を拉致し、妻を殺そうとした。それが、お前の言う愛か?そんな愛、狂気の沙汰だ」「ち、違うの......雅臣、聞いて、私は――」清子の弁解を聞く気は、彼には微塵もなかった。「星から奪ったものは、全部返してもらう。それと、拉致の計画と、車で人を轢こうとした件は警察に通報する。星が、お前を許すかどうかは......彼女次第だ」「雅臣!」悲鳴に近い呼びかけも虚しく、雅臣は冷淡に通話を切った。折り返しても、すでに応答はなかった。清子は、火の上の蟻のように狼狽した。雅臣が真相を知った以上、もう味方してはくれない。あのトレンドも、二度と消してはくれない。どうすればいい?どうすれば――?そのとき、勇から電話がかかってきた。まさか、彼も責めに来たのだろうか?清子は数秒迷った末、通話を取った。「い、勇......」電話の向こうから聞こえてきたのは、驚愕に満ちた声だった。「清子......お前、病気じゃなかったのか?」事があまりに突然で、清子の頭は回らない。弁解も言い訳も、すぐには出てこない。「勇、あの、私は......」言い終える前に、勇の声が再び飛んできた。「清子!病気じゃないなんて......本当に、よかったじゃないか!」清子は一瞬、耳を疑った。怒られると思っていた。責められると思っていた。まさか、喜んでもらえるなんて。――そうだ。本当に彼女を大事に思う人なら、怒るどころか......無事を何より喜ぶはずだ。勇は続けた。「どうして早く言わなかったんだよ?ずっと心配してたんだぞ。でも、本当によかった。ちょっと待ってろ、雅臣にも連絡する。いい知らせだって――」「勇、その必要はないわ!」
星の知名度が自分より高くなったところで、どうだというのだ。あの女はいまだに、あのボロいアパート暮らし。このオーシャンビューの別荘を買うには、星はあと何年貯金すればいいことか。清子にとっては、涙を数滴落とすだけで、欲しいものなどいくらでも手に入るというのに。清子がトレンドを開いたとき、彼女のスマホが再び鳴った。表示された名前を見た瞬間、清子の瞳に喜びが弾けた。雅臣――雅臣から電話が来るなんて、いったいどれほど久しぶりだろう。彼女はすぐに通話を取った。「雅臣......」言い終わるより早く、冷たく低い男の声が割り込んだ。「清子。お前、今までずっと俺を騙していたのか」清子は凍りついた。「雅臣、何のこと......?私、わからっ――」騙してきたことが多すぎて、どれがバレたのか清子自身にもすぐには判別できない。雅臣の声は、抑え込まれた怒りと嫌悪で震えていた。「まだ惚けるつもりか。今、ネット中にお前が仮病だった証拠が出回っている。俺は......かつて一緒に過ごした日々と、お前が勇を助けたことに免じて、お前の望みは全部叶えてきた。なのに、裏では俺を笑っていたんだな。俺を馬鹿にして遊ぶのは、そんなに楽しいか?」普段、雅臣は感情を外に出さない男だ。だが今の声は、鋼のように冷たく、怒気の濃さは隠しきれなかった。清子の背筋が粟立った。「雅臣......何か誤解なんじゃ。星は前から私に対してよく思ってなくて、だから――」「誤解?」雅臣は冷酷に遮った。「お前が気を失ったふりをしたあと、救急室で医者たちと笑って話している動画。あれも誤解だと言うのか?」清子の血の気が引いた。「ど、動画......?何の話......?」その瞬間――彼女の頭に、以前受けた一本の電話がよぎった。星がいくつか動画を上げたと誰かが言っていた。だが清子は気にも留めなかった。むしろ勝った気でいた。「星が動いた......?ああ、これでまた同情を買えるわ......」そう思っていたのだ。まさか、それが自分の命取りになるとは思わず。震える指でトレンドを開くと、上位十件のうち六件が、自分に関することだった。清子は一番上のワードをタップした。画面に
星は、仁志のために買ってきた食事を提げて病室へ戻った。「ごめん、少し遅くなっちゃったわ」仁志はスマホを置き、彼女の表情をじっと観察した。「......なんだか機嫌が良さそうですね。何かいいことでも?」星は自分の頬に触れた。「そんなにわかりやすかった?」仁志は笑みを含んだ瞳で頷いた。「はい」星は少し迷ったが、清子の件はいずれ彼にも話すことになると思い、隠さずに言った。「清子が病気を装っていた証拠を手に入れたの。それを公開すれば、清子はもう二度と立ち直れないわ」仁志は驚いた様子を見せず、むしろ穏やかに言った。「それは良かったですね。小林さんを暴きたいと思ってる時に、ちょうど決定的な証拠が手に入るなんて」星は、これが航平からだとは言わなかった。仁志を信じてはいるが、こうした繊細なことは口外しない方が良い。航平にも迷惑がかかる。星は軽く頷き、テイクアウトしてきた食事を出した。「まずは食べましょう」仁志は彼女をじっと見つめてから、静かに食事に手をつけた。……翌日。【清子は仮病だった】、【清子の難病は嘘】、【清子は詐欺師】などのタグが、次々とトレンドに躍り出た。星のアカウントから、清子の仮病の動画と映像が公開されたのだ。さらに、星は長文で、これまでの清子との因縁を丁寧につづった。今の彼女の知名度とフォロワー数は桁外れだ。