そう言って、紗江は東司とともに小松家を後にした。今日ふたりは、幼い頃に訪れた思い出の場所へ行く約束をしていた。彼女が車に乗り込んだ途端、誰かが名を呼ぶ声が聞こえてきた。雛乃はすでに警備員に連れて行かれたはず。だが、晃がどうにかその手を振りほどき、追いかけてきたのだ。紗江は運転手にそのまま出発するよう指示しかけた。しかし、晃は車の前に立ちはだかり、まるで轢かれても構わないというような覚悟を見せた。やむを得ず車を止め、彼女は窓を少し下ろした。冷ややかな視線で外の晃を見つめる。雪は今日も激しく降っていた。彼は寒さに震えながらも、まっすぐ彼女を見つめていた。窓が開いたことに気づくと、晃は嬉しそうに笑った。「紗江、やっぱり俺に会いたくないなんて思ってないんだよね?」紗江は鼻で笑った。「篠田さん、さっきの言葉がまだ足りなかったのかしら?あなたを潰すことを望んでるの。私が受けた苦しみ、そのまま返してもらう。こんな姿を見せても、私は一切、同情なんかしない」その冷たい表情に、晃の心は深い海の底に沈み、息もできないような絶望が広がった。それでも、彼は諦めなかった。彼は質問を口にした。「紗江、どうすれば、俺を許してくれるんだ?俺が全部受ければ、それで……」「ないわ」紗江はきっぱりと言った。「自業自得だと思ってる」晃の体がぐらりと揺れた。そんな彼を見つめながら、紗江はふと何かを思い出し、皮肉めいた笑みを浮かべた。「愛してるって言うけど、もし私が小松家の娘じゃなくて、本当にただの孤児だったら?雛乃にいじめられて死んでいたら、あなたは何ができたの?」「それは……俺は……」晃の瞳には痛みと葛藤の色が混じる。紗江はまた鼻で笑った。「だから和也くんの言う通り。あなたの愛なんて、乞食にでもくれてやればいいわ」それだけ言って、彼女は窓を閉め、車を発進させた。走り去る車を見つめる晃の目には、狂気と執念の光が浮かんでいた。彼は震える声でつぶやいた。「紗江、証明してみせる。俺は絶対にやる」雪は十日間降り続けたあと、ようやく晴れ間が覗いた。冬の最初の朝日が差し込む。その朝、紗江は音楽室で東司のピアノ練習を見守っていた。両家の人々は彼が苦労していると思っていたが、実は彼はとても楽しんでいた。
どれほど鈍くても、雛乃はようやくすべてを理解した。自分は罠に嵌められていたのだ。その罠を仕掛けたのは、憎しみと復讐心に満ちた紗江だった。小松夫人もだいたいの事情を察し、不快そうに手を振った。「誰か、この吉岡さんを外にお連れして。それと、あなた。支社に伝えておいて。吉岡家とのプロジェクトは白紙に戻すって」紗江の父親は素直にうなずいた。彼にとって、妻の言葉は絶対だった。天国から地獄へ。雛乃はその場に崩れ落ち、座り込んだ。かつての誇りも、高慢さも、今では跡形もない。その手を誰かに掴まれた瞬間、彼女はようやく我に返り、怨念に満ちた目で紗江を睨みつけた。どうせなら一緒に地獄へ連れて行ってやる。ライブ配信はまだ続いていた。この展開を目にしようと、視聴者がどんどん増えていた。雛乃はもがきながら、大声で叫ぶ。「紗江!私をハメたくせに、あんただって大した人間じゃないくせに!婚約者を奪って、私をいじめ、あげく捕まって刑務所送りになったじゃない?皆さん見てよ、これが名家のお嬢様、紗江の本性だよ」雛乃の狂気じみた言葉は、紗江の古傷をえぐるように響き渡る。けれど、紗江の表情は一切変わらなかった。その隣にいた親、東司もただ静かに彼女を守る姿勢を崩さなかった。だが、コメント欄には紗江を非難する声があふれていた。雛乃は納得いかない思いを抱えながらも、目的を果たせたことで、満足げに笑みを漏らした。「違う、彼女は俺を誘惑してなんかいない」弁解の言葉が出る前に、晃が一歩前に出た。自らカメラの前に立ち、真っ直ぐな眼差しで語る。「俺なんだ、俺が先に紗江を好きになった。俺が彼女と雛乃の間でふらふらしてただけなんだ。彼女は誰の関係にも割り込んでない。すべて、俺のせいだ」その言葉に、雛乃の笑顔が凍りついた。そして目を見開いて叫んだ。「晃くん、正気なの?そんなこと言って、紗江に許してもらえると思ってるの?」晃の瞳には、一瞬だけ迷いが浮かんだが、すぐに決意の色に変わった。目尻にうっすら涙を滲ませながら、はっきりと宣言した。「俺の中では、紗江こそが俺の妻なんだ」その熱い眼差しを前に、紗江がゆっくりと歩み出る。だが、感謝の言葉を述べに来たのではなかった。彼女は一束の書類を、晃の顔めがけて叩き
