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夫を送る日、息子はいなかったーー榊原家の秘密
夫を送る日、息子はいなかったーー榊原家の秘密
作者: Amy

1話

作者: Amy
last update publish date: 2026-09-15 13:51:09

「お子さまを、もう少しお待ちになりますか」

葬儀会館のスタッフが、棺のそばに立つ榊原若菜(さかきばら わかな)に尋ねた。

一般の参列者はほとんど帰り、式場には親族と葬儀社のスタッフだけが残っていた。祭壇のろうそくはまだ揺れ、白い花に囲まれた遺影の中で、夫の榊原圭吾(さかきばら けいご)は穏やかに笑っている。

棺の中の顔は、その写真より少し痩せて見えた。

若菜は遺影から目をそらさなかった。

「いいえ。このまま閉じてください」

スタッフが棺のふたに手をかけた瞬間、最前列に座っていた義母の榊原祥子(さかきばら しょうこ)が勢いよく立ち上がった。

「待って!」

泣きはらした目を若菜へ向け、祭壇の前へ出てくる。

「湊はどこなの?」

若菜は棺のそばを動かずに答えた。

「今日は幼稚園の発表会です。妹が付き添っています」

祥子は棺へ目をやり、すぐに若菜へ向き直った。

「発表会って……今日は父親の葬儀なのよ。それでも行かせたの?」

声は式場の後ろまで届いた。

席を立ちかけていた親族が動きを止め、出口へ向かっていた参列者も振り返った。

「今すぐ呼び戻しなさい!まだ間に合うでしょう。父親と最後のお別れもさせないつもり?」

「呼び戻しません」

若菜は一歩も退かなかった。

「湊は最後まで舞台に立たせます」

「何を考えているの。湊はまだ6歳なのよ。今日、父親の顔を見なければ、もう二度と会えないのよ!」

祥子は棺の中へ手を伸ばし、圭吾の頬に触れた。指先を離しても、その手は宙に残ったままだった。やがて手のひらを胸元へ押し当て、喪服の布を強くつかんだ。

祭壇の下には、湊を肩車した圭吾の写真が飾られていた。ふたりともカメラへ顔を向け、楽しそうに笑っている。

祥子は写真を指した。

「湊が生まれてから、圭吾がどれだけあの子を大切にしてきたか、あなたが一番よく知っているでしょう。それなのに、父親との最後の別れまで奪うの?母親として、何とも思わないの!」