投稿はわずか二時間でトップトレンド入りした。その頃――当の清子は、まだ自分が炎上していることを知らず、仁志と電話していた。「仁志、私の音楽会のチケット、ずっと売れ残ってて......何度も値下げしたのに全然売れないの。あなたの提案が正しかったわ。私には賑やかしが必要なの。仁志、もう一度だけ協力してくれない?あなたの部下や知り合いに来てもらって、会場を埋めてほしいの。空席だらけなんて絶対に嫌」仁志は何の迷いもなく答えた。「いいだろう」清子は胸をなで下ろし、ほっとしたように微笑んだ。「仁志、本当にありがとう。結局、私を支えてくれるのは、あなただけね」仁志は意味ありげに微笑んだが、何も言わなかった。目的さえ達してしまえば、彼にとって清子との会話はもう必要ない。清子も、気まぐれで危ういこの男と長話
「航平には、ちゃんとお礼をしなきゃね」星は静かに言った。「ええ、必ず」電話を切ったあと、星は少し迷い、そして航平に電話を掛けた。受け取っておきながら、礼も言わないのは失礼だ。コールはわずか二回で途切れ、すぐに相手が出た。「星」星は柔らかく口を開いた。「航平、あなたが送ってくれた証拠、受け取ったわ」その言葉に、航平の手がぴたりと止まった。「......証拠?」「ええ。清子が私を陥れた証拠と、病気を装っていた証拠。航平、本当にありがとう。もしあれがなければ、清子を完全に終わらせることはできなかった。せいぜい化けの皮を剥がす程度で終わってたと思う。彼女には難病という最強の盾があるもの。何をしでかしても、雅臣や彼女のファンたちは、適当に理由を見つけて庇うから」星は深く息を吸い、吐き出した。「こんな決定的な証拠を集めるの、大変だったでしょう?本当に......どうお礼を言えばいいのかわからないわ」――その頃。航平の視線は、目の前のノートパソコンの画面に釘付けになっていた。彼の指は、まさに送信ボタンの上で止まっている。画面に映っているのは、彼が星のために用意していた証拠リスト。だが――そこに、清子の仮病の証拠は、ひとつもない。彼が集めた証拠は......雅臣と清子が深夜に会っていたこと。不自然な距離の近さがわかる写真。浮気をほのめかす状況証拠。など、二人の関係を完全に断ち切るための材料だった。清子の仮病については――どれだけ調べても、影すら掴めなかった。航平は確信していた。あの一件は、誰かが裏で清子を守っている。勇は頭が回らないし、秘密を抱えられるようなタイプでもない。だとすれば――その誰かは、一体誰なのか。彼が長い期間探しても見つけられなかった証拠を、匿名の誰かが一瞬で星に送った。誰だ?誰が、何のために?思考が渦巻く中、航平は反射的に穏やかな声で返した。「星。私に礼なんていらない。当然のことだよ。雅臣と勇には、早く清子の正体を知ってほしいだけだ。その方が、あの二人のためになる」――星のためとは言わない。今の星が求めている言葉ではないと、彼は知っていた。星はまっすぐに答えた。「航平
星は、しばし言葉を失った。「......彩香、本当に?本当に全部、確かな証拠なの?」彩香の声は力強かった。「本当よ。私も最初は信じられなかったから、わざわざ人に確かめてもらったの。清子に協力してた医者、今も同じ病院で働いてるわ。送られてきた証拠には、細かい検査報告だけじゃなく、写真も動画も全部揃ってる。救急処置室に運ばれて気絶したフリをする瞬間も、全部映ってるのよ。処置室に入った途端、彼女はむくっと起き上がって、医者や看護師と世間話してるの。動画を見る限り、あのチームは清子の病状とカルテを捏造するための専属班ね。あの人たち、M国から来た専門家で、偽物の医者なんかじゃないわ。だから、雅臣たちがどれだけ調べても見つけられなかったのよ」星は眉を寄せた。「でも......雅臣は、彼女のために世界中の名医を探したわよね。あの医師たちも治せないって言ってた......清子が全員を買収できるの?」彩香は深く息を吐いた。「名医探しって、結局は紹介なのよ。雅臣は忙しいから、ほとんど全部、勇に任せてたの。でも勇って、単純だから......清子があそこに名医がいるらしいわなんて適当に流すと、すぐ鵜呑みにするの。それに、事前に仕込んだ医者じゃなくても、検査の最中に清子が手を回して買収することだって出来る。だから、ずっとバレなかったのよ」一気に喋ったせいで彩香は喉が枯れ、水を飲んで続けた。「それだけじゃないの。翔太くんとあなたが拉致に巻き込まれた件、あれも清子の自作自演。裏の人間との会話も、取引記録も全部あった。自分でわざと倒れて溺れかけたふりをした時の映像も。裏であなたを挑発していた音声も。全部、最初から最後まで事細かに残ってる。それから――ネットで星を叩かせるためのサクラの雇用記録、過激派のファンを焚きつけてあなたの家に押しかけさせた証拠、コンテストでの不正投票、相沢を使ってあなたを誹謗中傷させたログ......もうね、あなたが思いつく限り、いや、思いつかないレベルの悪事まで全部あるの!」彩香は興奮しきっていた。「これで、清子は本当に終わりよ。星、完全に追い風ね......!清子を暴こうと決めた瞬間に、証拠が全部転がり込んでくるなんて。天も、