雛乃はようやく、今まさに入ってきた小松夫婦に気づいたふりをした。この瞬間、二人の顔はどんよりと暗く、重苦しい空気を纏っていた。常に上に立つ者としての威厳、ただの不機嫌では済まない圧迫感があった。雛乃はまず礼儀正しく挨拶をする。そして親しげに小松夫人のそばに立ち、慎重かつ媚びるような口調で話しかけた。「小松おばさま、こんにちは。私は紗江の友人です。彼女、私のこと話してたと思います。小松家のプロジェクトにも出資してますのよ」小松夫人の怒りに満ちた顔に、一瞬だけ疑念の色が浮かんだ。しかし、育ちの良さから感情をあからさまに出すことはなく、軽く「ええ」とだけ応じ、続けて尋ねた。「あなたは?」雛乃はますますテンションを上げて答える。「吉岡と申します」紗江の父はその名字に聞き覚えがあったのか、小松夫人の耳元で小声で告げた。「支社の件で、吉岡家と確かに取引があったような」小松夫人はうっすら眉をひそめたが、声色は冷たかった。「なるほど、吉岡さんか。それで今日はどういったご用件で?それと先ほど言った偽物や親がいないというのは、どういう意味?」小松夫人は部屋に入ってすぐ、娘に向かって怒鳴りつけていた女性の姿を見たのだ。もし長年の教養がなければ、その場で追い出していたところだった。雛乃は、小松夫婦の険しい表情を見て、自分の推測が当たったと思い込んだ。やっぱり、娘のふりをしてる女がいるってことに怒ってるんだ。彼女は背筋を伸ばし、自信満々に紗江を指差して言い放った。「この人です。私の婚約者を誘惑し、失敗したら今度は紗江さんになりすまして、手塚さんに近づいているんです。小松おばさま、怒って当然です。こんなこと、私が代わりにお仕置きします。紗江さんとは仲がいいんですから。この女はただの孤児。親もいないからって、こんな恥知らずなことが平気でできるんです」配信コメント欄には喝采が沸き起こる。【さすが雛乃、義理堅い】【早くあのあざと女をぶっ飛ばせ】雛乃は言い終えるとすぐに行動に移した。紗江を東司の背後から無理やり引っ張り出そうとし、わざと強く力を込めたため、紗江は転びそうになる。「やめろ」小松夫婦が同時に怒鳴りつける。その迫力に雛乃は思わず手を放した。次の瞬間、彼女は目の前で紗江が小松夫人の胸に飛
紗江が何も言わないうちに、東司が鋭い声で口を開いた。「彼女が誰を選ぼうと、俺には関係ない。ただ俺は、彼女を愛している。大切にしたい、守りたい、それだけだ。それに篠田さん、一つ勘違いしている。本当に誰かを心から愛する人間は、その人が少しでも傷つくことなんて耐えられない。無条件で味方になる。それすらできない愛なんて、物乞いにくれてやっても迷惑がられるよ」その言葉に、紗江の表情は曇り空から晴れ間が差すように変わり、思わず吹き出しそうになる。心の中は温かくて、ちょっとだけ切なかった。これが、本当の愛情なんだろうな。昔、晃がくれたものは、愛じゃなくて占有欲だった。あの男が一番愛していたのは、自分自身。晃がどんなに言葉巧みに取り繕おうと、今の東司の一撃に反論できるわけもなかった。まさに心を抉るような一言だった。彼は唇を固く引き結び、青ざめた顔で黙り込んだまま、拳を握り締める。その震えが、彼の動揺を物語っていた。二人の男のやり取りを見ていた雛乃は、内心で思いっきり白目を剥いていた。ほんと、目の腐った男たちだ。あんな紗江のどこがいいっていうの。でも東司と紗江のやりとりを見て、雛乃はますます確信した。こいつは、絶対に偽物だ。もう迷いはない。今のうちに小松夫婦が来る前に、吉岡家の人間に急いで「紗江」宛に金を送らせる。今日、自分は忠誠を示したうえで、すぐに偽物の正体を暴く。そしたら絶対、小松家の人たちの心に強い印象を残せる。そう思えば思うほど、雛乃は興奮し、すぐにでも小松夫婦の元へ駆け寄りたい気持ちでいっぱいになった。先ほどの口論のせいで、配信のコメント欄はすでにざわつき始めている。【ねえ、吉岡さん、あの女って誰?なんで小松家の令嬢と同じ名前なの?】【しかも男が二人も取り合ってるし、訳わかんないんだけど】雛乃はすかさず声を張り上げた。「え?あの女?あれはね、超一流のあざと女よ。昔は私の婚約者を誘惑して、今度は小松家の令嬢の婚約者にまで手を出してるの。何をどうやったのか知らないけど、男たちが彼女を忘れられないみたいでね。しかも今、小松家の令嬢の名前を使って、まるで自分が本人かのように振る舞ってるの」するとコメント欄は一気に炎上した。【マジかよ、それ本当?面の皮厚すぎ】
