INICIAR SESIÓN「おばあちゃんが決めた席だからよ。お母さんは、湊と離れて座りたいわけじゃない」
若菜は席次表を畳み、湊のそばへしゃがんだ。 「四十九日に行くときは、隣に座れるよう祥子さんに話すね」 湊は若菜の顔を見て、ようやく席次表から手を離した。 「うん。お母さんも一緒がいい」 …… 四十九日の朝、榊原家が貸し切った寺の参道には、黒塗りの車が途切れなく入ってきた。 本堂の正面には圭吾の遺影が掲げられ、白菊と胡蝶蘭が階段状に並んでいる。 受付にはグループの総務担当が立ち、参列者の名を確認していた。 榊原メディカルグループ各社の役員、提携病院の理事、古くから付き合いのある親族が、受付へ名刺を預けていく。 祭壇へ進む前には、誰もが英明と祥子の前で足を止め、深く頭を下げた。 圭吾の四十九日は、息子を弔う法要であると同時に、跡継ぎを失った榊原家の今後を探る場にもなっていた。 祥子は挨拶を返しながら、何度も山門を見た。 午前7時12分、若菜からメッセージが届いていた。 【湊が明け方から熱を出しました。本日の法要には参列できません。落ち着き次第、改めて圭吾さんのお墓へ連れていきます】 祥子はすぐに電話をかけたが、若菜は出なかった。 「よりによって、今日になって熱ですって?」 祥子は若菜から届いたメッセージを何度も読み返した。 それでも、湊のために用意した子ども用の椅子は片づけさせなかった。 法要が始まるまでに熱が下がるかもしれない。 若菜も、親族全員を待たせていると分かれば、遅れてでも湊を連れてくるかもしれない。 そう自分に言い聞かせ、車が門をくぐるたびに顔を上げた。 しかし、どの車からも若菜と湊は降りてこなかった。 午前11時が近づき、係の者が本堂の重い扉へ手をかけた。 祥子は空いた椅子を見たまま、まだ「始めて」と言えずにいた。 「あと5分、待って」 「もう定刻です」 英明が腕時計を見た。 「来る者は来ている。始めさせなさい」 圭吾の遺影を前に親族が並ぶなか、祥子の隣に置かれた子ども用の椅子だけが空いていた。 「榊原湊」と印刷された席札は、誰にも触れられないまま残されている。 榊原家では、後継と見なされた子を親族席の最前列へ座らせ、当主夫妻に続いて焼香させるのが古くからの習わしだった。 本堂に集まった男たちは、自然に三つの群れへ分かれていた。 榊原家の傍系親族と古参役員、祥子の実家である鷺宮家の親族、そしてグループ各社を動かす実務派の役員たちだった。 「圭吾さん名義の持株は、妻と子へ移るのか」 「湊くんが継ぐとしても、まだ6歳だ。成人するまで誰が議決権をまとめる」 男たちの視線が、祥子の後方に集まっている一団へ向いた。 祥子の実家である鷺宮家の親族たちだ。 榊原家の法要でありながら、彼らは英明へ挨拶する役員一人ひとりを品定めするように見ていた。 「湊くんが圭吾さんの株を継げば、まだ未成年だ。祥子さんの実家の鷺宮家が、後見人を出してくるだろう」 別の男が声を潜めた。 「榊原の会社を、鷺宮家に握らせる気か」 声を潜めていても、英明の席までは遠くない。 英明は数珠の房を何度も指でそろえ、廊下へ人が出入りするたび、役員たちの顔を見回していた。 僧侶が入堂し、本堂の扉が閉じられた。 読経が始まり、最初に英明が焼香へ立つ。そのあとを祥子が続いた。 本来なら、次は湊の番だった。 係の者が焼香順序表へ目を落とし、祥子の隣に置かれた子ども用の椅子を見る。 「榊原湊」と印刷された席札だけが残り、座るはずの本人はいない。 係の者が判断を求めるように祥子を見ると、祥子は唇を結んだまま、わずかにうなずいた。 湊の順番は飛ばされ、次の親族が焼香へ立った。 その瞬間、親族席だけでなく、後方に座る会社役員たちの視線まで、空いた椅子へ集まった。 最前列の反対端には、若菜の席も空いたまま残っている。 だが、人々が見ていたのは、圭吾の妻の空席ではなかった。 榊原家の後継として、英明と祥子に続いて焼香するはずだった、湊の空席だった。 読経と法話が終わると、英明と祥子を先頭に、近しい親族だけが榊原家の墓所へ向かった。 会社の役員や遠縁の参列者たちは、先に会食の広間へ案内された。 墓前で僧侶が再び短い読経を始める。 祥子は英明の隣に立ち、胸の前で両手を合わせていた。 先ほどまで空席へ向けていた苛立ちは消え、伏せた顔には、息子を失った母親の悲しみだけが残っている。 圭吾の遺骨が墓へ納められると、祥子の唇がかすかに震えた。 