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2話

Author: Amy
last update publish date: 2026-09-15 13:51:58

葬儀を終えて自宅へ戻ったとき、外はもう暗くなっていた。

若菜が玄関の明かりをつけると、圭吾の革靴が目に入った。出かける前のまま、つま先をきれいにそろえて置かれている。

廊下には濃紺のコートが掛かり、片方のポケットから革手袋がのぞいていた。

朝、圭吾が家を出た姿だけが、そのまま残っているようだった。

若菜は白い布に包まれた遺骨と位牌を抱え、居間の一角に用意した祭壇へ運んだ。線香を一本あげ、鈴を鳴らす。

「ただいま」

答える声はなかった。

テーブルには、湊が発表会で使った台本が開いたまま残っていた。椅子の背には、練習のときにかぶっていた黄色い帽子が掛かっている。

若菜は台所へ入り、戸棚からコップを取り出した。

青い車の絵が描かれた、湊のコップだった。

水を注ぐ寸前で手が止まった。コップを洗いかごへ戻し、自分のグラスを出し直す。

ひと口も飲まないうちに、玄関の呼び鈴が鳴った。

モニターには祥子と英明が並んでいた。

若菜が扉を半分ほど開けると、祥子は大きな黒いバッグを腕に掛けたまま、開いた隙間へ足を進めた。

「湊の着替えを取りに来たわ」

「祥子さん、今夜は帰ってください」

「着替えを持って帰るだけよ」

祥子は若菜の肩をかすめるように玄関へ入った。英明は敷居の外で一度足を止めたが、妻を制止せず、黙ってあとへ続いた。

祥子は靴を脱ぐと、迷わず廊下の奥へ向かった。

若菜は追い越し、湊の部屋の前に立った。

「着替えは必要ありません」

「妹さんの家に、何日分も置いていないでしょう」

「明日は私が迎えに行きます。そのあとは、この家へ帰ります」

「ここへ?」

祥子は廊下を見回した。

壁には、湊が描いた三人の似顔絵が貼られている。圭吾だけが大きく描かれ、両手に若菜と湊をつないでいた。

「圭吾がいない家へ、あの子を戻すつもりなの?」

「ここが湊の家です」

「本邸にも部屋はあるわ。泊まりに来たときの服も本も、そのまま置いてある。今までどおり幼稚園へ通えるよう、運転手にも話しました」

「運転手に?」

「朝は本邸から送らせます。帰りも迎えに行かせるわ。食事も身の回りのことも家の者が見る。あなたが仕事に戻っても、湊をひとりにせずに済むでしょう」

申し出ではなかった。祥子の口から出てくる予定は、どれもすでに決まっていた。

若菜は黒いバッグへ目を向けた。

「そのための着替えですか」

「しばらく必要なものだけよ。足りなければ、あとで運ばせます」

祥子がドアノブへ手を掛けた。

若菜はその手を払わず、扉の前から動かなかった。

ふたりの間にあった隙間がなくなる。

やがて祥子の指が、ドアノブから離れた。

「若菜さん。今は気が張っているから、何でも自分でできると思っているのでしょう。でも、葬儀が終わっても、仕事も暮らしも待ってはくれないのよ」

祥子は若菜の顔を見た。

「湊の前で泣くこともできないあなたに、あの子の悲しみを受け止められるの?」

「泣いているところを見せれば、受け止めたことになるんですか」

「そうやって、すぐ言葉を返すところも昔から変わらないわね」

玄関の近くに立っていた英明が、低い声で言った。

「今日は話をしに来ただけだ。祥子、荷物はまたにしなさい」

「またって、いつ?」

祥子が振り返った。

「圭吾はもういないのよ。今日決めなければ、この人は湊を連れて、どこへ行くか分からないじゃない!」

英明は答えなかった。上着のボタンへ手を掛け、ずれてもいない位置を直した。

祥子は廊下の反対側にある書斎へ目をやった。

「圭吾のパソコンと仕事の書類も、本邸へ運ばせます。明日、人をよこすわ」

「圭吾の物には、何も触れないでください」

「会社の物もあるでしょう」

「分けるのは、私が確認してからです。今夜は動かしません」

祥子の目が細くなった。

「何をそんなに守っているの?」

若菜は答えず、居間へ戻った。