人をロビーに案内した後、従妹は適当な口実をつけて先に帰ってしまった。残されたのは、雛乃と晃だけ。無言を貫く晃とは対照的に、雛乃は興奮気味でやや騒がしかった。彼女は配信中のファンに挨拶しながら、小松家のあれこれを見せびらかしていた。「そうそう、ここが浜市の小松家よ。何百年も続く名家だから、家の中にあるのは全部アンティークなの。さっきの人が小松家の令嬢、紗江ちゃん!私たち超仲良しでね、彼女ったら妹になってって言ってくれたのよ!」雛乃にとって、配信の収益なんてどうでもよかった。けれど、人にちやほやされるのが何より好きだった。美人でお金もあり、ネット上ではすでにかなりの注目を集めている。配信コメントで称賛されているのを見て、雛乃はますます機嫌が良くなっていく。だが晃は、どこか心ここにあらずといった様子で、はしゃぐ雛乃を冷ややかに見つめながら一言だけ忠告した。「雛乃、あまり調子に乗らないほうがいい」雛乃はまったく気にせず、配信のマイクを切ると、ウィンクを飛ばしながら晃に言った。「晃くん、すぐにわかるわ。私を捨てて、あんな偽物の紗江を選んだのがどれほど間違いだったか」舞台は整った。次は主役の登場だ。足音がだんだん近づいてくる。雛乃は素早くカメラのアングルを調整し、立ち上がって満面の笑みを浮かべた。入口に現れた二人の姿を見て、彼女はすぐさま深々と頭を下げた。「おばさん、おじさん」そう言いかけた瞬間、紗江の怯えた声が響いた。「東司くん、あの人たち、なんでここにいるの?怖いよ」雛乃の笑顔が一瞬にして固まった。そしてすぐに顔を上げ、敵意に満ちた目で紗江を睨みつけた。「紗江、よくもまあ、のこのこ来れたもんね」紗江は何も言わず、ただ黙って東司の背後に身を隠す。だが伏せた視線の奥には、あからさまな軽蔑と嘲笑が浮かんでいた。東司は彼女をかばいながら、真剣な口調で言った。「彼女がここに来ようが来まいが、お前には関係ないだろう?」雛乃は納得がいかず、今度はしおらしい態度に切り替えた。「手塚さん、その偽物のために、本物の小松家の令嬢を捨てるなんて、本当に後悔しないか?それに今日は本物の紗江が家にいるのに、彼女を連れてきたら小松家の人たちはきっと黙ってないよ」紗江の顔色が一気に青ざめ、目には涙が
リムジンの中に戻ると、車内の暖房に包まれて、紗江の頬にようやく血色が戻ってきた。和也は温かいお茶を手渡しながら、苦笑混じりに言う。「だから言っただろ、婚約パーティーは家でやろうって。無理して遠くまで来るなんて。もともと体強くないのに、風邪でも引いたら、両親に何言われるか」紗江はくすっと笑った。その瞳には、まるで星のきらめきのような光が浮かんでいる。「だって、家でやったら、演出が成立しないでしょ」和也はどうしようもなく、東司にこっそり鋭い視線を送った。義兄の不満を敏感に察知した東司は、真面目そうな顔をしておとなしくしている。紗江がお茶を飲み終えると、東司は彼女の手を自分の胸元に抱え込み、そっと温めた。あまりにも自然で親密なその仕草に、紗江は意外にも嫌がらず、逆に顔をほんのり赤らめる。そんな様子を見て、和也は思わず目を剥いた。説得してほしいという意味で睨んだのに、この男は調子に乗って甘えている。とはいえ、この男を選んだのは他でもない、自分だ。一方、和也の隣に座っていた華やかな女の子が、楽しそうに話し出した。「紗江姉、今度結婚する時は、ちゃんと事前に教えてね」紗江はその言葉に微笑んで、真剣な顔で答えた。「この期間、手伝ってくれて本当にありがとう」彼女こそが、紗江がわざわざ和也に頼んで呼び寄せた共演者だった。彼女が幼い頃から一緒に遊んできた従妹だ。他の人に雛乃の前で紗江を演じさせるのは不自然だと考え、家族の中から選んだのだ。従妹は拳をぎゅっと握りしめ、真面目な顔で言った。「紗江姉、安心して。吉岡は、私が紗江本人だって完全に信じてるわ。小松家に取り入るために、あの女、私の言うことには何でも従うの。この前、わざと大きなプロジェクトの話をしたら、即『私もやる』って食いついてきて全財産出す勢いだったわ。まったく、吉岡家って大したことないのね。あんな分かりやすい罠にも気づかないなんて」紗江はそれを聞いて笑った。「気づかないんじゃなくて、小松家に取り入りたいだけだ」それを聞いた従妹の口ぶりは、ますます皮肉たっぷりになった。「自分がどんな立場かもわからないなんて、笑えるわね」紗江はそれには答えず、ただ窓の外に目を向けた。深々と降る雪。あの日、彼女が篠田家を追い出され、手を折られたと