けれど声は漏らさず、墓石へ向かって深く頭を下げた。 そのときだけは、榊原家の体面も、親族の視線も忘れているように見えた。 納骨を終えた親族たちは、会社役員が待つ会食の広間へ移動した。 上座には、湊のための子ども用の椅子と膳が用意されていた。 そこにも「榊原湊」と印刷された席札だけが残されている。 「湊くん、今日は来ないの?」 圭吾の伯母が尋ねた。 「熱を出したそうよ」 祥子はそれだけ答えた。 伯母は空いた椅子から祥子へ視線を戻した。 「でも、葬儀にも来なかったんでしょう?」 祥子の箸が止まった。 「父親の葬儀にも四十九日にも出せないなんて、何か理由があるんじゃない?」「昨日、英明さんに電話した。何にどこまで出してくれるのか、聞いたんだ」湊が寝てからかけた電話で、直人は先にそう言った。若菜は居間の椅子に座り直した。今日のことを書いたメモの横に、圭吾のファイルを置いている。「何て?」「金額は、そのとき決めると。大きな金が必要なことは、決める前に話せと言われた」「話したら、あの人がいいと言うまで待つの?」「そこを聞いたら、相談もせず金だけ出せと言うのかって」若菜は目を閉じた。助けるという言葉だけを、何度も思い返していた。先へ進めば、何をするにも英明の返事を待つことになるのかもしれない。「まだ返事はしていない。お前と話してからにすると言った」「うん。……今日、圭吾のことで聞いたことがあるの」若菜はメモへ目を落とし、本邸での話を伝えた。圭吾が帰ろうとしたこと。英明が腕をつかみ、肩を押し戻したと言ったこと。頭を打った場所も、若菜が当時聞いていた話にはなかった。直人は途中で一度、短く聞き返した。「本人が、そう言ったんだな」「うん。祥子さんと相馬さんもいた」祥子が葬儀前から知っていたことまで話すと、若菜は携帯を膝へ下ろしかけた。まだ通話中だと思い出し、耳へ戻す。「今、大丈夫か」直人の声がした。「聞いたときより、今のほうが……」続きを言えなかった。人に話すと、英明の
「私も、圭吾の家族です」若菜は開いた扉の前で振り返った。英明は椅子に座ったまま、こちらを見ていた。「家族なら、何をしてもこの家だけで済ませていいんですか」「誰がそんなことを言った。お前は、聞いたことを全部分かったつもりなのか」「分からないから、ほかの人にも聞いてもらいます」「何をする気だ」英明が椅子の肘をつかんだ。若菜はバッグの持ち手を握り直した。声を張り合えば、今度は何を言われるだろう。圭吾を失ってから、何度もこの家で答えを求められた。そのたびに、自分が隠していることが怖かった。今も、怖くなくなったわけではない。「私ひとりでは決められません。今日聞いたことも、まだ知らないこともあります。でも、なかったことにはしません」祥子が顔を上げた。「若菜さん。湊くんのことまで、人に話すことになるかもしれないのよ」その言葉に、足が止まった。湊の出生を伏せたのは自分だ。圭吾に言えなかったことも、言わずに過ごした日々もある。自分に都合の悪いところだけ閉じて、誰かに話を聞いてほしいとは言えない。「必要なら、私が答えます」若菜は祥子を見た。「でも、私に話せなかったことがあるからって、圭吾がどうして亡くなったのか、聞いてはいけないわけではないでしょう」祥子は返事をしなかった。相馬が廊下へ下がった。若菜はふたりに背を向け、開いている扉を通った。&n
「知っていて、私にあんなことを言ったんですか」若菜が尋ねると、祥子は膝の上で握っていた布を離した。白い花の前で、祥子は湊を呼び戻せと怒鳴った。父親との最後の別れまで奪うのかと、母親として何とも思わないのかと。そのとき、この人は知っていた。若菜の夫が、自分で転んだわけではなかったことを。「あの日は、圭吾のことしか考えられなかったの」祥子が言った。「棺が閉まったら、もう顔も見られない。なのに湊くんまでいなくて……」「私も、圭吾を見送っていたんです」若菜の声が震えた。棺のそばで立っていた自分を、祥子は見ていたはずだった。泣き崩れなかったから悲しくないとでも思ったのだろうか。湊がいない理由を説明するために立っていたわけではない。「祥子さんに責められながら、私も、あの人とお別れしていたんです」祥子は若菜を見た。何か言おうとしたが、言葉は続かなかった。英明が椅子の上で身じろぎした。若菜はそちらを見ず、祥子へ尋ねた。「どうして、英明さんは話したんですか」「私が聞いたのよ。ふたりで話していただけなのに、どうしてあんなことになったのかって」祥子の目が、隣の英明へ向いた。「圭吾が亡くなってからよ。何度考えても、分からなかった。転んだとしか聞いていなかったから」英明は何も言わなかった。「引き止めただけだと言ったわ。話が終わるまで、部屋
