LOGIN葬儀を終えて自宅へ戻ったとき、外はもう暗くなっていた。
若菜が玄関の明かりをつけると、圭吾の革靴が目に入った。出かける前のまま、つま先をきれいにそろえて置かれている。
廊下には濃紺のコートが掛かり、片方のポケットから革手袋がのぞいていた。
朝、圭吾が家を出た姿だけが、そのまま残っているようだった。
若菜は白い布に包まれた遺骨と位牌を抱え、居間の一角に用意した祭壇へ運んだ。線香を一本あげ、鈴を鳴らす。
「ただいま」
答える声はなかった。
テーブルには、湊が発表会で使った台本が開いたまま残っていた。椅子の背には、練習のときにかぶっていた黄色い帽子が掛かっている。
若菜は台所へ入り、戸棚からコップを取り出した。
青い車の絵が描かれた、湊のコップだった。
水を注ぐ寸前で手が止まった。コップを洗いかごへ戻し、自分のグラスを出し直す。
ひと口も飲まないうちに、玄関の呼び鈴が鳴った。
モニターには祥子と英明が並んでいた。
若菜が扉を半分ほど開けると、祥子は大きな黒いバッグを腕に掛けたまま、開いた隙間へ足を進めた。
「湊の着替えを取りに来たわ」
「祥子さん、今夜は帰ってください」
「着替えを持って帰るだけよ」
祥子は若菜の肩をかすめるように玄関へ入った。英明は敷居の外で一度足を止めたが、妻を制止せず、黙ってあとへ続いた。
祥子は靴を脱ぐと、迷わず廊下の奥へ向かった。
若菜は追い越し、湊の部屋の前に立った。
「着替えは必要ありません」
「妹さんの家に、何日分も置いていないでしょう」
「明日は私が迎えに行きます。そのあとは、この家へ帰ります」
「ここへ?」
祥子は廊下を見回した。
壁には、湊が描いた三人の似顔絵が貼られている。圭吾だけが大きく描かれ、両手に若菜と湊をつないでいた。
「圭吾がいない家へ、あの子を戻すつもりなの?」
「ここが湊の家です」
「本邸にも部屋はあるわ。泊まりに来たときの服も本も、そのまま置いてある。今までどおり幼稚園へ通えるよう、運転手にも話しました」
「運転手に?」
「朝は本邸から送らせます。帰りも迎えに行かせるわ。食事も身の回りのことも家の者が見る。あなたが仕事に戻っても、湊をひとりにせずに済むでしょう」
申し出ではなかった。祥子の口から出てくる予定は、どれもすでに決まっていた。
若菜は黒いバッグへ目を向けた。
「そのための着替えですか」
「しばらく必要なものだけよ。足りなければ、あとで運ばせます」
祥子がドアノブへ手を掛けた。
若菜はその手を払わず、扉の前から動かなかった。
ふたりの間にあった隙間がなくなる。
やがて祥子の指が、ドアノブから離れた。
「若菜さん。今は気が張っているから、何でも自分でできると思っているのでしょう。でも、葬儀が終わっても、仕事も暮らしも待ってはくれないのよ」
祥子は若菜の顔を見た。
「湊の前で泣くこともできないあなたに、あの子の悲しみを受け止められるの?」
「泣いているところを見せれば、受け止めたことになるんですか」
「そうやって、すぐ言葉を返すところも昔から変わらないわね」
玄関の近くに立っていた英明が、低い声で言った。
「今日は話をしに来ただけだ。祥子、荷物はまたにしなさい」
「またって、いつ?」
祥子が振り返った。
「圭吾はもういないのよ。今日決めなければ、この人は湊を連れて、どこへ行くか分からないじゃない!」
英明は答えなかった。上着のボタンへ手を掛け、ずれてもいない位置を直した。
祥子は廊下の反対側にある書斎へ目をやった。
「圭吾のパソコンと仕事の書類も、本邸へ運ばせます。明日、人をよこすわ」
「圭吾の物には、何も触れないでください」
「会社の物もあるでしょう」
「分けるのは、私が確認してからです。今夜は動かしません」
祥子の目が細くなった。
「何をそんなに守っているの?」
若菜は答えず、居間へ戻った。
テーブルの上の台本を閉じようとして、最後のページで指を止める。
「圭吾は、湊と毎晩これを読んでいました」
表紙には、子どもの字で「さかきばらみなと」と書かれていた。中のページには、鉛筆で小さな丸や縦線がいくつも付いている。
