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第872話

Author: かおる
優芽利の瞳に、かすかな喜びが浮かんだ。

「兄さん、ようやく仕事が一段落したの?」

「......ああ」

怜央の声音は低く沈んでいた。

「家の連中は、年長ってだけで威張り散らし、権力を独占しようとする。

自分にその器量があるかどうかも分かっていないくせにな」

優芽利は言った。

「兄さん、溝口家の当主に会ったことは?」

「溝口家の当主?」

怜央の声がわずかに上がる。

「前任の当主には何度か会ったことがあるが、今の当主には会ったことがない。

どうしたんだ?」

優芽利の声音には、かすかな羞じらいが混じっていた。

「兄さん......もし私が、彼と結婚したら、賛成してくれる?」

怜央の声色が変わる。

「彼と結婚?

優芽利、お前......どうやって彼と知り合った?

本当に......溝口家の当主だと確信しているのか?」

優芽利は答えた。

「ほぼ間違いないと思う」

そう言って、仁志と出会った経緯を一から十まで怜央に説明した。

怜央は話を聞き終え、さすがに驚きを隠せなかった。

「そんなことがあるとはな......優芽利、今回のことはよくやった」

司馬家と溝口家は接点こそ少ないが、溝口家は他の名家に並ぶどころか、それ以上の潜在力と財力を持つ家柄だ。

優芽利が溝口家の当主とつながるなら、司馬家にとって大きな追い風となる。

怜央は私生児から当主に昇りつめた存在だ。

地盤は不安定で、いまだに彼を引きずり下ろそうとする者がいる。

もし本当に仁志と結びつけるなら――

怜央の地位は揺るぎないものとなる。

彼に褒められ、優芽利は嬉しさを隠しきれなかった。

「ただ、ここはZ国だ」

怜央は不機嫌そうに続けた。

「何かと動きづらいし、ちょろちょろ邪魔をする小物が何人かいて、せっかくの俺の好機を台無しにしている」

そこで優芽利は少し間を置き、言った。

「そうだ、兄さん。

明日香が怪我をしたって......知ってる?」

怜央の声がいきなり冷え切った。

「明日香が怪我をした?

どういうことだ?」

優芽利は、隠し立てすることなく、起きたことを全て説明した。

怜央と優芽利は同じ母から生まれ、小さい頃から寄り添って育った。

怜央が唯一大切にしているのも、この妹だった。

だからこそ、優芽利に向けられた刃が、よりにもよって自分の愛する
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