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「お子さまを、もう少しお待ちになりますか」
葬儀会館のスタッフが、棺のそばに立つ榊原若菜(さかきばら わかな)に尋ねた。
一般の参列者はほとんど帰り、式場には親族と葬儀社のスタッフだけが残っていた。祭壇のろうそくはまだ揺れ、白い花に囲まれた遺影の中で、夫の榊原圭吾(さかきばら けいご)は穏やかに笑っている。
棺の中の顔は、その写真より少し痩せて見えた。
若菜は遺影から目をそらさなかった。
「いいえ。このまま閉じてください」
スタッフが棺のふたに手をかけた瞬間、最前列に座っていた義母の榊原祥子(さかきばら しょうこ)が勢いよく立ち上がった。
「待って!」
泣きはらした目を若菜へ向け、祭壇の前へ出てくる。
「湊はどこなの?」
若菜は棺のそばを動かずに答えた。
「今日は幼稚園の発表会です。妹が付き添っています」
祥子は棺へ目をやり、すぐに若菜へ向き直った。
「発表会って……今日は父親の葬儀なのよ。それでも行かせたの?」
声は式場の後ろまで届いた。
席を立ちかけていた親族が動きを止め、出口へ向かっていた参列者も振り返った。
「今すぐ呼び戻しなさい!まだ間に合うでしょう。父親と最後のお別れもさせないつもり?」
「呼び戻しません」
若菜は一歩も退かなかった。
「湊は最後まで舞台に立たせます」
「何を考えているの。湊はまだ6歳なのよ。今日、父親の顔を見なければ、もう二度と会えないのよ!」
祥子は棺の中へ手を伸ばし、圭吾の頬に触れた。指先を離しても、その手は宙に残ったままだった。やがて手のひらを胸元へ押し当て、喪服の布を強くつかんだ。
祭壇の下には、湊を肩車した圭吾の写真が飾られていた。ふたりともカメラへ顔を向け、楽しそうに笑っている。
祥子は写真を指した。
「湊が生まれてから、圭吾がどれだけあの子を大切にしてきたか、あなたが一番よく知っているでしょう。それなのに、父親との最後の別れまで奪うの?母親として、何とも思わないの!」
「圭吾は、今日の発表会を楽しみにしていました」
「勝手に圭吾の気持ちを決めつけないで!」
「あの人なら、湊が決めたことを最後まで応援したはずです」
前日の夜、若菜はリビングで湊と向かい合い、圭吾がもう帰ってこないことを伝えた。
湊は膝の上に置いた発表会の台本を見つめたまま、長いあいだ何も言わなかった。やがて台本の角を折れそうなほどつかみ、何度も瞬きをした。
「お父さん、明日も来られないの?」
「うん」
若菜は、それだけ答えた。
湊はうつむいた。圭吾の名前が書かれた見学者用の札は、ローテーブルの上に置かれたままだった。
「明日の発表会は、休んでもいいんだよ」
若菜がそう言うと、湊は台本を胸に抱き、首を横に振った。
「出る。お父さんと、いっぱい練習したから」
「無理をしなくていいの」
「お父さん、最後までできたら、一番大きな拍手をするって言ってた」
そこで初めて、湊の目から涙がこぼれた。
「お父さんが来なくても、僕、最後までやる」
若菜は湊の隣へ座り、その小さな体を抱き寄せた。湊は声を押し殺すように、若菜の喪服へ顔を埋めた。
朝になると、湊は自分で舞台衣装の入った袋を持ち、若菜の妹、西村琴音(にしむら ことね)と家を出た。
玄関を出る直前、壁に飾られた圭吾との写真へ向かって、小さく「行ってきます」と言った。
葬儀へ連れてくれば、湊は圭吾の顔を見ることができる。発表会へ送り出せば、その最後の機会を失う。
若菜は、湊が自分で選んだ約束だけは、途中で取り上げまいと決めた。
祥子は黒いバッグからスマホを取り出した。
「だったら私が妹さんに電話するわ。番号を教えなさい」
「教えません」
「圭吾の子でしょう!」
祥子の叫び声が式場に響いた。
スタッフが棺から手を離し、困ったようにふたりを見比べる。参列者の間では、押し殺した声がいくつも重なっていた。
若菜は一度、棺の中の圭吾へ目を向け、それから祥子を見た。
「圭吾の息子だからこそ、湊があの人と交わした約束を最後まで守らせます」
「何を言っているの。きちんと説明しなさい!」
祥子が若菜へ詰め寄ろうとした。
「祥子、もうやめなさい」