テーブルの上の台本を閉じようとして、最後のページで指を止める。

「圭吾は、湊と毎晩これを読んでいました」

表紙には、子どもの字で「さかきばらみなと」と書かれていた。中のページには、鉛筆で小さな丸や縦線がいくつも付いている。

「ここは急がない。ここで息を吸う。読みにくい言葉の横には、ひらがなも書いてあります」

若菜は最後のページを開き、祥子へ差し出した。

余白に、圭吾の字が残っていた。

【最後まで言えたら、誰よりも大きな拍手をする】

祥子は台本を両手で受け取った。

「圭吾の字ね」

「はい」

「私には、何も言わなかった」

祥子はページをめくり、湊の台詞に付けられた印を一つずつ目で追った。

「仕事が忙しいと言っていたのに、毎晩こんなことをしていたの」

若菜は祭壇の前へ座り、少し傾いていた位牌を直した。

祥子は台本を閉じられず、開いたまま胸元へ引き寄せた。

「圭吾は、湊が生まれた日のことを何度も話していたわ。あんなに小さな子を、自分が守るんだって。仕事を任されたときより、ずっと誇らしそうだった」

かすれた声が、途中で止まった。

祥子は台本へ顔を伏せたあと、若菜を見た。

「圭吾がいなくなったのよ。湊まで遠ざけられたら、あの子がいたものが、何も残らない」

「会わせないとは言っていません」

「だったら、今すぐ連れてきて」

「今日は連れてきません」

「どうして、あなたが全部決めるの!」

「湊を、圭吾の代わりにしないためです」

祥子の腕から台本が離れた。

「誰かの代わりでも、家を継ぐためのものでもありません。湊は湊です」

「そんなことは分かっているわ!」

台本がテーブルへ戻され、乾いた音を立てた。

「分かっているから、そばに置きたいのよ。大切にしたいと思って、何が悪いの?」

「大切にすることと、本人の暮らしを先に決めることは違います」

「6歳の子に、何が決められるというの」

「だから、大人の悲しみを背負わせないんです」

祥子は口を開いたが、言葉は出なかった。

英明が腕時計へ目を落とした。

「もう遅い。今日は帰ろう」

「あなたは、それしか言わないのね」

祥子は黒いバッグを持ち直し、玄関へ向かった。

靴を履くと、扉の前で若菜を振り返る。

「次に幼稚園へ行く日には、湊に会います」

「先に私へ連絡してください」

「孫に会うのに、あなたの許可が必要なの?」

「連絡してください」

祥子は返事をしなかった。

ふたりが出ていくと、若菜は玄関の鍵を掛けた。

居間へ戻り、テーブルに残された台本の折れかけた表紙を指で伸ばす。椅子の背から湊の帽子を取り、通園バッグを置く場所へ掛け直した。

圭吾の革靴も、コートも、そのままにした。

若菜は琴音へ短いメッセージを送った。

【今夜もありがとう。次の幼稚園のお迎えは、私が行く】

……

数日後、次の登園日の朝。

若菜が身支度をしていると、幼稚園から電話がかかってきた。

「榊原湊くんの送迎について、確認したいことがありまして」

職員は言葉を選びながら続けた。

「今朝、ご親族を名乗る女性から、今後は榊原家の運転手がお迎えに来ると連絡がありました。ただ、保護者の方からのお申し出ではありませんので、変更はお受けしていません」

若菜は鏡の前で手を止めた。

「連絡した人は、名前を名乗りましたか」

「圭吾さんのお母さまだとおっしゃっていました」

そこで職員の声が低くなった。

「それから、お母さまは今、運転手の方と園の門の前にいらっしゃいます」

若菜はバッグをつかみ、玄関へ向かった。

「湊は、まだ登園していません」

「はい。お伝えしたのですが、来るまで待つとおっしゃっています」

スマホの画面に、琴音からのメッセージが重なった。

【今、湊と家を出たよ】

若菜は歩きながら答えた。

「登録している送迎者以外には、絶対に引き渡さないでください。私もすぐ向かいます」

「承知しました。ただ、お母さまは……」

職員は一度ためらってから、告げた。

「湊くんが来たら、そのまま榊原家へ連れて帰るとおっしゃっています」

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