「ここは急がない。ここで息を吸う。読みにくい言葉の横には、ひらがなも書いてあります」
若菜は最後のページを開き、祥子へ差し出した。
余白に、圭吾の字が残っていた。
【最後まで言えたら、誰よりも大きな拍手をする】
祥子は台本を両手で受け取った。
「圭吾の字ね」
「はい」
「私には、何も言わなかった」
祥子はページをめくり、湊の台詞に付けられた印を一つずつ目で追った。
「仕事が忙しいと言っていたのに、毎晩こんなことをしていたの」
若菜は祭壇の前へ座り、少し傾いていた位牌を直した。
祥子は台本を閉じられず、開いたまま胸元へ引き寄せた。
「圭吾は、湊が生まれた日のことを何度も話していたわ。あんなに小さな子を、自分が守るんだって。仕事を任されたときより、ずっと誇らしそうだった」
かすれた声が、途中で止まった。
祥子は台本へ顔を伏せたあと、若菜を見た。
「圭吾がいなくなったのよ。湊まで遠ざけられたら、あの子がいたものが、何も残らない」
「会わせないとは言っていません」
「だったら、今すぐ連れてきて」
「今日は連れてきません」
「どうして、あなたが全部決めるの!」
「湊を、圭吾の代わりにしないためです」
祥子の腕から台本が離れた。
「誰かの代わりでも、家を継ぐためのものでもありません。湊は湊です」
「そんなことは分かっているわ!」
台本がテーブルへ戻され、乾いた音を立てた。
「分かっているから、そばに置きたいのよ。大切にしたいと思って、何が悪いの?」
「大切にすることと、本人の暮らしを先に決めることは違います」
「6歳の子に、何が決められるというの」
「だから、大人の悲しみを背負わせないんです」
祥子は口を開いたが、言葉は出なかった。
英明が腕時計へ目を落とした。
「もう遅い。今日は帰ろう」
「あなたは、それしか言わないのね」
祥子は黒いバッグを持ち直し、玄関へ向かった。
靴を履くと、扉の前で若菜を振り返る。
「次に幼稚園へ行く日には、湊に会います」
「先に私へ連絡してください」
「孫に会うのに、あなたの許可が必要なの?」
「連絡してください」
祥子は返事をしなかった。
ふたりが出ていくと、若菜は玄関の鍵を掛けた。
居間へ戻り、テーブルに残された台本の折れかけた表紙を指で伸ばす。椅子の背から湊の帽子を取り、通園バッグを置く場所へ掛け直した。
圭吾の革靴も、コートも、そのままにした。
若菜は琴音へ短いメッセージを送った。
【今夜もありがとう。次の幼稚園のお迎えは、私が行く】
……
数日後、次の登園日の朝。
若菜が身支度をしていると、幼稚園から電話がかかってきた。
「榊原湊くんの送迎について、確認したいことがありまして」
職員は言葉を選びながら続けた。
「今朝、ご親族を名乗る女性から、今後は榊原家の運転手がお迎えに来ると連絡がありました。ただ、保護者の方からのお申し出ではありませんので、変更はお受けしていません」
若菜は鏡の前で手を止めた。
「連絡した人は、名前を名乗りましたか」
「圭吾さんのお母さまだとおっしゃっていました」
そこで職員の声が低くなった。
「それから、お母さまは今、運転手の方と園の門の前にいらっしゃいます」
若菜はバッグをつかみ、玄関へ向かった。
「湊は、まだ登園していません」
「はい。お伝えしたのですが、来るまで待つとおっしゃっています」
スマホの画面に、琴音からのメッセージが重なった。
【今、湊と家を出たよ】
若菜は歩きながら答えた。
「登録している送迎者以外には、絶対に引き渡さないでください。私もすぐ向かいます」
「承知しました。ただ、お母さまは……」
職員は一度ためらってから、告げた。
「湊くんが来たら、そのまま榊原家へ連れて帰るとおっしゃっています」