最前列に座っていた榊原英明(さかきばら ひであき)が立ち上がった。
「あなたは黙っていて!」
祥子は夫を振り返り、声を張り上げた。
「圭吾がこんな姿になっているのに、どうして黙っていられるの!湊までいないのよ。圭吾は自分の息子に見送ってもらうことさえできないのよ!」
最後の言葉は涙に崩れた。
祥子は口元を押さえたが、嗚咽を止められなかった。もう片方の手に握ったスマホが、細かく震えている。
若菜は何も答えず、棺へ向き直った。
圭吾の胸元に添えられた花を避け、少し乱れていた白いシャツの袖口を指先で整えた。
何度直しても、圭吾は朝になると片方だけずらして家を出た。若菜が玄関で引き留めて直すと、いつも困ったように笑っていた。
今は、指先を離しても、袖口はきれいにそろったままだった。
整え終えても、若菜の手はしばらく袖口に触れたままだった。
祥子は若菜の横顔を見つめた。唇が一度動いたが、声にはならなかった。
やがて若菜は手を引き、スタッフへ向き直った。
「お待たせしてすみません。お願いします」
スタッフは小さくうなずき、棺のふたを閉じ始めた。
「圭吾……待って。湊が、まだ来ていないのよ」
祥子が棺へ手を伸ばした。英明がその腕を押さえた。
「離して!」
留め具のかかる音が、祥子の叫びを遮った。
棺のふたは、完全に閉じられた。
祥子は英明の手を振り払い、閉じた棺へ両手を置いた。指先が白くなるほど力を込めても、ふたはもう動かなかった。
若菜は一歩離れた場所に立っていた。頬には、最後まで涙が見えなかった。
……
出棺を終え、親族は火葬場へ向かった。
圭吾の棺が火葬炉へ納められても、祥子はその場を離れようとしなかった。遺影を胸に抱き、閉じた炉の扉を見つめ続けていた。
係員に促され、ようやく待合室へ入った。
若菜が窓際の席に座ると、祥子も正面へ腰を下ろした。英明は少し離れた場所に立ち、ふたりの会話を避けるように窓の外を見ていた。
「今日のことで、よく分かったわ」
祥子は膝の上でハンカチを握りしめた。何度折り直しても端がそろわず、最後には小さく丸めて手の中へ閉じ込めた。
「この先、湊のことをあなたひとりに決めさせるわけにはいかない」
若菜が顔を上げた。
「どういう意味ですか」
「圭吾が亡くなった以上、今までと同じではいられないということよ。湊のことは、これから私たちにも相談してもらいます」
「湊の暮らしを変えるつもりはありません」
「あなたひとりの子ではないでしょう。圭吾が残した、たったひとりの息子よ。榊原家の跡継ぎでもあるの」
「湊は、まだ6歳の子どもです」
「だからこそ、あなたの都合だけで振り回していいはずがないでしょう!」
そのとき、若菜のバッグの中でスマホが震えた。
琴音から、短いメッセージと写真が届いていた。
【発表会、無事に終わったよ。湊、最後まで頑張った】
写真の中で、舞台衣装を着た榊原湊(さかきばら みなと)が笑っていた。目元は少し赤く、それでも折り紙の花を胸の前で掲げている。
若菜は写真を見つめ、画面の上へ親指を置いた。無事に終わった。その言葉に息をつくことさえ、祥子の前ではためらわれた。
「湊なのね。見せなさい」
祥子が手を伸ばした。若菜はスマホを胸元へ引き、画面を伏せた。
「今は見せません」
「どうして隠すの?」
「湊に会うときは、先に私へ連絡してください。幼稚園や妹の家へ、勝手に迎えに行くこともやめてください」
「私を不審者のように扱うつもり?」
「湊を混乱させたくないだけです」
「父親との別れもさせなかったあなたが、よくそんなことを言えるわね!」
若菜はスマホをバッグへ戻し、席を立った。
「若菜さん」
祥子の声が、その背中を追った。
「あなたがそういう態度を取るなら、私にも考えがあります」
若菜の足が止まった。
「何をするつもりですか」
祥子は涙をぬぐい、圭吾の遺影を胸へ抱き直した。
「圭吾の子は、榊原家へ返してもらいます」