「部屋へ戻そうとした」英明は立ったまま、若菜へ顔を向けた。「まだ話は終わっていなかった。あいつが勝手に出ていこうとするからだ」「腕をつかんで、戻したんですか」「こっちを向かせた。それから、肩を……」英明の手が胸の高さまで上がり、止まった。若菜はその手を見た。今、目の前の空気を押しかけた手に、あの夜は圭吾の体があった。「押し戻したんですね」「そうだ。だが、転ばせるつもりはなかった」隣の祥子が顔を背けた。若菜は英明から目を離せなかった。「どこで、ですか」「小書斎だ。扉のところでつかんだ。部屋へ戻れと言ったんだ」英明は上げていた手を下ろした。「圭吾が、よろけた。扉の脇に棚があるだろう。低い、木の収納だ。あそこに頭をぶつけた」若菜はその部屋を知っていた。扉を開けると、脇に英明の書類を収めた低い棚がある。以前、圭吾が書類を取りに入るのを、廊下で待ったこともあった。あの棚に。いつもの部屋と夫の姿が結びついた途端、若菜は膝の上のバッグを両手で押さえた。そこに倒れた圭吾を想像したくなかった。けれど、何が起きたかを聞きたかったのは自分だ。「圭吾が、自分で足を滑らせたんじゃなかったんですね」英明は返事をしなかった。扉の脇にいる相馬も動かない。誰かが違うと言うのを、若菜は待っていた。聞き間違いだと分かれば、今ならまだ、あの棚と圭吾を別
「帰ろうとしたことが、圭吾のせいになるんですか」若菜が言うと、英明は椅子の肘掛けから手を離した。「話の途中だったと言っている」「それで、圭吾をどうしたんですか」向かいの祥子が、隣の夫を見た。扉の脇にいる相馬も口を挟まない。若菜は膝に置いたハンカチを握り、英明の返事を待った。圭吾は、考えを変えなかった。そのことを聞いたときは、もう一度夫に会えたようでうれしかった。仕事を離れたら、どんな毎日にしたかったのだろう。その続きを聞く前に、帰ろうとした圭吾が悪かったことにされている。「腕をつかんだだけだ」英明は若菜を見返した。「まだ話が終わっていなかったんだからな」若菜の手が止まった。本邸で転んで、頭を打った。そう聞かされてから、何度も、どうして足を滑らせてしまったのだろうと思った。その前に、この人が圭吾の腕をつかんでいた。「……つかんだんですか」英明は答えず、肘掛けへ手を戻した。若菜は夫が帰ろうとしていたことを、さっき知ったばかりだった。帰ってきていれば、また顔を見られたのだろうか。玄関で湊を呼ぶ声を聞けたのだろうか。そう考えた瞬間、続きの言葉が出なくなった。目の前の人は、夫が向かおうとした先から引き止めた人だった。何が起きたのかを知るには、その人に聞くしかない。「そのことは、私には話してくださらなかったんですね」「引き止めただけだ。それを、お前はどう受け取るつもり
「あなたの話を信じたからでしょう」祥子は隣の英明へ体を向けた。「大げさにするなと言われて、私がどう思うと思うの?あなたが圭吾のそばにいたのよ」英明の口元が動いた。若菜は、その返事より先に祥子へ声をかけた。「圭吾のところへ行ったとき、呼びかけには答えたんですか」祥子が振り向いた。夫に向けていた勢いのまま何か言いかけ、若菜の顔を見ると口を閉じた。卓には、閉じた雑誌が置かれたままだった。若菜はその向こうの祥子を見て待った。ここでまたふたりが言い争えば、圭吾の様子を聞けないままになってしまう。「名前を呼んだら、こちらを見たわ」祥子の声が小さくなった。「返事もしたの」若菜は膝のバッグを握った。「声が、出ていたんですね」「ええ。でも、いつものように話せたわけではないわ。だから、先生に早く来てもらわないと、と思ったのよ」圭吾は、そのときまだ、人の声に応えていた。本邸で転び、救急車で運ばれた。若菜が聞かされてきたその短い説明の中に、夫が誰かの呼びかけを聞き、顔を向けた時間があった。自分も、名前を呼びたかった。そう思った途端、祥子の顔が見えにくくなった。若菜は目を伏せ、バッグからハンカチを出した。連絡があれば間に合ったのか。自分が来ていたら、何かできたのか。それは分からない。けれど、夫の声がまだ出ていたと聞けば、その場にいたかったと思わずにはいられなかった。どんな返事だったのだろう。&