葬儀を終えて自宅へ戻ったとき、外はもう暗くなっていた。若菜が玄関の明かりをつけると、圭吾の革靴が目に入った。出かける前のまま、つま先をきれいにそろえて置かれている。廊下には濃紺のコートが掛かり、片方のポケットから革手袋がのぞいていた。朝、圭吾が家を出た姿だけが、そのまま残っているようだった。若菜は白い布に包まれた遺骨と位牌を抱え、居間の一角に用意した祭壇へ運んだ。線香を一本あげ、鈴を鳴らす。「ただいま」答える声はなかった。テーブルには、湊が発表会で使った台本が開いたまま残っていた。椅子の背には、練習のときにかぶっていた黄色い帽子が掛かっている。若菜は台所へ入り、戸棚からコップを取り出した。青い車の絵が描かれた、湊のコップだった。水を注ぐ寸前で手が止まった。コップを洗いかごへ戻し、自分のグラスを出し直す。ひと口も飲まないうちに、玄関の呼び鈴が鳴った。モニターには祥子と英明が並んでいた。若菜が扉を半分ほど開けると、祥子は大きな黒いバッグを腕に掛けたまま、開いた隙間へ足を進めた。「湊の着替えを取りに来たわ」「祥子さん、今夜は帰ってください」「着替えを持って帰るだけよ」祥子は若菜の肩をかすめるように玄関へ入った。英明は敷居の外で一度足を止めたが、妻を制止せず、黙ってあとへ続いた。祥子は靴を脱ぐと、迷わず廊下の奥へ向かった。若菜は追い越し、湊の部屋の前に立った。「着替えは必要ありません」「妹さんの家に、何日分も置いていないでしょう」「明日は私が迎えに行きます。そのあとは、この家へ帰ります」「ここへ?」祥子は廊下を見回した。壁には、湊が描いた三人の似顔絵が貼られている。圭吾だけが大きく描かれ、両手に若菜と湊をつないでいた。「圭吾がいない家へ、あの子を戻すつもりなの?」「ここが湊の家です」「本邸にも部屋はあるわ。泊まりに来たときの服も本も、そのまま置いてある。今までどおり幼稚園へ通えるよう、運転手にも話しました」「運転手に?」「朝は本邸から送らせます。帰りも迎えに行かせるわ。食事も身の回りのことも家の者が見る。あなたが仕事に戻っても、湊をひとりにせずに済むでしょう」申し出ではなかった。祥子の口から出てくる予定は、どれもすでに決まっていた。若菜は黒いバッグへ目を向けた。「そのための着替えですか」「しばらく必要なも
「お子さまを、もう少しお待ちになりますか」葬儀会館のスタッフが、棺のそばに立つ榊原若菜(さかきばら わかな)に尋ねた。一般の参列者はほとんど帰り、式場には親族と葬儀社のスタッフだけが残っていた。祭壇のろうそくはまだ揺れ、白い花に囲まれた遺影の中で、夫の榊原圭吾(さかきばら けいご)は穏やかに笑っている。棺の中の顔は、その写真より少し痩せて見えた。若菜は遺影から目をそらさなかった。「いいえ。このまま閉じてください」スタッフが棺のふたに手をかけた瞬間、最前列に座っていた義母の榊原祥子(さかきばら しょうこ)が勢いよく立ち上がった。「待って!」泣きはらした目を若菜へ向け、祭壇の前へ出てくる。「湊はどこなの?」若菜は棺のそばを動かずに答えた。「今日は幼稚園の発表会です。妹が付き添っています」祥子は棺へ目をやり、すぐに若菜へ向き直った。「発表会って……今日は父親の葬儀なのよ。それでも行かせたの?」声は式場の後ろまで届いた。席を立ちかけていた親族が動きを止め、出口へ向かっていた参列者も振り返った。「今すぐ呼び戻しなさい!まだ間に合うでしょう。父親と最後のお別れもさせないつもり?」「呼び戻しません」若菜は一歩も退かなかった。「湊は最後まで舞台に立たせます」「何を考えているの。湊はまだ6歳なのよ。今日、父親の顔を見なければ、もう二度と会えないのよ!」祥子は棺の中へ手を伸ばし、圭吾の頬に触れた。指先を離しても、その手は宙に残ったままだった。やがて手のひらを胸元へ押し当て、喪服の布を強くつかんだ。祭壇の下には、湊を肩車した圭吾の写真が飾られていた。ふたりともカメラへ顔を向け、楽しそうに笑っている。祥子は写真を指した。「湊が生まれてから、圭吾がどれだけあの子を大切にしてきたか、あなたが一番よく知っているでしょう。それなのに、父親との最後の別れまで奪うの?母親として、何とも思わないの!」「圭吾は、今日の発表会を楽しみにしていました」「勝手に圭吾の気持ちを決めつけないで!」「あの人なら、湊が決めたことを最後まで応援したはずです」前日の夜、若菜はリビングで湊と向かい合い、圭吾がもう帰ってこないことを伝えた。湊は膝の上に置いた発表会の台本を見つめたまま、長いあいだ何も言わなかった。やがて台本の角を折れそうなほどつかみ、何度も瞬きをした。