葬儀を終えて自宅へ戻ったとき、外はもう暗くなっていた。若菜が玄関の明かりをつけると、圭吾の革靴が目に入った。出かける前のまま、つま先をきれいにそろえて置かれている。廊下には濃紺のコートが掛かり、片方のポケットから革手袋がのぞいていた。朝、圭吾が家を出た姿だけが、そのまま残っているようだった。若菜は白い布に包まれた遺骨と位牌を抱え、居間の一角に用意した祭壇へ運んだ。線香を一本あげ、鈴を鳴らす。「ただいま」答える声はなかった。テーブルには、湊が発表会で使った台本が開いたまま残っていた。椅子の背には、練習のときにかぶっていた黄色い帽子が掛かっている。若菜は台所へ入り、戸棚からコップを取り出した。青い車の絵が描かれた、湊のコップだった。水を注ぐ寸前で手が止まった。コップを洗いかごへ戻し、自分のグラスを出し直す。ひと口も飲まないうちに、玄関の呼び鈴が鳴った。モニターには祥子と英明が並んでいた。若菜が扉を半分ほど開けると、祥子は大きな黒いバッグを腕に掛けたまま、開いた隙間へ足を進めた。「湊の着替えを取りに来たわ」「祥子さん、今夜は帰ってください」「着替えを持って帰るだけよ」祥子は若菜の肩をかすめるように玄関へ入った。英明は敷居の外で一度足を止めたが、妻を制止せず、黙ってあとへ続いた。祥子は靴を脱ぐと、迷わず廊下の奥へ向かった。若菜は追い越し、湊の部屋の前に立った。「着替えは必要ありません」「妹さんの家に、何日分も置いていないでしょう」「明日は私が迎えに行きます。そのあとは、この家へ帰ります」「ここへ?」祥子は廊下を見回した。壁には、湊が描いた三人の似顔絵が貼られている。圭吾だけが大きく描かれ、両手に若菜と湊をつないでいた。「圭吾がいない家へ、あの子を戻すつもりなの?」「ここが湊の家です」「本邸にも部屋はあるわ。泊まりに来たときの服も本も、そのまま置いてある。今までどおり幼稚園へ通えるよう、運転手にも話しました」「運転手に?」「朝は本邸から送らせます。帰りも迎えに行かせるわ。食事も身の回りのことも家の者が見る。あなたが仕事に戻っても、湊をひとりにせずに済むでしょう」申し出ではなかった。祥子の口から出てくる予定は、どれもすでに決まっていた。若菜は黒いバッグへ目を向けた。「そのための着替えですか」「しばらく必要なも
「お子さまを、もう少しお待ちになりますか」葬儀会館のスタッフが、棺のそばに立つ榊原若菜(さかきばら わかな)に尋ねた。一般の参列者はほとんど帰り、式場には親族と葬儀社のスタッフだけが残っていた。祭壇のろうそくはまだ揺れ、白い花に囲まれた遺影の中で、夫の榊原圭吾(さかきばら けいご)は穏やかに笑っている。棺の中の顔は、その写真より少し痩せて見えた。若菜は遺影から目をそらさなかった。「いいえ。このまま閉じてください」スタッフが棺のふたに手をかけた瞬間、最前列に座っていた義母の榊原祥子(さかきばら しょうこ)が勢いよく立ち上がった。「待って!」泣きはらした目を若菜へ向け、祭壇の前へ出てくる。「湊はどこなの?」若菜は棺のそばを動かずに答えた。「今日は幼稚園の発表会です。妹が付き添っています」祥子は棺へ目をやり、すぐに若菜へ向き直った。「発表会って……今日は父親の葬儀なのよ。それでも行かせたの?」声は式場の後ろまで届いた。席を立ちかけていた親族が動きを止め、出口へ向かっていた参列者も振り返った。「今すぐ呼び戻しなさい!まだ間に合うでしょう。父親と最後のお別れもさせないつもり?」「呼び戻しません」若菜は一歩も退かなかった。「湊は最後まで舞台に立たせます」「何を考えているの。湊はまだ6歳なのよ。今日、父親の顔を見なければ、もう二度と会えないのよ!」祥子は棺の中へ手を伸ばし、圭吾の頬に触れた。指先を離しても、その手は宙に残ったままだった。やがて手のひらを胸元へ押し当て、喪服の布を強くつかんだ。祭壇の下には、湊を肩車した圭吾の写真が飾られていた。ふたりともカメラへ顔を向け、楽しそうに笑っている。祥子は写真を指した。「湊が生まれてから、圭吾がどれだけあの子を大切にしてきたか、あなたが一番よく知っているでしょう。それなのに、父親との最後の別れまで奪うの?母親として、何とも思わないの!」「圭吾は、今日の発表会を楽しみにしていました」「勝手に圭吾の気持ちを決めつけないで!」「あの人なら、湊が決めたことを最後まで応援したはずです」前日の夜、若菜はリビングで湊と向かい合い、圭吾がもう帰ってこないことを伝えた。湊は膝の上に置いた発表会の台本を見つめたまま、長いあいだ何も言わなかった。やがて台本の角を折れそうなほどつかみ、何度も瞬きをした。