「圭吾は、今日の発表会を楽しみにしていました」

「勝手に圭吾の気持ちを決めつけないで!」

「あの人なら、湊が決めたことを最後まで応援したはずです」

前日の夜、若菜はリビングで湊と向かい合い、圭吾がもう帰ってこないことを伝えた。

湊は膝の上に置いた発表会の台本を見つめたまま、長いあいだ何も言わなかった。やがて台本の角を折れそうなほどつかみ、何度も瞬きをした。

「お父さん、明日も来られないの?」

「うん」

若菜は、それだけ答えた。

湊はうつむいた。圭吾の名前が書かれた見学者用の札は、ローテーブルの上に置かれたままだった。

「明日の発表会は、休んでもいいんだよ」

若菜がそう言うと、湊は台本を胸に抱き、首を横に振った。

「出る。お父さんと、いっぱい練習したから」

「無理をしなくていいの」

「お父さん、最後までできたら、一番大きな拍手をするって言ってた」

そこで初めて、湊の目から涙がこぼれた。

「お父さんが来なくても、僕、最後までやる」

若菜は湊の隣へ座り、その小さな体を抱き寄せた。湊は声を押し殺すように、若菜の喪服へ顔を埋めた。

朝になると、湊は自分で舞台衣装の入った袋を持ち、若菜の妹、西村琴音(にしむら ことね)と家を出た。

玄関を出る直前、壁に飾られた圭吾との写真へ向かって、小さく「行ってきます」と言った。

葬儀へ連れてくれば、湊は圭吾の顔を見ることができる。発表会へ送り出せば、その最後の機会を失う。

若菜は、湊が自分で選んだ約束だけは、途中で取り上げまいと決めた。

祥子は黒いバッグからスマホを取り出した。

「だったら私が妹さんに電話するわ。番号を教えなさい」

「教えません」

「圭吾の子でしょう!」

祥子の叫び声が式場に響いた。

スタッフが棺から手を離し、困ったようにふたりを見比べる。参列者の間では、押し殺した声がいくつも重なっていた。

若菜は一度、棺の中の圭吾へ目を向け、それから祥子を見た。

「圭吾の息子だからこそ、湊があの人と交わした約束を最後まで守らせます」

「何を言っているの。きちんと説明しなさい!」

祥子が若菜へ詰め寄ろうとした。

「祥子、もうやめなさい」

最前列に座っていた榊原英明(さかきばら ひであき)が立ち上がった。

「あなたは黙っていて!」

祥子は夫を振り返り、声を張り上げた。

「圭吾がこんな姿になっているのに、どうして黙っていられるの!湊までいないのよ。圭吾は自分の息子に見送ってもらうことさえできないのよ!」

最後の言葉は涙に崩れた。

祥子は口元を押さえたが、嗚咽を止められなかった。もう片方の手に握ったスマホが、細かく震えている。

若菜は何も答えず、棺へ向き直った。

圭吾の胸元に添えられた花を避け、少し乱れていた白いシャツの袖口を指先で整えた。

何度直しても、圭吾は朝になると片方だけずらして家を出た。若菜が玄関で引き留めて直すと、いつも困ったように笑っていた。

今は、指先を離しても、袖口はきれいにそろったままだった。

整え終えても、若菜の手はしばらく袖口に触れたままだった。

祥子は若菜の横顔を見つめた。唇が一度動いたが、声にはならなかった。

やがて若菜は手を引き、スタッフへ向き直った。

「お待たせしてすみません。お願いします」

スタッフは小さくうなずき、棺のふたを閉じ始めた。

「圭吾……待って。湊が、まだ来ていないのよ」

祥子が棺へ手を伸ばした。英明がその腕を押さえた。

「離して!」

留め具のかかる音が、祥子の叫びを遮った。

棺のふたは、完全に閉じられた。

祥子は英明の手を振り払い、閉じた棺へ両手を置いた。指先が白くなるほど力を込めても、ふたはもう動かなかった。

若菜は一歩離れた場所に立っていた。頬には、最後まで涙が見えなかった。

……

出棺を終え、親族は火葬場へ向かった。

圭吾の棺が火葬炉へ納められても、祥子はその場を離れようとしなかった。遺影を胸に抱き、閉じた炉の扉を見つめ続けていた。

係員に促され、ようやく待合室へ入った。

若菜が窓際の席に座ると、祥子も正面へ腰を下ろした。英明は少し離れた場所に立ち、ふたりの会話を避けるように窓の外を見ていた。

「今日のことで、よく分かったわ」

祥子は膝の上でハンカチを握りしめた。何度折り直しても端がそろわず、最後には小さく丸めて手の中へ閉じ込めた。

「この先、湊のことをあなたひとりに決めさせるわけにはいかない」

若菜が顔を上げた。

「どういう意味ですか」

「圭吾が亡くなった以上、今までと同じではいられないということよ。湊のことは、これから私たちにも相談してもらいます」

「湊の暮らしを変えるつもりはありません」

「あなたひとりの子ではないでしょう。圭吾が残した、たったひとりの息子よ。榊原家の跡継ぎでもあるの」

「湊は、まだ6歳の子どもです」

「だからこそ、あなたの都合だけで振り回していいはずがないでしょう!」

そのとき、若菜のバッグの中でスマホが震えた。

琴音から、短いメッセージと写真が届いていた。

【発表会、無事に終わったよ。湊、最後まで頑張った】

写真の中で、舞台衣装を着た榊原湊(さかきばら みなと)が笑っていた。目元は少し赤く、それでも折り紙の花を胸の前で掲げている。

若菜は写真を見つめ、画面の上へ親指を置いた。無事に終わった。その言葉に息をつくことさえ、祥子の前ではためらわれた。

「湊なのね。見せなさい」

祥子が手を伸ばした。若菜はスマホを胸元へ引き、画面を伏せた。

「今は見せません」

「どうして隠すの?」

「湊に会うときは、先に私へ連絡してください。幼稚園や妹の家へ、勝手に迎えに行くこともやめてください」

「私を不審者のように扱うつもり?」

「湊を混乱させたくないだけです」

「父親との別れもさせなかったあなたが、よくそんなことを言えるわね!」

若菜はスマホをバッグへ戻し、席を立った。

「若菜さん」

祥子の声が、その背中を追った。

「あなたがそういう態度を取るなら、私にも考えがあります」

若菜の足が止まった。

「何をするつもりですか」

祥子は涙をぬぐい、圭吾の遺影を胸へ抱き直した。

「圭吾の子は、榊原家へ返してもらいます」

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